水曜日の彼

彼がわたしを呼び出すのは、いつも水曜日なので。

わたしは冗談混じりに彼のことを「水曜日の彼」と呼んでいる。

じゃあ、月曜日や金曜日の彼がいるのかというと、そんな訳でもなくて。

水曜日の彼だって。

奥さんと子供がいるひとなので、果たしてわたしたちが付き合ってると言えるのかはよく判らないのだけれど。

そもそも、彼は自分のことを偽物だと言ってる。

どういう意味なのか、わたしにもよく判ってはいないのだけれど。

わたしたちが出会ってまもない頃、彼のi-podを見たとき。

そこに入っていたのが、ドラゴン・アッシュというバンドのインディペンデンスというアルバムだけだったので。

わたしが彼にそのアルバムが好きなのか聞いたの。

そうしたら彼の言ったのは。


これは、偽物をつくりだしてくれる。

いや、この音楽が偽物だと言ってる訳じゃあない。

そんなこたあ、おれには判らんし知ったことじゃあない。

このアーティストが他にどんな音楽を造っているのかも知らんしな。

ただ、このアルバムを聞くと。

遠い国の海辺で、穏やかな波を見ながら沈む日を眺め。

一日の終わりを噛み締めている情景が浮かぶ。

もちろん、そんな異国の地でドラゴン・アッシュの音楽が流れることなんてありえないし。

その情景は偽物なんだ。決定的に。

おれは、それを愛している。

なぜなら、おれが偽物だからだ。


彼がやっぱり会ってまもないころに、偽物について語ったことがあって。

ようするに偽物と本物を分けるのは、そこに肯定の意思があるかないか。

そんなことらしいのだけれど。

彼は、自分自身に肯定の意思なんて持ってなくて。

いつもそれを何処かから借りてきている。

つまりそれは。

会社であったり。

家族であったり。

誰かが望むことをする。

誰かの意思に基づいて何事かをなす。

そうする限り、彼自身の意思を持つ必要はない。

借り物の意思を拠り所にする限り、彼は常に偽物なのだと。

彼はそういうの。

彼は総合商社のエリートサラリーマンだそうで、そこでレアメタルを担当していたらしくて。

お隣の国の国家首席の側近レベルのひとと何度も会談したり。

遠くアフリカの渦中の中で色々なことを経験したようで。

彼は、コラテラルという古い映画の引用をしながら、こう語るの。


トム・クルーズの演じる殺し屋がひと殺しを咎めるジェイミー・フォックスにこう語るんだよ。

おまえはダルフールで何万も殺されてるときに何かしたのかと。

大使館を通じて抗議でもしたのかと。

そのとき何もしなかったんだろう。

だったら今更目の前でひとりやふたり殺されたくらいで、がたがた騒ぐなよ。

そいうことなんだよな。

殺し屋のいうとおりだ。

今更おれたちには、がたがた騒ぐ権利はない。

おれたちの倫理は所詮、偽物なんだよ。


まあ、いつも彼とそんな話ばかりしてる訳じゃあなくて。

居酒屋で他愛のない話をすると、わたしたちはホテルへ行く。

セックスはしない。

彼はそういうことが好きじゃあないというか。

苦手らしくて。

じゃあ、何するのかというと。

メイクをするのよ。

わたしの副業といってもいいそれの練習台。

わたしは今時、呆れた話なのだろうけれど。

画家を目指していた。

でもそれは色々あって上手くいかなくて。

キャンバスの替わりにひとの肌を使って色彩を表現するようになった。

彼はもう四十代後半のいいおっさんなんだけれど。

わたしは彼を見事におんなに変えることができる。

とても美しい、そう、ルノアールが肖像画に描いているようなおんなに造り上げることができるのだけど。

でも、そこには艶めかしさはなくて。

そうね、彼は絵の中のおんなに相応しい、架空の美しさを纏ってみせる。

何処にもいない。

血肉をそなえているとは思えない。

どこか薄っぺらい架空の美しさ。

まさに彼は、望み通り求める通り、彼の愛する本物の偽物に。

なることができるのよ。


彼女は魔女だ。

おれは戯れに、彼女を水曜日の魔女と呼んでいる。

なぜ水曜日なのかって?

はじめて会う約束をしたときに、彼女が水曜日なら会えると言ったので。

まあ、なんとなく水曜日に会うことにしている。

水曜日、つまりウェンズデイっていうのは、確かオーディンの日といううことだ。

だったら彼女はワルキューレなのかと言うと。

まあ、そういってもいいくらいには美しく、また勇ましくもあるんだが。

何かが決定的に欠けている。

例えていうならば。

全速力でサーキットを逆走するF1マシンみたいなもので。

何処かに向かう力を持っていいるんだろうけれど。

何処に向かっていいのか判っていない。

ようするにそんなおんなだ。

はじめてあったころ、彼女のバックの中に一冊だけ本が入っているのを知った。

それは、ヴァージニア・ウルフのオルランドという小説だ。

おれはその小説が原作の映画を若い頃に見たことがある。

当時付き合っていたおんなが見たいと言ったので見たんだが。

はじまって五分もたたない間に眠りの世界へと沈んでしまった。

彼女は、いつもその本を持ち歩いている。

何度も読み返しているらしい。

なぜその本をそんなに読み返すのかというと。

判らなくなるから、らしい。

その本の内容がではなく。

自分が何者であるかが。

彼女は、その本のことをこう語っている。


わたしが、オルランドと出逢ったのはね。

高校生のころだったかな。

そのころわたしのお父さんは頭がぶっとんでしまっていて。

わたしはまあ、ある意味虐待に近いことをされてたのよ。

わたしは時々手錠をかけられ部屋に監禁されてた。

お母さんはとっくに出ていってたし、誰もよりつかない家だったから。

まあ、問題になることはなかったのよね。

お父さんはわたしが狂っていて何をするか判らないので、わたしを守るために監禁しているつもりみたいだったけれど。

まあ、正直どうだったのかよくわからないとこもあるのよね。

所々記憶がない部分もあったりして。

なんにしても、食事とかはちゃんと与えてくれてたから。

あんまし不自由はなかったんだけど。

退屈だったの。

お父さんにそう言ったら、本を買ってきてくれた。

それがオルランドだったの。

わたしはそれを読んだら、自分がなになのか判らなくなった。

おんななのか。

おとこなのか。

おとななのか。

こどもなのか。

ひとなのか。

動物なのか。

あらまあ、大変。

わたしは迷路に迷い込んだのよ。


で、時折自分が迷路にいることを再認識するために、読み返しているようだ。

迷路というのは、ようするに意味がないということらしい。

意味がない。

彼女はこんなふうに、迷路を表現する。


たとえばさ。

迷路の地図を書くとするじゃあない。

でも、その地図にはなんの意味もないの。

だって地図というのは、何処かに向かっていくためのものじゃない。

でも、迷路の中は、その何処かがないの。

みんな同じ迷路の中にしかすぎなくて、全ての場所に名もなく意味もないのよ。


まあ、いつもおれたちはそんな話をしている訳じゃあない。

居酒屋で他愛のない話をしたあと、おれたちはホテルへ行く。

セックスはしない。

彼女はどうもそういうことが、苦手らしい。

彼女はそこで。

魔法をおれにかける。

おれは彼女の手によって意味を剥奪されていく。

おれは、おとこではなく。

おんなでもなく。

こどもでもなく。

おとなでもなく。

ひとでもなく。

動物でもない。

そう、彼女の望んだとおりの。

ひとつの迷路となって、彼女の前に横たわる。

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