第3話

 大野の住まいは新宿歌舞伎町から職安通りを西へ進み小滝橋通りを越えた北のエリア――北新宿百人町にあった。大野の娘との電話を終えた後、大野に何度か電話をかけてみたが電源が入っていないとアナウンスが流れるだけだった。


 税務署通り沿いのコインパーキングに車を停め、電話で聞いた住所を頼りに狭い路地へ入っていく。雪の降りは強くなってきて、北新宿の空も地上も灰色に染まっていた。後ろを振り返ると歌舞伎町の一帯の空だけがネオンを反射して赤紫色に光っている。


 車で入るには躊躇ちゅうちょするような狭い路地を番地を確認しながら歩いていくと目的の場所に着いた。路地に面した壁の、そこだけ新しく取り替えられたかのような白い合板に「グランデ北新宿」と書かれていた。古びたアパートで外壁は薄汚れた茶色にくすみ建物を雑草と壊れた家電が囲んでいる。歌舞伎町で働く水商売の住人たちが住む豪華なマンションの裏の、一日中陽の当たらない場所に建つそのアパートは存在感の希薄さでは奴の人生と大差はなかった。


 建物は二階建てで各階三世帯の計六世帯に分かれていた。二階に上がる階段の脇に備え付けられた集合郵便受けは所々錆びつき、どの部屋の表札にも名前がなく、ほとんどのポストにチラシが大量に入ったままだ。


 大野の部屋は二階に上がってすぐの201号室だった。外廊下に面した小さな窓から灯りが漏れている。ここにも表札はなく号室の横に何かの暗号のような数字がマジックで書き殴られているだけだった。


 呼び鈴を押したが壊れているらしく何の音もしない。俺は少し強めに玄関ドアを2回ノックした。まるで玄関で待っていたかのような早さで中から鍵を開ける音がして静かにドアが開いたが、ドアチェーンで止まった。


「誰?……ですか?」


 電話で聞いた声が聞こえた。


「真山だ」


 一旦ドアが閉まりドアチェーンが外される音がして再びドアが控えめに開いた。靴を3足も置けば一杯になるだろう狭いたたきに大野の娘と名乗る女性が大野の靴と思われる男物の靴を踏みつけて立っていた。


「あっ、あの……私、大野千尋です。どうぞ入ってください」


 まだ子供だった。ベージュのパーカーにタイトなデニムパンツ、白地に赤いラインが入った靴下。髪はショートボブで前髪は眉毛の上でまっすぐに切り揃えられていた。背は俺の胸元にも届かないだろう。大野に似た優しい目をしていたが、焦燥と不安が溢れかえっているのが見てとれる。


 玄関を入るとすぐに三畳ほどの台所があり、奥に六畳ほどの部屋があったが家具らしいものはほとんど置いてなかった。きちんと整ったシングルベッドの他には、小さなテーブルと本棚があるだけでテレビもラジオもない。テーブルの上には一台の古びたノートパソコンが置かれていた。エアコンから吹き出す温かい風が部屋の淀んだ空気と沈黙をかき回す。ここには千尋の痕跡こんせきは何もないように見えた。


「お父さんとは別々に暮らしているんだな?」


 千尋の目が複雑に曇り、俺は間違って咎めたとがめたような気分になった。


「はい。半年前から私は母方の祖母と暮らしてます」


 大野の居ないところでその理由を聞くのはルール違反に思えた。


「大野の書き置きを見てもいいか?」

「あっ、はい」


 千尋はパーカーのポケットからメモ用紙の切れ端を取り出し俺に渡した。そこには、


「千尋心配かけてすまない。お父さんは帰れなくなるかもしれない。真山さんに連絡を取って欲しい。番号は――。」


 と書かれていた。少なくても大野はこうなることを予期してこんな書き置きをしていたに違いなかった。そして俺を巻き込むことも。


 タバコに火をつけると千尋があからさまに嫌そうな顔をして本棚の横にある窓を開けた。本棚の中段に飾ってある写真立ての中で、穏やかな笑みを浮かべた女性が俺の目をまっすぐ捉えていた。女性の腕に抱かれている幼児は千尋だろう。シャッターを切るときに大野が笑わせたのか大きく口を開いて笑っている。そこには撮影者の幸せまでもが凝縮されていたが過去のものだった。大野の妻は身体が弱く6年前に亡くなっていた。入社当時に大野から話を聞いたとき、大野の転職は妻の死に関係しているのではないか?と邪推した記憶があった。


「父に何があったんでしょうか?」

「俺たちには大野が失踪したことも知らされていない。失踪したやつがいると噂が立っているだけで、詳しいことは何も聞いてないんだ」


 千尋の手がパーカーのポケットの中できつく握られ、小さな金属製の音がした。


「会社から聞いたことを教えてくれるか?」

「はい。父が仕事の途中で車を置いたまま居なくなってしまった。家には帰っていますか?と聞かれたので、一緒に住んでいないことを伝えると父の家を見てきてほしいと頼まれました」


 千尋の話だと、会社は大野が千尋と一緒に住んでいると思っていたようだ。それにしてもこう言った場合、会社からすぐに大野の家に誰かが確認に来るのが普通の対応のはずだ。


「会社は大野のこの家を知らなかったんだな?」

「そうみたいです。会社の方は父と私が半年前まで一緒に住んでいた家を見に行ったみたいで、事情を話すとここの住所を聞かれました」


 通常、乗務員は住所異動をしたら会社にその旨を届け出る。俺たちの商売道具である運転免許証や乗務員証の情報を書き換えなければならないからだ。千尋の話だと別居を始めたのは半年前と言うことだから、免許証や乗務員証の書き換え時期がまだ来ていない可能性はあったが、大野が故意に届け出をしていなかったのか、ただ忘れていたのかは分からない。


「ここの鍵は持っていたのか?」

「はい。これだけは持っていてくれって」


 そう言ってパーカーのポケットから赤色のカラビナにぶらさがったこの部屋の鍵を取り出した。大野の書き置きも千尋の話もどちらも大野の失踪原因に関してなんの役にも立たなかった。

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