第38話 梧桐
——大后さま。
その途方もない言葉に、朔は愕然とした。
本当に自分が、先の帝と母——白珠の更衣——との子であるのなら、血の繋がりがまったくないわけでもない。
しかし朔にはまるで、現実のこととは思えなかった。
何かの間違いに違いない、という気がどうしてもするのだ。
雲の上を歩いているような頼りない足取りで、朔は前にしつらえられた畳の
すると、それを待っていたように中から声がした。
「よくここまで成長されましたね」
重々しく、気品の備わった声だった。
目線を少し上げて御簾を見たが、様子はうかがえない。その人は再び言った。
「そなたが来るのを、ずっと待っていました。本当に美しくなられましたね。裳着をすませたら、さぞ見栄えがすることでしょう」
聞きたいことが、たくさん頭の内をかすめたが、こちらから言うのは失礼になる気がして、朔は何も言わず聞いていた。
「本当はここでお育ちになるはずが、母君のこともあり、ずいぶん長いこと離れてしまいましたね。でもいずれ会えることは、初めから分かっていました。
積もる話もたくさんあるのですが、どうにも長く話すと疲れてしまうようです。
あとは、そこの
それだけ言うと、
その人は満足したように言葉を途切らせた。
御簾のなかが静かになり、大炊君が目配せするのを見て、朔は退出した。
もといた場所に戻ると、朔は初めて緊張していたことを自覚した。
人払いをしたのか、大炊君のほかには誰もいない。
ここに来てからは、小萩の他にたくさんの女房が何かと世話を焼いてくれるのだが、今は誰の姿も見あたらなかった。
「さっき言われた、梧桐という方は……」
朔が聞くと、大炊君は柔らかく微笑んだ。
「それは私のこと。ここで私は男装しているため、周囲から梧桐と呼ばれているのです。
大炊というのは、私がまだあの方の女房として仕えていた頃の名です」
では、先ほど大后が梧桐と言ったのは、大炊君のことを指したのだ。
朔が見つめると、大炊君はさらに続けて言った。
「大后さまのご意向を叶えるため、私は男装して周囲に悟られぬよう、今までずっと政務をこなしてきました。でもあの方もおいたわしい状態が続くため、それももう最後になりそうです。
朱雀帝が世を治められた時に五人いた『月読』も、今では私とアヤメの二人だけになってしまいました」
「あなたも『月読』のひとりだったの?」
「私はあの方の願いを叶える歯車に過ぎません。そしてその願いとは——そなたの身を清らかに改めること」
「清らかに……?」
朔がつぶやくと、大炊君はふいに強い
「姫君には、忌まわしい物の怪が取り憑いているのです。それはご存知ですか」
朔は、
いきなり秘密を言い当てられた気がした。
いたたまれなさに身をすくめると、大炊君はいささか口調をゆるめた。
「亡き母君も、里下りをきっかけに物の怪の力が強まり、とうとう亡くなられました。
その力は強く、並大抵のことではお祓いできません。そのため大后さまは、陰陽師の勧めもあり、姫君を斎宮にとお考えなのです。清浄な地で潔斎を続ければ、悪しきものもやがて退散し、姫君には一番いいだろうと」
語り聞かせるように大炊君は言った。
だが、朔には思いもよらない話だった。
そんな大役を、自分が務めることができるとも思えない。
呆然とする朔を前に、大炊君は言った。
「急な話に聞こえるかもしれませんが、亡き母君が倒れた時から、大后さまはそのようにお考えでした。それで、あえて姫君を京から移し、大切にお世話するよう申しつけられたのです。
今上帝は、遠く離れた伊勢にやることを残念に思われるかもしれませんが、御代が変われば、またこちらにお戻りになることもきっとあるでしょう。
それまでに身を清められるよう、最大限のことはするつもりです」
あの蛇が——生け捕られると言ったのはこういうことだったのだ。
朔は、どこかでかなしくなりながら思った。
一番意外なのは、自分にとってあの蛇が、それほど悪しきものに思えないことだった。
もしもあの蛇を親しく思うなら、きっと自分も同類なのだろう。
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