第8話 人形勇者と狂信の侍女
カイは必死に魔道書を繰っていた。特に医療系と錬金術の魔道書である。堂々と禁書も広げていた。
「やっぱり俺が
魔法的な補助によってユーラリアとの間に子を設けられないか、カイは頭を悩ませていた。
祖国でのクローンのように、自分の遺伝子を抽出して人工授精できないかと魔道士長と共に色々と調べているのだが、全く成果が現れない。
「あー、俺の身体、ドラゴンの肉とかリッチの骨とか謎の草とかで出来てるしな……。遺伝子もクソもないどころか、体に傷すらつかないんだけど」
カイは自分の黒い髪を摘んで溜息を吐いた。
遺伝子は、髪の毛からも効率が悪いとはいえ遺伝子があるかどうかの判別に使うくらいは出来る、と試しに一本抜こうとしたら抜けなかったのだ。
地味に人間じゃないことを認めざるを得ず、カイは少なくないショックを受けていた。
自分の体が魔物の素材で出来ているために、魔物についても調べていた。
わかったのは人間も魔物から進化したということくらいで、カイが動物だと思っていたものも実は凶暴でない穏やかな魔物だった。魔力を持たない生物はいないのだ。
つまり、カイが単一の魔物から出来ていたとしても、人間の交配可能な遺伝子とは違う。無理に掛け合わせたり遺伝子を操作したりしたとして、魔物の特徴を持った新種の生物にしかならない。
絶望的だった。
「はあ……。こんなにリアさんに本気になるなんて思ってなかったからなぁ」
上体を大きく反らし、椅子も僅かに軋みをあげて傾く。
目を閉じれば、容易にユーラリアの微笑む姿が何通りも浮かぶ。
彼女は割合、味の変化が多いものが好きだということにも最近気づいた。プリンよりもタルト、ポタージュよりポトフ、といった感じで食べている時は少し隙のある彼女になる。
「子供を作れない婿なんて、この世界の国では認められないよな……。本当、困る……」
自信を持って彼女の隣に立つには止むなし、と屈辱に耐え、ようやっと捻出した精液の検査も、見事に生命反応がなかった。その上、成分も謎の変化を遂げていたらしく、解析できない液体としか言いようもない。
「こんなことなら、王の頼みなんて聞くんじゃなかった……、ああでも、遅かれ早かれ彼女には惹かれていただろうな……」
あの完璧な美しさが綻ぶ瞬間を自分だけが見ている時の優越感は、カイの短い人生では最高の幸福を感じさせるものと言っていい。
一度でも、見てしまったら。
一度でも、独り占めしてしまったら。
きっと手放せなくなった。現在がそうなのだから、間違いない。
「ずっと、リアさんの隣で不完全な彼女を独占したい、んだけどなぁ」
子供を産めない彼女は、近い将来家臣たちに責められるに違いない。
カイは子供がいないことに悲観はない。
でもそれとユーラリアの認識は違うのだ。カイはそこをしっかりと理解していた。
王たらんとする彼女が、血を紡げないことに重責を覚えるなら。
「俺は身を引いた方が、良いんだろうな……」
今ならまだ、引き返せる。
手放してみせる、カイは苦労して心中で泣き叫ぶような自分を宥めすかしていた。
ユーラリアの悲しむ顔は見たくないだろう?
俺が彼女を泣かせるなんてまっぴらだろう?
恋した自分というのは厄介で、自分だからこそ、隠しておきたい本音を突いて、迸る感情は被せるための蓋を壊す。
彼女が自分以外に無防備に笑うのを、お前は隣で笑って見ていられるのか?
午後のお茶の時間、この時だけはカイが茶器を持参してユーラリアに休憩を促す。
一緒に居て、何かを食べる。
それだけのことが失いたくない時間になっていた。
「リアさん? ……ユーラリア?」
「……え? と、何かしら」
ただ今日の彼女の様子は普段とは違い、上の空だった。しかもカイをその目に映すたび、その金の瞳が揺れる。
カイの話に聞き入ることもなく、彼女の好きなバタークリームを挟んだビスケットにホッと息をつく様子もない。
「随分上の空だけど、何か悩み事でもあるのか?」
「いいえ、何もありませんわ」
「本当に?」
カイは嘘つけ、と内心吐き捨てたい気持ちだった。
しかし、強く聴きだすには仲が進んでいるとは言えない。そしてユーラリアが弱みを見せるのを嫌っていることが分かるくらいには、彼女を理解していた。
「話があるなら、いつでも聞くから」
直ぐにでも聞き出して彼女の憂いを払い、自分にいつもの笑顔を向けて欲しい。
自分にも彼女には打ち明けられない悩みがある、というのを棚に上げて、カイは苦心して顔に笑みを浮かべた。
夕食の間も、その後の定番化したテオドールを交えたボードゲームも、ユーラリアは挙動不審だった。話しかければ返事はするものの、直前の話さえ全く聞いていないということもあり、流石に心配だ。
テオドールも気にかけているようだったが、時折ユーラリアがテオドールを意味なく――かどうかは分からないが本人は何でもないと言っているので――見ていることに気づいて、声を掛けるのを憚ったようだった。
ゲームが一巡して、今夜は早々に解散した。カイは書庫に舞い戻り、ユーラリアも数刻執務室で仕事をする。
カイはこの状態のユーラリアの側を離れることに不安を拭えなかったが、侍女もいることだから、と探し物に没頭した。
魔法による生命体の繁殖実験の資料の少なさに辟易していたが、時計を見ればいつもなら書庫の鍵を返して部屋に戻っている時間である。
今夜ばかりは、月明かりに浮かび上がる影の足取りが重く感じられた。
ぼんやりと張り合いのないユーラリアが、悩みを打ち明けてくれなければ、カイは何もできないのだ。
既に何度か原因を尋ねたのだ。その度に何でもないと返される。
知らず知らず、カイの精神には塵のような澱が溜まっていた。
「勇者殿」
声の主は回廊の影に半分身を浸した侍女、アンナだ。
彼女は憎悪のこもった眼差しで爛々とカイを睨んでいた。未だに彼女だけは、カイのことをユーラリアの婿だと真っ向から認めないでいる。
カイは鬱陶しく思っていた。
「勇者殿、城を去って頂きたい」
「貴女に命令される謂れはありませんが」
アンナの目はガラス玉のように隠すことなく、彼女の敵意を映し出していた。
「姫さまが悩まれているのは勇者殿に関してです」
言うべきことは言った、とばかりにアンナは踵を返した。
一拍おいて、頭を殴られたとも血が一瞬に凍ったとも言えるような衝撃がカイを見舞う。
とうとう、自分が子供を作れないということがユーラリアに知られてしまった。
やはり彼女にとっては気もそぞろになるほどの問題なのだ。
どれほどそこに立ち尽くしていたのか、カイの影は当初より細く伸びていた。
すっかり火の勢いが弱くなった蝋燭の火に照らされた、すっかり通い慣れた廊下を進み、やがて二人の寝室に辿りつく。
ドアノブを回すことが、かつて無いほどに億劫だった。素晴らしい身体能力がユーラリアが眠っているのを認識していても。
「……」
そうっと音もなくドアを開け、眠っているユーラリアを見る。眠る彼女の頰には涙の跡があった。
無意識に伸びていた手を引っ込める。
「ごめん」
何に対して謝っているのか、カイも整理できていなかった。
黙って城を去るべきではないだろう。
カイは自分が軍事面では戦力として数えるに値すると理解している。起きているユーラリアに引き留められたら、カイは城を去れないと確信していた。
しかし、そんな理由で引き留められても、純粋に喜べない。また逆に引き留められなかったら立ち直れない。
ふと、テーブルにあった真新しいメモ用紙とペンが目につく。
「置き手紙、か」
たった一言を何度も書き直して、書き損じていたメモ用紙は火魔法で燃やした。
温もりのある左手の薬指の指輪だけは、自分では外せなかった。
新しい相手ができたら新しい指輪を用意するはず。だから自分が持っていても問題ないと言い訳をした。
「さよなら、ユーラリア殿下」
カイは振り切るように声を絞った。
白亜の城を抜け出し、先程までいた部屋のある塔を見やる。
冷え込む秋の夜空に、少し欠けた月が西に大きく傾いていた。それは寂しいほどに美しかった。
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