Aの誘惑

 啓示は今日も日替部にやってきた。


 気まぐれシェフな活動方針の元、いきなりとんでもない目に遭わされ、今後何をされるかも分からない状況だが、それでも一応顔は出した方がいい気がする。


(うーむ……)


 この妙に生真面目な性格、自分でもどうかと思うが、そこは所詮ミスター凡人。型破りな真似はなかなかできないのであります。


「こんちはー」

「あ、けーじ」


 ドアを開けた途端、瀬奈が近づいてきた。


「だからけーじじゃなくけいしだと、うっ……」


 言い終える前に、何かに鼻をつままれる。


 瀬奈の指……ではない。


 冷たくて硬い感触が、顔の真ん中にじわりと広がる。


「んぐぁ……」


 両瞳を寄せて、鼻頭を確認した。


 見えたのは、Aの字にかたどられたプラスチック素材。中心の棒にあたる部分に針金が仕込まれており、両端を押すと頂点が開閉する仕組みだ。


「ひぇ、ひぇんたくばふぁみ?」


 そう、これは洗濯バサミである。少々鼻声になってしまったが、間違いない。


「って……いだだだだだだだ」


 事態を把握した瞬間、一気に痛みが走った。


「あはははははははっ」


 もがき苦しむ啓示を見て、瀬奈はけたけたと笑う。鬼か、お前は。


「っ……!」


 啓示はすぐさま洗濯バサミを外しにかかった。この神経を潰されるような痛み、とてもじゃないが我慢できない。


「だーめ」


 すると、瀬奈の白くしなやかな指が柔らかに啓示の手を制した。


「もうちょっと、ね?」


 恋人におねだりでもするように言いながら、そっと元の位置に下ろす。


「ん、んあ……」


 啓示はおとなしく従った。何だか、魂でも吸い取られたような気分だ。


「いい子だから、しばらくそのままにしてて」

「ふぁ、ふぁんで?」


 疑問の声も、どこかフヌケる。


「どうしても。私はちょっと出かけるけど、そのままでいてね。外しちゃだめよ。それで乳首とか挟んだら絶対にだーめ。もしそんなことしたらめっ、だからね」


 そう言うと、瀬奈は人差し指を唇に当ててかわいくウインクした。


「ひゅ、ひゅるか、ふぉんなこと」


 啓示はふがふがと言い返す。ていうか、めってなんだ、めって。


「うふふ、そうよね。しないよね。じゃあ行ってくるから。いい子にしてるのよ」


 子供をあやすように手を振ると、瀬奈は静かに部室を去っていった。


「……ひゅむ」


 残された啓示が、室内をぐるっと見渡す。一人でいると、意外に広い。


「むぅ……」


 目を落として、自らの鼻をじっと眺める。痛みには少し慣れたが、洗濯バサミは相変わらず憎らしげに噛みついたままだ。


(外す、か……?)


 そんな考えが頭をよぎる。


 瀬奈だってそうすぐには戻ってこないだろう。先輩たちの気配もない。今ここにいるのは完全に自分だけだ。


(そもそも……)


 瀬奈の言うことをおとなしく聞く理由はない。なのに黙って従ったあげく鼻まで痛めるなど滑稽の極みではないか。


「……いょひ」


 小さく気合いを入れると、啓示はそっと洗濯バサミを外す。


「ふう……」


 深々と、息を吐いた。


 気持ちとしては、おおむね安心。あとはどういうわけか、背徳感が少々。


(い、いやいやいやいや!)


 慌てて首を振る。大丈夫だ、問題ない。俺は何も悪いことなんかしていない。


「さて、これをどうするか……」


 手にした洗濯バサミをしげしげと見つめた。



「乳首とか挟んだら絶対にだーめ」



 瀬奈の言葉がぼわーんと蘇ってくる。


「くっ……!」


 啓示は苦渋の決断を迫られるヒーローのように顔を歪めた。


 だめなことは分かっている。瀬奈にわざわざ注意されるまでもなく、そんなのは良識ある人間として許されない最低の行為だ。


「し、しかし……」


 何という魅惑の響きだろう、乳首挟み。あまりにも止まらないロマンティックに俺のギザギザハートはもうさりげなくギンギラギンであった。


「む、むうぅ……」


 改めて確認しよう。今ここにいるのは完全に自分だけ。今ここにいるのは完全に自分だけ。自分だけ、自分だけ、自分だけ。


「…………ふうううううぅっ!」


 啓示は上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外した。


「つぁっ!」


 Tシャツを勢いよくたくし上げると、あごを引いて胸元に視線を落とす。


「むむっ」


 目に入ったのは、少々すすけたあずき色の突起物。周辺からぴろりーんと伸びた三本の縮れ毛が少々哀しいが、今は気にしない方向でよろしく。4649。


「……いきます」


 誰にともなく宣言すると、啓示は洗濯バサミをそっと左胸にあてがう。


「せいっ」


 びしっと、装着。


「いっ……いたいたいたいたいたいたいたい!」


 鼻とは次元の違う激痛が全身に走った。キビシイ。これはキビシイ。


(で、でも……)


 半裸で左乳首に洗濯バサミをぶら下げながら、両の拳を固める。


(やった……俺は……やったんだ…………) 


 例えるなら険山の頂を制した登山者か、はたまた神秘の海を極めたダイバーか。とにかく、今の俺は「成し遂げた」人間なのだ。すごいぞ、俺。最高だ、俺。マジパネェぜ、俺。ぐへへ。


「あーあ」


 そこに、聞き慣れたどこか小悪魔っぽい声が響いた。


「!!」


 啓示は光の速さで声の主を振り向く。


「やっちゃったね、けーじ」

「っ……!」


 瀬奈の一言に、さーっと血の気が引いた。


「ほーんと、いけない子なんだから」


 諭すように言うと、瀬奈はゆっくり、もったいつけるように近づいてくる。


「うふふ」


 挟まれた乳首をにやにやねめ回してから、耳元にそっと唇を寄せた。


「もう……めっ」

「は、はぅうっ……」


 啓示は、これまでの人生が全て泡と消えるような虚無を感じた。

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