曼珠沙華の置き土産

 暗闇の中にはびこる稲が街灯に照らされて海藻のようにうごめいている。太陽の光を浴びているときの優雅な姿とは違い、どの稲も明るい時間帯には隠している裏の顔を見せていた。いずれも他人行儀でぬくもりに欠ける表情をしていた。ひんやりとした風が吹くたびサワサワと小さな音を奏でるが、昼間の語りかけるような優しい声色とは似ても似つかず、今は鬱蒼と繁茂する見知らぬ植物群がざわめいているだけで何ら感情的な揺らぎを認められなかった。

 魚沼の農家に生まれ、穏やかに揺れる稲穂を眺めながら育ったマキト少年にとって地元の田園は庭のようなものであり、畦道の幅もわずかな傾斜も体が覚えているので、目をつむったまま一畝でも一反でも軽快に駆けまわれる自信があった。けれども夜歩きを禁じられていたこともあって夜の田畑はよく知らなかった。彼はかえろうとするところを延々と引きとめた友人をうらんだ。家にもどれば容赦のない叱責と拳骨が待ちかまえているはずなので、トボトボと帰路を歩きながら憂鬱の虫に憑かれていた。しかも近隣の田畑を熟知していることは自慢の一つだったのに、太陽が月にかわるなり足元が覚束なくなる現実に直面してせっかくの自信も砂塵となった。その事実がなおさらマキトを落胆させた。不穏な稲に肌を粟立たせながら悔しさを噛み締める。まさか田んぼがこんな冷たくなるなんて、街灯を頼りにしないと家がわからないなんて。言葉にならない不安と悔恨を漏らす。

 稲たちのうめきに合わせるかのように雨蛙が鳴きだした。一匹の声に釣られて何匹もの雨蛙が一斉に声を張りあげて、冷ややかな田園はたちまち不気味な合唱に包まれた。普段なら蛙に気づけば片端からつかまえようとするマキトだが、このときばかりは狼狽して逃げることしか考えられなかった。彼は湿気をふくむ雑草で足をすべらせてうつぶせに倒れこんだ。膝頭を小石で擦り剥き、かたい地面に胸を打ちつける。膝に走る鋭い痛みと息のつまる感覚が同時に押し寄せてうめき声をあげる。目尻に流れてきた冷や汗をぬぐう。倒れ伏したまま周囲を見わたすと、闇に溶ける緑色の田をかきわけるように伸びている真紅の花が視界に入った。それは間違いなく彼岸花であり、見た瞬間マキトの心臓は大きくはねあがった。本来なら彼岸花は収穫のあとに咲くはずである。現に出かけるときは赤色の花など見かけなかった。それなのに畦道の脇から田の中までびっしり生えているそれは朧月にとどかんばかりにのびており、真紅の輝きを放ちながら夜の田園を支配していた。花弁と茎は風に吹かれても微動だにせず、強靱にして厳格な風貌は静物画から抜け出たようであった。

 夜空のかなたより見おろしている狐のたいまつ。マキトは確信した。闇すらも切り裂いてしまう真紅の光は自分自身に向けられているのだと。そう思うなり花弁が人智をこえた怪物に見えてきて、彼は悲鳴をあげながら一目散に駆けだした。決して背後を振りかえらないで、痛む足を懸命に動かして実家を目ざした。彼は花に引きこまれそうな予感におそわれたのである。引きこまれたとして何が起こるのかは彼自身にもわからないが、永遠に親に会えなくなるような漠然とした恐怖が彼をふるえあがらせた。そうして息をあえがせながら実家にたどりつくと、玄関前で腕を組んでいる父親にぶつかりかけた。

 父親は逃がさないと言わんばかりにマキトの首根っこをつかんで怒鳴る。このぼんくらめ、真っ暗になるまでどこをほっつき歩いてやがったんだ。けれどもマキトは抵抗するどころかふところに倒れこんできた。おい、どうした。異変に気づいて片膝をついて見あげるとなみだとよだれと脂汗にまみれている息子の青ざめた顔があった。面食らった父親は彼を抱きあげて部屋に駆けもどった。母さん、母さん、マキトが大変だぞ。

 その夜からマキトは原因不明の高熱をだした。静養につとめたことが功を奏して大事にはいたらなかったが、ひどく体力が落ちていたこともあり快癒には時間がかかった。

 突発的な病が癒えるとマキトは家族や友人たちをあつめてくだんの体験を話し、証拠を見せようと自分が転倒した畦道に連れていった。ところが歩いても歩いてもあらわれるのは稲ばかりで彼岸花は影もかたちもなかった。畦道の脇には雑草が群れている。花は一輪も見あたらない。たしかに彼岸花がたくさん咲いていたんだ、とマキトは熱弁する。皆は怪訝そうな表情を浮かべていた。こんな時季に咲くわけないだろう、勘違いしたんだよ、という誰かのつぶやきを合図にそれぞれ相槌を打ちはじめる。この道は何度もとおったけれど花なんて咲いてなかったぞ。しまいには門限を守らなかったことをごまかすための作り話だろうとせせら笑う者まであらわれた。

 マキトは声を枯らして嘘偽りでないことを主張すると、服が汚れるのもかまわず畦道の傾斜に這いつくばって花を探しまわった。ところが、どれだけ目をこらしても青々とした稲と水分をふくむ土のほかに何も見つからなかった。マキトは服についた泥をはらう気力もなくして草地に座りこみ、茫然として雑草の群を眺めた。胸にひろがる喪失感が彼の視界をくもらせる。瞳のくもりは一滴の水となって頬を流れていく。その水滴を指ですくいとろうとしたとき、畦道の斜面に赤い紙片のようなものが落ちていることに気がついた。彼は恐る恐るつまみあげてみた。それはあざやかな真紅に輝く一枚の花弁だった。



※2011年脱稿・2017年改稿


※本作品は動画版もあります。詳細はリンク先にて。

https://note.mu/komugiteki/n/n0e29078f7f6a

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