予感のはらむ出会い

 六月の第一火曜日、薫と雅の乗った車が農道を駆け抜けていた。後部座席にはバスタオルと洗面道具の入ったバッグがある。休日には日帰り温泉でのんびりするのが新しい習慣となっている。


「おばあちゃん、あれ何?」


 外の景色に目を輝かせている薫が幼い子のように見えて、雅は声もなく笑った。そろそろ群馬に慣れたようではあるものの、まだまだ物珍しいものがあるらしい。


「あれって、どれのこと?」


「畑にある茶色いのって牧草かなにか? このへんの畑って全部枯れてるけど、耕作放棄地ってやつ?」


「いやあね、違うわよ。あれはね、麦よ」


「麦? あれが?」


「麦秋って聞いたことある? これから収穫期なのよ」


「麦秋?」


「そう、麦の秋って書いてばくしゅう。夏の季語よ」


「へえ。もう夏かぁ」


 薫はふうっと小さなため息を漏らした。

 思い返せば群馬に来てからというもの、不安と緊張にまみれた日々だった。新しい仕事は薫に自らの無知と無力を知らしめ、同時に一つのことを悟らせた。自分がどうしていいかわからないのは、自分の世界にしか目を向けていないからだ、と。


 道を決めるには、選択肢を見つけなくてはいけない。けれど、その選択肢を見つけるには、まだ知らない世界に目を向けなくてはいけない。不思議なことに、それに気づいた途端、忘れかけていた好奇心がここにきてやっと目覚めたような気がした。今まではすべてが退屈で仕方なかった。それなのに群馬で見る初めての景色や物、風習が面白くてたまらないのだ。初めて『知る』ということを楽しむ自分がいた。


 野菜直売所に並ぶのは商品であり、季節そのものだ。二十日大根のあとは山椒と筍が並び、移りゆく季節を伝えてくれる。

 軒先にツバメが巣を作り出すと梅仕事の時期が来て、野菜直売所には青梅とホワイトリカー、氷砂糖が並ぶ。そうこうするうちに田んぼに水が入り、麦秋が来た。田舎の四季はあっという間に流れていき、めまぐるしく景色が変わる。それが面白くてたまらないのだった。


 日帰り温泉に着いた二人はいそいそと大浴場へ向かう。北海道にいた頃は自分の家の風呂が一番だと思っていたが、今ではすっかり温泉で寛ぐのが好きになっていた。


「ねえ、薫」


「なあに?」


 大浴場で並んで浸かりながら、雅がぼんやり言った。


「……清良からは連絡ある?」


「ない。こっちからしても出ないと思うし」


「どうして?」


「いつもレッスンか移動だし、お母さんが話したい事がない限り折り返してもくれないよ」


 雅の口から、はあっと深いため息が漏れ、二人の間にどどっと吹き出し口からお湯が流れ込む音だけが響く。やがて、雅はおずおずとこう尋ねた。


「相変わらず自分勝手ね。こっちに来るつもりあるのかしら」


「あるんじゃないの? お弟子さんに新しい先生を見つけてあげたいとか言ってたし」


「そうならいいけど、それって何ヶ月もかかることなの?」


「さあ。演奏会の予定もあったみたいだし、それが終わってからじゃない?」


「もう少し連絡してくれてもいいと思わない? 本当にあの子は昔から普通じゃないわよねぇ」


 聞き覚えのある言葉だった。薫の脳裏に母親の姿が浮かぶ。


「……ねえ、おばあちゃん。『普通』って何だと思う?」


「うん?」


「あ、いや、なんでもない。先に上がるね」


 そそくさと浴場を出て行く薫を見送り、雅が肩を落とす。だいぶ懐いたかに思えたが、心を開くにはもう少しかかるようだった。


 その日の夕方、雅は大輝のために差し入れのおにぎりを握っていた。詠人が同窓会に出かける間際、雅に頼んでいたのだ。


「なんでわざわざ差し入れがいるの?」


「詠ちゃんがいないと、大輝ちゃんはご飯も食べずにガラス細工しているからねぇ」


「ふぅん、仕事熱心なんだね」


 雅の細い手に乗っているのは醤油がたっぷり染みた焼きおにぎりだった。雅の作る焼きおにぎりはちょっと変わっていて、真ん中に梅干しが入っている。さらに醤油をつけて焼いたあと、海苔で巻かれるのだ。初めて食べたときには少ししょっぱいと感じたはずが、この数ヶ月の間にすっかり慣れ、薫の好物になっていた。


「大輝ちゃんもこの焼きおにぎりが好きなのよね」


「ふうん。あ、もしかして梅干しが好きなの? 猫の名前もウメだしね」


「ああ、あれは……」


 雅がそう言いかけたときだった。薫の耳にずんっと重い響きが届く。


「待って、おばあちゃん、あれ見て」


 薫が窓に身を寄せる。


「あら、お客様かしら」


 雅が目を見張った。野菜直売所とガラス工房の間に車が停まっているが、運転席にいるのは女性のようだ。


「ああ、うん、どうかな」


 薫の唇が引きつる。重い不協和音が微かに聞こえる。それもまるで叩きつけるように早く、荒く、だんだん大きくなる。


「定休日だってお断りしてくるわね」


「あ、おばあちゃん!」


 エプロンを外して階下に降りた雅を慌てて追いかける。あんまり関わりたくない気がするものの、いっそ早く追い返したほうが不快な音を聞かずに済むかもしれない。

 外に出た雅は視線を走らせ、薫に囁いた。


「あんまり良くないわね」


 霊感がなくてもそう断言できたのは、後部座席のチャイルドシートで赤ん坊が大泣きしているのが聞こえたからだ。運転席の女性はうつむき、頭を抱えて動かない。

 雅は運転席の窓をこつん、とノックした。弾かれたように女性が顔を上げた。雅たちを見るや否やバツの悪そうな顔になる。彼女が運転席の窓を開けた途端、威勢のいい泣き声がどっと押し寄せてきた。


「勝手に車を停めてすみません、今日が定休日だって知らなくて。すぐに車をどかしますから」


 雅はそれを制し、「いいの、いいの」と朗らかに言った。


「こちらこそすみません。せっかくいらしてくださったのに」


「いえ、よく調べないできた私が悪いんですから」


「あなた、野菜を買いに来てくださったの?」


「え? ええ、息子があまり野菜を食べないんですけど、ここの野菜は美味しいって聞いたから」


 しどろもどろで続け、母親はうなだれた。


「ここの野菜だったら、あの子も食べてくれるかなって思って。ごめんなさい」


「そう、離乳食?」


「あ、いえ、この子は食べるんです。もう一人、三歳の息子がいるんですが、その子がイヤイヤ期で。今はインフルエンザで姑が預かってくれているんですが」


 その声が重く、どんどんか弱いものになっていく。

 すると、雅は「ちょっと待ってて」と慌ただしく玄関に入って行った。ぽかんとする母親に、薫がその場を取り繕うように詫びた。


「すみません、店を開けても構わないんですけど、うちの野菜は農家さんがその日の朝に売りたい分だけ持ち込むんで、今は何にもなくて」


「いえ、大丈夫ですから」


「あの、せめてガラス工房でも見ていきません? すごく綺麗ですよ」


 薫が思わずそう口走ったのは、彼女の目の下にくっきりとクマがあったからかもしれない。この人には気晴らしが必要だ。直感的にそう思った。しかし、彼女は首を横に振る。


「いいえ、あの、子どももぐずっていますし、なんでもかんでも掴もうとするので壊れ物のあるお店にはちょっと」


「あ、そうか、お子さん、眠いのかな?」


「多分、そうだと思います。もう少ししたら寝ると思うんですけど」


「そうかぁ。でも、きっとまたいらしてくださいね。櫻井さんのガラス細工、すごく綺麗なんです」


「ありがとうございます」


 けれど、その顔には明るい表情はなかった。そのとき、慌ただしく雅が戻ってきた。手には小さな紙袋を提げている。


「お待たせしてごめんなさい! これね、うちのおにぎりの試作品なんだけど、召し上がってくださいな」


 紙袋の中にはアルミホイルで包まれたおにぎりが幾つか入っている。


「えっ、そんないただけません」


「いいのいいの。これから孫と新商品の打ち合わせをするところだったんだけどね、いつかまたご来店いただけたら感想を教えてちょうだい。ご意見は多いほどありがたいもの」


 雅が「はい、どうぞ」と紙袋を差し出す。


「おにぎりだったら、立ったままでも食べやすいし、授乳の合間にでもつまめるし」


 それを聞いて、薫はふっと目を細めた。彼女が詰めてきたのは、さっきまで作っていた大輝に差し入れするおにぎりであり、試作品というのは気を遣わせないための嘘なのだ。


「そうですよ。ぜひ」


 薫もにっこり微笑むと、母親は何度も頭を下げて紙袋を受け取った。


「すみません。すみません」


 そう繰り返し詫びながら帰って行った母親を見送り、薫はふうっと肩を落とした。


「ガラス工房で息抜きしたらってすすめたんだけど、遠慮されちゃった。でも、あの人、少し休んだほうがいいと思わない?」


「そうね。でも、あの年頃の子はすぐなんでも手にして口に入れるから、ガラス細工の店は気を遣うんじゃないかしら」


「そういうものなのかぁ。おばあちゃん、どうしてあの人におにぎり渡したの?」


「だってね、あのくらいの歳の子を抱えたお母さんって、自分は二の次なの。座ってご飯を食べることすら難しいんだから」


「そうかぁ。喜んでもらえたらいいね」


「そうだといいわね。またいらしてくださったら、今度は本当に試作品を食べてもらおうかしら」


「また来るかな?」


「ううん、きっと来てくれるわよ」


 薫は「そうだね」と大岡山の斜面を見上げる。霊感のない祖母は何の気無しに言ったのかもしれないが、不協和音を抱く者は大岡山に誘われやすいという確信めいたものがあった。肌でそれをあらためて感じ、軽く身震いしたのだった。

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