南総里美八剣伝
白蔵 盈太(Nirone)
第1話 里美、誤って伝説の八つの玉を放つの巻
さとみ、ちゃんと知ってるよ。
じぶんのものには、名前をかかなきゃいけないんだよ。
そうでないと、ほかの子のもちものといっしょになっちゃって、どれがさとみのものか、分からなくなっちゃうんだから。
里美は、お母さんがさっきまで黒い服の上に着けていた水晶のネックレスを手に取った。
お母さんは今日、朝から里美を家に置いて、真っ黒な服を着て一人でどっかに出かけていた。それで帰ってくるなり、「何年かぶりに着たら、もうサイズがギリギリで、あー苦しかった」って笑いながらその黒い服をすぐに脱ぎ捨てて、クローゼットにしまいに行っている。
水晶のネックレスは、その時に一緒に外して、テーブルの上に放置されたままだ。
あ、いけないんだ、おかあさん。
このきれいなネックレス、おかあさんいつも大事そうにしているけど、名前もかかないでこんなところに置いておいたら、だれかほかのお友だちにもっていかれちゃうよ。
そうだ。わたしがなまえかいてあげる。
里美はペン立てから油性ペンを持ってくると、そのキラキラと妖しく光る水晶のネックレスを手に取った。ネックレスは小さな水晶玉がたくさん連なったもので、その中に八つだけ大きな水晶玉が混ざって並んでいる。
小さいほうの水晶玉は、五歳の女の子が字を書くには少し小さすぎた。連なった大きな八つの水晶玉のほうだったら、大きいので字を書くにはちょうどいい。
つ、る、ぎ、さ、き。
さ、と、み。
里美は大きな八つの玉を手に取って、一つの玉に一文字ずつ、覚えたばかりのひらがなで自分の名前を書いた。ちょうど名前も八文字、玉の数も八個だった。
お母さんの水晶玉なんだから、そこは本来お母さんの名前を書くべきだとは思うが、里美はお母さんのことをいつも「おかあさん」と呼ぶので、実はお母さんの名前をほとんど口にしたことがない。つい、書きなれている自分の名前を書いてしまった。
まあいいや、だってお母さんのものは私のものみたいなものだから。こないだも私、ヤツフサの首輪に「さとみ」って書いちゃったけど、お母さんもお父さんもちっとも怒らずに楽しそうに笑ってたしね。
里美はいつも楽天的だった。
――と、そこにお母さんが戻ってきて、「キャーッ!」と金切り声を上げた。
血相を変えて里美の小さな手から「ちょっと!それ渡しなさい!」と水晶玉を乱暴に奪い取ると、泣きそうな顔になりながら、水晶玉にマジックで黒々と書かれた下手な平仮名を眺めていた。
「ちょっと……どうしよう……
これ、除光液とかで消えるかなぁ……?」
今まで見たことの無いようなお母さんの激しい剣幕と、きれいなキラキラ玉を乱暴に奪われた悲しみで、里美はじわじわと涙がこみ上げてきて、それでとうとう、うわーんと大声を出して泣き出してしまった。
里美が泣き出すと、お母さんはいつもすぐに駆け寄って優しい言葉をかけてくれるのに、今日はちっとも里美のことなんて気にしてくれない。
それどころか、「里美!これはお母さんのもの!あなたのものじゃないの!だから名前を書いちゃダメ!」と怖い声で言ったので、里美はいよいよ手足をバタバタさせて、手が付けられないような激しさで泣きはじめた。
何で?ヤツフサの首輪には私の名前書いてもよくて、このキラキラ玉にはなんで名前書いちゃダメなの?だって、持ち物には全部名前を書いてねって、お母さん言ってたじゃない。
一方でお母さんのほうは、もう心底ウンザリといった顔で、床を転げまわる里美の姿を黙って見下ろしていた。隣の飼い犬部屋にいたウェリッシュコーギーのヤツフサが、お母さんの怒鳴り声と里美の泣きわめく声を聞いて、心配そうな顔をしながら短足でテコテコと部屋に入ってきた。
と、そこでいきなりお母さんの手の中にあった水晶玉が急に青白く光り始めた。
光はどんどんと強くなり、まともに見ることもできないほどまぶしくなっていく。
「うそ……ちょっと嘘でしょ……!こんなことで……里見家の伝説の宝が……ッ!」
お母さんはうろたえながら水晶玉を強く握りしめたが、水晶の光はどんどん強くなり、そのうちお母さんの視界も里美の視界も、ヤツフサの視界も真っ白な光の中に埋もれていった。
そしてその真っ白な状態がしばらく続いたあと、突然お母さんの手の中の水晶玉が「バシュン!」という鋭い音と共にはじけ飛んだ。玉は八つの光の筋となって、屋根をすり抜けてどこへともなく行ってしまった。
しばらくすると、だんだんと白い光が収まってきて、お母さんも里美もヤツフサも、周囲の風景が少しずつ見えるようになってきた。
見ると、お母さんの手の中の水晶玉のネックレスの紐が切れて、大きな八つの玉だけが無くなっていた。切れた紐から小さな玉がざらざらと外れて床にこぼれ落ちた。
――いまの、なんだったんだろう?よくわかんないや。
里美は早々と、この不思議な現象のことを考えるのをやめた。
「あぁ……伝説の伏姫の玉……八犬士の玉が……よりによってひらがなの八文字で……蘇ってしまうなんて……」
お母さんはこの後も延々と、この不思議な現象のことをずっと悔やみ続けていた。
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