第43話『生命倫理』
見知らぬ土地で眠りについた僕は、見慣れた天井を見つめながら起きる。
イデアの世界でどれだけ劇的な変化が訪れようと、日本に住む僕の日常は平常運転だ。
この日常が今はありがたい。気持ちの整理が出来そうだ。
枕元にあるテレビのリモコンを手に取り、特に見たい番組はないが、テレビをつけた。
いかにもまじめそうな中年の男性キャスターがニュースを読み上げている。
「11月3日午前10時頃、千葉県松戸市内の国道を走行中の中型トラックが路外に逸脱。道路沿いのコンビニエンスストア駐車場に突っ込み、駐車車両3台と衝突する事故が起きました。この事故で2人の男性が重症を負っています。トラックを運転していた42歳の男性にケガはなく、警察は自動車運転死傷行為処罰法違反(過失傷害)容疑で事情を聞いているようです。聴取に対してトラック運転者は『急に幻覚のようなものが見えて、気づいた時にはハンドルを切っていた』などと供述しており、警察では引き続き聴取を進めているとのことです」
家からもそう遠くない場所での事故だけに他人事として割り切るのが難しいニュースだった。
テレビを見ながらも大学に行く準備を進めていると、テーブルの上のスマートフォンが鳴りはじめた。
見覚えのない番号だ。しかし、教授の可能性もあるな。
少し警戒しながらも、電話に出る。
「もしもし」
「もしもし、逢沢凛です。急に電話してすみません」
前回のオープンキャンパスで話しかけてきた女の子の声が電話越しに聞こえた。
「えっと、番号は誰から聞いたの?」
「井上教授という方に聞きました。先輩の論文に大変興味があると言ったら、喜んで教えてくれました」
プライバシーの管理ザル過ぎない?
「あぁ、そっか。用件はなに?」
「いきなり失礼な質問をしますが、先輩の時給はいくらですか?」
唐突な質問だな。
「えっと、夏休みにやった塾講師のバイトは1100円だったけど」
教職課程を履修している剛志さんのツテで夏休みは短期のバイトとして塾講師をしていた。
「じゃあ3300円払うので今日の大学終わりに三時間程私に時間を下さい」
彼女が淡々とそう口にする。
「いやいや、時給貰って後輩と過ごすとかおかしいだろ? 普通に付き合うよ」
「でもそれだとデートになってしまいますよ?」
「君のデートの基準って時給の有無なのかよ」
「君じゃありません! 凛です!」
今はそこじゃない気がするが……。
「ごめんよ。気をつけるよ」
彼女のこだわりポイントをすっかり忘れていた。
「じゃあ、18時に千葉駅集合でもよろしいですか?」
「あぁ、じゃあその時間で」
そう言って、通話を切る僕。
さて時間も差し迫ってきたことだし、そろそろ家を出ねば。
いつも通りの変わらぬ駅のホーム。電車のドアが開く音。そして閉まる音。平常運転とは正にこのことだ。フィロスとして生きる僕と哲也として生きる自身のリズムが日を追うごとに乖離していくような感覚がある。
代わり映えのしない電車内が、その感覚をより一層強めていた。
電車は予定通りに目的の駅で止まり、僕は人混みの一部となって外に出る。
そこから、決まった習慣をただ守るようにして、いや、壊れそうな危ういバランスを繋ぎ止めるかのように、ゆっくりといつも通りに大学までの一本道を歩く。
キャンパス内に入り、講義が行なわれる講堂へと真っ直ぐに向かう。
講堂内のいつもの席を見渡すとそこには既に先客がいた。
「おはよう、理沙」
長い黒髪が窓から吹き込む風で揺れている。
「おはよう、哲也。今日はギリギリなのね」
こちらにちらりと視線をむけ、口を開く理沙。
凛との電話があったので、いつもの時間の一本遅れで乗車したのだ。
それから、少しの間、会話を交わしていると、教授が到着し、講義が始まった。
今日の講義内容は生命倫理のようだ。
「重病人が四人いるとしよう。その病気に効く特効薬は一人分しかない。さて、ここではその薬をどう使うかが問題になる。四人のうちわけはこうだ。一人目は医療ミスで病気にかかった女性。二人目は高度な医療技術を持つ医師。三人目は金持ちの実業家。四人目は殺人犯。さて君達は誰を救う?」
井上教授の声が講堂内に響き渡る。
「じゃあ、そこの君」
窓際の前列に座る男子学生があてられた。
「一人目か二人目の人に使います」
あてられた学生が迷いなくそう答えた。
「なぜだろう? 三人目は金持ちと言うだけで選ばれないのかい? 四人目だって殺人犯とはいえ、一人の命だよ?」
教授がそう言って問い返す。
「一人目は被害者ですし、二人目を救えば、今後多くの命がその人によって救われるかも知れない」
真っ直ぐな瞳で男子学生が言った。
「なるほど、では問題は二つにわかれるね。過去に目を向けるか、未来に目を向けるかだ。被害者である女性を選ぶとすれば過去だ。過去の不運を埋め合わせるために薬を使う。一方、医師を救う場合は未来だね。これから、その手で人を救うであろう未来に投資するわけだ」
正義原理を重んじるなら過去を見つめ、結果を重んじる功利主義は未来を見つめている傾向が強い。
「理沙はどう思う?」
僕は小声で問いかけた。
「私なら、間違いなく医師を救うわね。命を単純に数えた場合、足し引きで助かる命が多い方が良いでしょ?」
理沙が涼しい顔でそう言った。
確かに、命に序列をつけず、単純な数として捉えれば、足し引きした末に多くの命が残る方を選ぶべきかも知れない。ある意味これも一つの平等の形なのか。
「三人目はどう? お金持ちを救えば、病院にお金がたんまり入るかも知れないよ? そうすれば最新の機器を買い揃えられて、より多くの命が救われるかも知れない」
「医師も金持ってるでしょ」
「確かに……」
もはや論点がズレ、思考の遊びになりつつあった。
「そう言う哲也はどうなの?」
理沙がボールペンを指で回しながら問いかけてくる。
「僕なら薬の存在を隠すかな」
「人の命を秤にかけることは出来ないと?」
理沙にとって、僕の答えが意外に思えたのか、首を傾げている。
「違うよ、選ばなかった命を背負って生きていくのが怖いだけさ。それに、薬が一つだけなら、自分や自分の周りの大切な人がその病気になった時に使いたいからね」
この問題の意義を無視した回答なのは自覚している。
「斜め上の考え方ね」
「独創的と言ってくれ」
「独裁的ね。自分の周りだけが助かればいいのだから。私が病気になったら、哲也は薬を使ってくれるのかしら?」
そう言って、楽しそうに、試すように微笑む理沙。
講義が終わりお昼の時間がきた。
僕達二人は購買で買ったサンドイッチを片手に話していた。
「ねぇ、哲也、今日の大学終わりに時間ある?」
「あぁ、今日はちょっと先約がある」
口の中のパンをコーヒーで流し込んでから、そう答えた。
「あら、長くなりそう?」
「えっと、この前のオープンキャンパスの日に、僕のスピーチを見た子が用事みたい。多分大学のことで質問があるんじゃないかな?」
突然の電話で、具体的な内容を聞きそびれていた。
「女の子?」
「え、あぁ、うん」
「そう、私も今日は時間を持て余していることだし、同席してもいいかしら? 大学の先輩として何か言えるかも知れないし」
まくし立てるように早口で理沙がそう言った。
「そうだね、多分、凛も喜ぶと思うよ」
「凛?」
訝しげな表情でこちらを見る理沙。
「あぁ、後輩の名前」
「へぇー、そう」
無表情でそう呟く理沙。
うん。何か地雷を踏んだのだろうか。
こうして僕の放課後は異色の三人で過ごすことが決まったのだ。
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