猫とジンジャーエール
斉賀 朗数
結子【1】
社会人になって時間とお金両方それなりに余裕のある俺は、時は金也って言葉がまるで本質を見抜いているかのように世間で認知されているのが馬鹿らしく思っている。そんな俺は昨日一人暮らしを始めて二年ちょっとの賃貸マンションの契約を急遽解約し、家にあった荷物のほとんどを捨てるか、リサイクルショップで売り払い、手元に残ったのは数着の衣類と携帯電話と免許証とか色々と五十二万円が入った財布と預金通帳とコンドーム三個。
あとそれらを詰め込んだアークテリクスのリュックサック。
携帯の充電器は間違えて捨ててしまったのかどこにもなかった。
とりあえず携帯電話を充電したいと思い、俺の住んでいたマンションの最寄駅から電車で二駅先の
「もしもし」
結子は二コール目で電話に出た。
早い。
「もしもし。今日暇?」
「久し振りに連絡してきたと思ったら、また急なお誘い? まあ別に暇だけど」
「携帯充電したいから家行ってもいい?」
「それくらい自分の家でしたらいいじゃない。ってか、普通に家汚いから無理だよ」
「もう家無いんだよ。一人暮らし終わりにしたから。だからちょっとだけ頼むよ」
「えっ? 本当に言ってるの?」
「本当だって。とりあえずお腹空いてない? 王将でも行かない?」
時間は夕方六時半。
「まあご飯くらいなら。すぐに家出るから十分くらい待ってて」
「分かった」
電話を切る。
そのまま手に持った携帯で桜にメッセージを送る。
「一人暮らし終了。実家に帰る訳にもいかないので助けてよ」
桜にはこれくらいの軽い内容で十分だろう。
普段からレスポンスの早い桜なのに既読が付かないので、今日はバイトなのかもしれないな。と思いながら携帯の画面を見ていると、結子から本当に今日は家入れないからとメッセージが届いていて、わざわざ念押ししてくるあたりが結子らしいなとちょっと笑う。
返信はしない。
結子が降りてくるであろう階段を見るともなしに見ながら、昨日の事を不意に思い出した。
午前七時に目が覚めて、特に用事もないから本でも読もうかな。とベッドの横にある本棚に手を伸ばしロバート・A・ハインラインの夏への扉かウラジーミル・ナボコフのロリータのどちらにするかで迷う。
どちらも何度も読み返した作品で内容は知っているが、特に用事もない一日を漠然と過ごすにはそういう本を選んだ方が今日という日を漫然足らしめることに繋がるとなんとなく思ったのだ。
五月後半梅雨前の気候に気持ちを引っ張られたのか気付けば手に取っていたのは夏への扉で、でも夏への扉って冬になると猫のピートがダニエル・ブーン・デイヴィスへ家にある十一の人間用の扉を開けろと脅してその扉のどれかは夏に通じていると信念を貫くところからこの題名なんだろうな。という事は全然五月後半梅雨前の気候なんて関係ないんだけど気にしない。
夏への扉を読み進める途中でいつも感じることが二つあって、一つ目はなぜ俺は一九七〇年にこの世に生を受けていなかったのかということ、そして二つ目は猫はジンジャーエールを飲んで美味しいと感じるのかということだ。
夏への扉で描かれる一九七〇年はハインラインの空想であるが、ピートもダニエル・ブーン・デイヴィスもベル・ダーキンもマイルズ・ジェントリーもそしてリッキーだって、彼ら彼女らはみんながみんなしっかりとその時代を生きていた。それなのに俺はその時代を生きていない。
今二〇一七年が彼らにとっては空想であるのと同じように、俺にとっては一九七〇年が、それが現実に過ぎていった時代だとしても現実味なんて皆無で正直空想の時代としか思えない。
昔付き合っていた女の子――名前はもう忘れた――に、「あなたは現実から目を背けて生きていくのね。これまでもこれからも。ずっと。きっとそれがあなたなんだもん」と演劇じみたことを言われた時は何を馬鹿なことをと思ったし実際その女の子に馬鹿なことをと口にした。
彼女はそれ以上何も言わなかった。しかし今にして思えば彼女は俺の事をよく理解していたのだろう。当時の俺以上今の俺未満ではあるけれど。
俺は現実から目を背けていた訳ではなく、現実というものが何処にあるのか分からなくて見ようと思ってもそいつを見るということがかなわなかったのだ。
俺は夏への扉の中に存在する一九七〇年と二〇〇〇年という空想ではあるけれどしっかりとそこに存在し生きている彼ら彼女らが好きなんだ。
ちなみにハインラインは夏への扉を一九五六年に発表したらしい。
未来の物語で生きる人間を、その未知の時代を生きる人間を、文字で生かしたハインラインこそが昔の彼女が言うところの現実に背を向けない人。
もしくは現実に完全に背を向けた人。
そのどちらかなのだろう。
この答えが分からない俺は、夏への扉を読んで現実という実像の無い概念について思考を巡らすだけの哲学者を気取った大学生より程度の低い人間なのだろう。と自分自身を貶める事でどうにか自分の存在を一段階高い位置に留めることで満足している。
そんなものなので猫がジンジャーエールを飲んで美味しいと感じているのかなんて些末な問題が気になってしまう。そうこれが本来の俺が持ち合わせた人としての程度の限界なのだろう。
実際文字を目で追う作業は好きだが、文章を理解し自分の経験や知識と比較し作品から何かを感じ取ったり、言葉の欠片から美や虚無、狂気、怒り、そして愛などといった形状を目で捉えられないものを心の中に見出す作業が俺は苦手というよりは実行できないので、本当に文字の羅列がただ好きで、それを好きだと言える自分を客観的に捉えた時の俺がまた好きなのだ。
そんな風に無駄な考えで脳の一部を使ってしまう弊害として、午後二時十三分手元の夏への扉の捲られた頁数は経過した時間に比べると少ない。
しかし不思議なことに、ダニエル・ブーン・デイヴィスはコールドスリープから目覚めて三十年の時を過ごしている。本の中の時間軸と俺の時間軸を同等に取り扱うのはちゃんちゃらおかしいと思われるかもしれないが、寝ているときの時間経過が妥当だと思えない経験は誰にも起こり得ると思うし、それとこれは似ていると言えないだろうか?
結子が階段をとんとんとんとんとリズミカルに降りてくるのが見えた。
インディゴブルーのスキニージーンズに変哲のない白のブラウス。ビルケンシュトックのボストンはキャメルでとてもじゃないが三十歳を迎えた女性が男に媚びる服装とは思えない。そういう女の媚びというのを表面上では見せない結子のスタンスは嫌いじゃない。むしろ好きだといってもいい。
「おまたせ」
結子は肩より少し長いくらいのストレートヘアーで、それを結ったりすることもなく、ただただ左右の肩胛骨の上へと無造作に、それでいてまとまりを持たせた絶妙のバランスで飼い慣らしていた。
いつも思うが女性の髪の毛というのは生き物に近い。それを飼い慣らすも殺すも女性の力量次第ではないだろうか。そして、結子が立派な調教師であるのを俺は知っている。
「全然。それじゃあ行こうか」
結子が来た方とは逆方向の階段を上がって、後方に回り込んだら道沿いに進み、交差点を渡らず右に行くとすぐ王将だ。
変なイントネーションの日本語で、いらっしゃいませ何名様ですかと言う店員にピースサインで二名だと合図すると、奥に案内された。
俺と結子は奥の四人掛けボックス席の対角線上にそれぞれ腰を落ち着けた。
「それで」結子は続ける。
「一人暮らし終わりにしたってことは、実家に戻るの?」
「いや、実家には戻れないかな。家出るときに結構もめたし今更ね」
結子は一瞬心配したような表情になるが、それを隠そうとしているように曖昧な表情へ変わる。
そういったことに気付かない振りをするのも時には必要だ。女性に気を持たせようとしたことのある男なら誰でも知っている事実。
「じゃあ友達のところに泊まったりして過ごすの?」
「何日もってなるとさすがに迷惑だろうしもともと友達も少ないから、ネカフェとか漫喫に泊まる予定」
「それじゃあお金とか結構かかるんじゃない? まあ友君が自分で決めたことだから私には関係ないけど」
こういう時、本当に関係ないと思っているなら言葉には出さないものだ。
結子だってそれは分かっていて、これは駆け引きでもなく結子の家に俺が無理矢理上がり込んだという口実の為の一連の流れ。結子は俺とのセックスがこの後に起こるということを知っていて、それを心底待っているのだ。
しかしながら俺が結子と付き合う意思がないのも分かっていて、そんな男に結子自身からはいどうぞと身体を差し出すのはプライドが許さないのか、古風な女性よろしく恥だと思っているのか、それともただ単純に結子自身の理念に反するのか、詳しいところは分からないし知ろうとも思わないがなんにせよ良しとはしないのだろう。
今日も俺は、結子が駄目だと言っているのに無理矢理家に上がり込んで、駄目だと言っているのに無理矢理セックスを強要する男を演じるだろう。
あと、携帯の充電をするのを忘れない。
実際これが一番大事だなんてことは口が裂けても言えないし言わないけれど。
店員が注文を取りに来たが「決まったらまた呼びます」と結子が告げると店員はさっさと厨房の方へと戻っていった。
結子がメニューを眺めながら左手で親指の腹に人差し指と中指を交互に、リズミカルに、しかしゆっくりと、繰り返しとんとんとんとんと当て続けている。
俺は結子の所作に見え隠れするリズミカルなとんとんとんとんが果てしなく好きで好きで何分でも何時間でもとんとんとんとんを見ていられるそんな気がしてならない。
ジーンズのポケットに入れている携帯電話が何度も震えたがしらんぷりを貫き通した。
――――
結子の家で一晩過ごして、俺の持ち物からコンドームが二個減って残数が一個になったが、その代わりに携帯の充電はフルになった。
結子がベッドから起き上がり台所の方に向かう後姿を見て、寝起きでも髪の毛が四方八方に散らばらずにまとまっているのはいやはや見事で感心する。
やはり彼女は立派な調教師だ。
「なにか食べる?」
結子がこちらに一瞥もくれずに言う。
「いいの?」
「別にいいけど」
「ありがと」
「どういたしまして」
念のための確認や念のための感謝。
なくてもいい言葉。
俺たちはこれで少しその場の雰囲気を和まし、少しの寂しさを紛らわし、そして、少しの充足を得る。
こういった作業が俺たちには必要なのだ。
そんな気分の悪くない朝。
人間なんて無駄な時間の連続を日々過ごしているんだから、今日はいつもよりゆっくりと無駄な時間を満喫しよう。
ベッドサイドのスツールに置いてあるリモコンを手に取ってテレビの電源を入れる。天気予報をしていたので今日の天気が気になったが、天気予報はもう終盤でお天気アナウンサーの女性のトークしか聞くことは出来なかった。普段俺はテレビ――バラエティ番組やニュースなど全て――をあまり見ない。別に理由なんてないがその時間で本を読んだり映画を見たりしている方が好きだ。でもたまにこうやってテレビと向き合ってみるのもなかなか楽しいものかもしれない。
その後は芸能人の誰々が何々をしただの社会情勢がどうだのと、俺が住む世界とは違う世界の話にしか聞こえない。
そんな内容が続いたのでぼーっとしていたら占いのコーナーが始まった。
星座占いだ。
俺は十二月二一日生まれの射手座。
順位は九位。
時は金也。
過去に囚われず、今をしっかり見据えて行動しましょう。
気分の悪くない朝だって気分が悪くなるそんな九位の射手座に生まれた自分を憎んだ。
「友君、九位って微妙だね」
「微妙なんてもんじゃないよ、まったく」
「そんな怒らないでもいいじゃん。占いなんて信じてないでしょ、もともと。こんなの当たらないって前に私に言ったよね? 私結構占いとか好きなのにさ。はい、たいした物じゃないけどこれでも食べて元気出して」
結子はミニテーブルの上に目玉焼きとウインナー、サラダ、トーストが乗った皿を置いてから一旦台所に引き返して、見覚えのないマグカップにコーヒーを注いだ。そしてこちらに戻ってきてミニテーブルの上にそのマグカップを置いた。
何度も結子の家には来ているがやっぱりこのマグカップは見たことがない。
「新しいマグカップ買ったの?」
結子は再度台所に引き返して自分の目玉焼きとウインナー、サラダ、トーストが乗った皿を手に取った。
「あっ、新しいやつって分かった? でもこれは貰ったの。なんか職場の後輩の子が私に似合いそうだからって」
どことなく嬉しそうな表情。
「それ、男?」
これだって念のための確認。
俺はなんでそれを確認しなければいけないのか考える。
結子に男がいたとしてもそんなの俺には関係ないじゃないか。俺には結子と付き合う意思がない訳だし当然これからも付き会おうと思うことはありえない。
いや、なんでそんなことが分かる?
これからのことなんて分かる訳がない。なぜなら俺は今この時間すら曖昧に過ごしているんだから。
「ううん、女の子。めっちゃかわいいよ。興味ある?」
なぜか俺はほっとしていた。
「いいね、かわいい子。好きだよ、かわいい子」
悟られまいとするがこういうのは隠そうとすればするほど浮き彫りになってしまうものだ。
「友君、なんかかわいい」
そしてそれを見逃さないのが女ってやつだ。
「うるさい」
結子の口を塞いだ。俺の唇を押し当てて。結子は手で俺の二の腕の辺りを押して、体を、口を、離そうとする素振りこそ見せはするが力はあまり入っていない。
もしかしたらこのまま目玉焼きとウインナー、トースト、コーヒーは冷めてしまうかもしれないし、サラダに入っているレタスは少しくたっとしてしまうかもしれない。
寝起きでも一回くらいは全然出来る。コンドームだってまだ残っている。九位射手座の俺の運気を少しでもあげてくれ。蟹座の結子は一位だったんだから。
コーヒーのにおいが部屋に充満しつつある中、結子は俺の二の腕に当てた手の指をとんとんとんとんやりだしたので、一層気持ちが昂って仕方がない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます