#4 高速コーナー

ノイジー・エナジー  #4 高速コーナー


★本作品はフィクションです。実在の人物、団体、出来事、法律などには一切関係ありません。法令を遵守し交通ルールを守りましょう。


#初詣


 アタシは晴海ちえりって言います。高校一年生、花も恥じらう乙女な女子高校生です。少なくとも本人はそう思ってます。ウワサの巨大女子ハルミさんとは別人です。ていうか、誰があんなウワサを流しているんだろう。たまに真に受ける人がいて困る。


 アタシは身長は166チョイ(ちょっと伸びた…)だから巨大ではないし、殴る蹴るの暴力を振るったことなんてない。たまにアタシの目の前で転んだり、倒れたりする人がいるけど、アタシのせいじゃないし。とにかくアタシはたまにふらっと倒れて病院に担ぎ込まれるような、繊細でか弱い女の子なんです。皆さん、そこの所をよくよくご承知置き下さい。


 徹夜で騒いだクリスマスから一週間が経ちました。皆様あけましておめでとうございます。今年も良い年でありますように。


 本当はバイクで初日の出を見に行きたかったけど、とにかく寒いし、みんなの都合は合わないしで今年は見送ることにした。なので家族水入らずの正月休みを満喫するのだ。杏姉は天崎先生が気に入ったみたいだけど、いきなりお付き合いするほどじゃなかったようだ。天崎先生は正月は実家に帰るらしく、次は始業式で顔を合わせるはずだ。


 今日は元旦です。昨夜の大晦日は母さんの好きな紅白を見ていたら、いつの間にか寝ていたらしい。美味しそうな匂いで目を覚ますと、こたつで寝ていた。

「母さん、ちえり起きたよ。」

 すでに起きて髪をブラッシングしている杏姉が、上半身を起こしてぼーっとしたアタシを見つけた。

「ちえり、お餅幾つ?」

 そういえばお腹が空いている。

「三つ…いや、四つ。」

 杏姉が酷い顔をしてアタシを見た。汚いブタを見るような目つきだった。

「ちえり、冬眠する熊じゃないんだから!食っちゃ寝、食っちゃ寝してると太るからね。」

 姉さん、いいじゃん正月休みくらい。

「いいの、アタシは太らない体質だから。」


 そこへ母さんがおせち料理を持ってきた。煮しめと雑煮と黒豆は母さんお手製。数の子や昆布巻、田作りなどは買ってきたものだ。お屠蘇はなくて、お神酒代わりの冷酒で乾杯する。

「ちえりはひと舐めだけだからね。」

「杏姉のケチ。」

「ちえり、神棚と仏壇にもお神酒上げてくれる?」


 母さんのお願いは断れない。一番背の高いアタシが高いところにある神棚にお神酒を上げる係だ。お神酒を上げて、ぱんぱんと手を叩いて礼をする。別に信心深いワケじゃないけど、手を合わせると何となく落ち着く。

「ちえりも大きくなったねぇ。髪が短くなって…なんだか、あの人に似てきたかもねぇ。」

 母さんがなんとなくしんみりして言った。アタシが父さん似なのはホントだけど、まだ十六歳の乙女を捕まえてちょっと酷くない?


 グウ。

 お腹が鳴った。こたつに戻り料理を眺めると俄然食欲が湧いてきた。

「母さん、もう食べていい?」

 母さんが雑煮を持ってきた。ナイスタイミング!

「さあ、じゃあ食べる前にお屠蘇代わりの祝い酒ね。」

 姉さんはお酒をお猪口に注ぐと、こっちも待ちきれない。

「しょうがないね。ウチの娘は食い意地が張っていけない。」

 と、言いつつもお猪口に手を伸ばして持ち上げる。

「「「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」」」

 三人は声を揃えてお猪口を干すと料理に取り掛かった。


 お腹いっぱいになったアタシ達は、腹ごなしに初詣に行こうということになった。神社までは少し歩くけど、ちょうどイイ運動だ。

「そういえば、もうすぐ父さんの命日だけど、お墓参りはいつ行こうか?」

 歩きながら母さんが切り出したとき、姉さんとアタシはちょっとびっくりした。父さんが配達中にバイクの事故で亡くなってから、もうすぐ二年になる。去年は一周忌だったから親戚の人が何人か来たけど、母さんは父さんのことを思い出してずっと泣いていた。普段はお店の忙しさで気が紛れるみたいだけど、じっと父さんの写真を見たりしていると、ポロポロと涙をこぼしていたものだ。


「大丈夫よ。取り乱したりしないから。」

 アタシ達姉妹がよほど心配そうな顔をしていたのだろう、母さんは安心させるようにニッコリと笑みを浮かべた。

「そうだね。次の休みに行ってみる?あ、ちえりは学校があるか?」

 姉さんが早速スマホを取り出して予定を考え始めた。せっかく母さんがその気になっているのだから、あれこれ悩んでるよりはパパッと決めちゃった方がいい。

「よし、来週の日曜の午前中に行きましょ!それなら午後から店開けられるし。」

 おお…母さんが速攻で決めた。

 お墓参りということは富士山方面に行くんだよね。う~ん…。アタシはちょっと犬のサクラのことを思い出していた。


 神社まで行ってみると、けっこう人がいてぞろぞろと歩いている。見回すと何人か知った顔がいる。同中の友達だ。わお久しぶり、とか手を振ったりしながら歩いていくと、そんな中に夏子と春男くん達、佐藤さん一家を見つけた。あっちも家族が揃っての参拝だ。ちょうどお参りが終わったみたいで帰るところらしい。

「あけましておめでとう。今年もよろしくね。」


 夏子も挨拶を返してくれたけど、杏姉さんを見ると、ヒクヒクと引きつった笑い顔になった。なんだか変な笑い方が凄く気になる。アタシはコソコソと耳打ちした。

「夏子、大丈夫だよ。あのあと特にアプローチはなさそうだし、姉さんはお店で忙しいし、接点ないから。」

「そ、そう?私は別に気にしてないから。」

 心持ちほっとしたような表情が、夏子の思いを正直に語っていた。


「ねぇ、見てよコレ。」

 夏子が小さな紙切れを差し出した。ん?なに…ああ、おみくじだった。なんと!そこには大凶の文字が!

「…引くんじゃなかった…。」

「まぁまぁ…。滅多にお目にかからないし、むしろコレで今年の悪運を使い切ったと思えば…。」

「ママと同じ事言って…。あとココ。」

 夏子はしゅんとして恋愛運のところを指差した。

『叶わず。』の一言のみ書いてあった。救いの言葉は無し。

 うわぁ、これは泣いちゃうな。アタシは慰めのコトバを探したが、なんと言えばいいか?仕方なくモゴモゴとワケの分からないことを呟いていた。


 一通り挨拶を交わすと、春男くんの持っているお守りに気づいた。

「お、春男くん!合格祈願だね。頑張って!」

 春男くんは照れちゃったのかちょっと頬を染めて嬉しそうだ。

「ハイ!頑張って晴海さんと同じ高校に行きます!」

 可愛い後輩が自分を慕ってついて来るというのは嬉しいな。なんだか子犬みたいだ。


「チッ。」

 ん?夏子が舌打ちしたような気がするけど、まぁいいか。アタシ達はまたねと言うと、神社の境内に入っていった。


 本殿の前はお参りをする人達がけっこう並んでいる。列についてしばらく待っていると、ようやくアタシ達の番になった。本殿のお賽銭箱にぽいっと硬貨を投げ込み、お祈りをする。母さんはたぶん家族の無事と健康を祈ってくれているだろう。姉さんはきっと商売繁盛と恋愛関係のお願いをしているはず…。アタシはというと、年末に失恋したとはいえ、新しい恋に走るよりは、バイクで思い切り走りたいな。

「…今年はサーキットで思いっきり走れますように…」

 は、いけない!声に出ちゃいました。母さんが心配するかも…。


「いいな、ソレ!行こうぜサーキット!」

 いきなり隣から耳元に大声で呼びかけられてアタシはびっくりして飛び上がった。恐らく垂直跳びの新記録が出たに違いない。

「だ、誰?!って、翔吾?あんた、いつからそこに?」

 ホントにいつからいたのだろうか、隣りに翔吾がいてお参りをしている。足元にはリードに繋がれたサクラがいて、尻尾を振りながらアタシを見上げていた。


「あら、翔吾くん。あけましておめでとう。お正月は御実家に帰るんじゃなかったかしら?」

 母さんは去年のクリスマスパーティーでの食べっぷり、呑みっぷり(烏龍茶のはずだが…)が気に入ったらしく翔吾の顔を覚えていた。

「あ、おばさん、お姉さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。ちえりもな。」

 海外を飛び回る翔吾の両親は海外での正月に呼び出したらしいが、コイツはめんどくさいからと断って日本に残ったらしい。海外での正月休みなんて羨ましい。芸能人か?それを蹴るなんて、勿体ないお化けが出るぞ!


「なんだ、それなら大晦日からウチに来ればよかったのに。おせちもあるし、よかったら、今からでも…。ねえ?ちえり?」

 いやいや母さん、女の園に男を入れるのは危険だよ。

「ありがとうございます!いいんですか?」

 え?ちょっと!翔吾を見ると目を輝かせて、しかもあろう事か、ヨダレを垂らしそうな顔をしていた。いや、本当に垂らしたみたいだ…。口元を手の甲でグイと拭っている。しかも…。

 グウ。

「あらあら、お腹が空いてるの?やっぱりウチにおいでなさいな。手抜きおせちしかないけど。」

 ちょっとぉ…。母さんたら…。

「よかったじゃない。新しい恋の始まりかもよ?イケメンの先輩にフラれたんでしょ?」


 姉さんがコソッと耳打ちしてきた。

 無い無い無い!それだけはずぇーったいに無い!


「美味いです!あ、お餅もちゃんと焼いてるんですね!あひはひ…んがっ!」

「ちょっと…。いいから黙って食べなよ。あっ!ちょっ!ヤダ…なんか飛んできたよ!」

 結局、翔吾はウチまで来て母さんのおせちとお雑煮を食べていた。サクラは今日はケージが無いので店には入れず、裏のガレージに繋いである。姉さんがサクラも食べられそうなモノを見繕って、ぬるめに暖めてくれた。犬は猫舌だから、アツアツには出来ないけど、冷たいままじゃ可哀想だもんね。


「あ、お母さん!ホント美味しいっス!も一つ…いや、もう二つお餅頂いていいっすか?」

 この欠食児童が!

「翔吾!ちょっと調子乗りすぎ!それから、お母さんてなによ!」

 アタシはキッと睨みつけた。翔吾は箸を休めずに答える。

「え?こんなに美味い料理が毎日食えるなら、娘も料理上手いんだろうなぁ…。嫁に欲しいなぁって…。」

 え、嫁って母さんじゃないよね?え、娘のアタシを?何言っちゃってんの!と、思いつつも何となく顔が熱いような…。翔吾が不思議そうな顔をしてアタシを見ている。


「…ちえり、熱あんじゃねぇ?…なんだか顔赤いぜ?」

 ギャー!見られた?しかも心配された?変なフラグ立てるな!折れ!

「…あ…嫁って、お姉さんだぜ?可愛いし、オトナだし、歳上ってなんかイイ…イテテ!」

 思いっきりスネを蹴り飛ばしてやった!

「バッカじゃないの!アンタみたいなガキを相手にするワケないでしょう!とっとと食って帰れ!」

 アタシは立ち上がってサクラのいる裏のガレージに逃げていった。

 まったく…不覚だわ…。


「ご馳走様でした!」

「はーい。お粗末様でした。」

 ひとしきりお腹に食べ物を詰め込んだ翔吾はサクラの様子を見に裏のガレージにやってきた。アタシはサクラのお腹をコチョコチョしていた。ひっくり返って気持ち良さそうに目をつぶっていたサクラだが、翔吾が来たらシャキッと起き上がってお座りをした。よく躾してあるなと素直に感心する。アタシだったら甘やかし過ぎて、可愛くないサクラにしてしまっただろう。


「はぁ、食った食った。おい、ちえり、バイクの調子はどうだ?」

 アタシは埃をかぶったカバーに包まれているNSRを振り返った。

「…どうもこうも…封印中だよ。」

 バイクの玉子様事件の後、アタシが入院しているうちにNSRはカバーをかけられ、防犯チェーンでロックされてしまった。母さんからバイク禁止令が出たのだ。そろそろひと月になるだろうか?


「ねぇ、今度さ、父さんのお墓参りに行くんだけどさ。」

 翔吾は少し怪訝な顔でアタシを見た。

「サクラのお母さんのお墓参りもしようと思うんだ。」

 ふむ、と翔吾は腕を組んだ。

「オレにサクラを連れて行けと言うんだな?」

 アタシは翔吾の様子を伺っていたが、どうやら前向きに考えてくれているみたいだ。

「わかった。連れてってやる。で?いつだって?」

 やった!持つべきものは単純でお調子者の男友達だなあ。


#父の命日、サクラの墓参り


 翔吾はヒマだと言うが、ウチ、中華料理のはるみ屋は三が日まで休業で四日からは営業開始だ。四日から営業するから三日には仕込みをしなくちゃならない。正月休みは短くて、結構忙しいんです。アタシも冬休みはピザ屋のバイトに精を出し、NSRが封印中なので銀行口座は随分潤った。お年玉ももらったしね。


 今日は父さんのお墓参りの日だ。正月休み明けの次の日曜日。翔吾とアタシは学校は休み。お店は午後から営業予定だ。

 姉さんが運転するからコンパクトカーをレンタルして行こうということになったのだが、母さんと姉さんは午後からお店を開けるため即帰る。翔吾はマグザムでサクラを積んで行く。アタシは行きはレンタカーで行って、父さんのお墓参りが終わったら、翔吾のマグザムに乗り換えてサクラのお母さんのお墓参りに行くことにした。母さんと姉さんは父さんのお墓参りが済んだら、お店にトンボ帰りして営業開始だ。


「スピードウェイ分かる?」

「大丈夫だ。」

「お墓はそこからちょっと先に行ったところだから、大きな霊園だしすぐ分かると思うよ。多分翔吾の方が先に着くだろうから、暖かいところにいてよ。アタシのせいで風邪でもひかれたら困る。」


「翔吾くん。本当にバイクで大丈夫?寒いし、路面も怪しいよ?」

 姉さんがちょっと心配そうだ。確かに富士山を舐めちゃいけない。スキー場もあるし、山だから天候もコロコロ変わる。

「杏さん、大丈夫ですよ。この辰巳翔吾、美しい方の前で無様な姿は見せませんから。」

 ちょっと!何言ってんの?バカでしょ。

「あらあらあら!分かってるじゃない、翔吾くん。じゃあね…。ムチュ~ン。」

 杏姉!投げキッスなんて、調子乗りすぎだし。翔吾は何を想像しているのか、鼻の下が伸びてる。コノォ~!

「痛ぁ!おい、ちえり!足踏むんじゃねえ!」


「ちえり!アンタもたっぷり着込んでいかないと、帰りは凍死するよ。」

 姉さんは心配してくれて長いマフラーを貸してくれた。

「髪が長い時はイザという時、純毛マフラーになったんだけどね。」

 と、言いながらアタシは右手で髪の先をクルクルと指先に巻き付けた。ショートボブになったアタシの髪は左側は耳を半分隠すくらい、右側は引っ張るとアゴの先まである。カッコよく言うとアシンメトリーなスタイル、悪く言うとナナメってる感じだ。左から見るとおカッパちゃんで、右から見ると大人可愛い。

「いいから!着込む!文句言わない!」

 は~い。アタシは着せ替え人形さながらにモコモコに着膨れしていった。


 翔吾が約束の時間よりも早くウチにやってきた。翔吾のマグザムはタンデムシートの後ろにキャリアを足して、サクラのポータブルケージが載っている。ケージは天井のフタが開くようで、サクラが首だけ出している。

「ぷぷぷ…。何コレ、可愛過ぎ。」

 アタシは思わず、スマホのカメラを向けていた。

「一応、サクラは荷物扱いにしたから、高速も乗れる。帰りはちえりがタンデムシートにも座れる。バッチリだろ。」


 まぁ、一つ問題があるけどね…。

 翔吾はアタシの着膨れした姿を見るとゲンナリした顔をする。

「ウインドブレーカーはあるか。よし、それを外側にしとけ。軽くて薄くて暖かいのにしろ。あと、使い捨てカイロ持ってるか?」

 アタシはポケットに入れたカイロを取り出した。翔吾は少し心配そうな顔をする。

「後で少し分けてやる。グローブとブーツはちゃんと持ってけよ。」

 なんだか、初めてタンデムに乗せる女の子を心配しているみたいだ。

「翔吾はタンデムしたことあるんだよね?」

「ある。」

「ふぅん。女の子?」

「うっせーな!オトコだよ。オトコ!」

 なんだ。つまらない。ちょっとアタシの顔がニヤつくのは、タンデムに乗せる彼女がいない翔吾をからかう気持ちからなのだ。決して安心して気持ちが緩んだワケでは無いのだ。


 さあ、出発だ。はるみ屋一家のオンナ三人はレンタカーに乗り込んだ。翔吾はキャリアに乗せたサクラと一緒だ。アタシ達は東名川崎インターから、御殿場に向かった。クルマの運転手は杏姉さんだ。レーサーには致命的な弱点だが、公道では一番役立つスキルを姉さんは持っている。安全運転だ!

 法定速度遵守は当たり前、ほとんど常に走行車線を走り、充分な車間距離を空けて走る。故に…。

「すいません。お姉さん、先に行きます。」

 て、言うかのように翔吾はコチラを振り返って手を振るとスピードを上げた。しばらく姉さんの後ろを走っていたのだが、やっぱり痺れを切らしたみたいだ。

「ちぇ~、翔吾くんたら、つれないな。」

 翔吾はあっという間に視界から消えた。


 そう、姉さんも父さんの影響でポケバイを始めたんだけど、ポケバイの時は大したスピードが出ないから、割りと速かったんだ。でも、ミニバイクに乗り換えようと、父さんが勧めてもスピードがでるから怖いって、嫌だって言ったんだ。アタシは反対にスピード大好きだったから、今もサーキットを目指してる。結局、姉さんもミニバイクで少し走ったけど、途中でやめちゃった。まぁ怪我しないうちにやめてよかったんじゃないのかな?


 アタシ達は途中、足柄SAに立ち寄ったが激寒だった。まだ午前中も早い時間というのもあるだろう。駐車場の隅っこには雪が残っていた。路面には融雪剤の白い粉末の跡も残っている。周りの山々の頂きには白い雪の帽子が目立つ。翔吾大丈夫かな?いや、翔吾よりもサクラが心配だ。今日のメインはサクラのお墓参りなんだから。

「ねぇ、今日はサクラの方はやめておいたら?」

 母さんが心配そうだ。


「大丈夫だよ~。今日は晴れてるから~、これから気温も上がるよ~。」

 と、言ってはみたものの、息は白いし、語尾は震えるし…。

「う~寒。」

 冷え症の姉さんはクルマの暖房をガンガンに入れているが、寒くて仕方ないらしい。

「も~早く行って早く帰ろう!」

 ゆっくりとお土産を選ぶ余裕も無く、はるみ屋さん一家は足柄SAを出発したのだった。


 御殿場インターから国道246号を少し戻って、大きな霊園に向かった。事務所や待合室のある建物の近くにクルマを停めると、翔吾のマグザムが停っていた。

「翔吾?」

 翔吾は停めたマグザムのシートに座っていたが、サクラを膝の上に抱きその上に覆いかぶさるようにしていた。そしてピクリとも動かない。

「翔吾!?」

 つい大きな声が出た。アタシは翔吾の方に駆け出した。翔吾はようやく気がついたようで、顔を上げニヤリと微笑んだ。

「よう、来たな。」


 アタシはその顔を見て、気が抜けてしまった。

「ちょっと、びっくりさせないでよ。具合でも悪いかと思うじゃんよ。」 

「ちょっと寒かったからな。サクラに暖めてもらったんだ。」

 サクラは翔吾の膝から下りると、お座りをしてアタシを見上げてる。しっぽをフリフリして可愛いな。


「ひやぁ!冷た~い。」

 広い霊園を移動して父さんのお墓のある区間まで行き、近くの水場から手桶に水を入れて持って行った。その冷たいこと!ザクザクした砂利道を歩いて行くと晴海家の墓石にたどり着いた。

「すげー広いんだな。同じような墓石だらけで、よく自分ちのがよく分かるな。」

 翔吾が感心して言った。サクラは初めての場所でキョロキョロしている。


 フォーン、フォーン。

 スピードウェイからマシンの音が聞こえてきた。

「へぇー。ここまで聞こえるんだ。ちえりの親父さんには念仏より供養になるんじゃねえの?」

 みんな同じことを考えていて、父さんを思い出して自然と笑みがこぼれる。父さんが亡くなったのは早すぎたけど、楽しかった思い出があるから、こうやって笑えるんだ。翔吾とサクラが来てくれてよかったな。


 お参りが済むとアタシはクルマから翔吾のスクーターに乗り換えて、今度はサクラのお母さんの墓参りだ。

「気をつけて行きなよ。翔吾くん、ちえりをよろしくお願いします。」

 母さん、その言い方はやめようよ。アタシを嫁にやるみたいだよ。

「任せて下さい。無事に届けますから。」

 翔吾の言い方も気になるが、まぁいいや。ん?翔吾がポケットをゴソゴソやっている。

「ちえり、これをグローブとブーツの中に入れておけ。結構違うぞ。」

 ポイポイと翔吾がアタシに手渡したのは使い捨てのミニカイロだった。あ、靴用なんてあるんだ。

「なるほど、翔吾冴えてる。ありがと。助かるー。」


 靴用もただのミニも靴下や手袋に貼り付けられるようにシールがついていた。さっそくアタシはブーツを脱いで足の裏、靴下のつま先の方にペタリと貼り付けた。手袋はどうしよう?

「ホレ。百均だけど使え。」

 翔吾がくれたのは百均の白手袋。なるほど!これに貼ればカイロは直接肌に当たらない。この上にグローブはめれば暖かいかも。

「どうしたの?翔吾、冴えすぎ。雪でも降るんじゃない?」

「おい、不用意に雪が降るなんて言うな!ホントに降ったら帰れねえぞ。」

 そうだった。失礼しました。


 さてイザ出発ということで乗り込むのだが…。

「よいしょ。グラブバーは一応あるんだね。」

 アタシはタンデムシートに乗り込んだ。後ろにはサクラのケージが積んであって顔が出てる。つい後ろを振り向いてしまいそうだ。

「グラブバーでも、俺の背中でもいいから、しっかり捕まってろよ?」

 父さんの後ろには何回も乗ってるから、大丈夫でしょ。


 そんな感じで支度が済むとアタシは母さん、姉さんとは分かれて小さなサーキット方面に行こうとしたのだが…。

『この先凍結。チェーン、冬タイヤ必要。』

 と、いう看板が行く手に次々と出てくる。

「ヤバイな。ここからクルマの通行が少ないから、危険だな。」

 アタシも心配になってきた。路肩の雪が目立つようになり、場所によってはセンターラインが凍った雪で中央分離帯のようになっている。

「オフ車ならともかく、ローダウンのスクーターで二人と一匹乗ってるし、ハマったら終わりだね。」


 翔吾はしばらく端末で地図を調べていた。

「よし、一度246号に戻って、1号線の富士宮方面からアプローチしてみよう。そっちは交通量があるから走れるはずだ。」

 かなりのまわり道だったけど、幸いクルマは流れていた。沼津から1号線に入り、富士市から139号で北上すると富士宮だ。


「富士宮焼きそばって食べたことある?」

 翔吾は首を傾げていたが、ないなと言った。

「アタシも。ねぇ、帰りに食べていかない?」

「そうだな、腹も減ったしな。」


 なんて話をしながら交通量のあるバイパスから、ミニサーキットへ続く県道72号に入った。やはりこちらも路肩には雪が残っているが、ここからはそれほど遠くないのでなんとかなるだろう。

「もうすぐだね。」

 春にも来ていたが、やっぱりなんだか懐かしい。


「ああ、覚えてるぜ。この先のカーブでサクラに会ったんだよな。」

 アタシは翔吾の肩越しに行く手を見た。そうだ、あのカーブだ。道路にサクラの母犬が倒れていて、まだ子犬だったサクラがクンクン鳴いていたっけ…。

 と、思い出に浸っていたアタシ達は路面の変化に気付くのが遅れた。路面は黒く濡れて光っているだけのようだったが…。


「翔吾!ブラックアイス!」

 アタシは翔吾の背中に張り付き、片手を翔吾の身体に回した。もう一方の手はグラブバーを握りしめた。併せて、スクーターなのでポーンと投げ出していた足を引き寄せ、足首でマシンをホールドした。

「ゲッ!ちえり!しっかり捕まってろよ!」

 翔吾は慌てて減速するがブラックアイスに覆われた右カーブには間に合わない。翔吾はブラックアイスに乗る直前でフロントブレーキを離した。フロントが滑ったら、転倒必至だ!マグザムはなんとかカーブを曲がり切れるかに見えたが…。


 つつーっ。

 リアタイヤが滑った。

「やっば!」

 翔吾がライダーの本能でカウンターを当てる!アタシは翔吾のライディングの邪魔にならないように、背中に張り付いて一体となる。スクーターはテールスライドの状態で、ギリギリでカーブを抜け、最後の行き足を路肩の雪で殺して止まった。


 ダンッ!

 転倒寸前で限界までリーンしたまま停止したスクーターを支えるため、翔吾とアタシはマシンをホールドしていた足を、地面に叩きつけるようにして蹴りだした!

「フン!ヌヌヌヌ…。」

 …あんまり女子が出す声じゃないよね。

「ぐおーっ!」

 翔吾も大事なマシンを倒すもんかと踏ん張った。


「…クーン…クーン…。」

 後ろから、サクラの心配そうな声が聞こえる。

 アタシはサクラに声を掛けた。

「サクラ!降りて!お願い!」

 翔吾もそうかと、サクラに声をかけた。

「サクラ!降りろ!」

 サクラはワンと一声鳴くと、ケージからゴソゴソと這い出した。最後にぴょんと地面に跳ぶ時はアタシの足に限界まで加重された。

「グッ!」

 翔吾とアタシはなんとか堪え、真っ赤な顔をしてスクーターを起こした。


 サイドスタンドを出して路肩にマグザムを停めると、どっと汗が吹き出した。アタシ達はバイクを降りると、ぐったりとしゃがみ込んだ。路面が濡れていなければ座り込みたいくらいだ。

「びっくりしたぁ…。」

「シャレんなんねぇ…。」


 しばらくそうしていたが、サクラを見るとなんだかキョロキョロしている。やっぱり見覚えがあるのかな。止まったところはアタシがサクラを見つけた場所だ。そして、すぐそこの森の中にはサクラのお母さんが眠っている。今は雪で入れないけど、アタシは父さんにお供えする花束から数本抜いてきた花を道端に置いた。


「サクラ、おいで。」

 サクラはアタシの足元に寄ってくると、道端に置いた花をクンクンと嗅いだ。アタシはしゃがみ込んでサクラを抱き寄せると、森の奥を指差した。

「あの辺にサクラのお母さんが眠ってるんだよ。アタシも南無南無するから、サクラもなんか話してあげて?」


 サクラは森の奥とアタシを交互に見つめた。

「サクラ、Sit!」

 翔吾もアタシの隣にしゃがみ込んだ。サクラも大人しくお座りして、ワンと鳴いた。アタシと翔吾は手を森に向かって手を合わせた。道は静かで、時折、枝から落ちる雪の音が聞こえるだけだった。



 ビィーン!ビィーン!

 ブルルン!ブルルン!

 突然、静寂を破ってけたたましいエンジン音が聞こえ始めた。

「サーキットかな?」

「サーキットだな。」

 サクラも反応して、音の鳴る方へ首を傾げている。

 アタシと翔吾は顔を見合わせた。ドキドキ、ワクワクする気持ちが笑顔に現れていた。

「行ってみるか。」

「行ってみようよ!」


 アタシ達はマグザムをミニサーキットの駐車場に入れた。今日は貸切らしく、どこかのショップ主催のミニバイクレースが行われているようだ。この寒いのによく走るなあ。

 しばらく黙って翔吾と一緒にレースを見ていた。ライダーはみんな一生懸命走っている。パドックではレースの状況に一喜一憂するクルー達がいる。いいな、楽しそうだ。アタシや翔吾も昔はあの中にいたんだ。


 ん?あれは春に来た時に会った人達かな?小さな女の子がお母さんに渡されたピットボードを掲げている。ライダーの通過を確認して、戻ったパドックにはなぜかポケバイも置いてあった。

「…あの子も始めたのかな。」

「ん?なんだって?」

 アタシの無意識の呟きを、話しかけたと思ったのか、翔吾が聞き返した。

「あ、なんでもないよ。独り言。」

 翔吾はそうかと言って、また黙り込んだが、しばらくするとなんだか落ち着かなくなって立ち上がった。


「ちえり。また、サーキット走りたくないか?」

 アタシは今更何をと思ったが、立ち上がって言った。

「走りたいよ。なんとしてでも。」

 翔吾は、よし、と言った。

「ライセンスを取るぞ。ミニサーキットじゃない。本格的なサーキットの。」

 アタシは、どこの?って訊いて翔吾を見た。

「まずは筑波だな。」

 ニカッと笑った翔吾の顔が何故か頼もしく見えた。


#真っ赤なスーツ


 アタシ達はミニサーキットのレースをちょっぴり観戦した後で帰路についた。来た時と同じようになるべく太い道を通って。気になっていた富士宮焼きそばを食べ、沼津から246に入った。やがて姉さん達と分かれた御殿場近辺を通過した。そうだ。この辺に道の駅があった。初めて御厨先輩に会ったんだっけ。

「懐かしいな…。」

 翔吾が振り返って、なんだ?と言う。アタシはドラゴンの革ジャンを着たヤンキーさんに絡まれて御厨先輩に助けてもらった話をした。


「な、なんだって?!」

 おっとっと。翔吾は急にスクーターを左に寄せると、ハザードを点けて停まった。

「ちえり、大事な事なんだ。詳しく聞かせてくれ。」

「?どうしたの急に…。」

 いつになく真剣な表情にアタシは思い出せる限りの話をしたが、あんまり役には立たなかったと思う。だってその時は、怖い人達から助けてくれた王子様を投げ飛ばして煙に巻いて逃げて来ちゃったんだから!顔も怖かったことしか覚えてない。ただ、革ジャンの背中に描かれたドラゴンの骨の模様は気持ち悪かったのでよく覚えていた。



 翔吾が独り思案に暮れているので、アタシはサクラのアタマを撫でながら、辺りの景色を眺めていた。ふと視線を感じてその方向をみると、何かのロゴマークだろうか、ジトッとした目を型どったマークの看板が立っていた。なんか見た事がある気がする。『レーシングスーツ 十万円セット』って書いてあった。

「マジで?」

 聞いた事がある。革のレーシングスーツとグローブとブーツと他にもインナースーツとかいくつかグッズが付いて十万円ポッキリで買えるセットがあるって。良いものはスーツだけでもウン十万はするし、エントリーモデルでも名前の通ったメーカーだと十万円以上はする。セットで十万円ならアタシの懐にも優しい。


「翔吾。ねぇ、翔吾ったら。あれ何か知ってる?」

 翔吾は心ココに在らずといった様子だったが、アタシがアタマをどついてやったら、ようやく戻ってきたみたいだ。

「痛ってぇな!…ああアレか。たしか近くにショップがあるぜ。サーキットで走るならスーツは必要だからな。見て行くか?」

 翔吾はまだなにか引っかかっている様だったが、とにかくもアタシ達は動き出した。


 アタシはショップに入るや、あちらのスーツ、こちらのブーツ、そちらのグローブと翔吾を引きずり回した。

「クスクス。このジト目!翔吾似てるかも。」

 翔吾はわかったわかったと言いながら、相変わらずぼーっとしている。こんなんで帰り道は大丈夫なのだろうか?


「あ、コレいい!」

 アタシが見つけたスーツは明るい赤で、やっぱりジト目がついてるけど、なんだかカッコイイよ?恐る恐る値札を見ると。おお?赤札がついてる!十万円セットにも出来るって書いてある!

 早速試着だ!でもサイズって?MとかLとか無くて、46とか48とか数字が書いてある?

「ご試着ですか?」

 店員のお姉さんが声を掛けてきた。

「あの、サイズが分からないんですが…。」

 ハイハイと頷いて教えてくれたのだが、ユーロサイズって言って海外のサイズ表記らしい。とりあえず、身長を伝えるとお姉さんが選んでくれた。試着のためのインナースーツも貸してくれたのだが…。


 うーん。作りは良いのだが、やっぱり吊るしのスーツはフィット感が今一つか?翔吾のスーツみたいにヒップが入らないことは無かったけど、お腹周りや胸の周りに余裕がある。

「どうですか?」

 たまたま居た店員のお姉さんが声を掛けてきた。

「うーん。ちょっと上半身のフィット感が…。」

 お姉さんはアタシの上半身をサワサワしてチェックした。

「うん、確かに…。お客様?レースに出ますか?」

「はい!」

 アタシは目をキラキラさせていたに違いない。お姉さんはニコッとした。

「ではですね。プロテクターを入れてみましょうか。」


 お店の棚から背中に入れる脊椎プロテクターと、胸に入れるチェストプロテクターを持ってきた。

「あと、お歳はお幾つですか?」

 え?なんで?て思いつつも、十六歳と告げた。

「ああ、では公式なレースに出る時はエアバッグが必要ですね。最近は義務付けられることも多いですよ。」

 そうなんだ。


「じゃあ、プロテクターを入れてみましょうか?」

 背中に脊椎プロテクターを押し込んだ。お?お腹周りが丁度いいかも。

 店員さんがチェストプロテクターを二つ手に取ってアタシの胸を見つめている。あ、一つは女性用らしくて、膨らみがついてる。って、そっちを置いちゃうの?え、あれ?と、言う間に男性用?と思われる方をアタシの胸に当てた。こちらも逞しい男性の胸板に合わせて若干膨らみがあるけど…。あ、ピッタリ…。


 ジジジ…。ジッパーを閉める。さっきとフィット感が変わった!プロテクターの分だけ上半身にボリュームが補われて、なんかいいかも!

「どうですか?胸とか苦しくありませんか?」

 ギクッ。アタシは大丈夫ですって答えたけど…。胸とかって…そんなに直接的な部位を特定して聞かないでください!


 いや、確かに物理的には収まってしまって、身体的にはピッタリフィットですけど、心情的には泣きたいくらい苦しいです。

 きっと女性用チェストプロテクターもユーロサイズなんだ!外人さんのバストには叶わない。そう信じたい!


「では、お買い求めですか?」

 はい!と、快く答えたいんですが、手持ちがありません。

「…あの、取り置きとかできますか?」

「はい、一週間くらいなら大丈夫ですよ。」

 じゃあそれで、と一応注文伝票を書き始めた。


「なんだ?買うのか?手持ちが無いって?貸してやろうか?」

 翔吾が横から割り込んできた。

「イイよ。て、翔吾そんなに持ってるの?十万円だよ?」

 ピラッとサイフから出てきたのは真っ黒なカード。店員さんの方が目が点になった。

「XXplusのブラックカード!初めて見ました。是非ご贔屓にお願いします!」

 アタシはお金関係は綺麗でいたいので、翔吾にカードをしまわせた。どうせ子カードなんだから、親御さんにご迷惑を掛けたくない。そもそも翔吾に借りなんて作りたくない!絶対なんかのネタにしてねじ込んで来るんだから。


 店を出る時に店員さんにコソッと話しかけられた。

「彼氏さんですか?見かけによらずゴージャスな方なんですね。頑張ってゲットして下さいね。その時はウチのショップもよろしくお願いしますぅ。」

 彼氏?違う違う!けど、確かに見かけによらないよね…。え?何をゲットするって?アタシは曖昧に返事をすると上機嫌でショップを出た。


#新しい常連客


 最悪だ!さっき注文伝票を書いている時はあんなにウキウキしてたのに。今はウルウルしながら青切符を書かなきゃならない!


 翔吾がなんだかボケてしまって、運転を任せるのが不安になったアタシは、翔吾をタンデムシートに座らせ、慣れないスクーターの運転をすることにした。国道246をのんびりと走って、もう家の近くまで来たのだが…。

 ウゥ~。サイレンの音と共にバックミラーに赤い回転灯が映った。

「はい。ソコのスクーター、左に寄せて止まりなさい。」

 えええ!アタシそんなに飛ばしてないし?走行車線を前のクルマについて走ってただけなんですけど。


 アタシは渋々左に寄せて止まった。アタシの前に止まった白バイはアタシの免許証を見るとニヤリ笑った。

 ハイ、分かってます。未だ免許取ってから一年経ってません。ええ、二人乗りしてました。ゴメンなさい。もうしませんから…。え?二点減点?ええっ?反則金一万二千円?

 切符を切って走り去る白バイの後ろ姿は、『毎度あり。』と言っているように見えた。


「災難だったな。」

 翔吾め!アンタがボケてるから、代わりに捕まったようなもんでしょうが!アタシが睨みつけてるのに、何をスマホで調べているかと思ったら…。

「知ってるか?あと一点で講習会を七時間受けなくちゃならなくて、二万円かかるぞ。ブッチすると再試験が課せられて落ちると免許取り消しらしい…。」


 ガツン!アタシはアタマをどついてやった。

「痛ってぇな。わかった。悪かった。一言余計だったな。」

「じゃあ、反則金半分払ってくれる?」

「それとこれとは話が違うな。」

 金持ちは金を貸して恩は売るけど、財布の紐は固いらしい。



「ただいまぁ…。」

 アタシはようやく家に辿りついた。今日は散々だった。グッタリだ…。アタシは裏口に回るのも面倒くさいので、お店の暖簾をくぐった。

「おかえりなさい。ちえり?翔吾くんは?」

 ああ、その名前は聞きたくない。

「帰ったよ。ハア…疲れた。アレ?母さん一人?姉さんは?」

「杏なら、ホレそこに。」

 アタシが重い頭を巡らすと、そこには…。


「やあ晴海さん!遅かったですね。」

 え?ちょっと待って…。なぜソコに天崎先生が?その向かいには姉さんが座ってる。

「ちえりちゃん!天崎先生ったら、はるみ屋のラーメンが美味しいって!ちょくちょく来てくれるって!」

 なんですと?!コレは…夏子には非常に言いにくい。…どうしよう。

 プルプルプル!アタシのスマホが鳴った。ポーチから取り出すと、翔吾からのメッセだった。アタシはポーチから何かがはらりと落ちたのに気が付かなかった。

『スーツはいつ?早く筑波行こうぜ!』


「何よ!アタシは忙しいのよ!ほっといてちょうだい!」

 その時、アタシの足元に落ちた紙切れをカサカサと広げる音がした。アタシがやらかした青切符!

「なんですか、コレは?」

 天崎先生!ダメ!見ないで…って、見られちゃったよ…。あ、そんな目で見ないで下さい。え?母さんに見せちゃうの?そんなことしたら…。


「晴海さん!」

「ちえり!」

「ちえりちゃん!」

 アタシのNSRの封印は更に一ヶ月の期間が追加されました。ついでに免許証も封印。あ~あ…。


 追伸:ちなみに、取り置きをお願いしていたレーシングスーツもキャンセルさせられました。残念無念です。


#ビターチョコレートデイ


 二月に入った。

 

 アタシのバイク封印期間も二ヶ月になろうとしている。フラストレーション溜まりまくりだ。

「…ふあぁ~あぅあぅ…。」

 アタシは我慢出来ずにアクビをした。

「ソコ!真面目に考えなさいよ?」

 今日は二輪女子会の活動日だ。今日は来年のゴールデンウィークに開催される文化祭での発表内容の相談だ。


 吉野先輩はすごい元気。このお肌の乾燥する時期になんだか色ツヤがいい。恋は女子の健康にイイのかな?

 アタシが眠いのはバイトが忙しいからだ。反則金も払ったし、十万円セットは買いそびれたし、落ち込んでいても仕方ないからと、アタシはバイトに打ち込んでいた。免許証も取り上げられたから配達は無し。専らピザを焼いている。お陰でピザ焼き係の中では吉野先輩に続く二番手の作り手になった。微量だけど時給もアップした。

 いつかは解除されるだろうバイク封印期間に向けて、前向きに努力しています。ハイ。


 今日は吉野先輩、夏子、鈴木さん、アタシの女子のみ、本当に女子会だ。引退した御厨先輩はめったに来ない。翔吾は本業の男子部。関山くんは原付バイク購入のためのバイトだ。

 毎年文化祭準備がギリギリになるから、今年は早めに準備しろって、前部長の御厨先輩が吉野先輩に言ったらしい。


「晴海!アンタなんか意見は無いの?」

 なかなか意見が出ないので、吉野先輩はイライラし始めた。

「アタシはなんでもいいから、走りたいです。誰かアタシの免許証を取り返して下さい。ぐっすん…。」

 吉野先輩はまたかって顔をしていた。

「真面目に勉強して立派な成績を取れば、返してもらえるんでしょ?」

 母さんと天崎先生はそう言うけど、立派な成績ってなに?


「先輩、私は吉野先輩と一緒に技術論文を書きたいです。」

 夏子だ。まだ天崎先生がはるみ屋の常連になったことは話せてない。バイトに打ち込んでいる…いや、バイトに逃げてる理由の一つだ。

「お!建設的な意見が出た!よし、天崎先生にもオブザーバーとして参加してもらおう!テーマは…そうだな…『燃焼機関の電子制御』とか?」

 夏子の表情がパァッと明るくなった。ダメだ…。やっぱり言えない。


「私は…。じゃあ、原付デビュー体験記を書こうかな…。」

 鈴木さんが勇気を出して言った。アタシは吉野先輩と目配せをした。

「それは…じゃあ関山くんと共同執筆して貰おうかな。」

 吉野先輩の言葉に鈴木さんは顔が真っ赤になったが、コクリと頷いた。吉野先輩、グッジョブ!


 じゃあアタシはどうしようかな。レースとか、サーキット関係がいいな。そんなことを考えていたアタシは、周囲で勝手に進んでいく話に気が付かなかった。

 吉野先輩が黒板に決まったことをまとめていた。

「じゃあ、コレで決まり!春休みを有効に使って書き上げておくように!」

 あれ?アタシは?黒板の決定事項を見ると、『サーキット体験記 担当ちえり・翔吾ペア』

「なんですかペアって!いやサーキット体験記だってやりたいけど、出来るか分からないし…。」


 吉野先輩が黒板をスマホのカメラに納めた後で黒板消しを掛けながら、イラッとしてアタシを見た。

「晴海、この議題は終わりだ!次の議題があるんだよ。」

 まだなんかやるの?

「それは、コレだ!」

 吉野先輩は黒板に大きくハートを書いた。そして綴った文字は?


『チョコ作り!』


「今日男子がいない間に極秘理に進める必要がある。」

 バレンタインまであと二週間を切っていた。いや、アタシは本命の御厨先輩に告白して玉砕したから、当面誰にもあげるつもりはないのだけれど…。

「吉野先輩!チョコ作りを教えて下さい!」

 鈴木さんが手を合わせてお願いしている。

「先輩はピザ作りの神だって聞きました。チョコ作りもお上手なんじゃないですか?」

 吉野先輩は鈴木さんに持ち上げられて、なんだか鼻をヒクヒクさせている。


「ふふん、イイだろう…。私が極意を教えてあげる。ただ問題は場所だなぁ。」

 その時、夏子がアタシにコソコソと話しかけてきた。

「ねぇ、ちえりのおウチはダメなのかな?昔お姉さんと一緒にチョコ作ったよね。みんな失敗したけど。」

 いや、中学生の時失敗したのは夏子がチョコ爆弾を爆発させたからだ。飛び散ったチョコを拭き取るのに、泣きながら雑巾がけをしたのを覚えてる。


「今回は爆発しないよね…。」

 夏子は何を言っているのかよく分からないって顔をした。

「先生は爆発より、…たぶん溶けるチョコが好きだと思うんだ。」

 やっぱりなんだか化学反応を発生させようとしているらしい。

「夏子…お願いだから、お店を溶かさないでちょうだい。」

 とにかくアタシが家に連絡すると、次の定休日ならと姉さんが二つ返事でOKをくれた。しかもやっぱり一緒に作りたいらしい。コレはちょっと一言言っておかないといけない。



 次の定休日。予定通り、男子には内緒ではるみ屋のキッチンとカウンターでオンナの戦いが始まった。

 正確には慣れないチョコ作りに奮闘しているのだが、コレがなかなか上手くいかない。


「熱っつ!チョコ熱っつい!」

 チョコ作りの極意が聞いて呆れる。吉野先輩は実はチョコ作りは初めてらしい。コレが通常の三倍の速度でピザを焼く人と同一人物なのか?熱々のチョコに指を突っ込んでみたり、型に流し込むのにダボッとぶちまけてみたり…。きっとピザ作りは不断の努力の賜物に違いない。

 鈴木さんもチョコをハートの型に慎重に流し込んでいる。なんだかこっちの方がよっぽどサマになっている。


 姉さんには夏子が天崎先生の事を言っちゃダメって言っておいたんだけど…。

「どうして?」

 まぁ、そうだよね。アタシが夏子は先生にあげるチョコを作るんだよと言ったら。

「私も作るんだよ!じゃあ、夏子ちゃんとはライバルだね!」

「ダメだよ!アタシ、まだ夏子に言ってないんだよ。」

 姉さんは困った顔をしたけど、仕方ないなと了解してくれた。


 で、常連さんへの義理チョコを作っているという設定なのだが…。

「姉さん?なんですか?それは?」

 お皿にはナメクジのような、ウミウシのような…。コレをクチに入れるのはちょっと勇気がいりそうなシェイプのチョコがゾロゾロと並んでいる。

「ミニチョコ餃子だよー!ちえりちゃん好きでしょう?餃子!」

 餃子だったのか、そう言われたらそういう風にも見えるかもしれない。

「中にはブルーベリージャムとか、キウイジャムが入っててトロリと出てくるんだよ。」

 …インパクトあるな。

「姉さん、渡す時にはちゃんと説明してあげた方がいいと思うよ?」


「ちえり?小麦粉はこれくらいでイイかな?」

 そしてアタシと夏子はチョコケーキを作っている。チョコ溶けなくていいから、アタシと一緒に普通に作ってと夏子を説得したんだ。

 とりあえず、丸いスポンジを焼いてみたのですが、同じ材料で同じものが出来るとは限らないんですね。


「夏子上手!ふんわりフワフワ!それに比べてアタシのは…なぜ膨らまないの?」

 夏子は本命チョコでホールケーキをプレゼント。もちろん天崎先生へだ。アタシは同じケーキをカットして義理チョコにする予定だった。仕方なく膨らまなかったスポンジにデコレーションしてカットした。自分の分を作り終わってヒマしてた吉野先輩がそれを見て言った。

「ん?晴海、なんだソレは。もしかしてピザ?」


 ホントだ!

 味見をしたけど、チョコピザはピザと思えば不味くはなかった。むしろピザであれば美味しいかもしれない。と、いうわけで当初の予定通り義理チョコとして活用する事にした。

 アタシは簡単にラッピングしたのを夏子に渡した。

「春男くんにあげてくれる?一応言っておくけど、チョコピザだからね。」

「…たぶん、泣いて喜ぶと思うよ。ありがとう。」



 そういう訳でみんななんとか思い思いのチョコを一通り完成させたのだった。

「あ、お姉さん、お母さん、お邪魔しました。ありがとうございました。」

 吉野先輩がテキパキと指示して片付けも済ませ、お開きになった。


 最後にコーヒーと姉さんのチョコ餃子でお茶会をしたのだが、見た目の割りに美味しく頂けました。

 みんなが帰った後、アタシが洗い物を棚に仕舞おうとすると、姉さんがもう少し使うから、まだ置いておいてと言った。その夜、姉さんは遅くまでお店で甘い匂いをさせていた。


 バレンタインデー!

 今のアタシにとっては義理チョコを配るだけの日だ。一応、御厨先輩にも渡した。義理チョコだ。爽やかに渡すんだ!と自分に言い聞かせて…。

「先輩一年お世話になりました。」

「なんか悪いな。手作りか?」

「あ、義理チョコですから…。」

「そっか、ありがとな!」

 ニッコリ笑顔がなんだか切ないや。

 吉野先輩が彼女というのは未だに納得出来ないが、御厨先輩の好みなんだから仕方ない。ああもう!


 夏子が天崎先生に渡したいからと、一緒に職員室に向かった。

「うわぁ…。緊張する…。どうしよう。ドキドキして死んじゃうかも…。」

 普段は落ち着いてる夏子だが、こんな可愛い一面もある。中学生の時もチョコ不発弾を憧れの先生に渡そうとするのだが、本人の前まで行けないのだ。結局その時はアタシが代わりに渡したんだ。


 職員室に行くと女子に人気の天崎先生のところには数人の女子がチョコを渡しにやって来ていた。

「…みんな勇気あるなぁ。」

 夏子は心持ち青ざめている。


「さ、行こ!夏子!」

 と、アタシは手を引いたが、夏子は職員室の入り口から入れない。

「…や、ムリ…。」

「大丈夫だよ。アタシが一緒にいるから。」

 その時、アタシ達を見つけた天崎先生が声を掛けた。

「やぁ、佐藤さん、晴海さん。どうかしましたか?」


 テンパっていた夏子はアタシの手を振りほどくと、クルリと回れ右をして猛然とダッシュした。

「なんでもありませ~ん!」

 夏子ぉ~…どこに行くのぉ~?

「ん?どうかしましたか?」

 天崎先生は何が起こっているのか分からない。

 困ったな…。マジで…。

 アタシはとりあえず天崎先生に義理チョコを渡すと、夏子を探しつつ義理チョコ配達を続けた。


「バレンタインのチョコもらって下さい!あの、次の文化祭も走らせてもらっていいですか?あ、これですか?チョコピザです。意外と美味しいですよ?」

 男子部の石田前部長と、葛城新部長と、たぶんその次に部長になる翔吾にもチョコピザを渡した。文化祭のジムカーナ大会のエントリーのためだ。

 翔吾がコソコソと耳打ちする。

「ちえり、スポンジが失敗したと素直に言え。」

 うるさいな。近くに寄るな!グイグイと肘鉄で翔吾の肩を押し返した。


「痛ってえな。そう言えば、文化祭のテーマは決まったのか?」

「アタシはアンタとサーキット体験記を書く事になったわよ。」

 翔吾は『ホントか!』と言うとニコニコし始めた。アタシと一緒が嬉しいのか?ちょっと照れるな。

「よし、次のバトルは筑波だな!楽しみだな、今度こそ俺の勝ちだからな!」

 ま、そんなところでしょう。



 それにしたってなかなか夏子が見つからない。アタシは屋上に向かった。屋上に出ると階段室の影が屋上に映り込んでいた。そこに階段室の上に立つ二人の影も映していた。

 小さい方の影が何かを差し出した。

「今更だけど、好きです!付き合って下さい。」

 大きい影は一旦受け取ろうとした手を引っ込めた。

「…『今更だけど』は余計だよね。ねぇ美香、初めてのバレンタインなんだから、もう少しロマンティックにしようよ。」

 小さい方はへそを曲げたのか、後ろを向いたようだ。

「…そんなこと言ったって。悟は経験値高いんだろうけど、私は初めてなんだから。」


 その時、二月の寒空に冷たい風が吹いた。

「うわっ、寒っ!もう!こんなところで渡さなくてもいいじゃない。」

 小さい影に大きい影が守るように寄り添った。

「ごめんな、俺には大事な場所なんだ。」

 小さい影が一度離れて大きい影に向き合い寄り添った。


「私にも大事なところだよ。好き。悟、暖めてくれる?」

 寄り添う影は一つになり、言葉はもう聞こえなかった。アタシは足音を忍ばせて階段を降りた。なんとなく視界がボヤけているのは何故だろう。階段を一段降りる度に胸に響く痛みはなんだろう。いつかはこの思いも消えるのだろうか。

 アタシは思いに沈んでしまっていた。夏子を探すのを諦め、家に帰ってしまっていた。

 翌朝目覚めた時、夏子のことがひどく気がかりだった。



「あ、佐藤さん!びっくりした。晴海さんが探してたよ?…佐藤さん?大丈夫?」

 夏子は一階の階段の陰に座り込んでいた。鈴木さんが声を掛けてくれなければいつまでもそこに居続けていたかもしれない。

「鈴木さん、ごめん、ありがと。ちえりがなんだって?」

 天崎先生の前から逃げてしまったことを今更ながら思いだした。


「それでね、晴海さんは具合が悪くなったから帰ったの。もし、佐藤さんを見かけたら、ごめんねって言っておいてって。」

 ちえりに悪いことをした。謝って一緒に先生のところにもう一度行ってくれないかな?

「鈴木さん、よく私を見つけてくれたね。ありがとう。」

 鈴木さんはなんだかモジモジし始めた。

「実はね。さっきココで関山くんにチョコを渡したの。でも、私はそのまま逃げちゃって…。」

 鈴木さんて勇気あるな。私も見習わなくちゃ。

「でね、もし関山くんがまだココにいたらなって思って…。」



 その後、夏子は鈴木さんと分かれ、再び職員室に向かった。

「天崎先生はもう帰宅されましたよ。」

 ガッカリした思いと、ホッとした思いが胸の鼓動を穏やかにしていく。

「あ、でも、はるみ屋にラーメン食べに行ったかもしれないな。最近よく行くって言ってたな。」

 隣りにいた先生の言葉は落ち着きそうだった胸を再びざわつかせた。


 気が付くと夏子ははるみ屋の前にいた。見覚えのあるナンバーの隼が停まっていた。そんなはずは無い。ちえりは何も言わなかった。夏子は店の前から少し離れた場所で見守ることにした。

 やがて、天崎先生がはるみ屋から出てきた。一度閉まった入り口が開き、ちえりのお姉さんが出てきた。手にはプレゼントらしき小さな手提げ袋を持っていた。そして一言二言何か言った後、押し付ける様に袋を先生に渡すと、お姉さんは逃げる様に店に戻った。

 天崎先生は手提げ袋をしばらく見つめた後、左手で口元を隠した。もしかしたら嬉しくてニヤニヤしているのを隠したのかもしれない。そして袋を大事そうにカバンに入れると、隼で走り去った。


 夏子はどこを歩いて帰ったのか覚えていなかった。帰った時には、大事に持っていたはずのチョコケーキの袋を持っていなかった。

 いつも通り夕食を取って自分の部屋に入った。弟の春男はちえりがくれたチョコピザを大事そうに持っていった。

「…フフ。…ククク…。」

 もう笑うしかなかった。しかし、笑っているのに涙が頬を濡らしていた。

「ちえり…。酷いよ。早く言ってよ。あんまりだよ。」



 とあるコンビニでゴミ箱を掃除していたアルバイト学生がゴミ箱の異変に気づいた。

「おい、何か流れてるぞ!」

「何か茶色い液体ですね。」

「ゴミ箱…傾いてないか?」

 ゴミ箱は底が溶けて腐食し、今にも倒れそうだ。

「どうもこの手提げ袋に入ってたみたいですね。」

 それは夏子がラッピングしたチョコケーキのようだった。

「イタズラはやめて欲しいな。」

 その後、バイトの学生はゴミ箱の片付けで忙しく働いていた。


#卒業


 かなりモヤモヤしたバレンタインが過ぎると、学年末のイベントが目白押しだ。

 アタシが去年胃を痛めながら頑張った県立高校の入学試験。今年は春男くんが頑張っているはずだ。願わくばアタシのあげたチョコピザがチカラになりますように。願わくばアタシのチョコでお腹を壊しませんように。


 そして今年は胃を痛めながらの、学年末テストが続く。今回も先輩、友達総動員でサポートしてもらった。夏子は受験の終わった春男くんに高校生として教えることがあるとかで、テストが始まってからもあまり顔を合わせなかった。何を教えるつもりなんだろう。

 やっとこ学年末テストが終わったら、春男くんから連絡が来た。どうやら合格したらしい。春男くんにはIDを教えてなかったけど、夏子が教えたようだ。きっと部活も自二研に入るだろうから、まぁいいかな?


 そして、卒業式の日がやってきた。卒業式が終わった後の正門の近くでは、卒業生と名残りを惜しむ後輩や、卒業生同士で肩を抱き合って再会を誓う生徒達で賑わっていた。工業高校なので男子がほとんどだ。たまに目を潤ませている男の子もいるけど、ほとんどの卒業生は晴れ晴れとした顔をして正門から巣立って行く。

 そんな賑わいからはちょっと離れた場所で、卒業証書を持った御厨先輩が吉野先輩と話している。ああ、もう学校で御厨先輩と会うことはないんだな。ちょっとしんみりする。


「ちえり、泣いてもいいんだよ。」

 いつからそこに居たのか、夏子が横に立っていた。しかもハンカチまで差し出してる。

「泣かないもん。アタシを振った男のためになんか。」

 夏子がふふっと笑う。いつもの夏子だ。そっちの方が嬉しくて、涙が出そう。

「でも、お世話になったよね。」


 ホントだよ!夏子にはお世話になりっ放しだよ。ああ視界が滲んできた。もうだめだ!

「夏子ぉ~。」

 アタシは夏子に抱きついてしまった。でも、今しかないと思って、夏子の肩を抱きしめていた腕を伸ばした。そして、夏子の目を覗き込んだ。

「な、なになに?」

 今度は夏子が頬を染めてドギマギしている。


「…あのね?…アタシ、夏子に言わないといけないの。」

 夏子はふっと冷静さを取り戻すと、アタシの腕に手を添えた。

「…知ってる。天崎先生がはるみ屋の常連さんだって。」

 ええっ!

「知ってたの?」

 でも姉さんが先生にチョコあげたことは知らないよね。

「あ、ほら先輩が呼んでるよ。」


 夏子が指差した先では、御厨先輩と吉野先輩がおいでおいでしている。もうヤダなこんな顔してる時に。

 アタシは夏子に引っ張られて先輩達の前に立った。

「おやぁ?晴海、泣いているのかい?」

 彼女の余裕からか、吉野先輩に涙はない。一応吉野先輩が留学するまでの期限付きカップルのはずだけど、本当に留学するのだろうか?


「違います!これは先輩のせいじゃありません!」

 御厨先輩がちょっと心配そうにアタシを見た。

「御厨先輩!三年間お疲れ様でした。一年間お世話になりました。」

 夏子も一緒に挨拶した。

「自二研はアタシに任せて下さい。きっと立派な研究会にしてみせます。」

 吉野先輩がピクリと眉を上げた。

「ちょっと晴海。まだ私がいるでしょう?」

 ふんだ。

「失礼しました。ちょっと先走りました。」


 一応謝ったんだけど、吉野先輩がアタシのことをジトリと睨む。

「おい、二人とも仲良くやってくれ。先行き凄い心配なんだけど。」

 御厨先輩は気が気じゃないみたいだ。吉野先輩はフフンと鼻を鳴らすと、御厨先輩に向かって話しかけた。

「悟、春休みは毎日遊ぼうね。入学式まで暇でしょう?」

「あぁ、まあな。」

 御厨先輩がまんざらでもなさそうなのが、めっちゃ悔しい。


「あれ?先輩、研究論文はどうするんですか?」

 夏子が詰め寄った。そう言えば春休みは天崎先生と三人で文化祭のための研究論文を書くことになっていたはずだ。

「あぁ、私の草稿は天崎先生に渡しておいたから、佐藤さんは先生と二人でよろしくしてもらえないかな?」

 もう論文を書き上げたの?相変わらず仕事の速い先輩だな。と感心するとともに、でもそれはちょっとヒドくないかい?とアタシは思ったんだけど…。夏子を見ると、なんだか赤くなってアセアセしている。

「…え、二人っきりで…よろしく?…どうしよう。何を着て行けばいいのかな?ちえり?」

 はぁ…なんだかもう、どうでも良くなってきた。


「お~い。自二研でスナップ撮りませんか?」

 しばらく話していたら、鈴木さんと関山くんと翔吾がやってきた。これで自二研メンバーは勢揃いだ。

「俺は御厨先輩とは入れ替わりだけど、先輩は先輩だからな。」

 何故か翔吾が言い訳がましく、アタシにコソコソ言う。

「それに石田先輩がうるさいんだよ。『御厨先輩に挨拶行って来い。』って。」

 アタシもさっき自動車部二輪班の卒業生に挨拶してきたけど、結構泣いている後輩が多かった。石田先輩の代はかなり慕われていたみたいだ。


 そんな様子を見ていたのか、御厨先輩が翔吾に声を掛けた。

「やあ、辰巳。部活じゃ入れ替わりだったけど、石田からお前の話は聞いてる。」

 アタシと翔吾は先輩の方に向き直った。

「自二研と二輪班って、活動は別々にやってるし、体育祭では部費の取り分を争う仲だけど、バイクが好きな気持ちは一緒だからな。俺と石田やお前と晴海みたいな架け橋があると、ちょっとしたことで相談したり協力したり出来るんだよ。」

 ああ、そうかもしれないな。アタシはウンウンとうなづいた。


「お前達みたいなカップルがいると、そういう連携が上手くいくと思うんだ。」

 ウンウ…ん?御厨先輩、今カップルって言った?アタシは縦に振った首を慌ててブンブンと横に振った。

「ち、違います!カップルじゃないです!」

 グキッ。

「アイタッ!」

 しまった…。ビックリして急に首の角度を変えたから、ちょっと捻ってしまった。…ヤバい!なんか首が曲がって正面に向けない!

「随分とヤワな首だな。ホントに武道家なのか?」

 翔吾がプププと笑う。


「それじゃあ、撮りましょうか?撮ってくれる人が居たんで、全員入れますよ。」

 関山くんが近くにいたクラスメートを捕まえてきた。

「え、ちょっと待って…。」

 首が曲がってるんだってば!そんなことは誰も気にせず、代表して御厨先輩のスマホを使って撮ることになった。


「はい、並んで下さ~い。あれ?晴海さん、どっち向いてんの?」

 うるさい!

「この後、用事あるんで。ちゃっちゃっと撮っちゃってください。」

 吉野先輩がアタシを見ながら、嬉しそうに言う。

「…もう、適当に撮って…。」


 アタシはヤケになって変なポーズをしたり、変顔したりして何枚か撮ってもらった。その時、一瞬御厨先輩と目が合って離れた。今さらなのになんだか顔が火照ってしまう。

「はぁい。終わりで~す。お疲れ様でしたぁ。」

 スナップを撮ってくれたクラスメートがスマホを御厨先輩に返して、卒業記念撮影は終了した。

「じゃあ、みんなに送るから。」

 御厨先輩が画像をアップしている間に夏子がアタシをツンツンつついた。なにって振り向いたら…。

 グキッ。

 痛い!…アレ?逆に治った?なんだか首が普通に回るようになった。う~む、なんか作為的なものを感じるな…。


「ねぇ、ちえり。最後に一曲くらい演らないの?」

 夏子はそう言うけど…。えー、ちょっと恥ずかしいでしょ…。

「お?なんかやる気か?よし。ち・え・り!ち・え・り!」

 翔吾が調子に乗ってはやし立てる。

「え、ちょっと…やめてってば!」

 近くにいたクラスメートまで、『ちえり』コールを始めた。

「…やめてぇ…。」


 というアタシの声など、もう誰にも聞こえない。グッスン。

 アタシは仕方なくポケットからハーモニカを取り出した。

「オオー!」

 周りの皆さんが歓声を上げるけど…。すみません、そんなに期待されても…。

 アタシは観念して息を整えた。そして、片手で握ったハーモニカにもう一方の手を柔らかく添え、そっと唇に当てた。吹き始めは限りなくゆっくりとした息吹をハーモニカに注いでいった。やがて息吹は音となり、アタシの心が鳴り渡ってゆく。


 優しい音色は今年の流行りの卒業ソング。アタシが先輩に贈る気持ちを込めて、奏でるメロディは切ない別れのよう。響くハーモニーにビブラートを加えて、辺りを哀愁の色に染めて上げてゆく。気付けば誰かが口ずさみ、ハミングや囁きのような、つぶやくような微かな声が重なってゆく。誰かがクスンと鼻を鳴らした。誰かが頬のしずくを拭った。吉野先輩も目が潤んでいる。御厨先輩が吉野先輩の手をそっと握るのが見えた。アタシが目を閉じると、一筋頬を伝うものを感じた。


 アタシがハーモニカを吹き終えると、静けさで耳がごうごうと鳴っているみたいだった。誰かがパチパチと拍手を始めた。みんな照れくさそうな顔をしている。アタシはぺこりとアタマを下げてハーモニカをしまった。


「染みるなぁ…。」

 翔吾が鼻を真っ赤にして、グスグス言っている。

「晴海、ありがとうな。いい思い出になったよ。」

 御厨先輩は目が少しだけ赤かった。


 ピロリン。ブブブ…。

 アタシやみんなのスマホが鳴ったり、震えたりしていた。御厨先輩がアップしたスナップのお知らせに違いない。アタシがスマホを見ると、やっぱりそうだった。

 うわ…恥ずかし過ぎる。アタシは思った通り、いや思った以上に変な人になって写っていた。

 スナップをみんなで見た後、アタシ達はバラバラと解散して家路についた。


「アレ?メッセが来てる。」

 帰り道、御厨先輩からメッセが来ていた。

『美香が怒るような気がするから、晴海だけに送る。新しい部長を助けてやってくれ。』

 添付画像は笑顔の部員の中でアタシと御厨先輩が見つめ合っている一枚だった。アタシが首を傾げて、御厨先輩と目配せをしているようにも見えるのだ。アタシはこの絵を見つけて焦る御厨先輩を想像してクスリと笑った。この画像はアタシの初恋の思い出だ。今日でアタシも御厨先輩から卒業するんだ。


 暖かい春がもう始まっている。顔を上げると、通学路に並んだ桜のつぼみが膨らみ始めているように見えた。アタシは少し足を速めて先を急いだ。バイクの封印もきっと解けるだろう。新しい季節に期待して胸が高鳴り始め、気持ちが加速していくのを感じる。アタシは心のアクセルを開き、ひとつのコーナーを駆け抜けていく。


#再始動 クラッチ


 卒業式の後はホワイトデーがあったけど、アタシの義理チョコにお返しがあったのは春男くんだけ。夏子が代理でアタシにくれた。それでもアタシが作った出来損ないのピザチョコのお礼にしては、ちゃんとしたクッキーだった。

「コレは手作りなのかな。」

「なんか、頑張ってたよ。毎日味見させられたし。乙女って感じ。」

 夏子がウンザリした顔で言う。せっかくもらったし、味見してみよう。ラッピングからひとカケ取り出してポイッと口に放り込んだ。

 サクサク…お、美味しい!

 なんか、アタシがあげたチョコピザなんて足元にも及ばない。

「春男くん、凄いね。いいパティシエになるよ?」

 夏子は、ハハハ…と力無く笑ってぷいとアッチを向いてしまう。ククク…。なんか夏子、最近変な笑い方する。大丈夫かな…。


 関山くんは鈴木さんにホワイトデーで本命クッキーを渡したらしい。まぁ、あのふたりはお似合いだよね。春休み中にどこまで行くんだろう。あ、原チャリでね。


 待ちに待った、でも来るのが不安な終業式の日だ。とうとう学年末の成績表がやってきた。アタシのバイク人生が掛かった大事なポイントだ。勉強は周りの皆さんのお助けもあってかなり頑張った。どうしてもいい結果が欲しかった。

 怖々成績表を開いたが、結果は進級には十分で補講もなし。学科内の順位は真ん中より上という上々の成績だった。英語はギリギリ平均点をクリアした程度だけど、数学は思ってたより上位に入った。技術系の成績はまあまあかな。


 成績表を見せたら、母さんはよく頑張ったねって言ってくれた。ようやくバイクのキーも返ってきた。

 さらに今日はバイトの給料日。冬休み、三学期はピザ焼き職人として、かなり頑張った。そのおかげでアタシの銀行口座は随分と潤っていて、これでサーキット走行に必要なライセンスとか装備も揃えられるだろう。問題はその先のレース出場なんだけど、…それはこれから考えることにしよう。


 翌春休み初日。さあ、封印解除だ!埃の積もったカバーを外す。

 ケホケホ…。

 ブワッと広がった凄い埃で目や鼻がダラダラ、ウルウルする。あぁ、髪とお肌もなんだか白くなってしまった。ちょっとした玉手箱のようだ。

 そんな白いホコリの中から、アタシの愛車NSR250が現れた。

「久しぶり!元気だった?」

 アタシは思わずタンクに頬ずりしてしまった。あ、なんかザラザラする。


 とりあえず軽く掃除をしてから、キーを差し込む。ちょっとバッテリーが弱っているかもしれない。点灯したランプ類の光が弱々しい。

 とにかくエンジンをかけてみよう。キックペダルを出して、始動を試みる。

 えい!スコココココ…。

 やぁ!スコココココ…。

 とう!スコココココ…。

 ふぅ…掛からない。


 その後、チョークレバーを引いたり、燃料タンクの中を覗いてみたり、念の為燃料コックを回してみたりしたけど、うんともすんとも言わない。と、すれば…。

「押しがけですか…。」

 これはちょっと気合いが必要です。アタシは羽織っていたパーカーを脱いだ。まだ春の朝の空気はヒンヤリしていたけど、アタシの体温はかなり上昇していたんだ。


 アタシは結構減っていたタイヤのエアを補充した後でNSRをガレージから裏道に動かした。

 シャリシャリ…。

 お馴染みのブレーキの擦れる音がする。特に長期保管後は音が大きい。やっぱり錆びるからかな。裏道は誰もいなくて、今なら大丈夫そうだ。


「ではいきますか。」

 アタシはよいしょとNSRを押し始めた。タイヤがいい感じで転がりだしたところで、アタシはNSRに飛び乗ってクラッチレバーを握り二速に上げた。

 ガクン!ザザーッ!

 後輪がいきなりロックした!

「なになになに?!」

 さらにパニクったアタシは一瞬足を出すのが遅れた!


 ガッツン!

「痛った~い!」

 たまたま電柱の脇で停車したアタシは、左肩が電柱にぶつかって、そのまま寄りかかっていた。もし、電柱が無かったら、バイクごと転倒していただろう。アタシもNSRも無傷では済まなかったハズだ。

「いやいやいや!無傷じゃないし!」

 訂正。アタシの左肩に打ち身のアザがついた。知ったのは夜お風呂に入った時だけど。どうもズキズキすると思ったんだよね。


 アタシは慌ててスタンドをかけると、ともかくクラッチを握って、ギアをニュートラルに入れようとしたけど…。

 カッ…カッ…。

「…入らない。」

 さて、どうしたものだろう…。


 ギアは二速に入っている。クラッチレバーを握っても切れない。多分、古いバイクだし、しばらく封印されていたし、クラッチが貼り付いてしまったと思われる。さあ、そんな時にはどうしたらいいんだろ?

 アタシもバイクの簡単な整備は出来るけど、そんなに経験値が高いワケじゃない。クラッチが貼り付いた時の解決策は…と、検索したけど…。


 1.エンジンをかけてしばらくすると治る可能性がある。…エンジンがかからないから困ってるんです。

 2.エンジンがかからない時は押しがけしてみましょう。…それでこうなったんですけど?

 3.クラッチを分解して、一枚ずつはがしましょう。…そんなにスキルは高くないんです。


「ああもう!誰か助けて~!」

 って、危うく叫びそうになった。

 こんな時にお願い出来るのは?


 1.夏子。…専門が違う!

 2.吉野先輩。…やっぱり専門が違う!

 3.御厨先輩。…卒業!

 4.………翔吾?…えー。どうしよ。


 とりあえず、1、2、4にメッセ…。すると早速返信が…。


『あらら、大変だね。今、天崎先生と論文書いてて、楽しいの。でね!…』

 ダメだ。この先を読む気がしない。


 あ、既読スルー…。まぁ吉野先輩はそうだよね。きっと…。

 ダメだ。この先を考えたくない!


 ピロピロピロ…。あ、着信…。

「よう、ちえり!やっちまったな!」

 ブチ…。あ、切っちゃった。

 ピロピロピロ…。またか…。

「おまえ、自分でメッセしといて。ひでぇな!」

 うぅ、だって勢いで切っちゃったんだもん。


「翔吾、アンタにこんなこと言いたくないけど…。お願い。助けて。」

 コレも勢いで言っちゃった。

「…」

 アレ?沈黙?なんで?

「おーい、もしもーし。」


「…ふふふ…。」

 なんか変な笑い声が聞こえ始めた。

「…ハァーッハッハッハ!」

 翔吾?おかしくない?

「ちえり!言え!『助けて、翔吾様。貴方だけが頼り!』って…」

 ブチッ!

 バカなの?


#再始動 その2 坂道


 ボボボボボ…。

 しばらくするとマグザムの排気音がした。

「よう。」「ワン!」

 翔吾がやって来た。犬のサクラも一緒だ。

「…うん。悪かったね。ありがとう。」

 翔吾は『いいって事よ』って言うみたいにパタパタと手を振ると、早速NSRを見始めた。まずはユサユサと車体を軽く前後に揺すりながら、カチャカチャとギアペダルを操作する。

 カッチャン。

 ニュートラルになかなか入らなかったギアが、軽い音を立てて入った。これでタイヤを引きずらずにバイクを動かせる。


「あぁ、そうだね。アタシったらパニクってて考えられなかったよ。」

 翔吾はチラッとアタシを見ると、フフンと鼻を鳴らした。

「そんなでよくレースに出たいなんて言えるな。転倒してコース上でマシンを動かせなきゃ即リタイアだぞ?」

 くっそー。そんなの分かってる。一人で何でもやれるなんて思ってないけど…。なんか悔しい。


 カラカラ。シャリシャリ。

 とりあえず、動かせるようになったNSRを裏道からガレージに運び込む。

「普通はエンジン掛けて暖気すると、上手く剥がれるんだけどな。」


 あちこち見ながら、アタシがやった様にキックペダルでエンジンをかけようとする。

「ダメだ。参ったな。」

 一通り試した後で、翔吾がドッカリと座り込んだ。

「お茶どうぞ。」

 アタシは頑張ってくれている翔吾にお茶を入れてきた。


「ん、ワリいな。」

 アタシはペッタリ伏せているサクラの横にしゃがむとサクラのアタマをワシャワシャした。サクラはアタシをチラッと見ると気持ち良さげに目を閉じた。

「アッチい!…おい、このお茶熱すぎるって。」

 なんだ、猫舌なんだ。

「日本茶は熱々だって決まってるでしょ?」

 翔吾はふぅふぅ言いながら、チビチビとお茶をすすっていた。

「ご馳走様。」

 翔吾はお茶を飲み終わると、ガレージから外を見ていた。視線の先には裏山に上る坂道があった。

「よし、荒療治だ。これでダメならショップに持って行こう。」

 え?何すんの?

「心配するな。坂道を使った押しがけをするだけのことだ。」


 裏通りの反対側は少し山になってる。高さはないけど、そこを直線的に登る坂道がある。中学生の時はこの坂を登って山の上の学校まで通ったものだ。結構勾配のキツい坂道で、遅刻しそうな時に駆け上がると、むっちゃ息が切れるんだよ。


「え、あの坂をNSRを押して上がるの?」

 翔吾はもう一度坂道を見上げるが、決心は変わらないらしい。

「じゃあ、やるぞ。」

 カタン。

 翔吾はスタンドを上げると坂道に向けて押し始めた。

「え、え?アタシは?」

 一人であの坂は登れないよ。


「後ろから押せ。俺がブレーキで転がり落ちないようにする。けど、もしバイクが止まらなくなったら、潰されないように逃げろ。後はハンドルを握ってる俺がなんとかする。」

 うわぁ、怖いんですけど。

「大丈夫なの?」

 翔吾はニカッと笑った。

「大丈夫だろう。最後には逃げるからな!」

「ちょっと!アタシのバイクだよね?」

 そんなアタシの言葉は意に介さず、翔吾は近づいてくる坂道を見上げる。


「う~ん。思ったよりキツそうだな。」

 だから言ってんじゃん!

「よし、ココから助走をつけるぞ。ちえり!押せ!」

 ちょっと待ってよ!

「ワン!」

 え、サクラもついてきたの?

 え~い!もうどうにでもなれ!


 アタシは走り始めた翔吾に合わせて、NSRを押し始めた。

 カラカラカラ…。

 チェーンとスプロケットの回る音が軽やかに響く。

「よーし!ココから坂道だ!死んでも止まるな。押しまくれ!」

 さっきと言ってることが全然違~う!


 ガタンガタン!

 坂道の入口で道を横切っている排水溝が微妙な段差になっていた。NSRは軽く跳ねるけど、アタシと翔吾はもう止まらない。

 グググッとバイクの重量が押している手にかかり始める。軽いと言われるNSR250だが、140キロ位はある。慣性で転がっていたタイヤが徐々に遅くなっていく。


 助走の効果が切れると、アタシと翔吾は必死に足を進めた。坂道は中程を越えた辺りで、一番勾配がキツくなっている。進む速度は歩く位の速さだけど、押し上げる腕に掛かる重量はハンパない。

「ぬおーっ!」

 翔吾が叫んだ。ハンドルを押す腕はブルブルと震え始めている。

「翔吾、大丈夫?きつかったら、一旦止めよ。」

 アタシも限界だ。一瞬の弱気が押す力に現れたのだろうか。ノロノロと進むNSRが止まりそうになった。


「止まるな!押せ!」

 アタシはハッとしてもう一度全力で押し始めた。ゆるゆると進むNSRはもう少しで急勾配の地点を通過しそうだ。

「ここで止まるな!二度と動けなくなる!もう一度坂の下から駆け上がるのは無理だ。何としても、今駆け上がれ!」

 そうだね。今しかないんだ!

 アタシはそろそろ限界のきた腕を徐々に畳んで、NSRのテールに肩を付けた。もう逃げられない。逃げるつもりもない!停まるな!進め!力の限り!


 つまづいたらNSRに潰される。それもまた運命?でも慎重に全力で一歩を踏み出す。

 何歩進んだ?まだまだ勾配はキツい。肩で押し始めてから、アタシは反対側を向いてしまって、翔吾の姿を確認出来ない。荒い呼吸の音と、たまに毒づくセリフが翔吾の存在を確認出来るすべてだった。



 カタン。

 乾いた音がして、サイドスタンドが蹴り出される。

 ギッ。

 サスペンションが軋んで、NSRがスタンドに車体を預けた。

 ハァハァハァ…。終わった。


 坂道の頂上で翔吾もアタシも力尽きて、路肩に寄せて止めたNSRの横で、二人してヘタり込んでいた。

「ああ、キッツー!」

 息を継ぎながら、翔吾がボヤいた。

「よく登ったよ。アタシじゃ登ろうとも思わなかった。」

 翔吾は息を整えながらNSRを見ていたが、しばらくすると立ち上がった。


「え、なに?」

 翔吾は呆れたようにアタシを見下ろした。

「なに!じゃねえ。ここからが本番だろうが。」

 いや、わかってるけど。アタシは体を起こすと、ガクガクする膝をなだめて立ち上がった。

「ここからはお前の仕事だ。しくじるなよ。」

 まぁ、なんとかする。

「うん。」

 アタシをコクリと頷くと、坂道を下るべく、NSRの向きを変えた。

「俺も後ろに乗ってリアの荷重を増やすか?」

 それは願い下げだな。


「え、大丈夫だって…。」

 翔吾はニヤリ笑う。

「そうだな。ちえりの体重なら十分だろう。」

 うるさいな。そんなに重くないっての。


 とはいえ、坂道でしっかり後輪に荷重してちゃんとエンジンをかけないと、登ってきた苦労が報われない。

 アタシはNSRにまたがるとスタンドをあげた。そして、たった今全力で登ってきた坂道を下り始める。

 カラカラカラ…。

 NSRは空走を始め、すぐに押しがけには十分な速度に達する。


「ちえり!今だ!」

 翔吾に言われるまでもない。アタシは体重を後輪に預け、腕は急停止に備えた。

 カッチャン、とギアを二速に入れる。一瞬リアタイがキュッと音を立てて止まり、ぐうっと制動がかかったマシンは止まりそうになる。ガシッと握ったハンドルにかかりそうな体重はニーグリップした膝で吸収する。しかしここは坂道で、NSRは140キロの自重によって坂の下へと引き摺られ、ガクガクと動き続けた。


 ガクガク…スコスコココ…ボフッ、ボボボ…。

 やった!マフラーから白い排気ガスが出始める。クラッチレバーを握ると、クラッチが切れた!

 ボボボ…べべべべ…ビビビィーン!

 アクセルを軽くあおって、エンジンの吹けを確認する。


 やった!やった!エンジンがかかった!クラッチもちゃんと切れるようになった!アタシは坂道を降りきるとNSRを路肩に停めた。

 振り返って見ると、翔吾がブラブラと坂道を歩いて降りてきた。

「やったよ!翔吾!ありがとう!」

 アタシは嬉しくて嬉しくて、ちょーハッピーだった。


「よかったな。俺のTZRはクラッチとギアボックスがお釈迦になっちまったんだよ。上手くいってよかった。」

 え、悪い前列があったの?

「あんたねぇ アタシのは父さんの形見なのよ!」

 翔吾は幾分ムッとする。

「いや、俺のだって兄貴から譲ってもらったバイクだから、さすがにちょっと泣けたぜ?」

「翔吾って兄弟がいたの?」

「あー…まあ元義理の兄貴ってやつだ。」

 それ以上はまた重そうな話になりそうだったから追求はしなかった。気にはなるけどね。


#再始動 その3 プラグ


 アタシはゆるゆるとNSRをガレージに入れたんだけど…。

「ア、アレ?」

 なんかパワーが出ていない。いつもの半分も出ていない感じだ。無茶な始動をしたからだろうか?

「どうした?なんかおかしいか?」

 翔吾がアタシの怪訝な様子を見て声をかけた。アタシはエンジンをかけたまま、スタンドを下ろしてバイクを降りた。


 エンジンの音を聞くと、いつもより音が小さい気がする。でもクラッチやギアから異音がするワケではない。ぐるりと後ろに回ると、違和感の正体が分かった。

「翔吾、コレ。」

 アタシはマフラーの排気の異常に気づいた。

「ねぇ、右のマフラーから排気してなくない?」

 どれどれと、翔吾が寄ってきてマフラーを見始めた。


「ホントだ。」

 左のマフラーからはポポポポと白煙が出ているが、右のマフラーからは出ていない。手をかざすと左は排気の鼓動を手のひらに感じるが、右はシーンとしている。

「コレは…プラグかな?」

 翔吾もあちこち見ながら調べていたが…。

「だなぁ…たぶん…?」

 どうりでエンジンの掛かりも悪いワケだ。そういえばプラグは最近替えていなかった。


 アタシはガレージを見渡した。昔はパーツとかが結構並んでいたけど、遺品整理の時にあらかた廃棄してしまった。残念ながら予備のプラグは無い。転倒に備えてレバーとかはあるけど。

「しょうがない。ショップに持って行こう。」

 大丈夫かな。

「ここからそんなに遠くないから、すぐ行こうぜ。…ちょっと、見せたいものもあるしな。」


 と、いうわけで翔吾がひいきにしているショップワタナベに行くことになった。家政婦さんの旦那さんのお店でもある。

 NSRの片肺走行は馬力が半分どころか原付と大差ないんじゃないかと思うほど元気が無かった。やっぱり引き取りに来てもらった方がよかったかな?とか、考えているうちにショップに到着した。


「ナベさん、来たよ!」

「やぁ、翔吾くん、ちえりちゃん、いらっしゃい。今日はどうしたの?」

 ショップは思ったより近くで、平坦な道だったから、さして苦労せずにたどり着くことが出来た。


 バイクを店の前に止めて店の中に入った。こじんまりとしたショップだけど、バイクやパーツが整然と並んでいる。古そうな建物だけど、きれいに掃除されている。信頼のおけそうなバイク屋さんぽい。

 店長の渡辺さんがきさくに話しかけてくれる。アタシは走行会で会ったくらいだけど、覚えていてくれたんだ。翔吾がホレと促したから、アタシは店長さんに押しがけのこととか、片肺ぽいことを説明した。


 どれどれと、店長さんはNSRを整備工場に入れると、エンジンをかけた。既に温まっていたから、キック一発で動き出した。でも、やっぱり右のマフラーからは排気していない。店長さんはなるほどと言うとエンジンを止めてカウルを外し始めた。

「うん、たぶんプラグだね。ちょっと交換してみようか。」

 たかがスパークプラグ交換だが、フルカウルのNSRはカウルを外す手間がかかる。


「あ、アタシもやります!」

 アタシも少し手伝ってカウルを外し、ようやくむき出しになったエンジンからプラグを外す。店長さんはプラグを見るとニッコリした。

「ああ、これだな。結構使い込んでるね。」

 ホラって見せられたプラグは電極が黒くすすけているし、摩滅している様にも見えた。うう、だってバイク楽しいんだもん。なんて言っているうちにプラグ交換終了。


「じゃあ、エンジン掛けてみようか。ちえりちゃんお願い出来るかな?」

 アタシはまだエンジンむき出しのNSRのキックペダルをえいっと踏み込んだ。

 ボロロロンッ!

 おお、一発でかかったよ。

 ボロッボロッボロッ…。

 死んでいたシリンダーが生き返った。アクセルを軽くあおる。

 ビィン!ビィーン!

「やった!よかったぁ。」

 NSRは元気を取り戻したみたいだ。アタシはバイクを降りてしゃがむとマフラーを確かめる。


 ポポポポポポ…

 沈黙していた右のマフラーからは排気煙が白く吐き出されている。手をかざすと規則正しい鼓動が手のひらに当たってくすぐったい。

「やっぱりプラグだったな。」

 翔吾がバイクを挟んでしゃがみ込んだ。なんかドヤ顔してるけど、別にって感じ。

「じゃあ、反対側も替えておこうか?多分同じような状態じゃないかな。」

「あ、お願いします。」

 アタシが二つ返事で承諾すると、店長さんが二気筒のもう一方もプラグを替えようと作業を始めた。


 ハァ、プラグ交換くらいで済んでよかった。アタシは部品代と工賃をお支払いするとホッとした。思ったより安く、大分サービスしてくれたみたいだ。

 NSRはカウルを外すから、それだけで工賃が跳ね上がる。レプリカ系バイクのエンジン周りは、軽量化とかマス集中化のためか入り組んでいて、タンクを外したりズラしたりしないとシリンダーにアクセス出来なかったりする。常にエンジンむき出しのネイキッドの様なワケにはいかないのだ。


 安く修理してもらって、しかも待ってる間に美味しいコーヒーなんかも頂いちゃったりして…。なんかホッとした。

「大したことなくてよかったな。また勝負しようぜ。」

 一息ついた翔吾が振ってきた。アタシはいつでもいい。って言うか、早く走りたかった。

「文化祭の発表もしなきゃならないんだよな?」

 うぅ…。そっちは気が重い…。


「あぁ、何も考えずに走りたい…。」

 翔吾はやれやれと言う様に首を振った。

「お前はレースをやりたいんだろう?だったら、もう少し考えなきゃダメだ。」

 翔吾はコーヒーのおかわりをしようと、コーヒーポットを取った。自分のカップに注ぐと、アタシのカップを見た。いるか?と言う様にポットをかかげてる。アタシがコクリと頷くと、カップにおかわりを注いでくれた。

「ありがと。」


 翔吾は少し考える風だったが、思い出した様に話し始めた。

「そういえば明日、筑波のライセンスを取りに行くぞ。」

 え?聞いてないですけど。アタシがキョトンとしていると、翔吾がげっそりした顔をした。

「やっぱりスルーしやがったな。テスト期間中にメールを送ったんだよ。筑波の講習会に行くぞってな。」

 メール?そういえばなんか来ていたような…。でもテストが手一杯で見ている余裕は無かった。アタシは慌ててメールを確認する。


「ホントだ…。」

 アタシは埋もれてしまった翔吾のメールを見つけた。え、明日?

「どうせそんなこったろうと思って、申し込みはしておいた。親の承諾書も取っておいてやったぞ。」

 え、なんですって?

「…でも、装備が…。」


 その時、店長さんが何やら大きな宅配便の箱を持ってきた。

「はい、翔吾くん。届いてるよ。」

「お、ナイスタイミングだよ。ナベさん。」

 翔吾はホレと顎でアタシに指図した。開けてみろって?

 アタシはガサゴソと荷解きすると、中から出てきたのは、アタシが御殿場のショップで見つけた赤いレーシングスーツだった。十万円セット一式とフルフェイスヘルメットも入っている。

「翔吾、これ…。」

 翔吾は思いっきりドヤ顔でニタリと笑っている。こういうところが気に食わないんだけど。


「アタシちゃんとお金払うよ。取っておいてくれたのは嬉しいけど。」

「まぁ、全部出してみろ。」

 アタシは言われた通り、箱からスーツを取り出すと、なんだか文字やワッペンが貼ってある。『ショップワタナベ』?アレ?『はるみ屋』?え?『さくらんぼ』マーク?『Tatsumi RD』って?

「え、なに?」

 翔吾を見るとドヤ顔で見下ろして、フフンて鼻息を吐いている。


「ちえりちゃん。話すのが最後になって悪かったんだけど、ショップとしてレース活動をすることにしたんだ。」

 ナベさんこと渡辺店長さんが口を開いた。

「それで翔吾くんがライダーとして参加してくれるんだけど…。」


 店長さんの話ではもう一人くらい誰かいないかと思っていたところ、走行会に来たアタシが翔吾をぶち抜いたのを見て興味を持ったらしい。

「で、はるみ屋にお話しに行ったところ、スポンサー契約を快諾してくれて、はるみ屋のワッペンとさくらんぼマークを貼り付けたというわけだ。」

 途中から翔吾も説明に加わっていた。


「え…。でもアタシ…こんなして貰っても何も返せないよ?」

 父さんがアタシに好きなことをやらせてくれるのと、家族でもない翔吾や店長さんがアタシのレース参加にお金や時間を割いてくれるのとは全然違うと思った。なんか申し訳ないっていうか、なんていうか…。


「おい、ちえり。チャンスだぞ!乗っかれ。レースしたいんだろう?」

 翔吾がためらっていたアタシを見かねて話しかけた。

「レースは自分一人じゃできないんだよ。ライダー、メカニック、ヘルパー、スポンサー、他にもいろんなステークホルダーがいるんだ。」

 ステ…?ってなに?翔吾はアタシのハテナマークを読み取ったようでイラッとしたみたいだけど…。

「とにかく、もうスポンサーの出資があるんだ。お前、恵まれてるんだぞ。」


 う~ん。まだモヤモヤする。

「アタシだけが、何もしてないのがなんか嫌。」

 翔吾はふぅんと言う。

「じゃあ…カラダで返してくれればいい。」

 え?


「…翔吾くん?」

 店長さんもビックリして翔吾を見た。

「ん?オレなんか変なこと言ったか?カラダを張ってレースで勝てって言ってるんだぞ。…おい、ちえり。なに赤くなってんだよ。」

 そ…そういう意味ですか…。

「…ははは。」

 店長さんも苦笑いしている。翔吾はたまにとんでもないことを平気で言うよね。


 でもなあ…。このモヤモヤを晴らすにはアタシも何か背負わないといけない気がする。そうだ。

「じゃあ、アタシも出資する。」

 店長さんがホホウと言ってアタシを見た。翔吾も面白そうな顔をする。


 アタシは父さんがいなくなってから、全部自分でやらなくちゃいけないと思ってたんだ。でも翔吾の言う通り、レースに出るためにはたくさんのお金や人手が必要で、そんなのアタシ一人で何とかなるもんじゃない。たくさんの人に支援してもらわなきゃいけない。でも、アタシは無名のバイク乗りだし、自腹を切ってサーキットに乗り込むつもりだったから、何の実績もないのに差し出された支援の手を素直に受け取れないんだよ。と、いうようなことをアタシは考えながら、つっかえながら話した。


「だから、お金にはキレイでいたいと?偽善だな。でも、自分でもリスクを取ろうって姿勢は悪くない。」

 翔吾はそう言うと右手を差し出した。

「ようこそ、『Dragon Fund』へ。お前も共同出資者の仲間入りだ。」

 『Dragon Fund』ってなに?アタシが反射的に握ろうとした右手が途中で止まった。


「ねぇ、怪しい団体さんとかじゃないよね?」

 ヒクリと引きつった翔吾は、その後長々と説明をしていたが、アタシはほとんど聞いていなかった。だって眠くなるんだもん。

 店長さんがいろんな書類を持ってきて名前とか書かされて、母さんにもよく読んでサインをもらってきてって、封筒を渡された時にはとっぷりと日が暮れていた。


#再会の筑波


 筑波サーキットのライセンス講習会に行ってきた。慣熟走行などの実技はない。午前中からお昼にかけて、教室のような会議室のようなところで、サーキットの概略、走行するに当たってのルールやマナー、会員制度と走行予約の取り方とか、ひたすら説明だった。


 座学は眠い。筑波サーキットは一周二キロ程で、鈴鹿の五.八キロや、もてぎの四.八キロに比べたら短いが、二輪では全日本ロードレース選手権でも使用される。こじんまりとしてはいるが設備はちゃんと整っているサーキットだ。ピットのルールやフラッグポストの位置はちゃんと確認しないといけない。でもフラッグの話は聞き飽きてる。隣りの翔吾は眼を開いたまま寝てた。


 会員制度はレーサーでも走れるライセンスと、公道仕様のバイク限定の二種類がある。走行枠によって走れるマシンも変わる。アタシ達はレースを予定しているから前者。でもレーサーってどうするのかな?

 あと、予約の取り方はしっかり覚えた。終わってから早速翔吾と予約をした。マシンやタイムによって走れる枠が違うけど、とりあえずNSRで走れる枠にした。早い日付で空いてる枠があってよかった。


 その日はこれだけだったけど、少しサーキットを歩いて回った。コースではスポーツ走行が行われていた。アタシも次に来る時はあそこを走るんだ。

 アレ?どこかで見たようなCBRが走ってる。まぁ最近多いからね。もし箱根でバトルしたあの子達が走っているなら、リベンジしたいな。


 翌日、春休みだし、久しぶりに夏子の家に遊びに行った。ちょうど天崎先生との論文作業もお休みだったらしい。今日も相変わらず危ない実験をしている。フラスコからガラス棒を使って、慎重にビーカーに液体を移している。夏子はメガネをかけているから、爆発か炎上かするんじゃないかな?アタシは少し下がってドアの近くに避難していた。


 トントンとノックの音がした。夏子が生返事すると、春男くんが顔をだした。

「こんにちは、晴海さん。」

 実験中の夏子を見ると、身の危険を感じたのか、それ以上部屋入ろうとはしなかった。アタシも、どうもって挨拶した。

「あ、この間はクッキーありがとね。美味しかったよ。」

 美味しかったのを思い出してお礼を言った。春男くんは、そうですか、よかったですと、言ったけど、なんだか顔が赤くなって、もごもご言ってる。


 チッ。

 ん?誰か舌打ちした?

「…そ、そういえば…」

 春男くんが話しかけてきた。

「サーキットに行ったって聞きました。今度僕も連れてって下さいよ。」


「はる坊はまだ走れないよ。」

 聞いていたのか。夏子が冷たく言い放つ。

「見に行くだけでいいですよ。」

 じゃあ来る?と言うと、夏子も行くという。二人乗りは出来ないから、ショップワタナベのトランポに便乗させて貰おう。

「体験走行も出来るみたいだよ。」

 アタシが調べて言うと、じゃあ予約しようと夏子が体験走行の予約をした。あれ?夏子ってサーキット好きなんだっけ?でも、夏子と春男くんも行くなら嬉しいな。なんだか楽しみだ。



 と、いうわけで、今日は筑波サーキットのフリー走行です。アタシはNSRにそのまま乗って行きます。翔吾はマグザムで、サクラも一緒です。夏子はゼファーで、春男くんは渡辺店長さんとトランポに便乗します。一応、女子会の皆さんにも声をかけたけど、それぞれ忙しいらしいです。


 今日の筑波での走行を前に、一度懐かしいミニサーキットでリハビリをした。翔吾はFZR400から、YZF-R25に換えたみたい。一応公道仕様だけど、色々いじってあるらしい。

 アタシはサーキット用にタイヤを新調して皮むきをした。店長さんにも手伝ってもらって、エンジンだけでなく足回りや制動系もコンディションを整えた。これで筑波で本格的に走っても心配ないだろう。


 トランポには翔吾のYZF-R25が積んである。一応公道仕様だけど、翔吾は筑波までの運転がかったるいらしい。軟弱者め!


 アタシ達は無事筑波サーキットに到着した。一般道で尻手黒川、246、環七、4号線と来て、川を渡って、畑と林の間を抜けるとサーキットが現れる。4号線が少し渋滞してトランポが遅れて来たけど、余裕をもって出てきたから大丈夫だった。

「ちょっと!ペットはパドックに入れちゃダメだよ。」

 翔吾がサクラを乗せたままパドックへのトンネルに入ろうとすると店長さんがトランポから呼び止めた。


「じゃあ私達が見てましょうか?」

 夏子が春男くんとサクラを見ていてくれることになった。夏子はアタシ達がフリー走行を走り終わった後で、体験走行をする予定だ。

「じゃあ私達はスタンドで見てるから。」

 夏子はゼファーをスタンド近くに停め、春男くんと一緒にサクラを連れて行った。


 パドックではピットのすぐ後ろのスペースを確保した。トランポを停めて、翔吾のマシンと機材を下ろした。スタンドや工具などの他にアタシのレーシングスーツの装備も積んである。

 アタシと翔吾はかわりばんこにトランポの中で戦闘準備をした。レーシングスーツに身を包むと、テンションも上がってきた。アタシ達が着替えてる間に店長さんがマシンの準備を始めていた。公道仕様の場合はナンバーは外してはいけない。ライト、ウインカー、ミラーは外すかテープで飛散防止をする必要がある。

「俺のマシンももうすぐレース仕様にするぜ。」

 確かに翔吾のマシンは色々変わっている。ふ~ん?レースではアタシもR25に乗せて貰えるのかな?まぁ、今日はNSRで楽しもう。



 アタシはまだ新しい革の匂いがするレーシングスーツに身を包み、同じく内装の接着剤の匂いも新しいフルフェイスヘルメットをかぶって、走り慣れたNSRに乗り、初めて走る筑波のピットロードに並んでいる。


 ドクン。ドクン。

 自分の心臓の音が周りのライダーに聞こえるんじゃないかと思うくらいドキドキしていた。

 ハァ…ハァ…ハァ…。

 アタシのマシンも周りのマシンもエンジン音と排気音がうるさいはずなんだけど、不思議と自分の呼吸の音が一番気になった。


 翔吾が目の前に並んでいるけど、緊張しているのか、集中しているのか、後ろを見ない。アタシが後ろを振り返ると、同じ走行枠のライダーが、次々とピットロードに並んでいる。概ね出揃ったところでコースに出た。


 タイヤウォーマーを使っていないので、二~三周は温めないといけない。それにコースを良く見てアタシのラインを見つけなきゃ。翔吾の後について行き、大体タイヤも温まってきた三周目、スタンド前のストレートで翔吾が振り返って左こぶしを突き出し、親指を立てた。

 まったくもー。嬉しいじゃないの!自然と口元が緩んでしまった。アタシはさっきまで緊張してたことも忘れて、全開で加速するR25を追いかけて1コーナーに飛び込んでいった。


 ボォーン!先行する翔吾のR25の排気音はホルンのような少し低くて太いサウンド。

 パァーン!追走するアタシのNSRは乾いたトランペットのような甲高い音色を奏でる。

 アクセル全開でホームストレートを駆け抜ける。コントロールラインを通過すると、ピットの出口手前から右カーブの1コーナーへの上り坂。翔吾の真うしろについて行く。抜ける感じがしたけど、しばらく翔吾に引っ張ってもらおっ!


 バゥーン!バゥーン!

 パン!パゥーン!

 1コーナーはホームストレートからスリップストリームを使った後のブレーキング競争で抜きどころの一つだ。ラインをクロスさせてS字への立ち上がりで抜くのもアリだ。


 ボォァーン!ボォー!

 パァーン!パァー!

 1コーナーを立ち上がると緩いS字コーナー。

 ギャウッ!ブンッ!こんな音が出ているわけじゃないけど、勢いはこんな感じ。

 ブンッ!

 ほとんど直線みたいだけど、全開で左へ右へとS字を切り返す。切り返すとすぐに左カーブの第一ヘアピン。


 バゥン!ボォー!

 パンッ!ビィー!

 右回りの筑波で数少ない左コーナーの第一ヘアピンは、温まっていないタイヤの左側を使うことになる。レコードライン通りクリッピングを奥にとって行きたいが、コーナーへの突っ込みで無理をすると、フロントのグリップを失って転倒するシーンも考えられる。筑波のヘアピンはバンクがしっかりついているから、アウトからインに入ると、すり鉢の底に降りていくみたい。でも、車体重量の軽いNSRは速い旋回速度で、立ち上がりも余裕をもって加速する事ができる。


 ザリッ!レーシングスーツには膝を擦ることが前提で樹脂製のスライダーがついている。

 カリッ!カリカリッ!ブーツのつま先やサイドも樹脂や金属のプレートで保護されている。

 ヒザを擦る感じが楽しくて、ニヤニヤしちゃう。今どきのレーシングタイヤのグリップを極限まで使えば、肘を擦ることも珍しいことじゃない。最近は肘擦りも見越して、肘を保護するプレートがついているスーツも多いのだ。


 第一ヘアピンを立ち上がりアクセル全開!

 ボォー!

 パァー!

 ダンロップブリッジがあっという間に近づいてくる。筑波は二輪と四輪でここだけ違うコースになる。四輪は右カーブのダンロップコーナーの外側を抜け、左80Rコーナーから第二ヘアピンへ続く。二輪はダンロップコーナーの内側をハードブレーキングからフルバンクで深く抜ける。


 カリカリッ!ブンッ!

 ブン!カリカリカリッ!

 すぐに左へ切り返してフルバンクしてのアジアコーナーだ。侵入するカーブはキツめだけど、立ち上がりから第二ヘアピンへのほぼ直線の区間が長いから、立ち上がりはアクセルをワイドオープンから全開へ。でもここは左コーナー。リアの感触を確かめつつアクセルを開けないと、温まっていないリアタイヤの左側が滑って、スライドからのハイサイドを起こしやすい危険な箇所でもある。


 ブァーン!ボォー!

 ビィーン!パァー! 

 アジアンコーナーを全開で立ち上がると、あっという間に迫ってくる第二ヘアピンは長いバックストレッチへの立ち上がりが大事だ。

 ギャウンッ!バゥーン!ザリッ!

 グググッ!パンッ!ペタリ。カリッ!

 しっかり減速して深いクリッピングポイントからのアクセル全開!


 ボォーン!ボォーン!ボォー!

 パァーン!パァーン!パァー!

 バックストレッチ!第二ヘアピンで先行車のテールについたライダーはここでスリップストリームを使って追い抜きを仕掛ける。


 問題は最終コーナーの突っ込みで、大排気量クラスだとブレーキングできっちり減速するけど、250ccクラスだとブレーキングはあくまでも速度調整でガンガン突っ込んでいく。


 ゴォー!ククッ!ヒュンッ!

 最終コーナーは外側から減速しつつ旋回をはじめ、内側ギリギリを掠めるように侵入するのがレコードライン。カーブ半ばまで減速!コースの真ん中あたりで旋回し、そこから奥のクリッピングに向けてマシンを運ぶ。

 カッ!カリカリカリッ!

 マシンを寝かせて旋回するとリアのグリップを確かめつつアクセルを開ける。クリップを過ぎたらアクセル全開でホームストレートのアウト側いっぱいまで使って加速する。


 とは言え、今は翔吾を抜くのが目的だ!最終コーナーで翔吾の後ろにピタリとつけると、立ち上がりでスリップストリームに入る。翔吾もその辺は分かっているのか、ホームストレートで一度コースの真ん中にマシンを持っていく。インから差すのを嫌がっている。


 ゴォー!

 カウルに伏せていても大気が翔吾の行く手を阻んでいる。アタシは翔吾の影に隠れてアクセルにはまだ余裕がある。

 よし!

 パァーン!

 アタシはアクセルを全開にして翔吾のテールを掠める様にインから抜きにかかった。

 翔吾の影から出た途端に大気がアタシの行く手に立ち塞がる。それでもスリップストリームで温存したパワーとツーストエンジンのパンチ力で、アタシとNSRは大気を切り裂いて進む!


 あっという間に翔吾の横に並ぶと、1コーナーの入口が迫る!

 ここはブレーキング勝負だけど、車重の軽いNSRに加えて、体重の軽いアタシに分があった。


 ギュワ!

 グググッ!スパッ!

 アタシは翔吾に一瞬遅れてブレーキングを開始したけど、その一瞬が勝負を分けた。アタシは1コーナーのインに先に飛び込んでフルバンク!


 ザリザリザリッ!ビリビリビリ…。

 路面にヒザを擦り付けてバランスを取るとリアにしっかりトラクションをかけてマシンも安定させる。そこから1コーナー出口でアウトいっぱいに立ち上がる!

 パァーン!

 ギュギュワ!パァーン!パンッ!

 S字を切り返し、インを締めて第一ヘアピンに真ん中から進入する。立ち上がりでチラッと振り返ると、翔吾はアタシに食らいつこうとオーバースピードでヘアピンに進入し、立ち上がりでリアを滑らせてコースアウトしたところだった。早速イエローフラッグが振られ始め、翔吾のマシンが片付けられるまでの間、第一ヘアピンでは追い越し禁止となった。



 翔吾がコースアウトしたあと、アタシは一人でコースに慣れるために走っていた。引っ張ってくれる人がいなくなったので、試行錯誤でレコードラインを走っていたが、タイムを出すのはなかなか難しい。なんとも消化不良なままで走行時間が終わってしまった。


「あーあ、ついてねえ。」

 翔吾が引き上げたバイクを渡辺さんと掃除したり修理したりしながらボヤいている。新しいマシンを煮詰めるのには時間がかかるらしい。今日は走行枠はもう一つあったが、翔吾はキャンセルすると言う。

「のんびり一人で走ってこい。」


 困ったな。せっかく筑波に来たのに。

「ついてないのはアタシだよ。」

 アタシはパドックから出て佐藤姉弟と合流し、犬のサクラをもしゃもしゃしてウサばらしをしていた。次の走行時間まではまだ少し時間がある。


「晴海さん、苦労してますね。」

 春男くんが声をかけてくれる。分かる?そーなんだよ。まったく翔吾のバカが勝手にリタイアするからさ。

 なんてグチを言っていると。おや?どこかで見たCBRが二台並んでるのが目に入った。グレーの新車と白い旧車。しかも旧車のカウルにはこれでもかというくらいのシールやステッカーが貼ってある。


 あの二人だ!

 アタシは立ち上がって辺りをキョロキョロと見回した。そこへスタンドから下りて来た二人連れの女の子を見つけた。二人ともレーシングスーツに身を包み、走りに来たようだ。

 アタシは話しかけていた春男くんと夏子にいい加減に返事をすると、女の子達の方に歩いていた。


「こ、こんにゃちは!」

 うわ、ちょっと噛んだ。恥ずい。二人で話しながら歩いていた女の子達は、なに?って感じで不審そうな目を向けたが、アタシが女の子でレーシングスーツを来てることを見て、何となく分かってくれたみたい。

「…NSR…の子だよね。さっき走ってた。」

 ショートカットで前髪に少し赤メッシュの入った子がアタシを睨む。アタシよりもコブシ一つくらい背が高い。結構メリハリのあるボディは迫力があった。

「サキはスグ睨むんだから…。ごめんなさいね。この子って目が悪いのにメガネかけないから。」

 もう一人は長い黒髪の日本人形のような子だった。ほっそりとして上品な雰囲気がある。夏子と同じくらいの背丈で柔らかい物腰、何気ない所作が育ちの良さを感じさせる。


「話すのは初めてだよね。」

 サキと呼ばれた子が、話しかけてきた。何となく口元が綻んでいる。

「そうだね。」

 アタシは笑顔で応えた。

「あぁ…椿ラインの下りで走りましたよね?」

 長い黒髪の子も思い出したみたい。

「うん。」


 サキがズイと一歩踏み出して、更にジトッと睨む。いや、目が悪いから近くに寄って来たんだ。

「アタイはサキ、花菖蒲咲(はなしょうぶさき)。こっちはミズキ、桔梗野瑞希(ききょうのみずき)。春から高校二年生さ。アタイ達も自分でライセンス取って走ってるんだ。住みがこっちだからね。」

 なんと同学年じゃん!

「アタシはちえり、晴海ちえり。…よかったら、教えてくれる?」

「筑波は初めて?」

「うん。今走ってきたけど、おっかなビックリだよ。」

 と、そこまで話したところで、アタシは背中をツンツンつつかれた。振り返ると夏子と春男くんが心配顔で様子を伺っている。

「誰?」


 アタシは夏子と春男くんを紹介して話しを続けた。どうやらこの後同じ走行枠で走れるみたいだ。それなら今日は引っ張って走らせて貰おう。

「じゃあ、ついてきな。」

 サキとミズキも快く引き受けてくれた。

 翔吾はパドックで渡辺さんと一緒にR25の修理だかセッティングだかで忙しそうだ。ちょっと声をかけても生返事しか返ってこない。仕方ないな。アタシは時間になったのでNSRに跨ってピットロードに向かった。


「最初はミズキについて行くといいよ。ペースを掴みやすいから。慣れたらかかってきな。楽しくやろうぜ。」

 いや、まだまだ今日初めてですから。


 それにしてもバイクはいろんな音がして面白い。サキのCBRは並列二気筒でマフラーを替えている。

 ボロロロッ…ボウォーン!翔吾のR25と同じような少し太くて低い音がする。

 ミズキの古いCBRは並列四気筒。古い言い方ではクォーターマルチエンジンだ。

 リュリュリュリュ…フォーン!モーターが回るような滑らかなアイドリングと、フカした時のジェット機のような排気音が特徴的だ。


 ピットロードにスタート待ちで並ぶ時に、NSRと同じツーストエンジンのスズキガンマを見つけた。社外チャンバーを付けていて、これまた独特の排気音がする。

 ビチビチビチビチ…。

 アイドリングは湿っぽい音がする。オイルが飛び散ってんじゃないの?チャンバーからは白い排気ガスが断続的に吐き出されている。

 ビィンビィン。

 ピットロードに移動する時にアクセルを開けると軽く吹け上がる。アタシはサキとミズキについて行ったら、ガンマもアタシの後ろについてきた。


 やがてシグナルが変り走行開始だ。

 ペェーン、ペェーン…。

 後ろのガンマが加速する時には乾いた抜けのいい音に変り、アタシを追いかけてきた。

 いやいや、後ろよりも前の二人を追いかけなくちゃ!

 パァーン!

 アタシはアクセルを開けて第一コーナーに向かって行った。


「うわ、速ッ!ちょっと待って!」

 サキとミズキは速い。今はついて行くのにも苦労する。でも軽くてパワフルなNSRのおかげでバックストレートで追いついてそれ程離されなかった。いわゆる直線番長になったようだ。


 ミズキのCBRはNSRと同等の軽さを活かして軽やかに走っている。無駄の無い流れる様なコーナーワークはまるで優雅な舞を踊っているようだ。

 ヒュン!フォー…キーンッ!

 二万回転まで回る超高回転型のエンジンは時に甲高い音を響かせて加速する。


 対してサキのCBRはメリハリのある走りで、ハードブレーキングからの肘を剃りそうなコーナーワークとフロントが浮き上がりそうなほど鋭い立ち上がりが信条のダイナミックなライディングだ。

 ボゥン!ブロロロ…ボォー!

 マフラーを替えて排気量に似合わない重低音を轟かせてストレートを疾駆する。

 アタシのライディングはどちらかと言うと、きっとサキに近いんじゃないかと思う。サキより荒っぽいのが翔吾かな?


 パンッ!ぺぺぺぺ…ペゥーン!

 前に見とれていたら、後ろのガンマに抜かれてしまった。まぁ今日は練習で来てるから別に…。

 パァーン!

 …おっと。アタシもついアクセルを開けちゃったよ。せっかく走りに来たんだから楽しまないとね。


「速い…この人…。」

 追いかけ始めてすぐにガンマの速さに舌を巻く。マシンとしては同等…いや多分ガンマの方がチューンアップでパワーが出ているみたい。立ち上がりが全然違うし、ストレートでは突き放される。かろうじてスリップストリームに入ってもついて行くのがせいぜいだ。たまにチラリと振り返ると少しペースを落としてアタシが追いつくのを待っているみたい。


 サキとミズキはアタシとガンマの様子に気付いたようだ。チラチラと振り返って見ている。ガンマはしばらくアタシと走ると、サキとミズキにターゲットを移した。まずは目の前で優雅に走っていたミズキの旧CBRをつつき回す。

 ミズキはペースを上げて必死に逃げ回る。インを閉めた速いコーナーワークで隙を見せない。仕掛けられても冷静に対処していたが、バックストレートでパワーの差を見せつけられた。ガンマはあっという間に抜き去ると、前を走るサキの新CBRに襲いかかった。


 しかしサキはチラッと振り返るとアッサリとガンマに道を譲った。アレ?バトルしないの?…と思いきや、抜き去ったガンマを猛然と追いかけ始めた。なるへそ、サキはそういうタイプなのね。

 パワーに差のある相手だがスリップストリームを使ってなんとか食らいつく。コーナーの入口ではなんとか鼻先をねじ込もうとブレーキング勝負を仕掛ける。仕掛けられる場所をすべて使ってガンマをつつき回した。しかし、徐々に引き離されてスリップストリームにもつけなくなってしまった。残念ながら完敗だ。


 アタシはサキやミズキの勝負を見逃すまいと必死で走っていた。いつの間にかミズキをパスして、気がつくとサキのすぐ後ろを走っていた。サキとミズキのバトルを追いかけるうちに筑波のレコードラインを身体で覚え始めたのかもしれない。もちろんNSRが軽くてパワフルだから、なんとかついて行けたのだろう。


 このまま終わりたくない。走行時間はあとどれ位残っているだろうか。もう一度ガンマに挑戦したい!アタシはホームストレートでサキのスリップストリームを使って、第一コーナーでサキの前に躍り出るとガンマを追いかけ始めた。



 結局、ガンマには追いつくことは出来ず、アタシの筑波初走行は本日終了だ。

「ちえり、根性あるね!初めての筑波とは思えないよ!」

 走り終わってパドックで一休みしていると、サキがバシバシと背中をどやしつけてきた。

「次はレースで勝負したいですね。」

 ミズキも楽しみな顔をしている。アタシ達はまたねと言って別れた。


 アタシがトランポのところに戻ると翔吾と渡辺さんは相変わらずR25の調整中で忙しい。今日の走行を終了なので、アタシは着替えを済ますと夏子達がいるスタンド席に向かった。

 夏子と春男くんがアタシの走りを見ていたらしく、すごいねぇって褒めてくれた。

「やっぱりバイクに乗ってる晴海さんはかっこいいですね!」

 そんなに褒められても、アタシはまだまだ納得のいく走りは出来ていない。もっと走り込んでレースに出たいな。


「すみません。さっきNSRで走ってましたよね?」

 アタシ達がスタンド席でとりとめのない話をしていると、若い男の人が声をかけて来た。誰?


 180センチくらいあるだろうか。スラリとしているが肩幅は広い。髪は短めに刈り込んであるが、サラリーマンって感じでは無い。チノパンにペイズリー柄のシャツを着ていた。口元に笑みを浮かべて柔らかい印象を与えているが、目は笑っていない。むしろちょっと怖い目つきだ。はて?どこかで会ったっけ?


「申し遅れました。私こういうものです。」

 男の人は名刺をさしだした。

『CATプロジェクト チーフディレクター 虎ノ門 忍』

 アタシに名刺を渡した後、ちょっと迷って夏子にも名刺を渡した。夏子はびっくりしたみたいだったけど、男の人を見ると何となく頬を染めていた。あぁ…夏子のストライクゾーン内角高めかもしれないな。思わず手が出ちゃうかも…。


「今、女子チームでレースをしようと思っていて、速くて可愛い女の子にお話しさせてもらってるんですよ。」

 あ、怪しいヤツ…?

「…ま、間に合ってます。」

 ちょっと引いてしまった。アタシはこの手の話は信用しない。夏子はアタシの方を残念そうに見るけど、ダメだよ!こんなのに引っかかっちゃ!


「…そうですか。さっき私もガンマで走っていたんです。」

 なんですって!あの速いガンマはこの人だったのか!

「もしよかったら連絡くださいね?」

 と、男の人は割りとすんなりと諦めた様だった。

 その時、翔吾がアタシ達を探してスタンドにやって来た。アタシに声をかけてきた男の人と顔を合わせると、驚いた顔をした。

「アニキ?」


「翔吾か、久しぶりだな。」

 翔吾は一瞬懐かしそうな顔をしたが、アタシと夏子達の顔を見ると険しい顔になった。

「アニキ…ちえり達にちょっかい出してないだろうな。」

「…知り合いか?」

 翔吾はしまったって顔をした。そして、それきり口を閉ざしてしまった。なに?なにがどうなってるの?


「…そう言えば、俺がやったTZRはどうした?今日は違うマシンだったな。」

 翔吾は男を睨みつけた。

「わりいなアニキ。お釈迦になっちまったよ。」

 男はそうか、残念だな、と言うと、スタンドを下りて行った。翔吾は男の姿がスタンドから消えるまでじっと睨んでいた。


 キュルルル…ボゥン!ボルルル…。

 大排気量インラインフォーのエンジンが始動された。アタシは立ち上がってスタンドの後ろから下の駐車場を見た。

 メカの人がガンマをトランポに積んでいる横で恐らくさっきの男が、S1000RRに跨って帰路につくところだった。メカの人に一言声をかけるとS1000RRはサーキットの出口に向かった。


 丁度アタシの方にライダーの背中が向けられた時、アタシは目を見張った。

「なに?あのジャケット。竜?の骨?…。」

 隣りに来ていた夏子が呟いた通り、男のジャケットにはドラゴンのドクロが描かれていた。アタシはイヤな運命に魅入られてしまった気がした。



 今日の最後は夏子の体験走行だ。夏子と春男くんは、行って来るねと言ってスタンドから出て行った。アタシは翔吾と二人でぼーっとコースを眺めていた。

「…あれだ、前に話した前妻の連れ子ってヤツだ。」

 訊いてもいないのに翔吾が口を開いた。

「前妻とオレの母親は当然仲が悪かったんだが、アニキは俺を可愛がってくれてな。」

 うーん…。あまり聞きたくないんだけどなぁ…。まぁ、話して楽になるならそれでもいいけど。アタシは適当に相槌を打っていた。


「…で、バイクを教えてくれたのもアニキなんだ。」

 そうなんだ。あ、お兄さんの話をしてくれるなら、アタシも聞きたい事がある。

「ねぇ、あのジャケットはなんなの?」

 翔吾はビックリした様な顔をした後、考え込む様だった。なんかいけない事を聞いちゃったのかな。

「…アレは親父のなんだ…。」

 と、翔吾が言ったところで、夏子が戻って来た。


 あれ?早くない?

「もう走ったの?春男くんは?」

 夏子は少しイライラした感じでアタシの隣りにストンと腰をおろした。

「…ねぇ?」

 夏子はコースに目を向けた。アタシもそちらに目を向けると、アレ?夏子のゼファー?コースには体験走行のバイクが次々と走り始めた。その中に夏子のゼファーがいた。乗ってるのは?誰?

「まったく困った弟だよね。私も乗りたかったのに…。」

「春男くん乗れるの?免許まだだよね?」


「アレ?知らなかったっけ?」

 春男くん普通に乗ってる。

「ふーん。乗り慣れてんな。」

 翔吾も気になるみたいだ。

「私と背格好は似てるからね。私のリップまで塗って変装したから、係員さんも気が付かなったみたい。」

 え?そんなことまでしたの?良い子の皆さんは真似しないで下さいね。


#CBRライダー


 筑波にほど近いコンビニに二台の新旧CBRが並んでいた。二人の女の子が夕陽を浴びながらおにぎりをパクついている。

「スポンサーついた。よかったね。」

「女子チームなんてハーレムしたいだけじゃないの?」

「メカは男バッカだけどね。」

「あのジャケットは気持ち悪いよね。」

「そう?悪役ぽくて凶悪にカッコイイよ。」


 おにぎりを食べ終わった女の子はおもむろにポケットからサーキットのステッカーを取り出した。

「また貼るの?」

「…いいじゃん。もらったんだから。」

 同じステッカーが何枚も貼ってある横に、適当にぺたりと貼り付けた。

「…シール剥がした方が軽量化にはいいんじゃないの?」

「コレは趣味だから!」


 ハイスピード・コーナーに突っ込む時は誰もが最初はビビってしまう。ブレーキレバーに掛かった躊躇う指先を引き剥がし、ギリギリのブレーキングで飛び込んで行った時、今まで見えなかった景色が見えてくるハズだ!

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