第56話『イデア論』

 アリス・ステラとの邂逅から一カ月が過ぎ去り、日本での僕は現在、大学の冬休み期間に入り短期での家庭教師のバイトをしていた。


「先輩、ここがわからないです〜」


 小綺麗に整頓された部屋に、少女の声が響き渡る。


 僕が受け持つ生徒というのがなんと、オープンキャンパスで知り合った、一つ年下の女子高生、逢沢凛なのだ……。一体、どのようなルートで僕が家庭教師をはじめたことを知ったのかはわからないが、それを聞くのもなんだか少し怖かったので、なし崩し的に現在の状況が成立した。

 仕事である以上は全力で取り組むだけだ。


「どこがわからないの?」


 女子高生が一人暮らしをするには少々大き過ぎる部屋で、僕は生徒である凜と向き合う。


「先輩、私に愛を教えて下さい!」


 満面の笑みで問いかけてくる凛。


「あぁ、アガペーについての話?」


「違いますよ、そんな規模のでかい無償の愛の話はしてません!」


「なんだ、しっかりわかってるじゃないか。哲学で愛とくれば、エロスかアガペーが最初に思い浮かぶからね」


 まぁ、僕の論文を読み漁るような人間が基本をおさえていないわけがない。


「先輩の大学は倫理の点数を重視するんですよね?」


 弾むような声音で、楽しそうに語りかけてくる凛。


 僕の通っている大学の入試は、倫理の点数を重視する傾向にある珍しい大学だ。彼女はしかも、僕と同じ哲学科を志望しているので、そのウェイトは更に高くなる。


「確かにそうだけど、高校の倫理なら僕が教えるまでもないだろ?」


 先ほど、凛の実力を知るために、昨年の入試の過去問を全て解いてもらったのだが、倫理に限らず、全ての教科で九割以上の点数をマークしていた。


「だから、愛について聞いてるんですよ、教科書には載っていないので」


 軽い微笑みを浮かべながら、試すように、凛が問いかけてきた。


「教科書や参考書にない問題なら、試験には出ないさ」


 僕がそう言うと、おもむろに教科書を覗き始めた凛。


「え〜、じゃあ、質問を変えます。プラトンによれば人間の魂は、欲望、意志、理性の三つで成り立つそうですが、愛と言う概念はこの中のどれに属すると思いますか?」


 自分のしたい質問をする為に、教科書にある知識を絡めて質問をする凛。やはり、見かけによらず、頭の回る子だ。それに、理沙とは違い、ずる賢さまで兼ね備えている。


「まぁ、欲望も意志も理性も全て関係しているとは、思うけれど、僕はその中でも理性が愛を形作っていると信じたいかな?」


 どうにも曖昧な返事になってしまったが、そもそもテーマがでか過ぎるのだ。


「なるほど。先輩は理性を選ぶのですね。確かに、プラトンは、この三つの要素の中で、イデアの世界に結びついているのは理性と言っていますしね」


「え……。あぁ、いや、なんでもない」


 イデアと言う単語に思わず動揺してしまったのだが、哲学の話をしているのだから、イデア論の話が出てくるのは自然な流れだ。


「もしも、先輩の言う通り、愛を形作るものが理性なら、不死の世界であるイデアにも愛は存在することになりますね」


 凛はあくまで、哲学におけるイデアの話をしているのだが、僕の頭の中では、僕が知覚するもう一つの世界が思い浮かんでいた。


「でも、理性がイデアを求める時に、それを妨げるのが肉体と感性だとプラトンは言ったよ。この二つの妨げを無くしたとして、愛と言う概念は成立するのかな」


 教える側だったはずの僕は、いつの間にか、年下の少女に複雑な問いを投げかけていた。


「う〜ん。プラトンが言う、イデアは、認識するに値する真実の実在を指していますよね。そして、私達が生きるこの世界は、イデアの影のようなモノだと言っていますから、私はイデアにも愛は存在すると思います。影があるということは、実体もあると言うことですから」


 楽しそうに思考の海を冒険する凛。考えることそのものが好きなんだろう。


「この世界がイデアの影だとすれば、この世界に愛と言う存在がある以上、その光源でもあるイデアにも愛は存在すると?」


 言葉遊びのような気もするが、凛の独創的な考えに興味を惹かれる。


「大体そんなイメージですかね?」


 凛の中でも明確な答えは出ていないようだ。


「なんだか、僕が教えられてしまったね」


 思わず、照れ笑いを浮かべる僕。


「おぉ! 先輩のレアな表情を見た気がします!!」


 小さな拳を握りしめ、両手でガッツポーズをする凛。相変わらず、よくわからない所でテンションが上がる子だなぁ。


「まぁ、この僕もイデアの影に過ぎないからね?」


 軽い調子で投げ返す僕。


「大丈夫です! 少なくとも私が今、先輩の表情を見て可愛いなと思ったことそのものの感情は、否定し得ない事実ですから。我思うゆえに我ありですね!」


 言葉の勢いとともに、眉の上で切り揃えてある前髪が左右に揺れる。その小さな頭には、どれだけの好奇心が詰め込まれているのだろう。

 

「凛もデカルトが好きなのかい?」


「先輩がデカルトを好きなことは、論文を読めば丸わかりだったので引用しました。先輩が好きなモノをリサーチする健気な後輩です!」


 テンションの高さは等身大の女子高生なのだが、扱う知識の豊富さや語彙量が、ギャップと呼ぶにはいささか大き過ぎる齟齬を感じさせる。


「なんだよ、デカルトフレンズが増えたのかと思ったのに」


「そんな軽いくくりで、デカルトの思想に共感しないで下さい! それに私が好きなのは、デカルトじゃなくて、先輩ですよ?」


 明るい口調でツッコミをいれ、しれっととんでもない発言をする凛。


「凛の好きは、知的好奇心に向けられたモノだろ?」


 僕が好きなのではなく、僕の考え方に興味を持っているのだろう。彼女はそういう人間な気がする。


「愛が理性で形作られているなら、知的好奇心を愛と呼ぶのは正しいですよね?」


 なんだろう。彼女の言葉にはきっと、多くの穴が空いているはずなのに、それを感じさせない自信と明るさが、真実の真偽よりも、別の次元で相手を納得させる、不思議な力があるように思えた。


 この感覚を僕は知っている気がする。

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