第3話「青いランドセル」前編

 木曜、三時間目の体育の授業は、ぼくの十一年強の人生のなかで、ワースト1だと言ってもいい。

 梅雨の真っ只中の六月末、かろうじて雨は降っていなかったが、湿度は限りなく百パーセントに近い。昨日の雨でぬかるみの残ったグラウンドで、昨年度から男子の体育を担当している春岡はるおか先生によって、あろうことかドッジボールをさせられた。

 男子の八割以上は大喜びして、歓声を上げた。わざとぬかるみに跳び込んではしゃいでいる生徒もいた。

 が、ぼくには苦行以外の何ものでもない。

 ぼくは運動神経が人一倍鈍い。そして〈御器所ごきそ組〉組長の長男である御器所ごきそはじめに対して、ボールの集中砲火を浴びせたり、わざと泥の中にコケさせたりする生徒もいない。

 ドッジボールという競技は、ぼくにとって地獄だ。ぼくは必要以上に疲れ切って教室に戻った。

 体育は六年生全四クラスのうち、二クラス合同で行なわれる。四組のぼくたちは、三組と一緒だ。男子は三組、女子は四組の教室に移動して着替えることになっている。

 見事に全身くまなく泥だらけになった不老ふろう翔太郎しょうたろうが、同じく泥まみれの顔面に笑みらしきものを浮かべて、ぼくに近づいてきた。

「おやおや、御器所君はずいぶんとスマートに立ち回ったんだねえ」

 なにが「おやおや」だ。が、この男にとって、決して皮肉でも何でもないのだろう。

「不老こそ、頭から水浴びてきたほうがいいんじゃないの?」

 ぼくが言うと、不老は怪訝そうな面持ちになった。

「僕の運動神経を侮ってもらっちゃ困るな」

 この男、泥水の中にヘッドスライディングしたような自分の姿に、ほんとうに気づいていないのだ。

「トイレで鏡見てきたほうがいいよ」

 ぼくはそっけなく言った。納得の行かない様子で、不老は四組の教室を出て行った。


 なぜ、女子の着替えは遅いのだろう。いつも四組の前の廊下で待ちぼうけを食らうのは、男子たちだ。

「早くしないと入っちゃおうかなぁ!」

 大声を上げたのは桜山さくらやま俊介しゅんすけだった。

 アメリカからの帰国子女だという噂は、噂ではなくほんとうのようだ。が、アメリカでマナーを学ばなかったようだ。

 結局、四時間目の始まるチャイムが鳴ってさらに五分近くたってから、女子たちによって四組は開放された。

 担任の萱場かやば先生も、この状況をわかっているのかいないのか、まだ教室に現れなかった。

 そのとき、不意にぼくの前の席の川名かわなりょうが、つぶやくように言った。

「ど、泥棒……?」

 川名亮は、背の低いぼくよりもさらに三センチほど低い。が、体重はぼくより二十キロ以上軽いので、しばしば五年生と間違えられるほどだ。

 突発的な月曜の席替えで、川名亮はぼくの後ろの席になった。この急な席替えは、萱場先生の気まぐれとしか思えなかった。

 そのいまいましい席替えのせいで、ぼくの席は、キム銀河ウナとは四列も離れてしまった。しかも、不老翔太郎と金銀河が隣同士になるとはどういうことだ。ぼくは我が身の不幸を呪うしかない。

「泥棒って?」

 ぼくは、小声で川名に訊いた。

 すると、川名はびくっと一瞬、震えた。

 川名亮がぼくに対して一種の恐れを抱いていることには、気づいていた。五年生のときから同じクラスだが、今までまともに会話をしたことがないし、川名から話しかけてくることもなかった。

「いや……何も盗られてないみたいだし……勘違いかなぁ」

「じゃ、どうして泥棒だって思ったの?」

「いつもランドセルの蓋、ロックしないんだけど、今見たら、してあった……」

 ぼくたちの学校では、ランドセルは自分たちの机の横に引っかけるようになっている。なんとなく慣習として、机の右側――もっとも右の列のみ左側に――引っかけてぶら下げることになっていた。

 川名の言う「ロック」とは、ランドセルの蓋を閉じて底部の金具をはめ込み、九十度回して固定することだ。誰だって無意識的にふつうにやっている。

 ぼくは川名亮のランドセルを見やった――青色のランドセル。

「今日に限って、ロックしたとかいうことは?」

「そんなこと……ない……んじゃないかな」

 自信なさそうに、川名は言った。

「あ、そういや、俺も俺も!」

 唐突に、背後から声が上がった。

 いつの間にか、ぼくと川名の会話が聞かれていたらしい。身を乗り出してきたのは、桜山俊介だった。

「ほんとうに?」

 どうも、このお調子者は信用できない。

「ホント、ホント、川名と一緒。いつもは開けっ放しだけど、今はランドセルが誰かに締められてた」

「それ、間違いないの?」

 不意に口を挟んできた女子は、もちろん――と言うべきか――金銀河だった。

 桜山は、急にしどろもどろになった。

「べ、べつに、何も盗まれてないみたいだけど……」

「『みたい』じゃダメでしょ。ちゃんと調べなさい」

 金銀河は、クールに言い放った。

 このクラスで、いや学年で、いや全校で一番の美人であり優等生である金銀河が発言したことで、一気に六年四組の教室全体が騒然とし始めた。

「ホントに何も盗られてないんだよ。だからさ、俺のことは心配しないで――」

 にやにやしていた桜山も急に真顔になっていた。

「べつに桜山君を心配してないけど」

 金銀河は表情ひとつ変えずに答えた。一瞬で、桜山の表情が固まった。

 学校に、財布や携帯電話を持ってきている生徒もいる。ぼくもその一人だ。貴重品は、体育の時間には先生が大きな袋に入れて保管することになっている。けれど、なかには面倒くさがってランドセルや机の中に入れっぱなしにしている生徒もいるかもしれない。

「泥棒がこの教室に入って、盗るものがなくてそのままこっそり逃げた……ってこと?」

 自分の考えが、意図せず口から外へ飛び出した。どうやらぼく自身も「不老ウィルス」に感染しつつあるのかもしれない。

「ちょっと御器所君」

 突然、金銀河がぼくに可愛い――というよりも綺麗な顔を向けた。でも、その眼は笑っていない。今の気温と違って、とても冷ややかだ。

「二人とも『ランドセルを開けられた気がする』としか言ってないじゃない? 泥棒とやらが侵入した証拠はどこにあるの?」

「あ、あの、それは、えーと……」

 駄目だ。もう舌が突っ張ってしまった。いつだって、金銀河の前で堂々と胸を張って発言なんかできない。

「あの……俺も、開けられたかも……」

 さらに声を上げた生徒がいた。徳重とくしげ直紀なおきだった。

「えっ、徳重君も?」

 金銀河が身構えた様子で言う。

「いや、今日じゃなくて、火曜の体育のときだったんだけどさ……」

「火曜日……どうして火曜日なの?」

 ぼくよりも先に、金銀河が問い返した。

「そんなの、わかんないよ……やっぱり体育の時間のあと、ランドセルを誰かが荒らした感じだったんだ……」

「やっぱり、『感じ』に過ぎないじゃない」

 金銀河に言い返せるような男子は、ほとんどいない。徳重もまた同様だった。

「俺……結構、几帳面なんだよ。教科書を机に入れたあと、ランドセルに連絡帳だけ表紙を上向けに入れてるんだ。けど火曜日は、体育のあと戻って来たら、連絡帳が裏返ってた」

 言い訳めいた様子で徳重直紀が答えた。

「徳重君の勘違いかもしれないじゃない? 証拠はあるの?」

「証拠って言われてもなぁ……」

 徳重直紀の声は尻すぼみになった。

「いいね、実に素晴らしい!」

 唐突に、ドアのほうから声が聞こえてきた。

 そうだ、この男が口を挟んで来ないのがおかしいと思ったのだ。

 頭を大きな白いタオルで拭いながら、不老翔太郎が、白いTシャツ一枚で教室に入ってきた。片手にビニール袋を下げている。たぶん、汚れた体操服が入っているのだろう。

「頭を洗ったのはいいけど、タオルがないことに気づいてね、保健室で鶴里先生にお借りしたが、さすが愛媛県のタオルは吸水性が違うね。今治市のタオルの歴史というのは明治時代に遡るんだが――」

 呆れ果てた。脱力して椅子に座り込んだ。

「不老君、今、とても大事な話をしてるの。黙ってて!」

 尖った金銀河の声が耳に突き刺さる。

 が、この宇宙でたった一人、金銀河の鋭利な言葉をやり過ごすことのできる人間が、不老翔太郎だった。

「ははあ、このクラスで発生したかもしれない『窃盗未遂事件』のことだね。廊下まで、銀河さんの綺麗なソプラノは聞こえていたよ」

 金銀河が、毒気を抜かれた表情になった。

「人の声質とは面白いもので、よく通って遠くまで聞こえる声と、そうでない声がある。おそらく声の周波数帯や波形によるものだろうねえ。ほら、御器所君なんか、一メートルという至近距離でも、僕の耳には聞こえない場合が――」

 ああ、なんてこった。全校生徒でたった一人だけ、ぼくを笑いのネタにできるのも不老だ。ぼくは机に突っ伏した。

 ふと気づくと、その不老翔太郎が、ぼくのすぐ前に立っていた。

「川名君、ランドセルを見せてくれるかい?」

 その口調には、いつも以上にいらいらさせられる。川名はただ、長身痩躯ちょうしんそうくの不老翔太郎に言われるがまま、机の上に青いランドセルを置いた。

 不老は特にランドセルに触れることもなく、くるり、と教室内を振り返った。

「桜山君、徳重君、何者かによって勝手に開けられていたという、諸君らのランドセルを見せてくれるかな」

 一瞬のためらいのあと、二人がランドセルを持ち上げた。

「え、どういうこと……?」

 金銀河がつぶやいた。ぼくも眼を疑った。

 川名、桜山、徳重――三人のランドセルは、すべて青色だった。


「誰も何も盗られてない、っていうのが不思議ね」

 放課後の廊下で、キム銀河ウナが言った。腕組みをして遠くを見上げる金銀河の姿は、とても小学六年には見えない。

「まだ犯人は、目的の物を見つけていないのかもしれないよ。まだ事件は続く可能性があるんじゃないの?」

 ぼくが言うと、不老は大袈裟に肩をすくめた。ぼくに視線すら向けない。金銀河もまた、遠くを見つめたままだった。

 ぼくは続けた。

「犯人は、何かお宝が青いランドセルに隠されていることを知っていた。ランドセルの持ち主本人も知らないお宝が。でも犯人は、それが誰のランドセルなのかを知らなかった。そこで、誰もいない体育の時間を狙って青いランドセルのなかを探した……って、考えられないかな?」

 沈黙――なぜ、この状況で二人とも黙り込んでしまう?

 そうか、やっぱり、ぼくは調子に乗ってしゃべりすぎてしまったみたいだ。

 ホントに、ぼくはいろいろな真実に気づくのが遅い。言い換えれば「どんくさい」のだ。ついつい調子に乗ってしまった。以前のぼくならあり得ない。

「ほう、事件は続く、ね。僕はまったく逆のことを考えていたよ」

 表情ひとつ変えず、不老は言った。

「逆に今日、御器所君の言う『犯人』が、川名君か桜山君のランドセルから『お宝』を手に入れてたかもしれない。ならばもう終わりじゃないのかな」

「どっちにしろ、犯人を捜さないと!」

 ぼくは言い張った。

「そう、誰かが教室に入り込んでるなんて、不気味じゃない?」

 珍しく金銀河がぼくに賛同してくれた。

 が、不老は歩調を変えずに、昇降口に向かって進み続けた。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてそんなに無視するんだよ?」

「もっとほかに、考えるべきことがある」

「例えば、何?」

 ぼくは突っかかった。

「萱場先生は、なぜあんなに気まぐれなのか?」

 ぼくは吹き出した。

「はあ? それは、萱場先生の性格だよ」

「そうかな? 萱場先生は、何か心配事を抱えている。体育の時間は春岡先生担当だから、その時間、萱場先生はフリーだったはずだ。でも、四時間目が始まってから十分近く遅れてから、萱場先生は教室に来た」

「午睡でもしてたんじゃないの?」

 ぼくは言ったが、確かに不老の言葉は胸のどこかに引っかかった。

 思い起こせば先日、給食への異物混入事件――「五つの梅干しの種」事件が起きたばかりだ。その事件も、ほんとうに解決したのかどうか、ぼくたちはいまだに知らない。

「さらに、つい今しがたの僕らのクラスの『帰りの会』は、五分遅れで始まり、五分早く終わった。だから一目瞭然だ。六年四組以外はまだ『帰りの会』の最中だよ」

 すると、金銀河が口を挟んだ。

「確かにそうかもしれないけど、今は不審者を探すほうが大事だと思わない?」

 ようやく、不老は歩みを止めた。

「もしかしたら不審ではないかもしれない」

「どういう意味?」

「銀河さん、四組で青いランドセルを持っている生徒が何人いるか知っているかい?」

「えっ? 数えたことないけど……女子も入れると……」

「六人」

 素っ気なく、すぐさま不老は答えた。

「『ランドセルを物色された』と主張する川名君、徳重君、桜山君のほかに、熱田君、高辻たかつじさん、野並のなみさんの合計六名。クラスの五分の一が青いランドセルを使っているなんて、『青色』は人気があるんだねえ」

 熱田とは熱田あつた博和ひろかず。絵画部所属で、いつも教室では物静かな男子だ。ぼくはほとんど会話を交わしたことがない。

 高辻たかつじ美宇みうは、あまり目立たない女子だ。ちょっと茶色がかった髪は地毛らしい。いつもヘッドフォンを耳に入れて音楽を聴いているという印象がある。

 野並のなみ響子きょうこは、女子のなかでもっとも背が高い。そして横幅もまた、広い。お母さんが声楽家なのだそうだ。遺伝なのだろうか、歌がとても上手だ。うちの学校に合唱部はないので、この街の児童合唱団に所属しているという。

 不意に金銀河が手を伸ばし、不老の肩を摑んだ。そして、ぐい、と振り向かせた。ちょっと距離が近すぎるんじゃないか? ぼくは密かに焦った。

「さあ不老君、白状しなさい。何を知っているの? 何を考えてるの? 誰がランドセルを物色したのか、もうわかってるんじゃないの?」

 不老は、五十センチもない超至近距離にも関わらず、表情をぴくりとも変えず、肩をすくめるような仕草をした。

「何もわかっていないよ。僕は憶測でものを言わない。真実を知るためには、事実を集めなければならない。そして僕の持っている事実は、あまりにも少ない」

 冷静に不老翔太郎は言った。

 いや、そんなことはどうでもいい。何なんだ、このシチュエーションは? 不老と金銀河が超至近距離で――しかも金銀河は片手を不老の肩に置いて――向かい合っている。いや、見つめ合っている。

 文字通り、ほんとうに、その文字の通りに、ぼくという人間の姿は二人の視界には入っていない。なんてこった。

「僕が持っている事実――川名君たち三人がランドセルを勝手に開けられたらしい、と言っていること。そのランドセルが青色であること。最近の萱場先生は、何かにとらわれている、ということ」

「萱場先生はこの際、関係ないでしょ!」

 金銀河が割り込んだ。

「そうかな? すべての事象に偶然はない。ランドセルが全部青色だったのは偶然だと思うかい?」

「飛躍しすぎ。お話にならない」

 金銀河が諦めた様子で不老の肩から手を離し、昇降口へと歩き始めた。

「もう一つ、忘れてもらっては困るけど、偶然ではない事実がある」

「な、何が?」

 ぼくは身を乗り出した。

「青いランドセルが物色されたらしい時間は、みな同じだった、ということ」

 はっとした様子で金銀河が振り返った。

「あ、確かにそうだ。もしも御器所君の言うように、誰かが青いランドセルから『お宝』を取ろうとしているなら、体育の時間でなくていいはず。音楽なら音楽室へ行くし、理科で実験をするときには理科室に行く――」

 金銀河は、急に真顔になった。

 が、不老は金銀河の声を無視し、器用に指をパチンと鳴らした――そんな暴挙に出られる男子は不老だけだ。

「おっと、急がなければ。失敬!」

 不老は、不意に昇降口に向かって駆け出した。何が「シッケー」だ。小学六年生が使う言葉か?

「不老君、犯人がわかったの?」

 慌てて金銀河とぼくは追い駆け始めた。が、意外にも不老の足は速い。ぼくはすぐに遅れてしまった。

「その件じゃない。萱場先生だよ!」

 金銀河は、呆れたように立ち尽くした。

「意味がわかんない……」

 まったく同感だ。

「おっと、御器所君、交通費を借りるよ。一つアドヴァイスするが、学校に大金は持って来ないほうがいい」

 不老が高々と掲げたのは、樋口一葉が印刷された紙幣だった。

 ぼくは慌ててポケットを探った。財布から、五千円札が一枚なくなっていた。

 そして、あっという間に不老は姿を消していた。

 なんてこった。奴は掏摸の才能まで持っているのか。

「不老が行っちゃったことだし……その、えーと、ぼくたちだけで……」

 が、金銀河はぼくの言葉など聴いていない様子だった。素早く下駄箱へと向かう。

 そこにはまさに青いランドセルを背負った小柄な女子――高辻美宇がいた。高辻は金銀河を見ると、一瞬眼を見開くような表情になった。金銀河は、足早に高辻美宇に歩み寄った。

「体育の時間のあと、川名君たちが『ランドセルを開けられた』って言ってたでしょ」

「う、うん……それで?」

 金銀河の突然の質問に、高辻美宇はしどろもどろに答えた。

「みんな青いランドセルだった。だから高辻さんのも開けられたのかもしれない、と思ったの」

「えっ? あ、あたしのも? 全然そんなこと、な、ないはずだけど…」

 明らかに高辻は金銀河に対して緊張している。頬が少々赤くなるほどだ。

「気づかないうちに、誰かがこっそりと何かを入れたり、何かを盗ったりしたかもしれないの」

「な、何かって……何?」

「それを調べたいんだけど……いい?」

「あ、うん、銀河ウナちゃんが言うなら、いいよ」

 やや上気した表情で、高辻は背負っていた青いランドセルを廊下に下ろした。高辻美宇も、金銀河の前ではぼおっとしてしまうようだ。ランドセルの脇にぶら下がった二つの銀色のチャームがぶつかって、ちりんちりんとかわいらしい音を立てた。古代文字か何かの紋章のようなチャームだった。

 が、不意に当の金銀河ににらまれた。ぼく自身が、ぼおっとし過ぎていた。

「ちょっと! 何覗いてるの!」

「はいぃ?」

「もうっ! どうして男子って生物は、デリカシーをかけらも持ちあわせずに生まれて来るのか、進化生物学的に理解できない」

「いや、そういう難しい話じゃなくて……えーと、青いランドセルが――」

 ぼくの言葉が聞こえているのか、いないのか、金銀河はぼくを見下ろした。

「女の子の私物を覗くなんて、ホントに最低! ドスケベ! ヘンタイ!」

 ――なんてこった。

 どうして女子のランドセルの中身を見るだけで「ヘンタイ」扱いされなきゃいけない?

 ――なんて言えない。

 金銀河に面と向かって反論できれば、ぼくも多少は彼女から、まともな扱いをされるのかもしれない。しかし残念ながら、ぼくにはその度胸がない。かと言って、不老翔太郎のような超越的な鈍感さを持ち合わせてもいない。

「確かに、大丈夫みたい」

 金銀河の声が聞こえてきた。

「そ、そうだよね。誰かがランドセル触ったら、こ、怖い……」

 緊張気味に吃る高辻美宇の声も耳に入ってきた。

「あのぉ……」

 ぼくは声を挟んだ。

「……もう、いいかい?」

 コンマ二秒後、キム銀河ウナが眉間に皺を寄せて、冷徹な視線でぼくを貫き通した。

御器所ごきそ君……ふざけてるなら、帰ってくれない?」

 限りなく絶対零度に近い声。

「いや、ふざけてません……」

 硬直した舌で、ぼくはつぶやくように答えた。

「ランドセルは無事みたいね。ごめんね、引き止めちゃって」

 金銀河が言うと、高辻美宇は「うん、またね」と恥ずかしそうに言い、そそくさと昇降口から出て行こうとした。が、すぐに立ち止まると、ためらいがちに振り返った。

「あの……不老君って、もう帰っちゃった?」

 高辻美宇は小声で、おそるおそるといった様子で訊ねた。

 またその名前か。ぼくは脱力してしまう。

 金銀河もまた、その名前にぴくりと反応した。

「不老君が何なの?」

 思いの外、鋭く強い金銀河の口調に、高辻美宇がぎょっとした面持ちで、数十センチも、ずずずっと後ずさった。

 ぼくは慌てて、とりなすように高辻美宇に呼びかけた。

「あ、そうじゃなくて、何か事件とか謎とか、あるの?」

「事件とかじゃないけど……」

 そこで高辻美宇は言葉を切ると、ためらいがちにぼくたち二人を見回し、ぽつりと言った。

「金庫破りって……できる?」


 その金庫は思いの外、小さかった。白く、ほぼ立方体をしている。一片は三〇センチ弱。前面の扉の中央部に0から9までのテンキーがあり、その左側に小さなハンドルが付いている。

 その金庫を、ぼく、金銀河、高辻美宇、そして高辻のお母さんが取り囲んでいた。

「わたしの叔母さん――ママの妹なんだけど――あたしとすっごく仲良しで、二人でコンサート行ったり、旅行行ったりしてるんだ。藍子あいこ叔母さんっていうんだけど、フリーライターやってて、あちこち飛び回って、すごく物知りだし、面白い人なの。叔母さんからのプレゼントがここに入ってるんだけど、どうしても開けられなくて……」

 ぼくたちは、高辻美宇の家に招かれた。

 金庫は、高辻美宇の勉強部屋の壁際に置かれている。背後の壁には、大きなポスターが貼られていた。五人の細身の若い男が立っている。どうやら、ぼくの知らないKPOPアイドルのようだった。もっとも、ぼくは男女問わずアイドルにせよ芸能人一般をよく知らないけど。五人の誰一人として、黒髪ではない。そして五人とも化粧をしていて、「カッコイイ」というよりは「キレイ」と形容されるような、中性的な男子たちだった。よく見ると部屋のそこここに、このアイドルのグッズや、読み方のわからないアイドルの名前が蛍光色で書かれた団扇などが飾られている。学校ではおとなしい高辻美宇の、意外な一面だった。

「ごめんなさいね、美宇がへんなことお願いしちゃって」

 高辻美宇のお母さんが言いながら、お盆からジュースをぼくたちに渡してくれた。ずいぶん若いお母さんで、大学生くらいに見えた。ヘビメタ・バンドのTシャツにジーンズ姿。ぼくは一瞬、高辻美宇のお姉さんなのかと思ったくらいだ。

 ぼくはジュースを受け取ると、すぐさまストローで一気に、コップの三分の二を吸引した。推理のためには糖分が必要なのである。

 高辻美宇の話をまとめると、こんな感じだ。

 藍子叔母さんと高辻美宇は、ともにKPOPアイドル・グループ、略称〈GG〉のファンだった。藍子叔母さんは、そのメンバー全員のサインの入った、レアなTシャツを手に入れることができたのだという。

 ――これは美宇ちゃんにプレゼント。ただし、条件をクリアできたらね。

 藍子叔母さんは言ったという。藍子叔母さんは、ライターとしての取材のために、二週間ほどフランスへ行くことになっていた。叔母さんがフランスから帰ってくるまでに、サイン入りTシャツを入れた金庫を開けることができたら、Tシャツは高辻美宇がもらってもいい。しかし、開けることができなかったら、Tシャツは藍子叔母さんのものになってしまうのだという。

 ――美宇ちゃんだったら、絶対に開けられるはずだよ。

 そう藍子叔母さんは言った。

「藍子叔母さん、番号を教えてくれたんだ」

 高辻美宇は、そう言って勉強机に敷いたデスクマットの下から、一枚のピンク色のメモ用紙を引き出して、ぼくと金銀河に見せた。

 4913

 メモにはそう書かれていた。

「この金庫って、四桁の暗証番号を入力して開けることになってるの。でも、十回連続で間違った番号を入力すると、完全にロックされて、二度と明かなくなっちゃう。金庫のメーカーに持って行って、開けてもらわないといけないんだ」

「なるほど、スマートフォンのパスコード・ロックと同じね。でもほら、鍵穴があるよ」

 金銀河が金庫を指さした。確かに、テンキーとハンドルの間に、小さな鍵穴があった。

「暗証番号を忘れたときには、鍵で開けることもできるんだけど、その鍵は藍子叔母さんがフランスに持ってっちゃった」

「ほんとうに、妹も子どもっぽいことをするんだから……」

 高辻美宇のお母さんが、呆れた様子で両手を腰にやって、金庫を見下ろしていた。

「叔母さんが帰ってくるのは、明後日。それに、暗証番号は八回入力しちゃったから、あと二回しかチャンスがないんだよ」

「業者に持って行くしかないんじゃないかなぁ」

 ぼくがつぶやくと、高辻美宇はかぶりを振った。

「それはルール違反。あたしの負けになっちゃう。サイン入りTシャツがもらえないよ」

「4913っていう番号自体が間違ってるってことはない?」

 金銀河が訊ねる。手にしたジュースはまだ飲んでいないようだった。飲まないんだったら、ぼくにくれないかな、と思ってしまった。

「そんなはずないよ。ちゃんと何度も繰り返して聞いてメモしたんだから」

「じゃ、念のためにもう一度、叔母さんに訊いてみたら?」

 ぼくが訊くと、高辻美宇はかぶりを振った。

「それもルール違反」

 そう言ってから、ふと高辻美宇が怪訝そうな面持ちになった。

「でも考えてみればヘンだなぁ。藍子叔母さん、ちゃんと暗証番号を教えてくれたのに、〆切りとかルールとか作るなんて……なんかトリックというか、仕掛けがあるのかも」

「数字に秘密があるのかな……」

 ぼくはつぶやき、コップに残ったジュースを飲み干す。糖分よ、ぼくの虹色の脳細胞に行き渡ってくれ。ぼくは両手の指先をあわせ、じーっと金庫をにらみつけた。

 何も浮かばない。

 それに、今の自分の姿をどこかで見たことがあるような気がしてきた。いったい誰だったろう……と思案して、すぐ気づいた。

 ――不老そっくりだ。

 がっくりと落ち込んでしまう。どうしてぼくが不老なんかの真似をしなきゃいけない?

「4913以外の番号も打ち込んでみたんだよね。どの数字を試したか、覚えてる?」

 金銀河が訊くと、高辻美宇は恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めた。

「あ、ごめん、銀河ちゃん。覚えてないよ」

 そこまで恥ずかしがる必要はないのに、と思いながら、ぼくは訊いた。

「四つの数字の並ぶパターンって、何通りできるんだっけ?」

 ぼくが言うと、金銀河が冷え冷えとした視線をぼくに突き刺してきた。

「二十四通り。そのくらいすぐ暗算できない?」

「はぁ……」

 ぼくの虹色の脳細胞には、まだ糖分が浸透してないようだった。頭を抱えたくなる。

 タイムリミットは二日後、そしてチャンスは二回だけ。あまりに厳しい条件だ。

「不老だったら……」

 我知らず、口を衝いて出てしまった。慌てて口をつぐむ。そのセリフを聞いたのか、金銀河は一瞬だけ冷ややかな視線をぼくに向けると、やおら携帯電話を取り出した。何度か操作した金銀河の表情が、ぱっと輝いた。

「すごい! 4913って、立方数なんだ!」

「えーと、リッポースーって、何だったっけ?」

 ぼくが怪訝に訊くと、脇から高辻美宇が口を挟んだ。

「三つの同じ数字が掛け合わされた数ってこと」

「あらほんと、4913は、17の三乗になってる。やっぱり特別な数なのね」

 高辻美宇のお母さんが金銀河の携帯電話を覗き込み、感嘆したように言った。

「でもママ、4913を入力しても、金庫は開かなかったじゃん」

 高辻美宇が少し口を尖らせた。

 ここでまた、ぼくたちは黙り込んでしまった。

「ちょっと時間をくれる? 叔母さんの言った『美宇ちゃんなら開けられる』って言葉が、きっと手がかりになると思うんだ。美宇ちゃんのために叔母さんが選んだ数字、見つけてみせるから」

 金銀河が思いきったように言った。高辻美宇は照れたように、また顔を赤くした。

「ううん、ごめん。もういいよ。今日と明日、考えてみてわからなかったら、諦める。銀河ウナちゃんたちは、ほら、青いランドセルの事件を解決しなきゃいけないじゃん?」

 そうだった。ぼくたちはもう一つ大きな謎を抱えているのだった。


 もしかしたら金銀河と二人並んで帰ることができるのではないか、というぼくの目論見が見事に外れた。大事な用事があるとのことで、高辻美宇の家を出ると、素っ気なく私鉄の駅へと向かってしまった。

 4913、4913、4913……

 脳内でつぶやく。

「ヨクイサン? シクイサン? ヨクイミ?」

 語呂合わせしか思いつかない。ぼくは算数が嫌いではないけれど、得意とは言えないし、そもそも数字をじっと見ていると睡魔が襲ってくる。大好きな本格ミステリ小説を読むときには、論理的な思考を楽しんではいるのだが。

 ――考えろ。

 気を取り直し、自分の脳味噌を「青いランドセル事件」に向けることにした。

 その一、今まで犯人は青いランドセルだけを狙っている。

 その二、事件はすべて体育の時間に起きている。

 その三、この事件の鍵を握る一人は、萱場先生である。

 じゃあ、ぼくはまず、何をすべきだろうか? 不老だったら――と思いかけて、頭を左右に振った。

 洗濯機で脱水するかのように、不老の顔を振り払った。

 体育の時間中、教室に侵入できる人物は誰だろう?

 生徒たちは授業中だ。けれど、トイレに行くフリをして教室に入ることはできる。

 ――けれど、なぜ体育の時間に限るんだろうか?

 そのときだった。

 ぼくの虹色の脳細胞に、電撃が走った。

 先生だ。

 授業のない先生なら、教室に出入りするのは簡単だ。では、どの先生だろう?

 またしても、脳細胞に電撃。

 ――萱場かやば先生。

 理科室の実験の授業は、萱場先生が行っている。音楽室での授業は、音楽専門の高岳先生と一緒に萱場先生も授業をする。

 しかし、体育の授業は違う。ぼくたちが春岡先生にしごかれているあいだ、萱場先生は授業をしていない。萱場先生になら、チャンスがある。職員室から出て、教室に忍び込み、青いランドセルに隠された「お宝」を探すのは容易だ。

 いや、ほんとうに萱場先生はランドセルの「お宝」を探していたのだろうか? 

 逆に、取り返そうとしていたのではないか? 「お宝」が、アクシデントでランドセルに入ってしまったのではないか。シャーロック・ホームズのあのエピソードのように――「青い紅玉」が、たまたまガチョウに飲み込まれてしまったように。

 我が虹色の脳細胞が活発化していくのを実感する。

 萱場先生のお宝――それは、萱場かやば千種ちぐさ先生という人間を考えれば手がかりが摑めるんじゃないか?

 萱場先生といえば「四十路よそじで独身。モテない女性教師」として、職員室でほかの先生たちにネタにされている。それは、生徒たちのあいだにも漏れ伝わっている。

 けれど、萱場先生自身がそれを気にしたり、傷ついている様子もなさそうだ。少なくともそんな姿をぼくたちに見せたことがない。

 もちろん、ぼくたちに見えないところで恋に悩んでいたりするのかもしれない。

 考えているうちに、イライラしてきた。「いじめはいけません」とぼくたちに説教する先生たちが、萱場先生をネタにして陰で嗤っている。

 急速に腹が立ってきた。どうして、一人前の大人たちのあいだで「いじめ」が起こる? まったく理解不能だ。

 ぼくの家の「家族」のみんなは、血がつながっていない人もいる。いちばん仲がいいノリ兄ちゃんだって、ほんとうのぼくの兄じゃない。ジンさんだって、ゲンジさんだって、若水さんだって……みんなとても仲がいいし、結束が強い。いじめなんて存在しない。それがぼくの家族――〈御器所ごきそ組〉だ。


「やあ、ずいぶんとのんびりとしたご帰還だね」

 不意に鼓膜を揺らす、よく通る声。ぼくは、はっと我に返った。

 ――なんてこった。

 いつの間にか、我が家の正門前にたどり着いていた。あやうく通り過ぎるところだった。

 よくよく周りを見れば、薄曇りの空で太陽もかなり傾き、くすんだオレンジ色の残光が建物のあいだから見える。チビのぼくでさえも、長い影を地面の上に伸ばしていた。

 無論、ぼくを呼び止めた声の主は、不老翔太郎だった。

 防弾仕様チタン合金製の我が家の正門にもたれて、すずしい顔をしている。

 ――まったく、ホントになんてこった、だ。

 〈御器所組〉本部前で、こんなにあけすけで無防備な行為をできるのは、世の中広しと言えど、不老翔太郎以外にはあり得ない。

「君の歩行速度は傑出して遅い。僕はまともな小学生で、そんな歩き方をする人を知らない。興味深いなぁ、御器所君、君は貴重なサンプルかもしれないよ」

 あきれて返す言葉もない。いったいぜんたいどっちが「貴重なサンプル」なのか。

 防弾チタン合金製の正門が、ゆっくりと音もなく開き始めた。


「さあ御器所君、君の推理を聴かせてもらおうかな?」

 不老は涼しい顔をして、ぼくの部屋のベッドに腰掛けて言った。

「ぼくのことより、不老は何か突き止めたの?」

 わざと口を尖らせて言ってみたが、この男にはさして効果はなかったようだった。

「おっと、危うく〈御器所組〉組長の長男からカツアゲするところだったよ」

 不老はポケットをまさぐると、千円札数枚と小銭、それに一枚の紙片をぼくに手渡した。

「若干、多いと思う。確認してくれたまえ」

「へ? 何が?」

「帰り道は、ちゃんと領収書をもらっておいた。タクシーで初乗り料金だけだったから、運転手さんは不満そうだったけれど……面白いものだね」

 不老は思い出し笑いをした。

「何かおかしなことがありますかね?」

 精一杯の虚勢を張って皮肉をかましてみた。

「タクシーでここの正門まで戻って来て、『領収書ください』と言ったら、運転手さんは馬鹿にした目線で見てきたんだ。ランドセルを背負っているのは、やっぱりハンディだね。ところが『宛名は〈御器所組〉で』と言ったら、手の裏を返すように『おつりはよろしいです』なんて、敬語を使うんだよ。実に興味深い」

 なんてこった。

 そりゃ、確かにうちの組と関係のある人間だと知ったら、タクシーの運転手さんは逃げ帰るだろう。下手をすると「料金は要りません」とまで言いかねない。

「確認しなくていいのかい?」

 不老が訊いた。

「不老を信じてるからね。それとも……ネコババした?」

「信じてる……なるほど、面白い」

 突発的に不老翔太郎の表情が深刻なものになった。ぼくは少々焦った。

「何が面白いの?」

「今まで、僕を信じてくれるような人間は僕の周囲に存在しなかったからねえ」

 不意に不老は真顔で黙り込んだ。

 息を飲み込んだ。

 そんなことを言われたら、ぼくは話の穂を継ぐことができないじゃないか。

 妙な沈黙が、十七秒ほど続いた。その後、不老翔太郎は大きな声で笑い出した。

「さてさて、御器所君の『青いランドセル事件』の推理をぜひとも拝聴したいものだねえ」

 不老はその長い脚を、これ見よがしに組んだ。

「推理っていうほどじゃないけど『青いランドセル事件』の犯人は、わかった。それは……」

 わざと、ぼくはタメを作って、じっと不老を見やった。

 不老翔太郎は、表情ひとつ変えなかった。幾ばくかの勝利感を胸に、ぼくは立ち上がった。

「犯人は……萱場先生だ!」

 またしても、長い沈黙。二十三秒までは数えたが、それ以上はやめた。

 完全に不老の鋭利な沈黙に飲まれそうだったが、今のぼくは違う。虹色の脳細胞が激しく活動しているのだ。

「事件の真相は、実に単純なんだよ、不老!」

 ぼくは勢い込んで言った

「ふむ、そうだろうねえ」

「『青いランドセル』が物色されたのが、なぜ体育の時間に限られているのか? それがまさに発端なんだ。だから、そこから推理を進めれば、おのずと答えは明らかなんだ」

「ほほう、なるほど?」

 眼を見開いた不老に向かって、ぼくはにやりと笑みを向けた。

 ぼくは、帰路で考えた推理を不老にすべてぶつけた。実に、気持ちいい。名探偵とは、こんな感覚を味わえるのか。

「――という真相だったんだ。だから萱場先生に直接、ぶつかってみるしかない!」

 ぼくは両手の拳を腰に当てて、不老翔太郎を見下ろした。

 またしても長い沈黙。

「ぐう」

「はいぃ?」

「言って欲しいんだろう? 『ぐうの音も出ない』と」

 思わず言葉を失う。

「残念ながら、いくらでも言えるね。『ぐう、ぐう、ぐう……』。なぜなら君の推理とやらには、決定的な瑕疵があるからだよ」

「お菓子なんか、どこにもないじゃないか」

 不老翔太郎は、ぴくり、と右の眉を上げた。

「僕はいたって真面目なんだけどねえ。茶化してもらっては困る」

「それはこっちの台詞」

 不老は聞き慣れた、わざとらしく大きなため息をついた。

「いいかい、君は根本的にスタート地点を間違えているんだよ。まだ気づかないかな?」

 ぼくの虹色の脳細胞に、これ以上何を気づけというのか?

 不老翔太郎は立ち上がった。そして、ぼくを見下ろして、ゆっくりと言った。

「『青いランドセル』は、体育の時間に物色されたのではない」

「へ?」

 不老は、その長身でぼくを見下ろして、口角を上げた――笑ったのだ。

「そんなことよりも、僕の話を聴きたくないかい?」

「ちょっと待った。『体育の時間』じゃなかったら、いったいいつ事件が起きたんだ?」

 不老翔太郎は、表情を一ミリたりとも変えなかった。

「似て非なるものさ。『体育の着替えの時間』だ」

「へえ? 結局、体育の時間ってことじゃないか」

「御器所君、もう一度言うよ。体育の『着替えの時間』だ」

 まさにこれが「ぐうの音も出ない」というやつか。

「この学校のセキュリティを見た限り、不審者が外部から侵入することは不可能だ。ならば内部犯行に違いない。が、残念ながら、御器所君の推理は穴だらけだ。推理とも呼べないただの憶測――いや妄想といったほうがいいかな」

 椅子にへたり込んだ。その瞬間、絶妙のタイミングでぼくのおなかが「ぐぉるるるる……」と鳴った。

 この場に金銀河がいなくてよかった、と心底から思った。と同時に、心底からの空腹がぼくの胃袋を締め付けた。

「あのぉ、もう晩ご飯の時間が近いんだけど……」

 不老翔太郎は、今度は左の眉を上げた。器用なやつだ。

「ほほう、君は樋口一葉の行方について知りたくないのかな?」

「樋口一葉? あ、お金の話ならもういいよ」

「僕が何のために使ったのか、知りたくないのかい?」

 そんなことを言われたら、知りたくなるに決まっている。

「萱場先生がすぐにバイクを停めたから、タクシーの初乗り料金だけで済んだよ」

「か、萱場先生だって?」

「ほかにどの先生がいる?」


「青いランドセル」後編につづく

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