其ノ参拾六 ~世莉樺ノ罪~


 公園を後にし、世莉樺が帰宅する頃には既に六時半を回っていた。一旦帰宅して荷物を置き、そして再び一月と合流する段取りになっていた。一月と合流し、そして彼と共に笹羅木小学校へと向かうつもりなのだ。

 鬼と成った少女、由浅木瑠唯を止め、悲劇の連鎖を断ち切る為に。

 そして妹を、真由を救う為に。


「あ、世莉樺姉ちゃんお帰り」


 既に帰宅していた悠太が、姉を迎える。彼は居間でテレビを見ていた。映っているのは彼が大好きなアニメ番組である。


「ただいま悠太。私ちょっと、これから行かなくちゃいけない所があるの」


「え、帰って来たばかりなのに?」


 悠太は、リモコンでテレビの音量を下げた。

 世莉樺は通学用鞄を降ろしつつ、弟に応じる。


「大事な用事なの、ちょっと帰り遅くなるかも知れないけれど……夕飯、冷蔵庫にオムライス入ってるから、チンして食べてて」


 世莉樺は冷蔵庫を指した。


「分かった。あ、新聞入れておいたから」


 悠太が指す先を世莉樺は視線で追う。テーブルの上に、今日の夕刊が置いてあった。


「ありがとう、流石悠太だね」


 特に何の気も無く、世莉樺は夕刊へと歩み寄る。

 その時、彼女の両目に新聞に取り上げられた一つの記事が飛び込んできた。

 記事の見出しには、『産業廃棄物処理工場にて火災発生、従業員二名死亡』とあった。


「……!」


 火災を取り上げた事件記事、それを目にした瞬間、世莉樺の面持ちが変わる。

 両目を見開き、まるで喘ぐように呼吸を見出し始める。怯えるような仕草で、片手を頬に当てる。


「姉ちゃん、どうしたの?」


 後ろから、弟の声が聞こえた気がした。しかし世莉樺は、応じている余裕などない。振り返ったと思った瞬間、世莉樺は弾かれるように駆け出し、居間から出て行ってしまう。


「世莉樺姉ちゃん?」


 悠太の声など、世莉樺にはもう届いていなかった。



  ◎  ◎  ◎



 駆け込むように自室へと戻った世莉樺。彼女は背を扉へと預け、引きずり落ちるように床へと腰を降ろす。静まり返った室内に、彼女の荒い呼吸が反響する。


「うっ……!」


 光を拒むように固く両目を閉じ、世莉樺は悲痛な面持ちを浮かべる。頭痛に悶えるかのように、その両手で側頭部を覆った。

 そして必死に絞り出すようなか細い声で、世莉樺は発する。

 ある少年の名前を。


「悠斗……!」


 そこに予期せず、言葉が発せられた。


「姉ちゃん、大丈夫?」


「!」


 座り込んだまま、はっとするように世莉樺は視線を上げる。彼女の潤んだ瞳に、黒い着物を着た幼い少年が映った。


「炬白……」


 何処からともなく現れた炬白は、怪訝そうな面持ちで世莉樺を見つめていた。

 仄暗い室内で、彼の腰に下げられた鎖が淡く輝いているのが分かる。彼の右手には、鞘に収められた天照が握られていた。


「学校でも姉ちゃん、すごく怯えてたみたいだけど……瑠唯の鬼火、怖かった?」


「……」


 世莉樺は、視線を下に向ける。学校での出来事は、世莉樺自身も鮮明に覚えていた。瑠唯が鬼火を放った時――まるでパニックを起こしたかのように、世莉樺は怯えていた。誰が見ても、尋常ならざる怯えようだった。

 世莉樺は炬白と視線を合わせる事無く、膝を抱える。

 そして彼女は――吐露し始めた。

 生を享けてから歩んで来た十五年という歳月の中で、恐らく何よりも深い自身の傷の事を。


「私ね、ああいう大きい炎とか、火事のニュースとか……凄く苦手なの」


「え……」


 自らの膝を見つめながら、世莉樺は続ける。


「五年前……私が十歳で悠斗がまだ生きていた頃ね、家が火事になったの。原因は電源コードの漏電だって。私の背中の火傷の跡、その時に負ったんだ」


 世莉樺は、自身の背中を指す。

 そこは、まるで刺青のような痛々しい火傷の跡が刻まれた場所だ。


「……」


 炬白は黙り、世莉樺の言葉に耳を貸していた。それは、『話を続けて欲しい』という意思表示のようにも解釈できた。

 世莉樺は続ける。


「その日、瑠唯ちゃんと公園で遊んだ後……家に帰って、悠斗と一緒にお母さんの帰りを待ってた。その時はお父さんは出張中で、真由は友達の家に行ってて、赤ん坊だった悠太は、お母さんに背負われて買い物に行ってたの」


 本来ならば、誰にも話したくない事だった。しかし世莉樺は何故か、炬白にならば打ち明けても構わないような気がした。


「私……その時、遊び疲れて眠くなっちゃって、下の階に悠斗を一人にしたまま、上の部屋で眠っちゃったんだ」


 世莉樺は、拳を握る。

 心の奥底から、後悔が沸き上がるのが分かる。

 もし、あの時悠斗を下の階に一人にしなければ、その後の事は、起こらなかったかもしれないのだ。


「それで……何だか暑いと思って目が覚めて、下に降りようとしたら……周りが火の海になってたの」


 その時の事を、世莉樺は今でも鮮明に覚えている。辺りを支配する炎と熱気に、何が何だか分からなかった。

 漏電に起因する火災だったのだが、彼女にはそんな事を理解している余裕など無かった。状況を理解する猶予も、迷っている暇も与えられず――世莉樺に与えられたのは、ただ逃げる事のみ。

 容赦なく追い迫る炎から、少しでも遠く離れる事のみだ。


「熱くて苦しくて怖くて……もう無我夢中だった。とにかく逃げなきゃっていう一心で、玄関に向かう事にも気付かなくて……気が付いたら、居間に駆け込んでいたの」


 返事を待たず、世莉樺は続ける。


「けど、出火場所から近かった居間は燃え方が激しくて……直ぐに出ようとした。そしたら、私に助けを求める悠斗の声が聞こえて……」


 十歳だった世莉樺は、助けを求める声に足を止めた。


“世莉樺姉ちゃん、ぐっ……助けて!”


 苦しげに吐き出すかのようなその声は、紛れも無く悠斗によって発せられた声だった。地獄のように炎が揺らめく中の、正真正銘の人間の声。まだ幼かった世莉樺は微かに安堵を覚える。

 しかし――現実は余りにも残酷で、絶望的な状況だった。


“……悠斗!”


 自身の弟が置かれた状況に、幼い世莉樺は目を疑う。

 世莉樺の前には、確かに悠斗の姿があった。

 しかし――彼の背中には重量感のある食器棚が圧し掛かり、悠斗の体を床へと圧し付け、身動きを取れなくさせていた。炎によって食器棚の下部が焼かれて、バランスを失った為に倒れ、悠斗がその下敷きになってしまったのだ。

 下敷きになった悠斗の上半身は、胸から下部分にかけて棚の重量に押し潰されていた。


「悠斗が居たの……火の中で、食器棚の下敷きになった悠斗が……」


 世莉樺の記憶には今も鮮明に焼き付いている。

 食器棚に体を床へ圧し付けられ、苦痛に表情を歪ませ、瞳に涙を浮かべ、咽ぐような咳と共に口から血を滴らせる悠斗の姿。その痛々しい姿だけでなく、彼が発していた苦しげな声までもが世莉樺の記憶に刻み付けられていた。


“やだ……! やだ、悠斗ーっ!”


 弟の変わり果てた姿に、幼い世莉樺は悲鳴のような声を張り上げた。苦しそうな弟、幼かった世莉樺の目でも、彼が命の危機に立たされている事が理解出来た。

 助けなければ、なんとかしなければ――。

 恐ろしい予感に、幼い世莉樺は焦燥感を極限まで高められる。大切な弟が、悠斗が死んでしまうという、決して浮かんではならない予感が。


「助けようとしたの……でも私の力じゃ、あの食器棚は到底持ち上がる筈も無くて……!」


 食器棚だけでも、少なく見積もって六十キロはあった。さらに、収納された皿等の重量も加わっていたのだ。十歳の少女の力では持ち上げる事はおろか、動かす事すらも不可能だった。


「悠斗を助ける事も、何も出来なくて……! そしたら悠斗が、私に言ったの」


 瀕死の中、悠斗が姉に対して紡いだ言葉。それは自身ではなく、世莉樺の事を考えての言葉だった。


“姉ちゃん……もういい、もういいから逃げて……! このままだと姉ちゃんまで危ない、だから……!”


 悠斗の言葉を思い出した時、世莉樺は自身の瞳の奥が熱くなるのを感じた。

 同時に込み上げる、表現のしようが無い気持ち。世莉樺は、自身の頬を涙が伝っていくのが分かる。


「悠斗は本当は……助けて欲しかったに決まってる。でも、それでも私……炎が怖くて……!」


 世莉樺の声が、次第に涙に震え始める。


「怖くて堪らなくて、悠斗を見捨てて逃げ出したの……!」


 堤防が決壊するように、必死に抑えていた感情が漏れ出す。

 世莉樺の声が、一層に悲痛な色を帯びた。


「私は自分の弟を……悠斗を見殺しにしたの! うっ、うわあああああああああっ!」


 両手で顔を覆い、世莉樺は涙声を張り上げる。聞いている者にも悲しい気持ちを伝染させるような、悲痛極まる涙声。

 本当ならば、世莉樺に非がある事ではないのは明白だった。

 彼女は別に悠斗を見捨てたくて見捨てた訳ではないし、見捨てなかったとしても、彼女には悠斗を救う術など無かった。十歳の少女が、六十キロ以上もある食器棚を動かす事など、出来るはずが無いのだから。

 しかし世莉樺にとって問題なのは、『救えたか救えなかったか』では無い。問題なのは、『悠斗を見捨てて逃げ出した事』なのだ。

 あの炎の中、食器棚に圧し付けられた悠斗は、どれ程痛みに苦しんでいた事だろう。どれ程、死の恐怖を味わっていた事だろう。世莉樺の後ろ姿が遠ざかっていく時、悠斗はどんな想いだったのだろうか。


「何も出来なくても……せめて一緒に居てあげれば良かった! 一人であんな所に置き去りにされて……悠斗、どれだけ怖い思いをしていたか……!」


 自責の気持ちが、世莉樺を覆い包む。

 怖気づいて逃げ出した自分自身を、世莉樺は赦す事が出来ない。例え助けられないとしても、世莉樺にとって正解だったのは『悠斗と一緒に居てあげる事』だった。

 何故、そんな事すらもしてあげられなかったのか。

 悠斗の姉というのは、所詮は肩書きに過ぎなかったのか。

 弟を思いやる気持ちは、本物では無かったのか。

 大切だという思いは、ただの幻想だったのか。

 恐怖に晒された人の心は、こんなにも容易く崩れてしまうものなのか――。


「最低よ……私、私……!」


 その時、世莉樺は自身の頭が暖かい物に包み込まれるのを感じた。


「……?」


 涙で潤んだ瞳を開ける――世莉樺の視界一杯に、黒い着物が映った。紛れも無く、炬白の着物である。

 状況を理解するのに、さほどの時間は要しなかった。

 彼が――炬白が世莉樺の頭を、自身の胸元へ抱き寄せているのだ。精霊でも人間と変わらない体温、柔らかく優しげな温かみが世莉樺を覆い包む。


「炬白……?」


 炬白の胸の中で、世莉樺は発する。彼が、そっと後頭部に手を回すのを感じた。

 すると――静かで優しげな声が、発せられる。


「姉ちゃん、怖かったね」


 まるで子供をあやすように、炬白は世莉樺の後頭部を優しく撫でる。世莉樺のさらさらとした茶髪が、小さく動く。


「苦しかったね、辛かったね、悲しかったね……」


 僅かに間を空けて、


「オレには姉ちゃんの悲しみは分からない、分かってあげられない。それに、姉ちゃんの気持ちを受け止められる自信も無い」


 少年の言葉には、優しい気持ちが感じられた。


「だけど……姉ちゃんが前を向けるようにしてあげるのも、精霊の……オレの仕事なんだ。だから、好きなだけ泣いていいよ」


 世莉樺が初めて他人に打ち明けた、自身の忌まわしい過去。大事な弟を見捨てて逃げ出したという、償いようの無い罪。

 それを聞いてもなお、炬白は世莉樺を軽蔑する事も、責める事もしなかった。

 人間では無い存在であるという事など、関係無かった。

 彼の優しさが嬉しくて、暖かくて――世莉樺は、まるで子供のように泣き続けた。

 彼女が泣いている間、炬白は、世莉樺の頭を自身の胸へと抱き寄せ続けていた。





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