〈さがし屋〉の非日常
滝野れお
第1話 失くした記憶
1. 記憶を探して欲しいんです!
まだまだ夏の日差しが降りそそぐ八月の下旬、
(見つけた!)
言われていたとおり、大好物だというスティックタイプの高級おやつを差し出すと、黒ネコはいとも簡単に捕獲できた。
「
大介が黒ネコを高々と持ち上げると、公園のすみにある木陰で待っていた
「はーい、ごくろうさま。ちゃちゃっと入れちゃってくれる?」
近くのベンチにキャリーバッグを置きながら、杏子はウェーブのかかった髪をうるさそうにかき上げた。
キャリーバッグの中に入れられた黒ネコは、暴れながらミャーミャーと鳴き声を上げている。
大介は、ちらりと杏子の顔を盗み見た。
杏子はネコによく似ている。ぐうたらで気まぐれで、ときどき大きな瞳で人をじっと見るところなんか、本当にそっくりなのだ。
「悪いな。おまえの飼い主がさがしてるんだ」
大介は黒ネコにそうささやくと、キャリーバッグのフタを閉めて持ち上げた。
「今日の仕事は、これで終わりですか?」
「そっ、これで終わりよ。だからね、大介くん。もう手伝いはいいから、そろそろ出て行ってくれないかしら?」
杏子はニッコリ笑って大介を見上げる。
「いっいえ、もう少しだけ、お手伝いさせてください!」
大介は返答を避けると、杏子から逃げるように足早に歩き出した。
「ちょっと待ってよ大介くん! うちの仕事を手伝っても一円にもならないわよ。それにさぁ、あたしだって、まだ一応若い女なんだから、あんたみたいな居候がいると困るのよ!」
杏子の声が背中につきささるが、大介はかまわず歩き続けた。
バイト先をクビになり、アパートからも追い出された大介には、ほかに行くところが無い。今は逃げるしかないのだ。
十分ほど歩くと、都会の片隅の小さな商店街が見えてくる。一階に八百屋と小さなカフェが入っている小さなビルの二階に、杏子が経営する〈さがし屋〉がある。
『落とし物から迷子のペット、もちろん人も探します』
看板にも書かれているとおり〈さがし屋〉の仕事のほとんどは、迷い犬や迷い猫さがしといった感じで、それほど大した仕事もなければ、収入も大した事はない。
ただ、杏子という人は、さがし物に関しては驚くほどの特殊能力を持っているので、いわゆる地道な捜査は必要ないし、人づてにその噂が知られ始めているので、食べてゆけないほど仕事に事欠くことはない。
────ただし、それは大介のような居候がいなければ、の話だ。
このところ毎日のように、杏子からは出ていけと言われている。
それは至極もっともなことで、大介としては返す言葉もないのだが、現在住むところのない無一文の「ホームレス男子」としては、なんとかここに居座り続けたい。
それほどこの〈さがし屋〉は、大介にとって居心地のいい場所だった。
大介は、さがし物の依頼で二度ほど〈さがし屋〉を利用したことがある。
言ってみれば、ただそれだけの関わりでしかない場所に、大介は転がり込んでしまったのだ。
そのことだけは今でも不思議でならないが、たぶん、あの日は雨だったし、風邪をこじらせて高熱を出した大介は、藁にも縋る気持で事務所のドアを叩いたのだろう。
杏子の不思議な力には確かに惹かれていたけれど、いくら大介が物怖じしない性格でも、女性がひとりで暮らす部屋に転がり込むなんて、とても考えられないのだから。
黒い外階段にかけられた看板の横を通って、大介が階段を登ってゆくと、事務所のドアの前にひとりの少女が立っていた。
(やった、お客だ!)
新たな仕事が入れば、杏子は些細な事など忘れてくれるだろう。
大介は、嬉々としながら階段をかけ上った。
☆ ☆
「どうぞ」
大介がアイスコーヒーの入ったグラスをテーブルの上に置いたとき、着替えを済ませた杏子が事務所に入って来た。
「お待たせしました、椎名杏子です。それで、何をお探しですか?」
事務所の壁ぎわに置かれたソファーに、客と向かい合うように座ると、杏子は営業用スマイルを浮かべる。
見たところ高校生と思われる少女は、ひとりでこの〈さがし屋〉にやって来た。
きっと依頼内容は、逃げ出したペットさがしか、落とし物さがしというところだろう。
その割には、妙に緊張している少女の様子が気になって、大介はお盆を抱えたまま、ソファーの近くに突っ立ったままでいた。
「あの……実はあたし、失くした記憶をさがして欲しいんです!」
ほんの少しためらった後、少女ははっきりとそう言った。
ショートボブの髪がわずかに揺れ、不安そうな少女の表情を際立たせている。
「それって、記憶喪失ってことですか?」
大介が思わず口をはさむと、少女は小さくうなずいた。
「こちらの〈さがし屋〉さんは、どんな探し物でも必ず探してくれるって、ネットの噂で聞いたから、だからあたし……」
きっと一大決心をして、彼女はここまでやって来たのだろう。不安そうな彼女を安心させるように、杏子はしっかりとうなずいた。
「わかりました。そういうことなら、記憶を失くした経緯をくわしく話してください。もちろん、言いたくない事は言わなくていいわ」
「はい」
少女は杏子にうなずくと、膝に置いた手に視線を落とした。
「あたし、
美緒は、両手をぎゅっと握りしめる。
「病院で検査もしたけど、原因はわかりませんでした。お医者さんが言うには、ストレス性の記憶障害じゃないかって……」
「ストレス性かぁ」
杏子は困ったように、天井を仰いだ。
「それってさぁ、とっても嫌なことがあって、自分の記憶を自分で閉じ込めちゃったってことだよね? それでも美緒ちゃんは、失くした記憶をさがしたいと思うの? 同じショックを二度味わうことになるかも知れないよ」
「わかってます。それでも、何があったんだろうって、ずっと気にしているより、ちゃんと知りたいんです」
「覚悟は決まってるんだね。わかった。それじゃ、手、つないでいい?」
杏子がそう言って手を差し出すと、美緒は怖々と手を伸ばした。
(はじまる)
大介はソファーの脇に立ったまま、杏子の顔を食い入るように見つめた。
美緒の手を取ったまま目をつぶる杏子。彼女の頭の中には、今きっと、美緒が失くした記憶に関する出来事が、次々と浮かんでいるに違いない。
初めて客として訪れた時から、大介はこの瞬間が一番好きだった。当たり前のように、杏子の口から語られるさがし物のありか。それがとても不思議で、居候になってからも、この瞬間だけは見逃すまいと、目と耳を総動員させるようにしていた。
しかし、大介と美緒が見つめる中、ようやく目を開けた杏子は、途方に暮れたような表情を浮かべていた。
「ごめん、わからないわ」
「ええっ、どういうことですか?」
美緒より早く、大介が叫んだ。
「それが、あたしにもよくわからないんだけど、いろんな景色が混ざり合ってるみたいでね、その上から黒インクぶちまけちゃったみたいに見えるのよ」
「黒インク?」
「そうなの。あたし、記憶喪失の人を見るのは初めてだけど、こんなふうに、何か防御してるみたいに見えるものなのかしらねぇ? かろうじて分かったのは、大きな川くらいかしら」
杏子が申し訳なさそうに美緒の方へ向き直ると、美緒はほんの少しだけ驚いたように、杏子を見返した。
「あたし、川の近くで見つかったんです」
「そうなの? なら、すこしは可能性あるかな。そうだ、倒れた日に身に着けていたものがあったら持ってきてくれない? 服とか小物とか、何でもいいからさ。物のほうが見えることもあるから」
「わかりました。たぶんあると思います。明日かあさってに、また来てもいいですか?」
美緒の言葉に、杏子はニッコリ笑ってうなずいた。
「もちろんよ。二度手間になって申し訳ないけど、美緒ちゃんの力になれるように、がんばるね」
「はい。お願いします」
美緒は頭を下げると、来た時よりは少しだけ明るい顔をして帰って行った。
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