第2話幼年期 1

痛い。苦しい。冷たい。





 最初に頭に浮かんだのはそんなこと。





 ごぽりと口の中に何かが入ってきて、苦しさに身を捩った。

 身体に触れるのは冷たい水の感触。


「……っ!ごほっげっ」


 唐突に意識がはっきりして、パチリと目を開けた。

 目の前に広がるのは青い晴れた空と枝葉を広げた木立。

 それにゆらゆらと揺れる水面。


ーー水面!


 またもや唐突に頭の中に大量の記憶という名の情報が駆け巡った。

 ほぼ同時に自身に只今起こっていることも。


 ヤバい死ぬ!


 次の瞬間に思ったのはそれだった。


 自分の名はスカーレット。

 今年で5歳。

 アフタリスタの片田舎、ルビル村の農夫の娘である。字はない。平民だから。


 そんなスカーレットは只今川遊びの最中に滑って後ろ向きに転けて仰向けに寝転がっている。

 川の中に。

 そこは子供が遊んでいるくらいだから、水深は浅いし流れも遅い。

 ちょうど5歳のスカーレットの踝より少し上あたり。

 だが立ち上がっていれば踝より少し上あたりの水面は寝転がっていればギリギリ顔の表面が出たり隠れたりするくらい。

 そして流れが遅いとはいってもまったくないというわけではなくて。

 さっきからビッシャンバッシャン揺れる水が顔を打つは時折増えた水面に鼻先まで沈む。

 このままこの体勢をこの場で続けていれば待っているのは溺死だ。


 おい親何やってんだよ!なんで5歳児を一人で川に入れてんだ。と思ったが、よく考えれば一人で勝手にこの場所にやってきたのはスカーレット自身であった。

 そのことを思い出してスカーレットは小さく舌打ちした。ついでに自分で動かなければ助けは来ないということもわかった。

 今の時間、村の大人たちは畑仕事に勤しんでいる。スカーレットより年上の子供はその手伝いのはずだ。数人しかいない同じ年頃の子供は子守婆のマギ婆さんの家にいる。

 つまりマギ婆さんの家をコッソリ抜け出してこの場に遊びにきたスカーレットに助けは来ない。

 マギ婆さんは半分ボケてきているうえに、今の時間は子供もマギお婆さんも昼寝の時間だ。

 婆のいびきと他の皆の寝息が聞こえてきたのを確認して家を抜け出てきたのだから。

 マギ婆さんや皆がスカーレットの不在に気づいて探しにくる頃にはスカーレットはすでに冷たくなっているだろう。このままなら。


 記憶もないのに一人で抜け出して川に遊びにくるとか生まれ変わってもさすが私!

 前のスカーレットの時でも幼少時から男勝りでやんちゃモノだった。一応は下級とはいえ貴族の令嬢であったのだが、邸の庭にあった木に登るは叱られて部屋に閉じ込められてもシーツをロープ代わりにベッドに括りつけ二階の窓から脱出したこともある。

 窓からの脱出は大人になって二度、いや三度ほどか行っていたが。


「……がぼぼっ!ℵ∑ΘΔΙΚΘΑーー」


 んなことを思い出している場合ではなかった。

 鼻と口から侵入してくる水に意味のない言葉を発しながらスカーレットはゴツゴツとした川底に手を付くと上体を起きあがらせる。

 動くと後頭部が酷く痛んで、片手で探る。

 するとヌルリとぬめりのある感触がして、その手を顔の前に持ってくると赤く染まっていた。


「あーっ、そういうことか」


 足を滑らせて転けたのまでは覚えていたが、その後がおそらく僅かな時間であるが記憶が飛んでいた。転けた際に川底の岩ででも後頭部を打ち、意識が数瞬飛んだのだろう。

 指で探った感触は大きな傷ではない。

 川面にぺたんと腰を下ろしたままで、何度か瞬きする。うん、視界はしっかりしているし吐き気もない。傷口が頭なうえに水に浸かっていたから出血量は多かったようだが、まあひとまずは大丈夫そうか。

 スカーレットはそう結論づけると立ち上がることはせずに這った状態で岸辺へ上がった。

 立ち上がった途端貧血で倒れでもしたら今度こそ水死体になりかねない。


 川から上がったスカーレットの格好は上半身裸で下はブカブカのドロワーズだけ。足は裸足だ。

 服と靴はすぐそばの岩の上に置いてあった。 

 スカーレットはその岩まで這い寄ると、岩の上に適当に放り投げられた服の中からゴワゴワとした肌着だけを抜き出す。

 黄ばんでところどころこすれて敗れかけのそれを両手でぎゅっと伸ばしてから頭に巻いて苦労しながら括った。

 股の半ばまである肌着はそれなりの長さがあったが、それでも頭に二重に巻き付けると端は結ぶのにギリギリの長さしかなかった。しかも5歳児の小さく力のない手指ではようやく結んでもすぐにはらりとほどけてしまう。

 なんとか動いてもズレない程度に巻き付けた頃には貧血も合わさってかグッタリと岩にもたれ込んでしまった。 


 ともすればそのまま意識を失ってしまいそうだったが、スカーレットは残る気力を振り絞って力なく垂れ下がっていた自分の右手を顔の前に持ち上げた。

 子供らしくふっくらとした、短い指をしげしげと眺める。


 小さい。

 5歳の子供だから当然ではあるが。


 先ほど水に浸かりながら思い出した記憶からすると今のスカーレットは田舎の小さな農村に暮らす平民の子供だ。

 今年で5歳。

 スカーレットの誕生日は一月後で、正確にはまだ4歳なのだけれど。スカーレットの生まれたルビル村やその周辺の町や村では子供の年を誕生日ではなく年で数える。

 一年の始めである1の月が過ぎれば皆一様に一つ年をとったと見做される。

 なのでスカーレットは4歳だけれど5歳なのだ。

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