第138話名もなき幕引き
「どういうことだ?」
レイは浅くなった息を吐き出しながら言った。蒼羽は皮肉っぽく笑って言う。
「明朝、俺がホテルから姿を現さなければ、別の場所で取引を行うよう部下に指示は出してある」
「そんな……!」
琴は嘆いた。
それでは、リバイブの取引現場を押さえて『暁の徒』のメンバーを捕縛することができない。
「別の取引場所ってどこですか!?」
(蒼羽さんをスパイにできなかっただけでなく、反警察組織にリバイブを売りさばくことも阻止できないなんて……)
詰め寄る琴。しかし、蒼羽はうっすらと笑みを浮かべるだけだった。
「答える義務はねえよ。お前が俺のものにならねえならな」
「……っいい加減にしてください!」
琴はカッとなり声を荒げた。
「貴方は……っ貴方が売ったリバイブが何に使われているか知っていますか!? 快楽目的に使用されるだけでも性質が悪いのに、貴方の客の『暁の徒』はリバイブを、団体へ取りこむための洗脳の道具に使っています。それだけじゃなく、団体のメンバーは貴方から買ったリバイブを更に密売人として売りつけ、リバイブをきっかけに殺人を犯した人もいるんです!! そのせいで……っ」
数ヶ月前に桐沢警視長夫人を殺害した佐古が、まさにそうだった。そして桐沢警視長は、最愛の奥さんを――――……。
「リバイブのせいで、愛する人を失った人もいるんですよ!? 貴方が最愛の人を亡くしたように!」
「…………」
蒼羽は何も言わない。琴は捜査官の制止を振り切り、蒼羽の襟元を掴んだ。
「誰かを失う痛みを知っているなら、誰かを失わせるようなことをしないでください……誰かを不幸にさせたりしないで……っ」
「……悪党に説教を垂れて、意味があると思うか?」
「悪党に話しかけてはいません。私は蒼羽真、貴方に話しかけています」
琴は真摯な瞳で蒼羽を射抜いた。蒼羽は、曇りのない瞳から逃げるように目を反らした。
「蒼羽さん、貴方がもう二度と恋人を亡くしたくないと思うなら、同じような思いを誰かにもさせるべきじゃないです」
「だから、人を陥れるためではなく救うためにスパイになれと?」
蒼羽はせせら笑ってから、表情を無にし、それから激昂した。
「今更生き方を変えたって、瑠璃は戻ってはこねえ。お前だって、瑠璃にはならなかっただろうが!!」
「……当たり前だ!」
琴は怒鳴り返した。普段の琴ならありえない口調に、レイも折川も不意をつかれたような顔をした。蒼羽もだ。
作業玉として接していた時はずっと大人しく控えめだった琴が激しく感情をぶつけてくることに、蒼羽は戸惑っているようだった。しかし、琴は止まらなかった。
「私が瑠璃さんにならない……? 貴方にとっての瑠璃さんは一人でしょう! 貴方が愛していた瑠璃さんは、代わりがきくものじゃないでしょう! だからクスリに手を出すくらい虚しくて悲しかったんでしょう!?」
代わりがきかないから、失ったものの大きさを嘆いて当時敬愛する上司を亡くしたレイは塞ぎこんでいた。最愛の人を失った桐沢警視長は、妻の無念を晴らそうと行動していた。
二人とも、悲しみこそすれ、決して別の誰かを代用品にしようとはしなかった。亡くした存在は唯一無二だと自覚していたから。
「愛していると言いながら、蒼羽さんは、結局は自分が救われたいから瑠璃さんを上書きしようとする! 似た顔の私を侍らせて、瑠璃さんの死をなかったことにしようとしないでください。瑠璃さんを愛する貴方が、瑠璃さんの思い出を上書きしないで!」
「……黙れ」
「私は瑠璃さんにはなれません。だって、貴方が心から想う瑠璃さんはたった一人しかいないから、代わりになんてなれません。瑠璃さんは戻ってこない。でも、二度と戻ってこない彼女を、尊重してあげてください」
「黙れ」
「貴方を心配していつも泣いていた彼女を、天国でまで泣かすような真似はしないでください」
「……黙れよ……っ!」
手錠を引きちぎって掴みかかってきそうな勢いの蒼羽を捜査員がおさえつける。琴は肌蹴た蒼羽の首元から広がるタトゥーを指した。
「黙りません。だって貴方は、その名に幸運を宿す男でしょう?」
「……っ」
蒼羽は頭を殴られたような顔をした。琴はひるまなかった。
「幸せを掴める男で、幸せを与えられる男でしょう。幸せの青い鳥でしょう。そう瑠璃さんから言われたんでしょう? じゃあもう瑠璃さんを泣かせるような生き方しないで。その名に恥じぬ生き方をしてよ!! ねえ、どうか……」
琴は祈るように指を組み、懇願した。
「力を貸してください。蒼羽さん……! まだ見ぬ不幸な事件に巻き込まれそうな多くの人々を、その幸運で救ってください」
場が静まり返る。誰も彼も、琴の言葉に耳を傾け、息をするのも憚られるような静寂が訪れた。やがてその沈黙を破ったのは、蒼羽だった。
「……それが、本当のお前か?」
意志の強い瞳で蒼羽を貫く琴に、蒼羽は薄く笑ってから勢いよく顔を下げた。琴の視界が蒼羽で埋まる。ピンと糸を張ったように、室内に緊張感が走った。隊員が再び銃を構える。
「……っこ……!」
琴! と叫びかけたレイだったが、琴は蒼羽から決して目を離さなかった。
琴の眼前には、初めておもちゃを手にした子供のように愉しげな蒼羽の顔があった。琴の丸い額に、蒼羽の固い額がぶつかる。口付けを交わすかのようにも見えた。が、違う。頭突きだ。お互い、睨み合ったままの。
ゴツリ、と鈍い音が室内に響いても、琴は痛む額を気にもとめず蒼羽を睨みつけていたし、蒼羽も蛇のような眼光で琴を射抜いていた。
「……悪くねえな」
「蒼羽さ……」
「瑠璃は、俺が犀星会の蒼羽でなくなることを願っていたが、一度だって口にはできなかった。影でいつも泣いていた」
好きだから、彼の生き方を否定できなかったんだろう。それでも、危険な場所に身を置く蒼羽が心配で瑠璃は泣いていたに違いないと琴は思った。
「瑠璃のその弱さと優しさに甘えて、ズルズルとここまで生きてきた。犀星会の蒼羽として生きていく中で、瑠璃に似たお前に出会えたから、俺の進んできた道は間違いじゃねえと思っていた。でも……」
蒼羽は長いまつ毛を伏せ、ゆらりと顔を上げた。
「そうじゃなかった。お前は、止めに来たんだな。犀星会の蒼羽でいることを」
「……事情を知らなかったとはいえ、瑠璃さんに似た容姿の私が貴方に近付いたことは、残酷だったと思っています」
その負い目だけは、一生ついて回ると琴は思った。でも、だからこそ、蒼羽を更生させねばならないとも思った。瑠璃に似た自分が。
蒼羽がスパイになることは、国のためにもなるが、きっと蒼羽のためにもなる。瑠璃の幻影を求めてクスリという闇に溺れていく蒼羽の身を、掬いあげることができる。
「お前の勝ちだ」
やるせない表情を浮かべる琴へ、蒼羽がおもむろに言った。低いテノールは、室内をざわつかせる。
「大人しくサツに捕まってやる。が、取引が終わってからにしろ。俺が『暁の徒』の取引現場に、テメエらを案内してやらァ」
「スパイになるということか……!?」
琴が目をむく隣で、折川の声が弾んだ。
「もちろん、条件はたっぷりつけてもらうがなァ。こいつに根負けした」
顎をしゃくり、蒼羽は楽しげに琴を指した。琴は力が抜け、その場にペタリと座りこんだ。洗われた御影石のような瞳を揺らし、蒼羽を見上げる。
「本当ですか……? 本当に、スパイになってくれるんですか……?」
「ああ」
「よかった……よかったぁ……」
眉を八の字に下げてへにゃりと笑う琴に、蒼羽は眩しそうに目を細めた。
「気が強いかと思えば、弱弱しく戻る。不思議な女だな、お前は」
切れ長の目で琴を見下ろしていた蒼羽は、ふと身を焼くような視線を感じて顔を上げる。ソファに座っていたレイが、蒼羽を牽制するように見ていた。
お伽噺から抜け出たような容姿からは似つかわしくない覇気だ。手負いであるのに、ブルーグレイの眼光は油断なく煌めいている。その目は、蒼羽はすでに拘束されているというのに、まだ琴に手を出すのではないかと疑っているようだった。
「神立刑事、お待たせしました。従業員が誤って通した客を追い払うのに時間がかかってしまい……ですが裏口に車を回させました。急いで病院へ向かいましょう」
捜査員の一人が、レイの肩に腕を回しソファから立ち上がらせる。それでも、血の気を失ったレイの視線は蒼羽へ注がれている。外敵から雌を守ろうとする獣のようなレイと、レイに駆け寄り反対側の肩に腕を回した琴に蒼羽は語りかけた。
「……瑠璃は、抗争に巻きこまれて死んだ。正確には、敵対する組の凶弾から俺を庇って死んだ」
「え……」
口元を押さえた琴に、蒼羽はくっと短く笑った。
「……お前を助け出そうと、自ら撃たれたそこの刑事と同じだ。胸糞悪ぃことを思い出させやがって」
蒼羽は鼻じらんだようにレイへ吐き捨てる。しかし、どこか嬉しそうな口調でもあった。
「俺が瑠璃に愛されていたように、お前も、神立に愛されてるみてえだな」
そう言った蒼羽に、琴はレイの横顔を見上げる。レイは苦しげな息をしながらも微笑み返した。
改めて、レイが助けにきてくれた事実に、琴の胸の奥から熱いものがこみ上げる。脂汗に前髪を貼りつかせたレイは、頬からも腕からも出血している。こんなボロボロになってまで琴を救い出そうとしてくれたレイに、琴は泣きたくなった。
「……我々もそろそろ行くぞ、蒼羽。ホテルの客を誤魔化すのにも時間の限界がある」
「まあ待てよ。最後に……おい、お前の本当の名は?」
折川の言葉を遮り、蒼羽は琴に声をかけた。
「捕まってく男だ。本名を教えても支障はねえだろ? どうせ望月エマは偽名だろうがよ」
「教える必要はないよ。出所した際に名前を頼りに近寄ってくる可能性がある」
レイがにべもなく言った。しかし琴は口を開いた。
「……琴です。宮前琴」
レイが責めるような目で琴を見たが、琴はこの問いを濁すことは避けたかった。
本意ではなかったが、瑠璃にそっくりな少女として近寄ったことにずっと引け目を感じていたから、最後くらい偽りのない自分として……宮前琴として蒼羽に接するべきだと思ったのだ。
「琴か。お前によく似合った名前だな。エマって響きには、ずっと違和感があったから」
ゆっくりと噛みしめるように蒼羽が言った。そういえば、最後の最後まで蒼羽は琴を偽名の『エマ』と呼ぶことはなかった。
それは瑠璃として琴を見ていたからだと思ったが、もしかしたら本能的に、蒼羽は『エマ』という名前が偽名であると感じ取っていたのかもしれないと琴は思った。
「……琴」
蒼羽の口からやっと本名を呼ばれ、琴は不思議な感覚を覚えて目を瞬いた。
「瑠璃に似ているという理由で近付いてきたことに引け目を感じているなら、その必要はねえ。俺はしっかり、瑠璃ではない、望月エマでもない、その先に透けていた宮前琴に惚れていた。初めて会った時に、震えながらでも倉沢を守るため俺に立ち塞がったお前に。感動したら、目を輝かせて興奮気味に語るお前に。俺の名前に、幸運の意味があると教えてくれたお前に。お前自身に確実に惹かれていた。でもそれが……」
蒼羽の深いアイホールに影が落ちる。口の端を歪めて笑う蒼羽が、琴より一回りも二回りも大きいのに、何故か儚く見えた。
「でもそれが、瑠璃への裏切りに思えたから、いっそ、お前を瑠璃に作り変えてしまいてえと願った身勝手な男だ。俺はお前に同情される資格なんざねえ」
そう言って、蒼羽は折川に連れられて琴の横を通り過ぎる。
すれ違いざまにふわりと香った紫煙の香りをもう近くで嗅ぐことはないのだと思うと、琴は郷愁に似た気持ちを覚えた。ガラスの散らばった部屋を、蒼羽が捜査員と共に出ていく。その孤独な背中を見つめながら、琴はこの事件の終わりを感じ、そっと目を閉じた。
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