innocence
@SUMEN
第1話 秘密
黒髪をうしろで束ねて、口にくわえていたヘアゴムでとめる。働き先である花屋のシャッターを押し上げて仰げば、一瞬、まぶしい日の光に目をつむるけれど、すぐに胸のすくような空が出迎えてくれる。花たちも日光を浴びてにわかに活気づく。
「おはよう、ハルちゃん」
近所のおじいさんが私に挨拶をしてくれる。おじいさんは片耳のイヤフォンでラジオを聴いてゆっくりウォーキング中だ。そのかすれた声が愛おしくて、私も元気いっぱいの「おはよう」で返す。おじいさんはにっこり笑って、またウォーキングに取りかかる。
すぐ向かいの公園のジャングルジムからたくさんのハトが一斉に飛び立った。それを見上げる私に惜しみなく新鮮な空気が注がれる。世界が、こんなにも美しいとは。ほっとため息がもれる。暗い部屋にずっといた頃は思いもしなかった光景が、今目の前に広がっている。誰にでも訪れる当たり前の朝に特別さを感じられる分だけ、私は今、幸せなのかな。自然と上がる口角に、心の中で「おはよう」と、今度は世界に向かって呟いた。
今日は午前中から店主である純香さんが花の配送で不在だから、私は店番をすることになる。私はレジのうしろに座りながら、今度任された新しい花束のデザインを考えていた。前回の花束が好評だったから、今回もそれを活かしつつ、今度はもう一色、バリエーションを増やしてみよう。そうやって配色を考えていくのが、今の私の楽しみになりつつある。
こうして少しずつお店のことを任されるのが、今の私の秘かな喜びになっている。仕事が増えるということは、私が純香さんに信頼されている証だ。そう思うとやる気が湧いてくる。
鼻の下に色鉛筆を挟んでイスにもたれかかっていると、突然、入り口のベルが鳴り、私は慌てて挟んでいた色鉛筆を落としてしまった。からん、と音を立ててそれはお客さんの足元に転がっていった。
「あ、いらっしゃいませ! ごめんなさい」
拾ってくれたお客さんはつき合って一ヶ月になる彼氏のリズだった。リズはその色鉛筆をすぐ私に手渡すことなく、自分の鼻の下に持ってきて、私の真似をする。
「ちょっと、からかわないでよ!」
リズは子どもみたいに笑って、色鉛筆を返してくれた。
「あれ、今日、純香さんいない?」と店の裏手をのぞきこむリズ。
「いないよ」と私はちょっとふてくされて言う。
「そうか、ちょうどよかった。ハル、これあげる」
そう言ってリズは私に美術館のチケットを一枚手渡してくれた。
「今度、ここの学生作品展にぼくのが出るんだ。いっしょに見に行かない?」
私は驚いてチケットを胸元で大切に握りしめ、しばらくその余韻に浸ったあと、リズを見つめた。
「え、なにそのリアクション。ひょっとしてダメだった?」
次の瞬間、私はリズに飛びついてきつく抱きしめた。
「行く行く! 絶対行く! ありがとね、リズ!」
「はは、よかった。もし純香さんがいたら、あの人も来たいって言うかなと思って」
「え、どうしてダメなの?」
「ぼくはハルと二人きりで行きたいんだよ、純香さんには悪いけどね」
「それってデートってこと?」
「そういうことになるね」
私は改めてチケットを見返した。そこは海の見える美術館だった。私は嬉しくて、もう一度リズに抱きついた。そしてリズに見られないように少し泣いた。
こんなにも好きなのに、想いが強くなる程に、胸が苦しくなる。私は彼には言えない暗い秘密を抱えていた。私はまだ、それを彼に打ち明けられていない。彼がこのことを知ったら、何て思うだろうか。きっと私から離れてゆくだろう。だからずっと打ち明けられないままでいた。
そんな気分に負けたくなくて、いっそう強く、私は彼を抱きしめた。
夕方になり、オレンジ色に染まるくたびれたコートを羽織ったおじさんが歩き過ぎてゆくのをガラス越しにぼんやりと眺めていると、白のバンが脇に停まった。そこから赤のギンガムチェックシャツにジーパン姿の女性が降りてきた。純香さんが帰ってきたのだ。
「遅いですよー」
純香さんは悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうに店内に入ってきた。
「お店はどうだった?」
「問題なしです」
それを聞いた純香さんは、空のダンボールをたたみながら満足そうにうなずいた。勢いよくダンボールの底を抜くたびに、純香さんのふわふわした栗色の髪が揺れる。
「今日はこれからディナーがあるから、夕飯は適当に済ましてね」
「はーい」と私はやる気なく返事する。
純香さんは閉店のチェックだけ済ませると、そそくさと自家用車で出かけてしまった。私に対する扱いが雑かもしれないけれど、私は純香さんには頭が上がらない。だって純香さんは孤独だった私を日の当たる世界に連れだしてくれたから。
私は夕飯前にシャワーを浴びて、一日の疲れを洗い流すことにした。生ぬるいお湯に無気力に当たりつづけたまま、しばらく力を抜く。肩を撫でれば、太ももの裏に手を伸ばせば、そこには忌々しい火傷の痕がある。それは一センチ大の円形の痕で、煙草を押しつけられたあとにできたものだった。うなだれる私のうなじからお湯が頬を伝う。
シャワーを浴びたあと、私はバスタオルで水滴を拭き取ってから、ゆっくりと鏡に背を向けた。肩ごしにのぞけばそこには厳めしい龍の刺青が映りこんでいた。右の肩甲骨から左の尻にかけて腸のようにうねる龍の胴体がべったりとはりつき、青雲がその周りを覆いつくしている。
私はいつも見たくないのについ、この刺青を見てしまう。体を拭くとき、どうしても視界に入ってしまう。この刺青を見るたびに私は胃がむかむかする思いがした。頭には重い記憶がもたげている。今はもう、その記憶を純香さんに語ることができるくらいに成長できたけれど、それでもその苦しい思い出はできることなら蓋をしたままにしておきたい。私は刺青の残る自分の体が大嫌いだった。憎くて、この刺青ごと自分を殺してしまいたくらいだった。
いけない、と首を振り、鏡と向き合って笑顔を作る。私は過去ではなく、今を生きるのだ。そう決意したのはいつだったか。もう一度、そのときの気持ちを思い出し、私は前を向いて自分の顔を見つめた。眉は弱々しく垂れているけれど、それでも瞳には自分の意志がしっかりと光っていた。純香さんやリズと出会って私は自分の人生を歩みはじめたんだ。でも、目を閉じれば浮かぶのは、口ひげを生やした父の強張った表情だった。おかしいな、もうとっくに克服したはずなのに。意に反して私はその場にくずおれる。
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