7 やきもち焼きさんの幸福
気が付いたら、知らない部屋にいた。
帰るはずだったのに、でもそういうわけにはいかなかった。車に轢かれたら、やっぱり病院に連れて行かれるらしい。昔は何度も入院していたから、慣れっこではあるけれど。
ぼんやりと、懐かしい病院のベッドに横たわる私。
そしてその隣で、心配そうに私を見つめる——懐かしい顔。
「まさかここまでバカだとは思わなかったわ。あんたねえ、新婚早々、死にたいわけ?」
——雪恵。
お仕事はどうしたの、と聞くと、「そんなもんとっくにあがったわよ」と彼女。寝ていた私にはわからないことだけれど、もう真夜中近い時間らしい。こんな時間までごめんね、とあやまる私に、でも雪恵は首を横に振る。
「これも友達のつとめよ。ていうかね、あたしがいなきゃ、あんたどうにもならないでしょ」
と、雪恵の言葉は確かにその通りだった。雪恵には迷惑をかけっぱなしだけれど、でも私にとっての保護者といえば、もう彼女しか存在しない。母とは幼い頃に死別したし、父は私が高校生の頃に蒸発したきりだ。そのせいで親戚とも縁が切れているし、私には友達だってろくにいない。だからこういうときに頼りになるのは、本当に雪恵しかいなかった。
「ごめんね」
と、もう一度あやまる私に、「まあたいしたケガじゃなくてよかったわ」と雪恵。
「でもあんたね、保険証くらい持ち歩いてなさい。悪いとは思ったけど、でも勝手に家に上がらせてもらったわ。保険証を取ってくるついでに、着替えとかも持ってきたから」
そう言って、そして脇に置いた鞄を指し示す雪恵。「本当はついていてあげたいところだけど」と彼女は踵を返す。本来なら面会時間を過ぎているはずの真夜中のこと、いまこうして隣にいてくれているだけでも、緊急入院のための特例みたいなものだ。
閉ざされたベッドまわりのカーテン、それを開いて病室をあとにしかける雪恵。その背中に、私はかろうじて声をかける。
「あの、雪恵。私の家に行ったんだったら——えっと、“彼”は」
私の言葉に、雪恵がぴくりとその肩を振るわせる。しばらく無言でその場に立ちすくんだあと——でもどうしてだろう、雪恵は、答えなかった。
「……いまはさ、あんた自身のほうが大変でしょ。とにかく、休んでなさい」
雪恵の言葉は、いつも正しい。彼女は賢くて、頭の回転が速くて、私にわからないことでも全部的確に処理してくれる。たとえ雪恵の様子がおかしくても、それにはきっと理由があるのだ。だから私は、こんなときはいつも黙って頷いてきた。
少なくとも、今まではずっとそうしてきた。
「雪恵。私、彼に会いたいよ」
わがままだということはわかっている。でも、どうしても会いたかった。早くこの手で彼に触れて、私がまだちゃんと彼のそばにいられることを確認したかった。そもそもにして、そのためにこうして、病院に担ぎ込まれることになったのだから。
「あの、雪恵。わがまま言ってごめんなさい。でも明日、仕事あがったあととか、彼を連れてもう一度」
言い終えることはできなかった。
「——そんなに、好きだったの?」
どうしてだろう。なんだか、とてもいやな予感がする。でも、その言葉に対する答えはひとつしかなかった。私は、深く頷く。
「大好きだよ」
雪恵はただ「そう」とため息をついただけだった。彼女は私に背を向けたまま、どうしてか絶対に振り返ろうとしない。よく見ると、その肩が小さく震えているのがわかった。
「だったら、いまはとりあえず早く体を治しなさい。それから、ゆっくり考えましょう」
そう言い残して、そして雪恵は病室を去る。そのときの私には、まだ彼女の言葉の意味がわからなかった。それを理解したのは——翌日の夕方、退院したあとのことだった。
ケガそれ自体は、別に大したことはなかった。ちょとした打ち身と擦り傷程度で、入院の翌日にはすぐに帰宅を許された。鞄を手に、私は真っ直ぐに家へと向かった。一刻も早く、もう一度彼に会いたかった。
——雪恵から事情は聞いたりしたのだろうか。
——急に入院することになって、心配したりしてないだろうか。
早く帰って、元気な姿を見せたかった。そして今度こそ、ちゃんとすべてを話そうと思った。昔あったいろいろなことも、いま働きたくても働けずにいることも。一人で抱え込む必要なんてなかった、全部彼に話して、そして彼の意見を聞こうと思った。彼ならきっと、聞いてくれる。私が思うよりもちゃんとしたアドバイスをくれる。だって、彼はそう言っていた。それが伴侶だから、って。
見慣れたアパートに辿り着き、鍵を開けて、ドアを開く。
「ただいま」
——返事は、なかった。
彼は、元見たとおりの場所にいた。元見たとおりの姿で、お皿の上にのっていた。なにも、おかしなところはない。こうしてみる限り、私の知るお餅の彼そのものだ。
——でも、どうしてだろう。
「あの、ただいま」
彼は、なにも答えない。
なにを話しかけても、なにをしても同じだった。彼が動かないのは、元々のことだ。でも、返事が返ってこなかったことなんて、なかった。もしかして、急に家を空けたから怒っているのかもしれない。私は彼に向けて、根気強く何度でも話しかける。
「急に入院しちゃって、ごめんね」
「ケガはたいしたことなかったから、また一緒にブランコ行こうね」
「新しい海苔とか、今度買ってあげるね」
やっぱり、返事はない。
それでも話し続けるうちに、不意にアパートのインターフォンが鳴った。来客は、雪恵だった。私が退院したのを聞いて、そして様子を見に来てくれたらしい。私は、彼女を玄関まで迎えに出る。
私の顔を見ただけで、雪恵は状況を察したみたいだった。
「やっぱり、なにも喋らないのね、彼」
私は頷く。雪恵はもう、知っている様子だった。私が入院したあの日、彼女が私の家の中に入ったときにはもう、彼はなにも喋らなくなっていたらしい。原因は、わからない。
「あのさ香奈。とりあえず、今日は——私のうちに泊まりに来ない?」
雪恵はそう誘ってくれるけど、でも私は首を横に振る。せっかく帰って来たのだから、今日は彼と一緒にいたい。雪恵はなにか言いたげな顔をしたけれど、でも真夜中近くになったころ、名残惜しそうに自分の家へと帰っていった。
それから、再びふたりきりの生活が始まる。
一緒に過ごす。一緒に出かけて、一緒に遊んで、一緒に眠る。前とまったく同じはずの日々。でもひとつだけ違うのは——彼がもう、何一つとして喋ってくれないことだった。でも私は、彼と一緒に過ごす。だって、約束したから。一緒に、将来を誓い合ったから。私は、そのために帰って来たのだ。
昔のことについても、全部話した。あの日、家を開けた理由。それがどうして入院することになったのかという顛末。そしていま、私がまだ抱え続けているらしい問題。私は何日もかけて、すべてを彼に打ち明けた。
でも、それでも——彼はなにも、答えない。
それでもよかった。
彼がなにも言わないから、私たちはずっと部屋にいることが多くなった。私はただ、彼を眺めて一日を過ごす。昔の思い出や、雪恵のことなんかについて話しかける。返事はないけど、でも彼がいる。彼はまだ、ここにいてくれる。
結婚したから。
一緒に、いるから。
だから、私は、幸せだ。
退院から一週間くらいが経った、平日の夜。鼻歌を歌いながら、晩ごはんを用意する。近所のスーパーで買った、お徳用のインスタントラーメン。器には移さず、お鍋のまま食べる。テーブルの上の彼を眺めながら。他愛もない、雑談をしながら。
おいしいよ、と私は言う。栄養はきっと、ほとんどないけれど——。
「でも、ごはんを食べられるだけで、私は幸せだから」
そう言って、そして私は、彼に微笑む。
返事はない。
返事がないから、私はもう一度微笑んで——。
そして、吐いた。
気持ち悪い。ごはんを食べる行為そのものが。食料を必要とする肉体が存在していることが。私がいま、生きていることが。もう、なにもかもが——気持ち悪い。
シンクに向けて、嗚咽を繰り返しながら。それでも私は、必死で微笑む。
「幸せだよ」
答えてくれなくてもいい。そばにいるから。約束したから。およめさんだから。だから、私は幸せなんだ。やっと幸せになれたんだ。微笑まなくちゃ。笑顔でいなくちゃ。ずっと、きれいなおよめさんで、いなくちゃ——。
「——香奈、なにやってんのよ!」
部屋に駆け込んできたのは、雪恵だった。彼女はこのところ、毎日私の様子を見に来てくれていた。でも私はただ、微笑んで彼女を見送るだけだった。その度になにかを言おうとして、それでも言えずにいるのは見ていてわかった。
「香奈、あんたもう限界よ! 頼むから、一度冷静になりなさい! もっといいもの食べさせてあげるから、今夜一晩、私の家に——」
私は首を横に振る。彼が、いるから。
「——いないのよ! 彼はもう、なにも喋ってくれないでしょう?」
そんなことはない。いまは黙っているけれど、でも彼は毎日私の話を聞いてくれて——。
「聞いているわけないでしょう? 聞いてたら、何か一言くらい返すはずよ! ねえ香奈、あんたいま、だいぶおかしなことになってるわよ!」
おかしくなんてない。これは、約束なんだ。生涯を共にするって、そう誓ったんだ。
「でも——でも、あのときは確かにそうだったけど! でも香奈、彼は、今の彼はもう——」
彼は、私の旦那さん。大事な、大切な、なによりも愛おしい、私だけの——。
「これはもう、ただの焼き餅よ! 普通の、単なる物言わぬ物体でしかないのよ!」
——そんなことは。
そんなことは。
そんな、ことは。
もう一度、盛大に吐いた。
胃液しか出てこなかった。そんなことを冷静に観察している自分がおかしくて、そして笑いが止まらなくなった。彼は、いない。もういない。私に話しかけてくれるあの彼はもういなくて、そして雪恵によれば、私の話を“聞いてくれる”彼ももういないらしい。
そんなはず、なかった。
だったら、どうして私だけが残されているのか。こんななんの役にも立たない私だけを残して、彼はいったいどこへ行ってしまったのか。どこかへ行ったのなら、どうして私だけを残して行ったのか。なんで、まだここに私はいるのだろうか。どうして私だけが——生きているのか。
大声で笑いながら、発作的に頭を床に打ち付けた。砕ければいいと思った。頭は無駄に頑丈で、それでも痛みだけがはっきりとあって、それが生きていることを自覚させるからいやだった。本当に、心の底から気持ち悪かった。私は、生きている。生きる肉体がまだ存在する。胃は毎日生存のための栄養素を欲して、皮膚の下には繰り返し血液が循環している。紛れもなく私は生きていて、そしてこんなに気持ちの悪いことは他にないと私は思った。どうして、消えられないのだろう。彼のように、彼と一緒に、消えることができなかったのはどうしてだろう。
雪恵が、私の肩を何度も揺さぶる。なにかを叫んでいるけれど、でも私には聞こえなかった。私自身が叫んでいた。繰り返し、自分に言い聞かせるつもりで、何度も叫んだ。
「約束したから。結婚したから。ずっと、いつまでも一緒にいるって、そう言ったから。だから、私は幸せだよ。幸せなの。やっと、幸せになれたの。だから、だから」
言いかけたあたりで、頬を張り飛ばされる感覚。景色が大きく傾いて、そして口の中に血の味が広がる。錆びた鉄のような、命の味。気持ち悪い。
「香奈、あんたがなにを言おうと、もう私はあんたを病院に連れてく。一度落ち着きなさい、そして——受け止めるのよ。彼がもう、いないことを」
雪恵が、私を外へと引っ張り出す。抵抗する体力どころか、気力さえもう残っていなかった。でも、病院なんかに行ってどうなるというんだろう。あれはまだ、生きたいひとの行くところだ。私みたいな“死んでいないだけ”の人間が行っても、結局なんの意味もない。
放して、と告げようとした、その瞬間。
アパートの前、停めてあった雪恵の車の前に、人影が見えた。
「こんな夜中に、病院なんてやってねえだろう?」
聞き覚えのあるその声。私を掴んだままの雪恵が、さっとその場に身を固くする。
「——あんた、なんでこんなとこに」
「やあ『お友達』さん。アンタをつけてきて正解だったなあ」
昔の、彼。
「でもよ、俺んちなら、年中無休で空いてるぜ? 話し合いでもしようや」
彼の言葉に、私を庇うようにして雪恵が前に出る。
「冗談じゃないわ。香奈は、あんたとはもう縁を切って——!」
そう言いかける雪恵の肩を、容赦なく突き飛ばす彼。「俺はコイツに話があるんだよ」と、まるで引っ立てるように私の襟首を掴む。
「おいお前——って、うわなんだぁ? お前、ゲロでも吐いたのか? きったねえな!」
私を突き飛ばすようにして、服から手を離す昔の彼。これじゃ俺んちにはあげられないとかなんとか、頼んでもいないことをいろいろぼやいている。
「しょーがねえな。じゃあまた今度でいいけどよ、今日はとりあえず金だけ借りてくわ」
と、勝手に私の部屋に向かって歩き出す彼。もう、止める気力もなかった。お金でもなんでも好きにすればいい。どうせ私には、もう要らない。なにも、要らない。
その場にうなだれて、もう一度深く嗚咽する。だから、私にはよく見えていなかった。
「な、なんだてめえ?」
昔の彼の、なんだかうわずった声。最初、雪恵が止めに入ったのかと思った。でも違う、雪恵は私の隣にいて、私の肩を抱いてくれている。
その雪恵が見つめる方に、私もなんとなく目を向けた。暗闇の中に、昔の彼の背中が見える。そしてもうひとつ、その前に立ちはだかる——もう一人の人影も。
「あなたに貸すお金はありませんよ」
——耳を疑った。
まさか、と、そう思った。だってその声は、もう聞こえるはずのない——。
「なんだあ? お前、人の事情に口出ししてんじゃねえよ。ていうか、誰だよ」
昔の彼のその啖呵に、その聞こえるはずのない声が「私ですか」と答える。
「夫ですよ。香奈さんのね」
——私の、旦那さん。
「夫ぉ? コイツの?」
何度かこちらを振り返る、私の彼。私はただ、黙ってその様子を見つめているだけだった。いったいなにが起こったのか、まだ私には理解できない。
ちょうどいいや、と、そう口を開いたのは、昔の彼だ。
「俺、アイツのせいでひでー目に遭ってんだよ。慰謝料取りに来たんだ、夫って言うなら、あんたが払ってくれよ。今日は貸してくれるだけでもいいけどよ」
それは残念です、と、聞き慣れた声が返す。
「あなたのような見下げ果てたクズに払うお金なんてありません」
「……なんだと?」
身を低くしてにじり寄る昔の彼に、でもその人影は動じない。まあ落ち着いてください、と冷静な声のあと。
「私はね。自慢じゃありませんが、暴力沙汰は苦手なんですよ」
と、そのひとことと同時に——昔の彼が、吹き飛んだ。
「……ほら、手が痛い。無駄な労力です」
——どう見ても、殴っていた。
唖然とする私の目の前で、地面に転がった昔の彼が身を起こす。なにかを怒鳴っているけれど、でもどうやらひるんでいるらしいことは丸わかりだった。それに少し、膝が笑っているように見える。
「このまま黙って消えなさい。ああ、一応警告だけはしておきましょうか。もう二度と、私と私の妻の前には姿を現さないように。次は、本当に殴りますからね」
「て、てめえ、いまさっき殴ったじゃ——」
もう一度、昔の彼が吹き飛ぶ。
「暴力は苦手だと何度言わせる気ですか。黙れ、と言ったはずですのに」
やれやれ、と肩をすくめるその人影。吹き飛んだ昔の彼は、その場に起き上がるとそのまま逃げ出した。なにか捨て台詞を残していったみたいだけど、でもそんなことはどうでもいい。だっていまはもう、そんなことに構っている場合じゃない。
私はもう、目を離すことができない。その人影が、私の方に歩み寄る。
「待たせてしまった。そのせいで、怖い目に遭わせてしまったみたいだ。すまない、妻よ」
近くで見ると、思った以上に背が高い。身なりだってとてもきれいで、なんだかどこかのお大尽さまみたいだ。私よりもちょっとだけ年上だろうか、きりっとしたその顔つきは、なんというかとても紳士という感じがする。はっきり言って、こんなひとは知らない。いままでに見たこともあったこともないひとだけれど——でも。
「貴女と離れている間、少しのこととはいえ——しかし、大変寂しかった」
その声には、確かに聞き覚えがある。
声も出せずに固まる私。その隣で、おっかなびっくり雪恵が声を上げる。
「ちょ、ちょっと! なんか急に出てきたけど、あんた……誰?」
その紳士は、首だけで雪恵の方を振り返る。「言ったはずですよ」と肩をすくめたあと。
「ですから、夫ですよ。お久しぶりですね、雪恵嬢」
その言葉に、さしもの雪恵も、凍り付く。
「うそ……でしょ……? だってあんた、餅じゃ」
「餅ですよ。まあ、多少は人っぽくなりましたがね。苦労しましたよ」
そう言って、そして再び私の方を向く紳士。私はと言えば、やっぱり凍り付いたまま何もできない。ただ固まるばかりの私の肩を、そっと優しく抱き上げる、その紳士——いや。
「妻よ。これで私は夫らしく、貴女を守ってあげることができます」
——私の、旦那さん。
なんて声をかければいいのかわからなかった。いろいろな思いが頭の中をぐるぐると渦巻いて、そして最終的に思ったのは、いまの私の有様だ。彼は、私を抱き上げている。でも私は、自分の吐いたもので汚れているのだ。なんだか急に、恥ずかしくなる。
「き、汚いから」
と、身をよじる。でも、彼は放してくれない。「それがどうしたというのです」と彼。
「あなたの魅力が、その程度で軽減されるとでも? 言ったはずですよ、私は、貴女を愛している。一生そばにいると、そう誓ったばかりではないですか」
間近に迫った、彼の顔。月明かりに照らされて、青白く染まる、その整った顔立ち。それよりなにより、その言葉の内容。かつて何度も聞かせてくれたあの声が、その言葉の内容も同じままに——。
また、私の元に、帰って来てくれた。
「まあ、急に姿も変わってしまいましたし、驚くのも無理はないでしょうが——しかし」
改めてお訊ねします、と、大好きなその声が囁く。
「愛する妻よ。貴女は、私と——生涯を共にしてくれますね?」
かつて、確かに約束したその言葉。なんと答えるべきか、私は一生懸命考えて——。
出てきたのは、自分でも思いもしなかった言葉。でも、最初に言っておきたかったから。
「——おかえりなさい」
言ってから、なんだか急に頬が熱くなるのがわかった。思ってもみない返事だったのか、少しびっくりしたような表情の彼。でも彼は私を抱いたまま、優しく微笑んでくれた。
「ええ。ただいまです、愛する妻よ」
その言葉に、私も微笑み返す。だって、ずっと待っていた。愛するひとの帰りを、私はずっと待ち焦がれていた。
「手料理、やっと食べてもらえるね」
「ああ、それはありがたい。私は暴力の次に、料理が苦手なのです。餅ですしね」
「今度からは、手を繋いで並んで歩けるね」
「そうですよ。手を繋ぐことも、抱いてあげることもできます」
「……キスも、できるね」
「そうです。実は、それが夢だったのです。夫婦らしく、貴女と口づけたかった」
笑顔のまま、彼は答える。昔のままの、饒舌なお喋り。私が愛した、優しい言葉。
私は微笑んで、そして、月明かりの中。
「あのね、誓うよ。私——ずっと、あなたと生涯を共にします」
大好き、と、私は小さく呟いて。
そして、そっと、目を閉じる。
世界が暗闇に包まれて、でも、もう、怖くない。私のそばには、彼がいる。呼びかければ、優しい言葉を返してくれる。囁くような声が、私の耳たぶを、くすぐる。
「妻よ。愛している」
そして、唇に触れる——柔らかい、感触。
どうしてだろう、と、少し不思議になった。
生まれて初めてのことだった。嬉しくて、幸せで——そんなときに、涙がこぼれ落ちるなんて。彼の大きな腕に抱かれたまま、私は指先でそっと、彼の胸元を掴む。きっと、もう、離さない。たとえ一旦どこかで離れたとしても、それでも私たちは、繋がっている。私は、信じて待ち続ける。そうすれば、きっと帰って来てくれるから。
私の、愛するひと。
大切な、旦那さん。
私を、本当に愛してくれる、彼。
——その耳元に、私はそっと、小さく囁く。
「愛してる」
心から素直に、そんな言葉を口にできる。
そして、それに応えてくれるひとが、そばにいる。
こんなに幸せなことが、他にあるだろうか。
私は、幸せな、およめさん。
——いつまでも、あなたのおよめさんで、いさせて欲しい。
月明かりの中。
私はただ、抱きすくめるその逞しい腕の感触に、身を委ねた。
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