さらば孤高の黒龍、Aya
いすみ 静江
第一章 聡明のアクアマリン
第一話 AyaとKouのアリア
二〇三三年七月、表は、偶然の雨が降っている。
「
Ayaは、『G線上のアリア』を奏で始める。
バイオリンは、ストラディヴァリウスの一七〇〇年代初頭のもの。
アントニオ=ストラディヴァリの油の乗っている時期だ。
Kouは、クッションのきいた緋色のソファーで空のグラスを回しながらひたっていた。
Ayaの指使いとボーイングが調べに華やかさを与える。
弓に与えた松脂がリズミカルにKouへと届く。
こんなに近くに二人が息づくのも久し振りだ。
「相変わらずだな、Aya」
KouはAyaを見つめた。
Ayaは、透き通った肌をよく隠す。
黒以外を身にまとわず、大抵はドレッシーだ。
瞳も吸い込まれそうな黒にして、髪はぬばたまの黒い海を広げたように長いが、編み込んで左右に結い、少し垂らしている。
「艶っぽく物憂げでいて力強い。流した目元が際立っている。俺より少し若いのにな」
Kouがひたっているのは、調べではない。
可愛い仕事の相棒、Ayaにだ。
「Kouも相変わらずだわ。久し振りでも変わらないのね」
Ayaが肩でバイオリンを支えたまま、すっと視線をKouにやる。
Kouは、瞳がアンバーで物静かだ。
髪も明るい茶でゆるいウェーブがかかっているのを襟足よりも長く伸ばしている。
鼻筋がすっと通っており、目元は涼やかだ。
仕事の時は、和服は着ない。
今は、ブラックジーンズにワイシャツのシンプルなスタイルだ。
「大人しく目立たないだけだとKouは認めるけれども、私とさほど年が離れていない筈なのに、やけに大人っぽいわ」
独奏は美しく盛りを得ていた。
「俺、もう三十路なんだ」
「冗句がお上手。二十二歳だってパスポートに書いてあったわよ」
「Aya、女性の年齢を訊かれたくないだろう。黙っておくものだよ。外は雨だ。静寂の中、聴かせて欲しい」
Ayaは、涼しい顔で、Kouの喉元を眼光で撫でた。
「よしなさいね」
手厳しいKouに、いちいち負けていられない。
「これは、リュウ・アサヒナからのオファーだ」
◇◇◇
七月十日の日曜日、世界的バイオリニストのリュウ・アサヒナからの依頼を情報屋、Kouが受けていた。
誰もいない高層ビルのエレベーターが地上四十二階で止まる。
ドアが開くと、背筋の伸びた
一人の背広を着た男性が乗り込み、ドアが閉まって階下へ動き出すのを見計らい、口を開く。
「私が、Kouですが」
「おお! 貴方が! 慣れないことで緊張していました。私のバイオリン達を守って欲しい。家の鍵や書斎の裏にある隠し部屋も開放しよう。報酬は、前渡しで。言い値で構わない」
「分かった。次の階で別れよう。朝比奈竜様は地上三階で降り、そのまま喫茶店に入って欲しい」
Kouは、報酬と鍵を受け取り、足音もたてずに地下駐車場で消えた。
情報屋、Kouは、仕事仲間、コードネームAyaにコンタクトを取る。
それは、インターネットやスマートフォンなどを使わない。
「日本は、蓮の花盛りだわ。ああ、小さな子は、朝顔なども育てているのでしょうね」
Ayaは、上野の界隈を時折佇みながら歩いていた。
しばらくして、花を潤すにわか雨が降り出す。
近くのパンダぬいぐるみ店の軒下を借りることにした。
「ふう……。七月も冷えるのね」
体を震わせて縮こまり、ぐっと体に力を入れて寒さを忘れる。
気が付けば、隣にも軒下で雨宿りする者がいた。
Ayaの身長は一六四センチもあったが、隣の男性は身の丈が十数センチ高い。
「世界中を探しても、Ayaとは逢えない。だが、こうして白雨の中で、俺達は出逢う」
「そうね……。それが私達」
Ayaが、Kouに髪や肩を拭こうとハンカチを手渡ししようとした。
世界の方々を旅している内に、白雨の中、際遇するのが常だから、携行しているハンカチやタオルは色々とある。
「今はいい」
断られてしまうのもいつものことだ。
依頼内容はKouの手紙として、Ayaへ渡す。
「今日もラブレターをありがとう」
必ず、微笑んで受け取る。
「ん……。世界的バイオリニスト朝比奈竜が、オペラ歌手の妻、
Ayaは、両親が心配するような子で留守を頼めないのかと思った。
しかし、依頼内容に、朝比奈麻子のお世話までは入っていない。
「後、幾日かすれば、依頼人はロイヤル・フェスティバル・ホールで拍手喝采を浴びているだろうな」
Kouは、空の雨粒が落ちなくなったのを掌で確認して、Ayaを連れ出した。
水たまりをよけて軽快に歩む。
「今回の内容は、朝比奈麻子では頼りないからでしょう。バイオリンコレクションの死守ね。Kou、後から来てくれない?」
Kouが、ほのかに口元に笑みを浮かべた。
「気が向いたらな」
◇◇◇
依頼の日、十五日の金曜日から、皆が留守の間にAyaは朝比奈家に堂々とお邪魔した。
Kouに来て欲しがるAyaに、彼は何か重大な秘密でもあるのかとの残念な思考になっていた。
しかし、今はこうして、『G線上のアリア』が時を紡いでいる。
どうにも、スマートに迫られるとKouは困った。
アリアは、叙情的にAyaのハートを突き動かし、告白以上の熱情を上げている。
朝比奈家の隠し部屋に保管されているのは、五挺のバイオリンで、いずれも依頼人が手放したくないらしい。
マーケットに出ることを危惧しての留守番だ。
温度と湿度の管理とマスターキーを任されている。
隠し部屋の中に防音室がある。
一台のピアノとバイオリン用の譜面台が、依頼人夫妻を想起させた。
今、譜面台にはどの曲も飾っていない。
「いい部屋ね」
Ayaは、弓を柔らかに終え、ヨハン=セバスティアン=バッハの『G線上のアリア』をKouに贈った。
もう直ぐ一週間が経ち、依頼人が帰国する。
AyaはKouといつまでも一緒にいられないのを知っていた。
いつだってそうだ。
こんな甘い時間は過ごせない。
「Aya。台湾へ行くかい?」
防音室を出て、各バイオリンのチェックをしていた。
弓は張りすぎてはいけない。
松脂も丁寧に塗って、摩擦係数を大きくし、音量をしっかりと出せるようにする。
「ノーと言う訳ないわ」
バイオリンをショーケースにしまった。
黒髪を揺すったAyaが横顔で微笑む。
表は再び、にわか雨が七月の地面を濡らした。
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