不老翔太郎の暴走
美尾籠ロウ
第1話「怪しい家庭教師」
もっとも、一度目にぼくたちを呼び出したのは本郷自身ではなくて、ぼくや
それはちょうど、六年生に上がった始業式当日の出来事――つまり、不老翔太郎が転校して来たまさにその日に起きた「事件」だった。
けれど、それはまたべつの話だ。
「じゃあ梓さん、詳しいお話を伺おうか?」
不老翔太郎は、遠慮もなく本郷梓の私室のベッドの上に深々と腰掛け、妙に長い脚を組んだ。
まったく、小学校六年生とは思えないこの話し方、この態度、とにかく、一言で表現するならば「ムカつく」。
なのに、なぜか女子には人気がある。確かに、痩せて身長は一七〇センチを少し超えている。腕も脚も長い。痩せているから、もっと長身に見える。
女子に好かれて男子に好かれない男子――最低のやつだ、と思う。一度、そうなってみたいけど。
なのに、初対面の瞬間から、ぼくはこの男に振り回されることになった。
「さあ、御器所君もかけたまえ」
ため息をついてしまう。「たまえ」って何だよ「たまえ」って。小学六年生の言う単語じゃないだろう。それに、毎度毎度思うけど、どうしてこんなに気安く女子を下の名前で呼ぶことができるんだ?
ここで、自己紹介しておこう。ぼくの名前は御器所一。「ごきそはじめ」と読む。難しい読みの名字に、これ以上単純にできないくらい単純な名前。初対面のときに、不老にそう言われたが、この男に悪意は全然ないのだろう。
御器所という名字を、この街で知らない人はいない。ぼくの家が、たいへん変わった「職業」をやっているからだ。
不老は、そんな特殊すぎるくらい特殊なぼくの家にも上がり込んで、いろいろとやらかしてくれたことがあるが、それもまたべつの話。
不老翔太郎は、さっきも書いたけれど、今年、六年生の始業式の日から、ぼくのクラスに転校して来た男だ。
本人はどう思っているのか知らないけれど――何も考えてない、というのが正解だろうけど――明らかに変人だ。頭がいいのか悪いのか、わからない。運動神経もまたしかり。クラスでいちばんケンカが強いはずの
とにかく、奇妙な男だ。
転校してきて早々に、クラス一番、いや学年一番の美人、金銀河を悩ませていた謎の「暗号文」を解読したり、その金銀河と同じ塾に通う、隣の小学校の本郷梓の家で起きた「怪奇現象」を解決したり、そのほか、いろいろあって、すっかり金銀河は不老翔太郎という男に惹かれてしまった――というのが腹立たしいじゃないか。
もっとも、おかげでぼくは本郷梓という小柄で眼鏡が似合う子と仲良く……というか、メールを交換するくらいの仲になれたのだから、あまり一方的に不老を非難するのは公平じゃないかもしれない。
「あ、
本郷梓が、ぼくのほうをやっと向いてくれた。
六月の蒸し暑い日曜日。ぼくと不老翔太郎は、本郷梓の部屋にいた。
ぼくはうなずいたが……座る場所は、不老の隣しかなかった。ためらいながらも、とりあえず、お尻の半分だけをちょこん、と載せた。ところが不老はと言えば、長い脚を組んですっかりくつろいでいる様子だった。
まったく、わかっているのか、この男。
今座っているのは、ほかならぬ本郷梓がふだん使っているベッドだっていうことを。
隣からにらみつけてやったが、不老は気づいた様子がなかった。ここまで「空気を読まない」ことができるなんて、一種の才能だ。
ぼくも不老を真似て脚を組もうと思った。が、不老より二十センチ以上背が低くて、二十キロ以上体重が重いぼくは、生まれて一度も脚を組んだことがない。たぶん、真似をしたらひっくり返ることは間違いない。そんな醜態を本郷の前でさらすわけにいかないじゃないか。
本郷梓は、自分の勉強机の前の椅子に座り、お盆に載った皿をぼくと不老に差し出した。
唾をごくり、と飲み込んだ。ヨーグルト・ムースだった。一度食べたことがある。すぐさま受け取り、スプーンですくい、口に放り込む。
これを「至福のとき」というのだ。溶ける。全身まで溶けそうだ。
「御器所君、僕たちが何をしに来たのか、まさか忘れてはいないだろうね」
不老からの横槍。
「忘れてないよ」
「じゃあ、梓さん、その怪しい家庭教師について、詳しく教えてもらえるかな?」
相変わらず、腹立たしいしゃべり方だ。ほんとうに不老は六年生なのか?
本郷は、深刻そうな面持ちになって、うつむいた。
「最近、うちに来てくれる家庭教師の先生のことなの。
「家庭教師? じゃあ、塾は辞めたの?」
ぼくは尋ねた。
「ううん、塾も行ってるよ。塾のない日に、家庭教師の先生に来てもらってるの。わたしが悩んでるのは……算数の先生のことなんだけど……」
「算数の先生? っていうことは、他にも先生がいるの?」
「ほほう、御器所君でもそのくらいの推理はできるようだね」
いちいち癪に触る男だ。
塾に通い、さらに家庭教師が来るとは、私立中学受験というのは、ほんとうにたいへんらしい。
「その算数の先生は、先月から来てくれることになったんだけど、ほんとに前の家庭教師の先生より、いい先生なの。すごく丁寧に、わかりやすく教えてくれるし、わたしが今まで苦手だったところも、理解できるようになったし、毎週の塾の週例テストでも、いい成績取れるようになったし……」
「じゃあ、とてもいい先生じゃ――」
言いかけたぼくを不老が遮った。
「どうして四月から算数の先生が変わったのかな?」
本郷は、少し恥ずかしげにうつむいた。うわ、可愛い……。
こういう表情にぼくはとてつもなく弱いのである。やたらと汗が出てきた。
が、不老はまったく表情を変えずに脚を組み直した。
「わたし、算数が苦手で、なかなか偏差値が上がらなくて……お父さんとお母さんが相談して、今の伏見先生に来てもらうことになったの」
そんなに恥ずかしがるほどのことじゃないと思ったけれど、黙っていた。「ヘンサチ」って何なのかもよく知らなかったけれど、それも黙っていた。しかし、中学入試の「算数」と、ぼくたちが学校で習っている「算数」がまったくべつのものだということくらいは知っていた。
「なぜ、梓さんは僕を呼んだんだい? とくに不審な点はないようだけれど」
ちょっと待て、「僕」じゃなくて「僕たち」だろうが――と言いたかったが、こういう場面での不老翔太郎の姿を前にすると、ぼくは何も言えなくなってしまう。
「最初は……たいしたことないと思ったんだけど……座る位置かな?」
「座る位置?」
不老は器用に右の眉を上げた。
「わたしの隣に、先生用の椅子を用意していたんだけど、わざわざ先生はその場所を反対側に変えたの」
「先生と勉強しているのは、この部屋?」
「うん。はじめは、わたしの左側に椅子を置いておいたの。こっちのほうがスペースがあるから」
本郷の勉強机の左側というと、窓に近いほうだ。確かに、もう一つ椅子を置くなら、ふつうはそこだろう。その反対側といえば、ドアに近いほう。ちょうどチェストが前に張り出している。チェストの上には、「ジュモーのビスクドール」という高価なフランス人形が座っている。以前、一度だけこの部屋に来たことがあるけど、それはまさにこのチェストの上で起きた「事件」を解決するためだった――べつの話だが。
「すると、椅子は勉強机の引き出しの辺りまで近づけないといけないね」
不老はそう言って立ち上がり、本郷に歩み寄った。そして、ちょうど本郷の座っている椅子のすぐそば、一メートルもない至近距離に立った。
「この辺りかな」
ぼくは思わず身を乗り出した。
「近い、近いよっ!」
「そう、確かに近いね」
他人事のように言いながら、不老は腰を落とし、眼線をほぼ本郷と同じ高さにした。
「だから近すぎるってば!」
ついにベッドからずり落ちた。不幸中の幸いで、ヨーグルト・ムースは無事だった。が、ぼくの尾てい骨はひどく痛んだし、自尊心はもっと痛んだけど。
あろうことか、不老はぼくの存在を忘却したかのように、じっと本郷を見て、続いて勉強机に視線を向けた。
「そう、確かに近い。しかし、それだけで『奇妙』とはいえないな」
「おかしいよ、断じておかしいだろう!」
起き上がって声を荒げた。ぼくだって、本郷の顔にこんな超至近距離まで近づいたことがない。
「何を怒っているのかな、御器所君? 生徒の右側に座る、というのが、その家庭教師の先生の流儀なのかもしれない。他にはどんなことが、梓さん?」
「三回目か、四回目に来てくれたときのことだったんだけど……『眼鏡をはずして』って、先生が言うの。べつに黒板とか遠くを見るんじゃないから、その日からは先生が来るときには眼鏡を取ってるけど、どうしてそんなこと言うのか理解できなくて……」
ぼくはまたしても身を乗り出した。
「おかしいよ! そんな至近距離で『眼鏡はずせ』なんて、その先生、絶対に危ない!」
「さっきから何を興奮しているんだい? 家庭教師の……ええと、伏見先生だったっけ、そう言われたことは、梓さんのお母さんやお父さんに話したの?」
「うん、話したよ。でも、お父さんが、『とてもいい先生なんだから、そのお礼に先生の言うことを聞いて上げなさい』って」
「ほう、梓さんのお父さんが……ね」
本郷梓のお父さんに会ったことはないけれど、どんな人なのかは知っている。
県警刑事部長という、偉い警察官だ――そして、ぼくの家と多少、いや、大いに関係のある人だった。
ようやく不老が本郷から離れてベッドに戻った。深々と腰掛けると、またもや見せつけるかのように長い脚を組んだ。
「まだ他にもあって……先月、伏見先生が、カチューシャをプレゼントしてくれたの。でも、わたし、ふだんそういうの着けたことないし、あんまり好きなデザインじゃなかったし……それに、誕生日でも何でもないのに、プレゼントなんかもらっちゃいけない、と思ったんだけど……」
「そして先生は、『ぜひカチューシャを着けてくれ』と梓さんに頼んだ?」
不老が先回りして言った。
「そう。だから、一回だけ着けたの。先生は、わたしを携帯のカメラで撮影して――」
「ええっ!」
またもやぼくはベッドから転がり落ちた。
「さっきから、御器所君は、いささか情緒不安定気味のようだね」
いささかも何もあるものか。どうして情緒が安定していられる?
哀しいかな、本郷梓は、ぼくではなく不老のほうへ顔を向けて続けた。
「それから、いちばんおかしいと思ったのが、一昨日、金曜に先生が来てくれたときのことなの」
「ま、ま、ま、まだあるの?」
あえぎあえぎ言いながら、なんとか立ち上がった。どうして不老はこんなに冷静でいられる? それに、当事者――いや「被害者」の本郷梓もまた。
「今度は、ちょっとヘンな感じで……お父さんとお母さんに相談したの。でも、やっぱり答えは同じだった。『いい先生なんだから』って言うだけ」
「今度は、何を要求してきたんだい?」
不老が身を乗り出した。
「その日、先生は紙袋を持ってきて……」
そこで、本郷は少し恥ずかしそうに言い淀んだ。
「制服が入ってたの。よく知ってる制服だった。第一志望じゃないんだけど、
東桜学園といえば、男子のぼくでさえその名前を聞いたことがある。この街では有数の名門女子私立中高一貫校のひとつだ。
「伏見先生は梓さんに言ったんだね、『それを着てくれ』と」
不老は静かに言った。
「うん。だから……恥ずかしかったけど、着替えて――」
「ぬ、ぬぁぬぃいいっ!」
ぼくは叫び、二歩で本郷に近づいた。勢い込んで言った。
「危険だ。実に危険だよ。絶対にその伏見ってやつを近づけちゃダメだ!」
妙にゆっくりと不老が近づいてきた。そして、ゆっくりとぼくの肩に手を置いた。
「ねえ、御器所君。君はおそらく、根本的な誤解をしている」
「何が誤解だよ! 明らかに異常じゃないか。ドヘンタイだよ、そんな男――」
「御器所君……」
不老は、ため息混じりに言った。「誰が『伏見先生は男』なんて言った?」
「……へ?」
ぼくは間の抜けた声を漏らした。
「さっきからの君の常軌を逸した興奮ぶりは、そのせいだったのか! 君らしいといえば、君らしいよ!」
ただ狼狽するしかない。
「伏見先生って……ひょっとして、もしかして……女の人?」
不老は大声で笑い出した。
「当然じゃないか! そうでなきゃ、梓さんもこんなに冷静かつ客観的に話ができるはずがないじゃない。それに、お父さんは県警刑事部長で、数々の修羅場をくぐってきたお方だ。おっと、そっちのほうについては、たぶん御器所君自身がよく知っているだろうがね」
毒気を抜かれる、という気分はこういうものか。腰から下の力が抜けて、そのままカーペットの上にへたり込んでいた。
あろうことか、本郷梓自身も、可愛らしい笑顔でくすくす笑っている。
「なんてこった……」
「しかし、確かに奇妙な家庭教師の先生には違いないね。伏見先生は、制服姿の写真も撮ったのかい?」
「う、うん……」
「制服のサイズは?」
「えっ?」
「制服のサイズは、梓さんにあっていた?」
「うん。ぴったりだった。でも、制服は新品じゃなかったよ。ちゃんとクリーニングはされていたけど……」
「興味深いね」
そう言うと不老はベッドの上で、両膝を抱えるように座り、両手の指先をあわせて瞑想するような表情になって眼を閉じた。怪しい新興宗教にでも入ってるのか。
が、数秒で不意に立ち上がると、本郷に歩み寄った。
「梓さんが撮影された写真は、梓さんも携帯に送ってもらったのかい?」
「うん。もらったけど。見せたほうがいい?」
「いや、御器所君の携帯にメールで送ってくれたまえ。彼に見せてもらうよ。伏見先生がどこに住んでいるか、知っているかい?」
「ううん……お父さんかお母さんなら……でも、いつも自転車で来るから、近くだと思う」
そこでぼくは口を挟んだ。
「でも、電車で最寄り駅まで来て、そこからここまで自転車に乗った、っていう可能性もあるよね」
「ほう、たまには冴えた推理もできるんだね、御器所君」
一言多いやつだ。ぎろり、とにらみつけてやったが、あっさり黙殺された。
「次に伏見先生が来る予定はいつ?」
「ええと……今度の火曜だけど。夜の七時から九時まで」
「ありがとう。今日のところは、失礼するよ」
「え? ちょ、ちょっと待った」
と、ぼくに呼ばれて待つような不老翔太郎ではなかった。すたすたと歩き出し、ドアを開けている。本郷も慌ててついてきた。
玄関で靴を履きながら、不老は言った。
「そうだ、一つ訊き忘れていた。伏見先生は、『家庭教師派遣センター』のような会社から派遣されてきたの?」
「ううん、お父さんか、お母さんの知り合いの紹介なんだって」
「やはりね。おそらく、何も心配はないと思うよ。けれど――」
そこで一度言葉を切ると、不老はじっと本郷を正面から見て、言った。
「もしも梓さんが僕の妹だったら、これ以上、伏見先生に会わせたくはないね。じゃあ、御器所君、行こうか」
「え? ああ……それじゃ……」
「御器所君、メール、送るね」
別れ際に本郷梓がぼくのほうを向いて言った。
「うん……待ってるよ」
なぜなのか理由はまったくわからないが、妙に頬が熱くなった。
携帯電話が振動した。
さっそく、本郷梓からのメールだった。添付された写真ファイルを開こうとすると、すぐさま横から不老が携帯を取り上げた。
「ふーむ、で、どうやって写真を見られるんだい?」
まったく、携帯電話も使えないのか、こいつは。
全力で怒りの表情を作って、ボタンを押して添付された本郷梓の写真を開いた。
うわ……これはまた、かわいい、というか、キレイだ――
と思ったら、携帯電話を不老に奪われた。
「ほう、なるほど、なるほど……」
やたらとうなずいている不老から携帯を奪い返し、
「言っとくけど、ぼくに送ってもらった写真なんだからね」
携帯をポケットに突っ込んで、奪われないように上から片手で押さえた。
「それに『もしも梓さんが妹だったら』って、同い年じゃないか。馴れ馴れしすぎるんだよ」
「本音を言ったまでだけどね。なぜ君がそんなに怒っているのか、理解に苦しむなぁ。だって、似てるじゃないか、あの事件と」
「何のこと?」
「おかしいな。君は読んだはずじゃなかったのかい、『冒険』を」
あいかわらず、この男のマイペースぶりには腹が立つ。ぼくの読書と何が関係あるっていうんだ?
「実に似ていると感じなかったかい? 『ぶな屋敷』と」
「あ……」
ようやく理解できた。サー・アーサー・コナン・ドイル原作「シャーロック・ホームズの冒険」に入っている短編小説の一つ、「ぶな屋敷」のことだった。怪しい大富豪の家で家庭教師をすることになったヒロインの物語だったはずだ。
「言わば『逆・ぶな屋敷』だけどね。だから、ついつい名台詞を言ってみたくなっただけさ」
何が名台詞なんだ? あの物語に名台詞なんてあっただろうか?
「それにしても御器所君、ずいぶんと君は、梓さんにご執心なんだね。僕はてっきり、君は銀河さんのことが好きなのかと思ったけれど。二股はよくないな」
たぶん、ぼくの顔は郵便ポスト以上に真っ赤になっていたはずだ。
「う、う、うるさいな、二股なんかじゃ――」
その瞬間、携帯電話がポケットのなかで振動した。本郷梓からのメールかと思ったが、違っていた。画面に表示された名前――あろうことか、
「もしもし――」
「ねえちょっと、たった今、梓と電話で話したんだけど、抜け駆けして何やってんの?」
いきなり金銀河の声が耳に跳び込んできた。
それはそれでうれしいことだけど……ぼくは金銀河の怒った声ばかり聞いているような気がする。
「抜け駆けって、べつに何も……」
「そこに不老君いるんでしょ、代わって」
「はあ?」
「早く代わりなさいっ!」
やっぱり、ぼくではなくて不老翔太郎という変人ばかりが主役になるんだ。
なんてこった……と声には出さないで、ぼくは携帯電話を不老に突き出した。
「やあ銀河さん……そうそう、実はね――」
この地球上で、どうしたらあの金銀河に対して、これほどまで馴れ馴れしく話せる男子は、ほかに存在しない。
火曜日は、午後から雨が降り出した。
五時間目、ぼくの大の苦手の体育は、急遽、体育館でドッジボールをすることになった。クラスのみんなからは歓声が上がったが、ぼくの気分はどんどん落ち込んで行った。
そんな授業の話はどうでもいい――思い出したくもない。クラスでいちばんドンくさいぼくが、クラスの誰にも、たった一度でも、ボールをぶつけられることはなかった。ほんとうなら、一番のターゲットになるはずの、運動神経ゼロのぼくが。
いつものことだ。けれど、このイヤな気持ちに慣れることなんかできない。こういうとき、どうしてぼくは御器所家に生まれたんだろう、と考え込んでしまう。
学校に「置き傘」を置いていなかったので、濡れて家に帰ることにした。体育の時間の思いがまだ胸の底に残っている。誰とも話したくなかった。
ぼくの家――この街に戦前から続く「
この街の住人で「御器所組」を知らない人はいない。だから、三代目組長の息子――ぼくをいじめる人間はいないし、ぼくに悪口を言う人間もいないし、ぼくにボールをぶつける人間もいない。
そして、ぼくの友だちになってくれる人間も――
「なんだ、傘がないのかい?」
振り返ると、不老翔太郎だった。そう言いながらも、不老だって傘を持っていなかった。すでに二人ともずぶ濡れだった。
「いよいよ、今日だね」
「はあ? 何のこと?」
「梓さんの謎の家庭教師――」
「あ……まさか、押しかけるんじゃないだろうね」
「僕がそんな無粋な真似をすると思うかい?」
そのときだった。さらに新たな声が聞こえた。
「あなたたち、また抜け駆けしようと企んでるのね」
金銀河だった。金銀河は、ちゃんと傘を持っていた。大人っぽい茶系のタータンチェック柄の傘だ。六年生の女子ならもっとかわいい色を選びそうだが、すらっと背が高く、細身の金銀河には似合っていた――ランドセルのほうがむしろ違和感があるくらいだ。
大人びた金銀河もきれいだ。もちろん、小柄で丸顔で眼鏡をかけた本郷梓だってかわいいけど……いや、そんなことはどうでもいい。
「抜け駆けの意味がわからないんだけど……」
ぼくが言うと、金銀河はおおげさにため息をついた。
「国語辞典引きなさい」
「いや、そういうことじゃなくて――」
「あのね、梓はわたしの親友なの。放っておけないでしょ」
せっかく傘を持っているのに、金銀河はぼくも不老もなかに入れてくれなかった。もっとも、三人で相合い傘なんて、カッコ悪い姿だが。
「しかし、いいのかい? 夜、遅くなるけれど」
「まさか不老、今夜、本郷さんの先生を尾行する、なんて言うんじゃないだろうな」
不老翔太郎は心底うれしそうに笑った。
「我が親愛なる記録者たる御器所君も、ようやくわかってくれるようになったね」
何だよ、その「親愛なる記録者」っていうのは。どうしてぼくが不老の行動をいちいち記録しなきゃいけない? 確かに文章を書くのは好きだけど、不老が記録して欲しいというなら、原稿料を払って欲しいものだ――などということは、金銀河がいる前で、もちろん口にしなかった。
と思っている間に、ぼくの家の正門前まで着いてしまった。頑丈なチタン合金でできた防弾仕様の両開きの扉。
自動車で突っ込んでも開かない、という話だが、それを試すような人間は今のところいなかった。いてもらっちゃ困る。
「御器所君、僕はちょっとここの軒先を貸してもらうよ。西の空は明るい。じきに雨は上がるだろう。その程度の天気予報は、僕にだってできるんだよ。それまで、ここで雨宿りしても構わないだろう?」
「べつに、いいけど」
「じゃあ九時に梓さんのマンションで会おう」
「ちょっと待った。ぼくは行くなんて一言も言ってないぞ」
そのときだった。ドアの脇のインタフォンから声が聞こえた。
「一、お友だちにも上がってもらいなさい。ちょうど、チーズケーキができたところなの」
母さんの声だった。
我が家を取り囲む十数台の監視カメラによって、ぼくたちが来たことは、当然見られているはずだった。
「御器所君のお母さんのチーズケーキ、楽しみ! この前のアップルパイも最高だったし」
金銀河は無邪気な声を上げた。
以前に不老と金銀河、そして本郷がぼくの家に来たとき、「御器所組」は上を下への大騒ぎだった。しかもそのとき、金銀河と本郷の二人は、ぼくの分のアップルパイまで食べてしまった――ことを覚えているんだろうか?
音もなくチタン合金の防弾扉が、ゆっくりと開いた。
「お邪魔します」
誰にともなく、不老は言い、ぼくよりも先に門をくぐった。
そうか、気がついた。
ぼくにも、友だちがいる。
夜、八時五十七分――ぼくは本郷梓のマンションの前へ自転車で到着した。ぼくの家での作戦会議で、不老と打ち合わせた時間通りだ。
作戦会議といっても、正しくは、母さんの手作りラズベリー・チーズケーキを食べるのが最大の目的だったけど。
ずぶ濡れの不老は、母さんに勧められて先にシャワーを浴びて、ノリ兄ちゃんのスウェットの上下を着た。ノリ兄ちゃんは、ぼくのほんとうの兄じゃない。少年院を出てから行くところがなくて「御器所組」で預かることになった、ぼくの大事な家族の一人だ。
金銀河はというと、ぼくよりも先に、ラズベリー・チーズケーキにありついて、その半分以上をすぐに平らげた。女子は「甘いものは別腹」と言うけど、いったいどこに別の腹があるのか、ほんとうに不思議だ。
いずれにせよ、「客人」を最大限もてなすのが、ぼくの家族の住む「世界」のルールだ。ぼくには、シャワーもラズベリー・チーズケーキも、最後に順番が回ってきた。
ちょっとムカついたけど……思い返せば今まで一人も、ぼくの家に来て、ぼくより先におやつを食べるような「客人」は誰一人いなかった。金銀河や不老翔太郎が、ぼくにとってはじめての「客」だった。
金銀河は、今回の「作戦」には参加できない。門限が八時だという。
「梓に何かあったら、承知しないからね!」
母さんのラズベリー・チーズケーキをほおばりながら、金銀河はぼくにフォークを突きつけたのだった。
不老が言ったとおり、雨は上がっていた。
辺りを見回すと、先に不老翔太郎がいた。マンションのエントランスの脇にもたれ、何ごとか考えている様子だった。
「やあ、遅かったね。てっきり、ベンツかBMWで来ると思っていたけど」
「これは、ぼくの事件なんだよ。組内に迷惑をかけるわけにいかないじゃん」
「ほう、御器所君も、家業を継ぐ気になったのかな」
「やめてくれよ」
冗談でも、そんなことは言って欲しくない。
不意にぼくの携帯電話が振動した――本郷からのメッセージだ。
――今、伏見先生がウチを出たところ ぜったいにあぶないコトはしないで、気をつけて……
思わず頬が緩んだ。が、それも一瞬だった。
……って、不老君に伝えてね!
「なんてこった……」
「どうした? 計画変更かい?」
ぼくは、携帯電話を不老に突き出した。本郷が言うのだから、伝えないわけにいかない。
「なるほど、親切だなぁ。おやっ?」
不老はニヤニヤ笑みを浮かべながら携帯電話を返して寄越した。
「これは肖像権の侵害にならないのかな」
いつの間にか、不老はメール画面を終了して、待ち受け画面に戻していた――先日送ってもらった、東桜学園中学の制服を着た本郷の写真。
「プライバシーの侵害!」
ぼくは携帯電話をポケットに突っ込んだ。
「しっ、出てきたようだ」
エントランスの自動ドアが開き、一人の女性が現れた。
小柄で、丸顔。ショートカットにしている。年は二十代後半か三十代前半――担任の萱場先生(三十六歳)よりは若いだろうか。てっきり、ぼくは「家庭教師」というイメージから、何となく大学生くらいの若い人だと想像していた。紺色のパンツ・スーツ姿で、片手に大きめのトートバッグを下げている。全体的に地味な印象だった。
「さあ、行こうか」
と不老は言ったものの、動こうとしなかった。
「自転車は?」
「僕は、もともとそういったものを必要としないんだよ」
ということは、不老は自転車を持っていないのか。
「君のに便乗させてもらうよ」
ぼくの自転車は「ママチャリ」という形ではないから、二人乗りには不向きだ。それに、ぼくは今まで二人乗りなんかしたことがない。いや、夜九時過ぎに小学生が自転車の二人乗りで走っていれば、間違いなく警官に捕まる。
「よし、わかった。僕が運転して、御器所君が後ろに乗ればいい」
「そういう問題じゃないんだけど――」
ぼくは後輪の脇に足をかけて、不老の後ろに立つようにして、不老の両肩に摑まった――と思うや否や、一気に不老はペダルを踏み込み、ぼくは後ろにひっくり返りそうになった。
夜の街を五分も走らないうちに、伏見先生の自転車は停まった。不老も自転車を急停車させ、ぼくは転がり落ちそうになった。
伏見先生が停まったのは、空き地の前だった。薄暗くてよくわからないが、ただの分譲地のようだった。
停まっていたのは数分だろうか。すぐにまた伏見先生は自転車を走らせた。十五分ほど走ると、JRの駅に着いた。さいわい、警官にも捕まらなかった。
伏見先生は、迷うことなく「定期利用者専用」という看板の掛かった自転車置き場に向かった。
珍しく、ぼくの推理は当たっていたようだった。
「どうする?」
「まさかここまで来て帰るつもりじゃないだろうね。ああ、先生が出てきた。急いで」
ぼくは駅から少し離れたところに自転車をとめ、駅に走り、切符売り場へ向かった。伏見先生は定期券なのかプリペイド・カードなのか、すぐに改札を通り抜けて、上り線のホームへ向かうところった。
「早く切符を!」
「どこまで?」
「もちろん終点まで……と言いたいところだが、とりあえずP駅まででいいだろう。それより先だったら、乗り越し精算をすればいい」
「え? ぼくが買うの?」
「ほかに誰がいる?」
ため息をついた。けれど、近い場所は自転車で行くし、遠ければうちの誰か若い衆が車で送迎してくれる。ぼくは、電車に乗ったことがなかった――当然のことながら、切符を買ったことも。
「さあ、貸したまえ」
なにが「たまえ」だ、と思いながら、財布を渡した。二枚の切符を買って、不老はすぐに戻ってきた。
「あと一分で上り線の快速が来る。急ぐぞ」
不老は言うと同時に、改札口へ駆け出し、通り抜けた。ぼくがまごついていると、
「切符をそこに入れるんだよ」
と改札の通り方を教えてくれた。
上り線のホームに上がると、サラリーマン風の人たちが数名、電車を待っていた。ホームの端のほうに、伏見先生の姿がある。
すぐに快速電車がホームに滑り込んできた。伏見先生が乗り込むのが見えた。ぼくと不老も同時に電車に跳び乗った。
「いやはや、驚いたよ。実際に電車の乗り方が判らない人が存在するとはね。ごくごく一部のセレブリティだけの話だと思っていたよ」
ぼくは憮然とした表情で黙り込んだ。「ヤクザ」を「セレブ」と呼んでいいのか、ぼくにはわからない。
不老の予想通り、伏見先生はP駅で降りた。ぼくたちも慌てて後を追った。
「どうしてこの駅だってわかったの?」
「もしも他の路線に乗り換えるなら、ここしかないからね」
そこは、この街最大の駅だった。時刻は午後九時二十五分。帰宅途中のサラリーマンや学生や、多くの人々でごったがえし、人混みのなかに伏見先生の姿を見失いそうになった。伏見先生は、慣れた様子で通路を歩いて行く。
「これは面白いことになったぞ!」
まるで揉み手をするかのように、不老が明るい声を上げ、天井から下がる表示板を指さした――「新幹線のりば」。
「新幹線って……伏見先生、どこに住んでるんだ?」
「それを確かめるために、ここまで来たんじゃないか」
「えっ、まさか……」
「君まで来なくていいよ。さっき財布の中身を見せてもらったが、二人分の料金はなさそうだ」
いつの間に抜き取ったのか、不老の手には二枚の一万円札があった。この男、スリの才能まであるのか。
「大丈夫、君が帰れるだけの電車賃は残してある。もし足りなければ、『組』の誰かにベンツで迎えに来てもらえばいいだけのことだからね」
さっそく不老は「新幹線のりば」のほうへと駆け出していた。
「不老! 今夜はどうするんだ?」
「大丈夫、君の家に泊めてもらっていることになっている。けれど、明日の学校は休むことになるだろうね!」
あっけに取られているうちに、不老翔太郎の姿は人の群れのなかに消えた。
その夜は眠れなかったし、翌水曜日は、気が気ではなかった。朝いちばんに本郷からぼくの携帯に電話があった。ぼくは昨日、駅で不老で別れるまでの顛末を話して聞かせた。
「新幹線? いったい伏見先生の家ってどこ……? お母さんに聞いてみる」
「いや、やめたほうがいいよ」
「どうして?」
「それは……あとで話すから。学校が終わったら、そっちに行くね」
「今日は夕方から塾だから……不老君から連絡があったら、すぐ電話かメールして」
「うん」
複雑な心境で電話を切った。不老は携帯電話を持っていないので、こちらから連絡をとることはできない。
結局、上の空で一日を終えて学校を出た。不老からの連絡は、ない。
それにしても、急に外泊しても平気な不老の家というのも、変わっている。今まで不老翔太郎の家族のことなんか考えたこともなかったけれど。
家に着くと、インタフォンから若い衆の一人、カンさんの声が聞こえてきた。カンさんは「若い衆」とはいっても、ぼくの父さんよりも年上だ。もう五十歳近いんじゃないだろうか。
「お坊ちゃん、お友だちがお待ちかねですよ」
チタン合金製防弾扉が開くと同時に、ぼくはダッシュで母屋へ駆け込んだ。
ぼくの部屋のドアを引き開けると、不老翔太郎は、ぼくのベッドの上に仰向けに倒れ込んでいた。
「おい不老、大丈夫か?」
思わず駆け寄ったら、不老はぱっと眼を開き、バネでもしかけられているみたいに、ぴょこん、と起き上がった。
「やあ、お帰り。君のお母さんは、パティシエだけじゃなくて、料理人の才能にも恵まれているようだね。『極道の妻』にしておくのは、実にもったいない」
こいつめ、ちゃっかり母さんの手作りの昼ご飯にありついたらしい。それにしても、「カタギ」の人間で何のためらいもなく母さんのことを「極道の妻」と言ってのけられるのは、地球上で不老翔太郎だけだろう。
「で、伏見先生の正体は? わかったのか?」
「伏見先生は、伏見先生ではなかった」
「はあ、寝ぼけてるのか?」
「僕がそんな間の抜けた人間に見えるかい?」
間の抜けた、というより、とてつもない変人に見えるけど。
「伏見先生は、V市の北東のはずれ、L区のアパートに住んでいた」
V市といえば、隣の県の県庁所在地だ。新幹線なら、我が市に新幹線「のぞみ」も「ひかり」も停まらないけれど、「こだま」なら停車する。「こだま」で四つ隣の駅になる。
「そんなに遠くから、わざわざ、どうして?」
「無論、本郷家からギャランティ以外に交通費は支給されているんだろう。自宅から地下鉄の駅まで、徒歩約十五分。さらに地下鉄でV駅まで十五分。新幹線で一時間半強、さらにJR在来線に乗り、自転車で梓さんのマンションまで――電車の待ち合わせ時間を考慮すれば、最低でも三時間半はかかるだろう」
「往復七時間? で、本郷の家には二時間しかいないってわけ?」
「時給に換算すれば、ひじょうにコストパフォーマンスが悪い。地元で家庭教師をしていたほうがよほどいい」
「で、それより、伏見先生が伏見先生じゃなかった、っていうのは、どういう意味?」
「伏見先生の家まで尾行したんだよ。詳細ははぶくけど、伏見先生の家に着いたときには今日になっていた。そこは二階建ての――『コーポ』というのかな――建物だった。家賃はおそらく月六万程度。V市の単身者用コーポとしては、妥当な金額だね」
「単身者用って……伏見先生は、一人暮らし?」
「そう……しかし、表札に出ていたのは、『狩屋』という名前だった」
伏見先生こと『狩屋』先生の家はわかったものの、すでに日付は変わって真夜中。そこで不老は、近くの公園のベンチで一夜を明かしたという。根性が座っているのか、それとも単にあらゆることに無頓着で鈍感なのか――ぼくは後者だと思うが。
翌朝――つまり今朝、八時過ぎに「狩屋」先生は家を出た。向かった先は、徒歩二十分ほどの場所にあるコンビニエンス・ストア。そこでレジ打ちのアルバイトをしていることを確認した不老は、近所で聞き込み捜査を開始した。
まずは、当のコンビニの前に座り込んでいる女子高生と思しき二人組。言葉巧みに二人と親しくなった不老は、伏見先生がこのコンビニで夕方までアルバイトをしていることを訊き出した。伏見先生は、毎日、月曜から土曜の朝九時から夕方四時までレジに立っている。店長からの信頼も厚いらしい。
「それ……ナンパじゃないの?」
「人聞きの悪いことを言わないでほしいな。確かに家出してきたという一人は、僕に異性としての関心を持ったようだけど。無論、僕はそういったことに深入りしない主義だ」
小学六年で何言ってんだか……という言葉を飲み込んだ。
「実に興味深かったよ。僕は、大人からは子どもに見られ、若者や子どもからは大人に見られた。お陰でいろいろな情報を得られたよ。今度はぜひ一度、『変装』というものをやってみたいね」
勝手にしろ……という言葉もやっぱりぐいと飲み込んだ。つくづく変わった男だ。
「伏見先生の本名は狩屋すみれ。今住んでいるコーポに引っ越してきたのは、今年の三月。その前には、この街に住んでいた」
「よくそこまで不老に教えてくれたね」
「相手のほうが勝手に話してくれただけさ。僕は、東北から親戚を頼って出てきた高校中退の男子、ということにしておいた。聞き込みの常套手段は、決して目的の人物について尋ねないこと。架空の叔父さんが近所に住んでいるらしいので探している、と言ったら、訊きもしないことをいろいろ話してくれたよ。この世知辛い時代、人間はまんざら捨てたものじゃないね」
なんて厚かましい男だろうか。が、年齢不詳の不老にだからこそなせる技かもしれない。
「けれど、もっとも多くを話してくれたのは、伏見先生――狩屋すみれ先生自身だ」
「本人に会ったの?」
「そう、叔父さんの住まいを探している青年として、ね。初めから直球勝負でコンビニに行けばよかった」
そこで伏見先生――狩屋すみれ先生が話したのは、意外な過去だった。
狩屋先生は、かつて本郷のマンションの近くに住んでいた。その頃、狩屋さんは結婚していた。「伏見」というのは当時の名字なのだろう。以前、市立中学校の非常勤講師の経験もあるという。
――あの街には親切な知人がいるので、今でもときどきお邪魔しているの。
狩屋すみれ先生は言ったらしい。親切な知人とは、本郷のご両親のことに違いない。
「では、なぜ狩屋すみれ先生は、以前の名字の『伏見』のままで家庭教師をしているのか? なぜ梓さんに対して奇妙な要求を続けているのか? そして、最大の疑問は、いったいなぜ、それを梓さんのご両親は認めているのか?」
「本郷のお父さんかお母さんが、狩屋先生と仲がいい?」
「『仲がいい』だけで、愛娘のコスプレ写真を撮影することを許すと思うかい?」
その「コスプレ写真」を携帯の待ち受けにしているぼくは、何も言い返せるわけがない。
「何かもっと深いつながりがある。当然それは、狩屋先生がこの街にいたときに生まれたつながりだ。すべての発端は、この街にあるんだよ」
昨夜、新幹線のりばで別れ際に「危険なのは梓さんの両親」と言った不老の言葉を思い出した。
ぼくは携帯電話で、本郷梓にメールをした。「塾が終わったら連絡ください」と。同い年の女子に敬語でメールするのって、ヘンだろうか?
「おっと、忘れるところだった」
不老はポケットを探り、数枚のしわくちゃになった千円札と硬貨、そして紙くずのようなものを取り出し、ぼくに差し出した。
「必要経費の残りだよ。ちゃんとすべて領収書はもらってあるから、精算してくれたまえ」
それらを受け取り、紙くずを開いて見ると、新幹線の運賃からコンビニでの買い物まで、すべての領収書だった。宛名は「御器所組様」とある。
なんてこった。こんな領収書で精算できるはずがないだろうが。
「さあ、行こうか、御器所君!」
「え? どこへ……?」
すでに不老翔太郎は、ぼくの部屋から飛び出していた。
ぼくは慌てて不老の後を追った。
またもやぼくの自転車に二人乗りして、本郷梓のマンションの近く――昨年まで狩屋すみれ先生が住んでいたという辺りまでやってきた。やはり、運転するのは不老で、後ろには、ぼく。本郷のマンションからは自転車で約三分という近距離だった。
この辺りは高級住宅地だ。警察官じゃないから、どこかの家に不意に押しかけて聞き込みすることなんてできない。夏至が近づいているので、七時近いのにまだ空は明るかった。
不老は近辺を一回りすると、一軒のたばこ屋を見つけた。昭和の時代が置き忘れていったような、小さな店。その脇に四台もの自販機が並んでいる。
「御器所君、君はこの辺りで待っていてくれたまえ」
「『くれたまえ』って……どうして?」
「君はとてもじゃないが高校生に、いや、中学生すら見えないからね」
「はあ?」
意味不明の言葉を発して、不老は小走りに「タバコ屋」に向かった。中学生でも高校生でも、タバコを買えるはずがないだろうが。
数分して、不老は腕組みをしたまま、渋面を作って戻ってきた。
「何かわかった?」
「あそこだよ」
不老が指さしたのは、タバコ屋から二十メートルほどの距離にある更地だった。簡単な杭とロープで囲まれ、不動産会社の名前の入った「立ち入り禁止」のプラスチック板がぶら下がっている。
「以前、伏見家の家族が住んでいた土地だよ」
「家族……?」
ぼくは更地を見回した。家が建っていた痕跡はまったく、ない。両隣も一戸建ての民家だった。左隣は二階建て。右隣は三階建て。どちらも敷地が広く、かなり大きな家のようだ――ぼくの家ほどじゃないけど。更地の奥は月極駐車場だった
「どっちの家も、最近、リフォームしたのかな」
更地に面したほうの外壁が新しかった。
「ほう、御器所君、いいところに気づいたね。しかし、あれはどうかな?」
不老は道路の反対側を指さした。その向こうに、高層マンションが建っているのが見えた――本郷梓の住むマンションだ。
ぼくがあっけにとられているあいだに、不老はぼくの自転車にまたがった。またしても、ぼくは慌てて後部に乗る。不老は、本郷の家に向かって走り始めた。
「どうして、伏見家はなくなっちゃったんだ?」
「僕が『伏見さんの元同級生だ』と言ったら、タバコ屋のおばちゃんは、親切にも涙ながらに伏見さんのことを教えてくれた。けれど、あの家が消えた理由については、何も言わなかった。おそらく、ほんとうに伏見さんの同級生だったら当然知っているはずのことなんだろうからね。わざわざ思い出したくもなかったんだろう……」
「ちょっと待った。同級生って言った? どう考えても無理だろう? それに『伏見先生は伏見先生じゃなかった』って言ったのは不老だぞ。実は伏見先生は狩屋先生だったんだろう? なのに、やっぱり伏見先生が伏見先生だったなんて……もう、ワケがわからないよ!」
ぼくは息巻いたが、不老はまったく気づいた様子もなかった。
「人の善意を利用して真実に近づくなんて、気分のいいものじゃないね。やはり、僕は探偵に向いていないのかな……」
不老はつぶやいた。いったいぜんたい、誰が「探偵」だって?
そのときだった。
紺色のアウディが近づいてきた。アウディは、ぼくと不老の自転車を通り過ぎると、急停車した。
後部座席から降り立ったのは本郷梓だった。
「不老君! 謎は解けたの? あ、御器所君も……」
本郷が駆け寄ってくる。どうして第一声が不老の名前で、ぼくはいつだって脇役なんだろう?
「塾じゃなかったのかい?」
「だって……心配だったから、途中で抜け出して、早めに迎えに来てもらったの」
まだ時計は八時過ぎだった。
「不老君、伏見先生に何があったの? 伏見先生って、何か悲しい思いをした人なんでしょう?」
ぼくは眼を白黒させた。その瞬間だった。
「ちょっと待ちなさいよ、不老君!」
あろうことか、後部座席の反対側のドアが開き、金銀河が姿を現した。あまりの不意打ちに、ぼくの両眼は白黒どころか、虹色のまだら模様になっていただろう。
「わたしも梓から、依頼内容は聞いてる」
「依頼?」
ぼくの間の抜けた質問は、完全に全員から無視された。
「いい、わたしは梓のために塾を早退したんだからね。ちゃんとそれに見合うような解決を用意しているんでしょうね」
不老はというと、いっこうに動じた様子がなかった。
「まだ解決はしていない。状況証拠と憶測に基づく仮説しか持ち合わせていない。だから、まだ話せる段階じゃないよ」
「それでいいから、話して。ね、梓も聞きたいでしょう?」
なんてこった、と思った。どんな局面だって、学年一番の優等生で学年一番の美人である金銀河が、ごく自然にその場の主導権を握ってしまう。
本郷梓は、申し訳なさそうな表情をぼくと不老に向けた。
怒った金銀河も美人だけど、こんな本郷梓も可愛い……いやいや、そんな場合じゃないんだった。
不老は、本郷梓を向いて、静かに言った。
「僕は言ったね、『もしも梓さんが僕の妹だったら、これ以上、伏見先生に会わせたくはない』と。撤回するよ。知らなかったとはいえ、とても残酷な台詞だった」
「やっぱり……伏見先生は悪い先生じゃなかったんだね」
本郷は言った。
「伏見先生は、一昨年まで、この近所に住んでいたんだ。向こうの一方通行の道にタバコ屋さんがあるのを知っているかい? ああいう老舗のおばあちゃんこそ、有力な情報源だった。伏見先生は、旦那さんと、お子さんの三人でそのタバコ屋さんの近くに住んでいた。僕は伏見先生の娘さんの元同級生だとウソをついて、タバコ屋のおばあちゃんから話を聞いたよ」
「伏見先生、娘さんがいたの? そんなこと、一言も聞いたことないよ」
本郷が目を丸くする。「伏見さん」とは伏見先生のことではなかったことが、やっと理解できた。
「言いたくなかった……言えなかったんだろう。まして、その娘さんが、梓さんにそっくりだったなんて」
「わたしに……?」
「伏見先生の姿をはじめて見たとき、誰かに似ている、と思った。よくよく考えれば、なんてことはない、梓さん、君に似ているんだ。そんな伏見先生の不思議な行動をよく考えてみれば、わかる。伏見先生は、君を誰かと重ねて見ているんだ、と」
「それが……先生の娘さん……?」
「梓さん、君はご飯を食べるとき、左右どちらの歯でよく噛む?」
「おい不老、それが何なんだ……」
やっぱりぼくの言葉は聞き流された。
「おそらく右だろう」
「あ……そう言われてみれば、そうかもしれない。でも……」
「人間の顔は左右対称にはできていない。右側の歯でよく噛む人は、右側の頬がより細くなっている。おそらく、そちら側から見たときの梓さんの顔が、伏見先生の娘さんによく似ていたんだろう」
「あ、だから椅子の位置を……」
「そう。伏見先生は梓さんの顔を右側から見ていたかった。梓さんを自分の娘のように見ていたかった。だからカチューシャを送り、さらには、娘さんの東桜学園中学の制服まで着てもらった。それに窓の外も見たかったんだろうね」
「ちょっと待って。どうしてさっきから、過去形で話してるの?」
金銀河が、眉間に皺を寄せるように深刻そうな表情で口を挟んだ。きっと、すでにその答えがわかっていたのだろう――ぼくでさえ、わかっていたから。
「そうか……火事だ。火事があったんだ! 両隣の家の外壁がリフォームされていたのは、焦げたり煤をかぶったりして、外壁が汚れたからなんだ!」
「そのとおり。珍しく御器所君は冴えているじゃないか。梓さんは覚えてないかも知れないけれど、一昨年に、伏見先生の家で火事が起こったことは間違いない」
「そういえば、四年生の冬休みの夜中に、近所に消防車がたくさん集まったときがあったっけ……あ、思い出した。わたしの部屋の窓から、その火が見えたんだ! じゃあ、そのとき、伏見先生の家族が……?」
本郷の両眼がみるみるうちに潤んできた。
「伏見先生は旧姓の狩屋という名前に戻り、V市のL区に住んでいる。V市に以前ご両親が住んでいたそうだけれど、今は一人暮らし。そして、わざわざ新幹線に乗って片道三時間半という時間をかけて、この街まで通っている――梓さんに会うために」
「伏見先生がときどき、窓の外を見て淋しそうな顔をするときがあったけど……そんなつらい体験してたなんて……」
本郷梓は涙ぐんでいた。すぐに金銀河がその肩を抱いた。
「僕にわかったのは、そこまでだよ。あくまでも、推理に過ぎないけれどね」
不老はそう言い、隣のぼくにしか聞こえないような小声で続けた。
「しかし、いちばん大きな謎が解けていない……いや、これは解決しなくてもいいのかもしれないな」
ぼくは黙ったままうなずいた。
「次に伏見先生が来るとき、わたし、どうしたらいいんだろう……」
本郷が泣きじゃくりながら言った。金銀河がずっと年上のお姉さんのように、本郷の体を抱きしめて、静かに言うのが聞こえた。
「梓も先生も悪くないんだから、いつもどおりにすればいいの。悪い人なんて、誰一人いなかったんだから」
そのとき、思いもかけないことが起こった。
アウディの左のドアが開いた。左ハンドルだから、運転席だ。
車内から現れたのは、大男だった。身長は百九十センチを超えているだろう。肩幅は異様に広く、胸板も分厚い。角張った顎に短く切りそろえた髪。やや白髪が混じっているのが見える。年齢は五十歳近いだろうか。眼が異様に鋭い。こんな眼をぼくはよく見ている。その筋――我が家と同業者の人間が持っている眼だった。けれど、本郷を送り迎えする同業者がいるはずもなかった。
「不老君、と言ったね」
大男は野太くドスの効いた声で言った。やっぱり、うちと同業者?
と思ったそのとき、大男はぼくに顔を向けた。思わず全身の筋肉が硬直してしまうような迫力のある眼つき。間違いなく、カタギじゃない――
「君が、あの御器所君か……」
「は? はい……」
どうしてぼくの名前を知ってるんだろう? が、不意に大男は、ぼくと不老に向かって、深々と頭を下げた。
「たいへんに大きな迷惑をかけてしまった。もとはといえば、私がすべて悪いんだ。銀河さんにも心配をかけてしまったね。それに梓、黙っていてすまなかった」
「パパ……!」
え? 「パパ」と言った? ということは……この大男って……。
まずい。ひじょうにまずい状況だ。不老から自転車を奪って逃げ出すタイミングを計った。
「詳しい話は、私から話そう。梓、みなさんを部屋に案内してくれるかな。パパは車を駐車場に入れてくるから」
本郷梓の父、県警刑事部長の
「不老君、短いあいだに、よくここまでのことを調べ上げた」
本郷虎蔵県警刑事部長は、鋭すぎる視線を不老翔太郎に向けた。取調室でこんな眼でにらまれたら、誰だって自白してしまうだろう。
けれど、不老はまったく臆することがなかった。
「伏見先生とは、単に近所づきあいのある知人だった、というだけではありませんね。確かに伏見先生の行動はとても奇妙に――異常にさえ見えます。しかし、もっと奇妙なのは、伏見先生の行動を梓さんのご両親がすべて黙認していた、という点です。伏見先生のご主人と娘さんが亡くなった火事の真相も、当然、ご存じなんですね。証拠のない推測に過ぎませんが……おそらく、普通の失火ではなかったんでしょう」
ぼくたちは本郷家のリヴィングに通されていた。革張りのふかふかのソファにぼく、不老、本郷、金銀河の順に腰掛け、テーブルにはアイスティが出されていた。ガムシロップを四つ入れてかき混ぜていたら、金銀河にじろっとにらまれてしまった。
本郷のお父さんは大画面プラズマテレビの前に立ちはだかり、四人の小学生を見下ろしていた。よりいっそう巨大な人物に見えてしまう。
「簡単に言おう。あの火事は、放火だった。同一犯による連続放火事件の最後の一件だった。難しい話は抜きにするが、以前から私たちがマークしていた男の犯行だった。私も仕事柄、遺体を眼にすることは何度かある。しかし、無残な現場写真を見たときには、さすがに胸が苦しくなった。まるで、梓、おまえを見ているようだったからだよ。伏見先生の娘さん――
「犯人は今、刑務所ですか?」
不老が尋ねると、本郷のお父さんはゆっくりと首を左右に振った。
「私も知らない……」
「どういうこと!」
本郷が叫ぶような声を上げて、身を乗り出した。
本郷虎蔵警視正は、一度眼を閉じると大きく深呼吸した。そして、言った。
「犯人は、亜弓さんと同い年――十三歳の中学一年生だったんだよ。十三歳の子どもは、刑務所に入ることはない。家庭裁判所送致になり、少年審判が行なわれた……はずだが、それには逮捕した我々警官も、タッチすることができない。もしかしたら、すでに少年院を出所して社会復帰しているかもしれない。無論、私も独自に、いろいろなルートを使って情報を得ることは不可能じゃない。しかし、本件ではそれができなかった。こんなことを君たちに言うべきではないのだが……犯人の少年は、警察庁警備局のお偉方の親戚だった。幸か不幸か、その事実はマスコミにかぎつけられなかったがね」
「ひどい! じゃあ、パパは犯人を隠すのに協力したの?」
本郷は立ち上がって、叫ぶように言った。
「間接的には、そのとおりだよ、梓。パパは梓に、それに伏見先生に、いくら責められてもしかたがない。伏見先生をおまえの家庭教師にしようと思ったのは……それが、せめてものパパの罪ほろぼしだと考えたからだよ。不老君、君はV市まで行って、伏見先生――今は狩屋先生だが――の今の暮らしを見てきたのだろうね?」
「はい。朝からコンビニエンス・ストアでアルバイトをしていました」
「伏見先生は、事件後、V市の実家へ戻られた。しかし……世の中は公平にはできていないのだよ。私にも個人的なツテで、V市の警察署には知り合いがいる。伏見先生の動向を知らせてもらっていた。すると、伏見先生は、昨年の春から夏までのあいだに、相次いでご両親を亡くされ、天涯孤独の身になってしまったことを知った。だから私は、伏見先生のために、何かをしてあげたかった。しなければならなかった……そのために……すまない、パパは梓を利用することにしたんだよ」
「パパ、どういう意味……?」
本郷梓が、震える声で尋ねた。その答えを知っているはずなのに。
「伏見先生のご主人とお子さんのお墓は、V市にある。伏見先生はV市を離れてこの街に戻ってくることを望まなかった。伏見先生は、中学の数学の教員免許を持っていて、学生時代に進学塾講師のアルバイト経験もある。そこで、パパは考えた。たとえ距離は遠くても、娘の亜弓さんの面影を梓が少しでも持っているのなら、梓の姿を見て、少しでも伏見先生の心が安らぐのであれば、多少、梓には不愉快な思いをさせるかもしれないが、伏見先生に家庭教師として、我が家に来てもらおう、と。梓、ほんとうにごめん。パパの浅はかな考えだったかもしれない。梓がそこまで悩んでいるとは、まったく知らなかった。ごめん、謝るよ。でも、これでパパも、いや、それ以上に伏見先生を許して欲しい。これからも、伏見先生の教え子でいて欲しい。それが、パパにできる伏見先生への償いなんだよ」
しばらく本郷梓と金銀河、二人の美人のすすり泣く声だけが聞こえた。ぼくも、鼻の奥がツンと痛くなったが、こらえた。いっぽうで不老翔太郎は、
「御器所君、謎はすべて……ではないが、解けた。さて、おいとましようか」
平然と言った。なんと無神経な男だろうか。
不老は立ち上がると本郷虎蔵警視正にお辞儀をして、リヴィングから出て行こうとしていた。ぼくも慌てて立ち上がって、本郷警視正に頭を下げた。
次の瞬間だった。
「御器所君――」
そう言いながら、本郷のお父さんがゆっくりとぼくたち、いや、ぼくに近づいてくる。全身のすべての筋肉が硬直した。急に立ち上がったせいだろうか。頭から血の気が引いていく。なぜ、不老じゃなくてぼくが?
「君は聡明な子だと、私は思っている。一警察官としてあるまじきことだが……君と知り合えたことを幸運に思うよ。これからも、梓と友だちでいてくれるかね?」
「あ……は、はい」
声にならない渇ききった音がぼくの喉からもれた。
ぼくは、すでに玄関に向かった不老翔太郎の後を追った。
気象庁によって梅雨入りが正式に発表されたけれど、どうやら今年は「
そんな火曜日の朝だった。学校まで歩くだけで汗で全身がべたべたになってしまう。特に、ランドセルを背負っている背中なんか、あせもでかゆくてしかたがない。
教室に入って椅子に座った瞬間だった。
「御器所君、これは何?」
ぼくの眼の前に金銀河が立っていた。朝イチで会話できたのが金銀河なのはラッキーだけど、金銀河の眼はまったく笑っていなかった。
金銀河は新聞をぼくの机の上に放って寄越した。
それは全国紙の社会面だった。小さな囲み記事に、わざわざ蛍光ペンで印がつけてある。
――中学生、飲酒運転事故で重体
という小さい見出しが眼に入った。
「中学生なのに、無免許でしかも飲酒運転なんて、ひどいね。自業自得だよ」
ぼくは言った。
「ちゃんと記事を読みなさいよ」
「ちゃんと家で新聞を読んでるよ」
この街に住む中学三年生男子が、原付バイクで、電柱に激突して大怪我をして重体という。とくに珍しくはない。どこでも起こり得る交通事故だ。
「今朝、梓からメールがあったの。事故死した中学生って、今の警察庁の……ええっと、警備部長の親戚なんだって」
「ふうん、そうだったんだ。それは新聞に載ってなかったような気がするけど」
ぼくは金銀河と眼を合わせずに言った。そのとき、脇から声が聞こえた
「『
いつの間に登校して来たのか、不老翔太郎だった。
テンモーカイカイなんとか……という言葉は知らなかったけど、意味はなんとなくわかった。
「しかし御器所君、君のやり方には絶対に賛成できない。二度としないでくれ」
不老が小声で言った。その言葉がぼくの胸に突き刺さる。
確かに、ぼくは伏見先生をめぐる一件を、父さんをはじめ、ぼくの「家族」全員に話した。とにかく、誰かに話さずにいられなかっただけだ。
御器所家のような稼業には、本郷梓のお父さんとは違う種類の「ツテ」がある。
ぼくが話したためなのか、あるいは純粋に事故だったのか、それともほんとうに「天の神様」が下した罰なのか、ぼくにはわからない。わかりたいとも思わない。
「今日は、梓の家に……伏見先生が来る日なんだって」
金銀河は言った。
ぼくは黙っていた。不老も無言だった。金銀河もそれ以上、何も言わなかった。
三人で、なんとなく教室の窓の外を見ていた。
天気予報に反して、雨が降り始めていた。
「怪しい家庭教師」完
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