第6話 追憶


 あの日と同じ、黄色のカーディガンに紺のチノパンという恰好で、私は水平線の望める坂を、いつかリズと二人で訪れた美術館を再び訪ねるために、勢いよく下る。あの日追いかけた黒い影は、今はない。私は一人で坂を下る。


 美術館に着いて、二階奥の学生作品展のフロアに足を踏み入れ、私はリズの『ガラスの王国』を前に立ち止まる。それはあの日と変わらない純粋さを保ってそこに留まっていた。


 何が、「ガラスの王国」だ、ふざけるな。


 私は咄嗟に、その王国をめちゃめちゃにしたい衝動に駆られ、それをすんでのところで堪えた。あの緑髪の下の微笑が、今ではとても憎らしい。こんなにも誰かを憎んだのは生まれてはじめてだ。


 そのまま私は、併設する喫茶店にも足を運んだ。あの日と同じ席に座る。彼は目の前のその席で、赤い煙草ケースを取り出して、不味そうにそれを吸った。そして苛立ったように灰皿にこすりつけた。


 私は記憶をたどるけれども、もう父の顔は浮かんでこない。父に暴力を振るわれた日の記憶と今現在は、見えない力で遮断されていた。それは無理やり蓋をするのとは違って、文字通り糸がぷっつりと切れ、今との連続性を失っている感覚だった。


 さらに私は、その足でリズのアパートを訪ねもした。相変わらず、鍵はかかっておらず、部屋の中には誰もいなかった。あの日のまま、すべては沈んでいる。


 私はベッドに腰かけ、正面の何も点いてない真っ暗なテレビの画面を見つめた。そこに映る私の顔は、ひどく疲れているようだった。


 目の前のテーブルには灰皿と、あの赤い煙草ケース、そして未開封の白い錠剤が転がっていた。私は何気なしにその錠剤を手に取り、書いてある文字を読む。そこには「アリピプラゾール」と書かれていた。何だろう、これ。そのまま私はスマホで調べる。


 画面に出たのは「抗精神病薬」の文字だった。精神病? 何だろう。もう一度、

今度は「精神病」を検索にかける。



「精神病(せいしんびょう、英: Psychosis、サイコシス)とは、妄想や幻覚を特徴とした症状である。厳密には、現実検討ができない症状である(妄想や幻覚だと当人が分からない)。こうした症状は、統合失調症の症状であったり、また他が原因として症状を呈している場合には、精神病性障害(psychotic disorder)とも呼ばれる。以上が現行の医学的な用法である。健康な人でも生涯において5.8%が精神病体験をしている」



 何これ。私は足元が崩れ落ちるような感覚に陥る。リズは精神障害者だったってこと? 私は急にリズのことがわからなくなった。どうしてリズはこのことを私に打ち明けてくれなかったのだろう。彼はずっとこのことを黙って私とつき合っていたことになる。彼もまた、私と同じように秘密を抱えていた。それをついに打ち明

けることのないまま、行方をくらましてしまった。


 私は急に彼のことが心配になりはじめた。彼は今、どこで何をしているのだろう。そんな不安が、改めて脳裏をよぎる。


 そして目についたのは、三人の並ぶ家族写真だった。写真の中のリズは、照れ臭そうに口を尖らせている。ふと、写真の影に手紙が二通、隠れているのが目に留まった。中を拝見すると、文面から、どうやらそれはリズの実家から送られてきたものらしかった。


 やっぱりリズは、実家に帰っているのかもしれない。その何気ない思いつきは、考えるほどにやはり、もっともらしく思えてきた。私の中に確信に近いものが芽生える。でも、だからどうしたというのだ。私はリズに捨てられたのだ。今更、跡を追うまでもない。



 とはいえ、結局私は、リズのことが心配になり、迷惑を承知でリズの実家を訪ねることにした。


 彼の実家は郊外の閑静な住宅地の一角にあった。彼の家は周囲の家よりも一回り大きい邸宅だった。入口のところでインターフォンを鳴らしてから、私は何といえばいいかわからず、一瞬、焦ってしまう。


「はい、どちら様でしょうか?」と声がする。

「あの、そちらにリズさんはいらっしゃいますか」とやっとのことで言う。

「リズは今、不在ですけど、どうされましたか?」

「あ、私、リズさんとお付き合いさせてもらっている、ハルと申します」


 玄関の扉が開いた。そこには白髪のにこやかな老婦人が立っていた。上品な出で立ちの奥に芯の強さが見られる。それは瞳の光からすぐにわかった。


「ようこそ、ハルさん。リズからお話は聞いておりますわ。さあ、お上がりください」


 私はハーブの香りがする小庭園をくぐり、玄関に足を踏み入れた。



 ほのかに花の香る室内は木造の温もりある内装だった。リビングの隅には暖炉さえある。日の光が十分に差しこんで明るい。私は高そうなソファに促されて座り、

「ホットココアは飲まれる?」と尋ねられて、うなずいた。差し出されたマグカップには、可愛らしいウサギの絵が描かれていた。


 リズはこの家で育ったのか。なるほど、彼の仕草や言葉が洗練されているのもうなずける。この家はまるで北欧の上流階級の家みたいだ。心なしか、リズのお母さんも、異国の血が流れているように見える。


「あの、リズさんは今、どちらにおられますか?」と私は、斜め向かいに彼女が腰を下ろしたタイミングで、単刀直入に、身を乗り出して聞いてみた。


「あの子は、大切なものが見つかった、と言って、一度帰って来るなり、すぐにまた、どこかへ行ってしまったわ」

「大切なもの?」

「きっと、あなたのことよ」


 私はココアを見つめながら思い巡らした。リズは私を捨てていったんじゃないのか。私を大切に思ってくれているなら、どうして私の前に姿を現さないのか。もしかしたら、大切なものって、別の女のことじゃないかしら。


 そんな私の胸中を察したのか、リズのお母さんは私を優しくさとした。


「彼にとって、あなたの存在は特別よ。あの子があんなにも、人を信頼できるようになったのは、あなたのおかげだから」


 リズのお母さんはそのまま、追憶に身を委ねるように、目を閉じた。一瞬、時が止まったのではないか、と錯覚に陥るほど、ここの時間の流れ方はゆっくりとしていた。



 私はこの部屋に来たときから、ずっと疑問に思っていたことを口にした。


「失礼ですが、お母さんはお煙草はお吸いになられますか」

「私は吸いませんわよ」


 やっぱり、道理でこの部屋には灰皿は一つもないし、煙草臭さもない。むしろ空気は澄んでいた。別の部屋で吸っているのかもしれなかったが、この老婦人が煙草を吸っている姿をイメージするのは難しかった。


 しかしそうすると、おかしなことになる。なぜなら、リズは私と美術館にデートに行った日、喫茶店で煙草を吸いながら、その味を母との思い出だと語っていたからである。しかし今、私の目の前にいるこの女性は煙草は吸わないという。この女性はいったい誰なのだろう。


 私が思い巡らしている間、彼女はどうしてと言いたげにこちらをじっと見つめていた。仕方なく私はわけを話す。


「いや、この前、リズさんが煙草を吸いながら、その味を母との思い出だと言っていたので、気になって」


 それを聞いたリズのお母さんは、眉をひそめて、考えこんでしまった。それから一呼吸置いて、座り直し、きちんと私と向かい合った。


「あなたには、話しておかなければなりません。彼の生い立ちを。実は彼と私たち夫婦は、血の繋がった関係ではないのです。彼はもともと、施設にいた子で、それを私たち夫婦が養子としてもらったのです。だから彼の言う母との思い出の味は、きっと実母との思い出なのでしょう。彼は育児放棄を受けたりしていたから、きっと母親のいたずらで、赤ちゃんの時に吸わされたのかもしれません」


 私はその話を聞いて驚いた。そんなこと、本人の口から一度も聞いたことがなかった。彼は精神病だけでなく、自分の生い立ちまで隠していた。それも私とよく似た辛い過去を。どうして彼は打ち明けてくれなかったのだろう。


 私は目を閉じて、生まれたばかりの赤ん坊が、無理やり煙草を吸わされ、それを母親が笑って見ている場面を想像した。きっとリズにとって、その煙草の味は、あの頃の記憶とダイレクトに繋がっていて、忘れたくても忘れられないものなのだろう。彼がどんな幼少期を過ごしたのか、想像にも及ばないが、一つだけ私たちに共通して言えることは、私たちが実の親から虐待を受けていたということだった。私たちは心に幼い頃の傷を負ったまま、大人になろうとしている。その傷の疼きは今もまだ、深いところで私たちを形作っている。


 きっとリズもまだ、心の傷を克服しきれていないのかもしれない。話したくない過去は話さなくていい。少しずつでいいから、お互いにわかり合おう。今なら、急に姿を消してしまったリズを、どんな理由であれ赦せるような気がした。



 リズのお母さんは別れ際に私にこう言った。


「あなたのところの花屋さんで買った花束を、この間、夫がプレゼントしてくれたんです。とても素敵だったわ、ありがとう」


 そう言って婦人の指した先には、私のデザインした配色の花束が飾られていた。


「それ、私が作ったんです」

「まあ、素敵だわ」


 リズのお母さんの心底嬉しそうな顔は、私を幸せな気持ちで満たしてくれた。私は「ありがとうございました」と言って、リズの実家を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る