#3

 シオリは本革のソファに身を沈めていた。見るからに座り心地の良さそうなソファは、読書以外のことには無頓着なシオリがこだわった逸品だ。だがその逸品も読書の質の向上を求めて、座り心地の良いものを選んだに過ぎない。

 しかし、今シオリは読書の為にソファに身体を預けているわけではない。

 完全に脱力し、気を緩めていた。今日はかなり大変な一日だった。男の子とのプールということで、かなり気合を入れて臨んだのだが、シュミレーション通りにはいかないものだと嘆息する。

 気合いを入れてビキニまで新調したというのになんで上着を脱がなかった!? シオリは心の中で自分を叱咤しったした。

 でもプールで肌を晒さなかったのは正解かもしれない。

 ノースリーブとは言え、人前で肌を晒すだなんて恥ずかしい。それに肌もひりひりする。シオリは普段外出などしないので、日焼け止めなど常備する必要などなく、今日も日焼け止めを塗ることなく外出した。日が沈み始めていたとはいえノースリーブで直射日光を浴びたのは間違いだった。

 今までに経験したことないような気怠さがシオリを襲う。

 この気怠さの原因は体力的なもの? それとも、精神的なもの? どちらにしても今日はもう寝よう。何も考えたくない。万引き事件の謎も解けたことだし……。


 身体の力が抜けて行く。それにしたがってソファにより深く身体が沈む。と同時にシオリの意識も深く沈んでいった。

 


 日曜日。シオリはスマホに送られてきたLINE(ライン)で起きた。

 睡魔が瞼を固く閉ざし、意識が完全に覚醒するのを妨げる。

 欠伸を噛み殺して大きく伸びをする。ポキポキと背骨なのか脇腹なのかよく判らない場所から音が鳴る。足を伸ばすとピキンと電気が駆け抜けた。見事に攣った。それから十分ほど悶えて、痛みが引くのを待ってから、LINEを見る。フミハルからだった。

 

『万引きの件なんですけど、あの後アキラと考えてみたんですけど全然わからなくて……』


 シオリは脹脛ふくらはぎを左手で揉み解しながら、右手でスマホを操作して『今から書店行く』と返信。ことの真相を打ち込んでもよかったのだが、怠い。口頭で伝えた方がいいだろう。でもこれから書店に行くのもかったるい。

 窓から差し込む陽射しはシオリをより憂鬱にさせた。

 それでも行くと言ってしまった以上――言ってはいないのだが――書店へ向かわざるを得ない。

 意を決して重力に逆らって立ち上がる。

 再び電気が駆け抜ける。

 もう片方の足まで攣ってしまった。日頃の運動不足のツケがこんな形で回って来るとは――。


 シオリが家を出たのは、それからさらに一時間後のことだった。


   ***


 冷房の効いた店内には、シオリとフミハルの二人以外に客はいない。その他には店主とバイトのアキラの二人。

 シオリとフミハルの姿を確認してアキラが手を振る。


「昨日はどうもすませんでした」


 その言葉は主にシオリに掛けられたもので、フミハルには何の労いも謝罪の気持ちもないらしい。同級生に対する想いなんてそんなものだ。対してシオリは学生ではなく社会人だ。加えて目上の人間でもある。そう考えればフミハルとの対応の違いにも頷ける。

 だが、ムカつくことに変わりはない。

 

「……気にしなくていい」

「元気ないですね?」

「うん、ちょっと昨日アクティブに動き過ぎたから……その反動で」


 アクティブ……。フミハルは昨日のシオリの様子を思い出す。

 アクティブだったと言われればアクティブだったが、書店で万引きという事件が無かったなら、あのまま市民プールで丸一日本を読んで過ごしていたに違いない。

 アクティブだったのはほんの小一時間程度だったはずだ。そんな短時間でここまで疲労するものだろうかと思ったが、超が付くほどのインドア派のシオリであれば無くはない話だとも思った。

 

「おい、いいから聞けよ」

「ん、おお、そうだな」


 フミハルはアキラを小突いて耳打ちする。


「それで棚本から連絡来てると思うんですけど……その服に似合ってますね」


 アキラは話をすぐに脱線させる。

 確かにシオリの今日の服装も可愛い。

 純白のワンピース。裾に施されたレースも可愛いし、何よりそれを完璧に着こなすシオリは清廉な人なのだ。故に白がよく似合う。その完璧な着こなしには脱帽するほかない。

 しかしそれ以上に今聞かなければならないことがあるだろう。


「……ありがと。嬉しい」


 シオリが優しく微笑み、照れながら頭を掻く。

 なっ!? か、可愛い!!??

 フミハルは軽いパニック状態に陥った。

 何だこの可愛い生き物は! こんな可愛い姿が拝めるのであれば、万引き事件なんてどうでもいい。

 何故逢って早々に褒めなかったんだ。フミハルは何度も自らを叱責した。後悔先に立たずとはまさにこのような状況を指すのだろう。

 

「俺もそう思ってました!」

「棚本、遅い」

「なっ!?」


 さっとフミハルから視線を逸らすと「そんなことよりも」とシオリは話を本筋に戻す。

 店内を見回しながらシオリはコミックコーナーへと向かって歩き始める。

 フミハルとアキラも続いて歩く。


「昨日、万引き犯が犯行を中止したのには理由がある。

 犯行を躊躇ちゅうちょするような状況にあったと言うこと。でも、それが何なのかは昨日の犯人の映像を見ただけではわからない」


 確かにシオリの言う通りだ。

 昨日の防犯カメラの映像だけでは、犯行を中断した理由まではわからない。

 しかし、シオリは自信満々に――表情は見えないが確信を持った口調で断言した。


「あの時、店内にはもう一人いた。万引き犯が」


 シオリは共犯者の存在を示唆した。

 昨日、万引き犯が店にやってきてから、フミハルとアキラが防犯カメラで犯人の行動をつぶさに観察している間も、シオリは別の防犯カメラ映像食い入るように見ていた。

 フミハルとアキラは頭を捻るばかりだ。

 乱立する疑問符をシオリが一つずつ打ち消してゆく。


「昨日、万引き犯は万引き寸前に急に犯行を中止した。それは防犯カメラを見ていればわかったと思うけど、もし単独犯であれば、もっとさり気なく犯行を中止したに違いない。あんなに挙動がおかしくなるはずないもの」


 確かにとアキラが相槌を打つ。

 

「つまり、共犯者から突然犯行中止のサインが出されたのよ。でも実行犯はどこで問題が発生しているのかわからないから戸惑う。もう目の前にブツはあって、ものの数秒で万引きは完了するのだから。

 たとえ万引きに成れているとしても何度も同じ店に万引きには来づらいはず。さらに言えばさっさとことを終えて店から出てきたいはず。もう一度万引きをするリスクは冒したくはないでしょうから」

「シオリさんが言う通り共犯者がいたとすれば、なんで共犯者は犯行を中止したんでしょうか?」


 フミハルの問いにシオリは間髪入れずに答える。


「理由は簡単。共犯者は昨日の犯行は成功しないのを知っていた――知ったと言うのが正しいかしら?」

「なんで失敗するんですか?」

「だって昨日は私たちが防犯カメラを見ていたでしょう」

「でもそんなこと犯人は知り得ないでしょう」

「そんなことはない。だって昨日、私たちがこの書店に来ていることを知っている人間が私たち以外にも一人いたから」


 フミハルとアキラは沈黙の後、「あっ……」と声を漏らした。

 そしてシオリは『追撃の巨神』を一冊手に取ると何かを確認。コミックを元々あった位置に戻して、


「共犯者が来るのを待ちましょう」


 そう言ってフミハルとアキラを従えてコミックコーナーから離れた。

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