第45話 御帳台のうちで
真雪にしてみれば、こうもやすやすと姫君のいる寝所まで入れたことが、あり得ない事態だと不審に思うほどだった。
はなから手引きしてくれる者など、誰もいなかったのだ。
——おそらく、梧桐の宰相と間違えたのだろう。
新月のため、辺りは闇に沈み、雲にまぎれて星の光も見えない。
真雪の訪れを知った女房は、手慣れた様子で人払いを命じ、明らかに誰かと間違えている様子だった。
おそらく、一度めのことではないからだろう。
梧桐は前にもこの場所を訪れて、人払いを命じたに違いない。
それが分かると、かえって押さえようのないやるせなさが、真雪の胸をおそった。
目の前の姫君は、——暗くてよく見ることはできないにしろ、確かに朔姫だと思うだけに、抱きすくめたい衝動にかられたが、真雪はなんとか気持ちをおさえてその場で片膝をつく。
確かめるように名を呼んでみたが、相手は微動だにしないままだった。
真雪は、この機会にいっそのこと、朔姫をこのままさらってしまおうかと思いつつも、一方で冷静でいようと
「
ここの者は、私を誰かと勘違いして、なかに通してくれたようですね」
目が慣れてくると、目の前の姫君は、真雪が思っていた以上に華奢に映った。
その様子があまりにもいじらしく見えて、真雪は御帳台のなかににじり寄った。
どのみちこうなってしまえば、真雪も正体を悟られるわけにはいかないのだ。
間違えて真雪を入れた女房も、事が露呈すれば過失を責められるだろう。
真雪の接近に、朔姫は身をすくませたようだった。
真雪は、思わずその手を握りしめた。
「月までお連れするという言葉に、偽りはありません。もしお望みなら、今夜にも月影神社にお連れ致します。馬で駆ければ、夜明けには着くはずです」
朔姫は、握られた手をそのままにしていた。
真雪が力を込めると、朔姫はうつむいてゆっくりかぶりを振った。
真雪がさらに何か言おうと口を開きかけたところへ、思いがけず、外から声がした。
「宰相の方は、いらっしゃいますか」
物怖じしない、落ち着いた声だった。
予想外のことに真雪が答える間もなく、その人は御帳台のなかをのぞいたようだった。
——と、朔姫は瞬時に手をふりほどいた。
声の主も、異常事態だと察したのだろう。
今度は少し震える声で言った。
「——あなたは誰ですか」
そこで真雪も、その人が誰かおのずと思いあたった。
一度聞いたことのある声だったからだ。
確か侍女の、小萩といったような。
「こちらに姫君がいらっしゃると聞いて、訪ねてきたのです。私の声に覚えはありませんか」
真雪の言葉に、——小萩は怒りを隠さなかった。
「では、あの夜お会いした方なのですね。皆がしきりに宰相の君がみえたと言っていました。あなたは身を偽ってまで、なんてことをしているのです」
「身を偽ったつもりはありません。ここの方が勝手に勘違いされたのです。そちらこそ、人払いもしたというのに、本当に私が宰相だったらどうされるのですか」
真雪はそう言ったが、小萩はひるまなかった。
「宰相の君は、私を分けへだてしないでしょう。むしろご挨拶をと思って、様子を見にきたのです。そしたら、こんな大変な事態になっているなんて、非常識にもほどがあるというものです」
小萩はそう言うと、かばうように朔姫の前に座った。
朔姫もこの展開を思いもよらないものだと恥じ入っているのか、ひと言も発さないまま、奥の方で体をそむけている。
真雪は口に手をあて、声をひそめて言った。
「静かにしないと、他の方に気づかれてしまいます。私は、月影神社にお連れする約束を果たそうとしただけです。姫君がそれを望んでいることを、あなたももう充分にご存知でしょう」
「——まぁ、あきれた。それでは姫君をさらう
真雪は苦笑した。
今さらながら、なんて大胆なことをしているのかという気持ちになり、この侍女があきれるのも無理もないことのように思えたのだ。
「そう言われると人聞きが悪いですが、あの夜の話から、あなたもそれを承知しているのだと思っていました」
小萩はしばらく黙ったままでいたが、心のなかで決心を固めていたのだろう。
静かに、
「では、私も行きます」
「——小萩」
驚いたような小さな声がして、それは朔姫が発したものだった。
小萩はそうと決めると揺るがない性質らしく、きびきびと言葉を続けた。
「この際、宰相の君と忍び歩きに出かけるから私もお供するということにしましょう。そして皆には決して他言しないよう言っておくのです。誰にも知られてはならない秘め事だからと。
度々訪れるアヤメという方が来たら、『姫君は月の障りが重く対面できない』とでも言うように伝えておきます。少しの間なら、なんとかなるはずです」
真雪はよどみない言い方に、少し呆気にとられた。
それにしても、よくそこまで思いつくものだと感心してしまう。
小萩は引き続き言った。
「そうと決まれば、事を急ぎましょう。時間は限られています。私は皆にそう言ってきます」
「——小萩、本気なの」
引きとめるような、か細い声だった。
小萩はふりむくと、朔姫の手をとった。
「今は信じるしかありません。この方は、朝霧さまが見込んだ方ですから」
わざと聞こえるように言っているのだと、真雪にも分かった。
そう言われ、真雪も身が引き締まる思いがした。
あの
——でも、朔姫の望みを叶えてあげたいと、その思いだけが胸のうちにあった。
真雪は無意識に腰にさした太刀の柄を握ると、改めてその感触を確かめた。
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