県立北高竜王部

雪見桜

プロローグ

勇者の招待状

6世紀 ピレネー山脈


 寒風が黒い岩肌を叩くとまだ新しい粉雪が舞い上がり、砂煙のように視界を遮る。この高度になると草の一本も生えない。ここで生きられる生物はごくわずかだ。


 頭上には雲一つない青空。それもそのはず、雲ははるか眼下にある。しかしいつ山肌を駆け上がって来るかわからない。背負う荷物を抱え直し、青年は足を速めた。


 当代〈勇者〉である彼はもちろん登山家ではない。登山家とはの力に頼らずに頂上を目指す酔狂な人たちのことを指すと昔誰かが言っていたが、彼は登山家ではないからそんなこだわりに縛られることはない。


 一見軽装に見えるが、彼の全身は寒さと低酸素から身を守る魔法で守られているし、普通に進めない場所などは〈浮遊レビテート〉の魔法で飛び越えたりもする。

 しかし多用することはできない。目的とする場所はまだはるか彼方。何が起こるかわからない旅路だ。楽をするために精神力のストックを使い果たすことはできない。




 足を止めた。あたりには岩をたたきつける風の音がするだけで、他に何も聞こえない。木々の姿は久しく見ておらず、何者かが身を隠せるようなものは近くを転がっている大小の岩だけだ。


 しかし、確実に何かを感じる。彼は警戒レベルを引き上げた。


 両足を肩幅よりも広く広げ、腰を落とす。左手を腰に差した剣のさやに軽く当て、右手はいかなる状況にも対応できるよう、軽く曲げておく。

 瞳は油断なく周囲を見渡し、頭脳はフル回転で起こりうる状況をシミュレートしている。

 しかし身体全体に力は全く入っていない。もしここに彼以外の人間がいたとするなら少しかがんで立っているだけのように見えるかもしれない。


「四……いや五か……」


 乾いた風の中に微かに含まれる気配から感じ取る。おそらく、高山に住む肉食のモンスターだろう。普段はもっと低い所に住んでいるに違いない。


 この先に住む『』の発する強烈な気配のため、それらに敏感な小動物が消え去り、それを獲物とする小型の獣が消え、そして今大型モンスターの姿がなくなりつつある。そんなときに無謀にもやってきた人間はさぞかし美味しそうに見えただろう。『とある存在』の気配を忘れるほど夢中で追いかけてくる気持ちはわからなくもない。


 現在、モンスターが襲いかかってくる気配はない。しかし、この先の困難な道のりを考えると、ここで対処しておくのが正解のようだ。


「しかたない。やるか」

 正直なところ、体力や魔力を消耗する行動は取りたくない。だが贅沢を言っていられない立場だ。


 敵の潜んでいる方向に向けて殺気を飛ばす。一瞬だが、強烈な殺気。それなりに知能があるか、弱いモンスターであればこれで蹴散らせるはずであったが……。


「ちっ、見誤ったか!」


 岩陰から巨大な影が二体、まろび出てくる。白い身体に黒い縞模様。山岳地帯に住み、動物や小型のモンスターを狩る虎様のモンスターだ。

 この手のモンスターは単独で狩りをするのが普通だ。だから複数の気配を察知したところでその可能性を排除していた。強敵だ。


 二体の虎が時間差で正面左右から襲いかかってくる。左が先で爪、右はあとで牙の攻撃。


 冷静に状況を判断。左の虎の攻撃をかわす。すると右の虎が正面で口を大きく開く。

 虎は勇者を丸呑みするつもりなのだろう。頭からかぶりつくように覆い被さってきた。

 が、虎の口が再び閉じることはなかった。勇者は鞘から剣を抜き、その勢いで虎を頭から両断。そのまま虎の肉体は勇者の身体を避けるように左右に分かれ、彼の後方で倒れる。もちろん、その身体は縦に斬られている。


 最初の虎が身体を翻して勇者の背後から攻撃。しかし勇者はまるで背中に目がついているかのように、あるいは最初からわかっていたかのように、自身の背後を無造作に剣でなぎ払う。


 丸太ほどの太さがある虎の前足が二本、宙を舞った。斬られた虎は何をされたのか理解できなかったのか、そのまま着地しようとして失敗して地面を転がり、その先にある崖から転落していった。


 先に飛びかかってきた二体を倒したところで岩陰からさらに三体の虎が姿を現した。先ほど飛ばした勇者の殺気にも動じることのなかった個体だ。


 虎は剣を構える勇者を三方から囲むように移動してきた。このモンスターは連携をしないと思っていたようだが、認識を改めなければ。


 三体のうちの一体に目をとめる。肩の位置がすでに勇者の頭の位置よりも高い。他の虎と比較してもふたまわりほど大きい。左目から左耳に掛けての大きな傷は彼のこれまでの経歴とその勝利の歴史を物語っているように見える。そして何より、圧倒的な殺気。こいつがボスだ。圧倒的な能力と暴力、そして恐怖で同種族を支配しているのだ。


 ――ガァァァァァッ!!

 山そのものを震わせるような咆吼。それを合図としたかのように、他の二体が一斉に襲いかかってきた。


 今までも同じやり方で狩りをしてきたのかもしれない。ボスの咆吼で敵の動きを止めて手下が狩る。しかし、今回は相手が悪かった。青年はこの虎たちが恐れて近寄らない山頂に向かおうとする規格外だ。これしきのことで冷静さを失ったりはしない。


「はぁッ!」

 虎の攻撃は完全には同時ではなかった。ほんの0コンマ数秒のタイムラグではあるが、それさえあれば十分だ。


 まず最初に射程範囲に入った右の虎の首を右手に構えた剣でたたき斬る。切れ味が衰えることを知らぬ伝説の剣は持ち主の期待通りの働きを見せ、虎の首が宙に舞う。


 続いて襲いかかる左の虎は剣の鞘――これももちろん、伝説に名を残す逸品だ――で力任せにぶん殴る。

 ぐしゃっという嫌な音とともに、虎のモンスターはただの肉の塊となった。


 しかし、ここで誤算が生じた。


 偶然なのか、それとも命の最後の灯が見せた首領への忠誠心なのか、二体の虎の巨体が勇者の上に覆い被さってきた。


 もちろん勇者はそこも計算して死体を避けられるようにしていたのだが、最初に倒した虎の血が足下にわずかながら残っていたことに気づかなかったのだ。

 それは二番目に倒した虎の前足が影になって見えなかったということもあるが、致命的な隙が勇者に生じた。


 勇者は足を取られ、わずかにバランスを崩す。その隙を残った傷のモンスターが見逃すはずもない。

 その巨体に見合わぬ速度で猛然と突進し、確実に獲物を捕らえるため、前足を振り上げた。胴体を横薙ぎにしようとしていた。


「くっ……!」

 もはやあれこれ出し惜しみしている暇はない。ここで倒れるわけには――

 すべてがスローモーションで見える中、勇者は剣を捨て、モンスターの方へ右手を刺しだして、叫んだ。


「紅蓮の炎よ!」


 瞬間、頭の中に刻まれた呪文が起動し、魔力が手のひらに集中する。それは熱量と質量を伴った炎の塊として実体化し射出。ほんの目と鼻の先まで迫っていた虎の首領へと向かっていく――




「やれやれ。まさかこんな所にこんな大物が来るとはね」


 焼け焦げた一体を含む四体の虎の死体――一体は崖下に落ちていった――を前にため息をつく勇者。戦いの前に近くへ投げた荷物の中身を改める。


 すでに周囲には血と肉の匂いを嗅ぎつけたのか、何羽もの鳥形のモンスターが頭上を旋回している。しかし、虎を倒した勇者の姿に近寄ってくる様子もない。


「長居は無用だ。先を急ごう」

 そうして、勇者は再び不毛の岩山を歩いて行くのだった。




 出発時、旅の仲間は三人いた。勇者を含めて四人のバランスのとれたパーティだった。


 その中で最初に脱落したのは意外にも戦士の男だった。彼は明るく陽気で、この厳しい旅に最初に同行すると言ってくれた彼はこれまでもパーティーのムードメーカーだった。筋肉馬鹿で、何事も腕力で決着を付けたがる、無限の体力を持つと思われた彼だったが、登山にその筋肉は役に立たなかったようだ。


「すまん、俺はここまでだ。あとを頼む……」

 麓のベースキャンプを出て、まだ木々も覆い茂っている段階で早々に彼は脱落していった。大木の根元にうずくまる彼がベースキャンプで用意させた弁当を広げていたのは見なかったことにした。


 次の脱落したのは僧侶の少女だ。常に神に祈り、仲間達のことを心配していた心優しき少女も高山には勝てず、三日目のキャンプの時に高熱を出してしまい、やむなくその場に置いてきた。


「あなた方に神のお導きを……」

 最後まで自分ではなく勇者達のことを気に掛けていたのは彼女らしいと言えたが、これから向かう先にいるのはその神にも匹敵する存在。祈りが届くかどうかはかなり怪しい。


 パーティーの回復役を失ったこの時点で一行はモンスターとの遭遇を避けるために慎重、かつ大回りのルートを取らねばならなくなった。勇者も回復魔法は使えるが、万が一彼に何かあった場合にそれはすなわちパーティの全滅を意味する。この旅には大げさでも何でもなく人類の命運がかかっている。リスクは可能な限り避けねばならなかった。


 最後までともに歩を進めたのは意外にも魔法使いの少年だった。若くして魔法を極め、勇者である青年ともっとも長い間旅をしてきた少年だったが、魔法使いの例に漏れず体力面では劣り、それをコンプレックスとしていた。しかしこの旅では普段以上のねばり強さを見せ、勇者と旅を続けた。そして勇者はそれを己のことのように誇りに思った。しかし目的地まであと半分といったところで突然足を止めた。


「ごめん。僕はもうこれ以上進めそうにない」

「どうしたんだ、突然? 怪我でもしたのか? まさか、高山病にかかって?」


 それまで順調に歩いていた彼を襲った突然のトラブル。勇者に不安がよぎる。

「いや、魔力が尽きたんだ。これ以上は歩けない」


 実は魔法使いはここまでずっと〈浮遊レビテート〉の魔法を使って足りない体力を補っていたのだ。彼の魔力量は人類最高だったが、一週間にも及ぶ強行軍の果てについに彼の魔力は尽きた。魔法のサポートのない彼はこの厳しいピレネーの山肌をこれ以上一歩も歩くことはできないという。


「と、いうわけで僕は帰るよ」

 いうと、呪文を唱えて〈転移門ゲート〉を開き、麓の街へ帰ってしまった。


「魔力、残ってるじゃないか……。というか、ここまで見えない高さで浮いてたなら、そのまま山頂まで一気に飛んでいけばいいのに」

 勇者は相棒の魔力量とその馬鹿さ加減、両方に呆れた。




 すでに人類の誰も訪れたことのない奥地へと足を踏み入れて久しい。体力も魔力も残りわずかで、今も彼の足は勇者であるというプライドと、この作戦を成功させなければならないという責任感のみに支えられていた。自然の驚異はこれまで戦ったどのモンスターよりも強烈に勇者の肉体と精神を痛めつけた。


 風の当たらない岩の影で仮眠を取り、日が山肌を照らすと同時に歩き始め、日が暮れるまで歩く。そんな単調だが気の抜けない日々をもう何日過ごしただろうか。数えるのをすっかり止めたその日、ようやく目的とする場所が目に入ってきた。


「あれが……」


 岩と雪しかない山脈の中央に突然そびえ立つ白亜の城。山の一部を利用して作られていると思われるが、如何にして作ったのか。現代の魔法技術の粋を集めてもこれほどのものは作れまい。


 そこから岩を登り、あるいは迂回して、ようやく門とおぼしき場所にたどり着いたのは三日も後だった。そびえ立つ城門、同じ高さの扉。彼の仕える王の居城でさえ、これほどの大きさはない。それをこのピレネー山脈の奥地に作る時点で相手のとてつもない力がわかる。


 門の両脇に立つ竜の像がじろりとこちらを睨みつける。いや、これは像などではない。本物のドラゴン――かつて巨人を駆逐し、旧大陸のほとんどを支配下に置いた神にも等しい力を持つ種族。


 ――何者だ。この〈竜王の城〉に立ち入ろうとするとは、愚かな人間だ。

 頭の中に直接言葉が浮かび上がる。それだけで恐怖感を覚え、このまま立ち去ってしまいそうな衝動に駆られる。しかし自分は勇者だ。勇者――それは勇気ある者。勇者は自分を奮い立たせて門番に告げる。


「この城の主、〈竜王〉メリュジーヌ様にお話があって訪れました。竜王陛下にお目通りを願いたい!」

 ――やはり人間は愚かだ。竜王陛下はお前のような人間にはお会いにならぬ。早々に立ち去るか、今ここで消し炭にされるか選ぶが良い!


 強烈な殺気に心が折れそうになる。しかしぎりぎりのところで耐えることに成功した。自分は勇者だ。それだけがもはや心のよすがだ。


「我々人類と竜族の皆様の将来について話をしに来ました! 決して悪い話ではないと思います。何卒お目通りを!」


 ――そうか、死にたいと申すか。では希望に応えよう。安心しろ。一瞬で……。

 門番の口に熱が集まってくる。岩をも一瞬で溶かす灼熱のブレスだ。食らえば命はない。


 ――よい、通せ。

 今まさにブレスが放たれようとするその時、門番とは比較にならないほど強大な気配が襲いかかってきた。いや、それは襲いかかってきたのではなく、ただ門番に指示を出しただけだったのだが、勇者にはそう感じられたのだ。


 ――し、しかし……!

 ――わしの名が聞けぬと? 偉くなったものだな。

 音もなく扉が開いた。門番はもはやこちらに興味を失ったかのように気配をぶつけてこない。勇者はそのまま歩を進めた。




 城の中はただ広かった。どのくらい広いかはわからない。照明の類いが全くないからだ。明かりは今入ってきた扉から差し込むだけで、他に窓らしきものは見当たらない。

 背後の扉の向こうには今登ってきた山々があるだけでそのほかの三方――いや上方もだ――は闇に包まれている。何も見えない。ただ広いことだけがわかった。


 ――どうした? わしに話があるのだろう? そのまま進め。


 勇者はゴクリと喉を鳴らして歩を進めた。その部屋に――部屋と呼べるのかどうかすら怪しいが――人間の城のような装飾品や明かりを取り入れるステンドグラスのようなものは一切なかった。ただの空間。おそらくドラゴンたちには装飾品で飾り付ける権威の裏付けも、日光を取り入れる必要もないのであろう。

 かわりに、闇の奥からはいくつもの強大な気配が感じられた。人類最強の剣士でもある彼だったが、この中の一体としてまともに戦える気がしない。

 その中でもひときわ大きな気配。それを目指して暗闇の中歩を進めていく。




 ――さて、話とやらを聞こうか。


 しばらく歩いていると突然、頭の中に声が響いた。突然のことだったので驚いた。

 ――? そうか、人間は光がないとものが見えないのであったな。


 次の瞬間、あたりが光に溢れた。ひとつの街ほどもあろうかという巨大な空間。そこはおそらく山肌を磨いたのであろう黒く光る壁で囲まれている。不思議なことに、この広い空間に柱一本存在しない。


 あたりには色とりどりのドラゴンが左右に整列している。どれも信じられないほど巨大で、小さなものでも貴族の屋敷くらいはある。まさに竜の居城――


 そして正面には銀色に輝くドラゴン。周囲のドラゴンと比べて大きさはそれほどでもないが、その銀色に輝く鱗、大きく広げられた翼、長い首の上にある、緑色の美しい理知的な瞳――

 思わず見とれてしまっていた。


 ――竜王陛下の前であるぞ。頭が高い!

 攻撃的な声が頭に響く。


 〈力あることば〉。真に力のある者が放つ言葉には強制力があり、力弱きものはそれに逆らうことができない。


 しかし、自分は人類の代表として竜王に対等の話し合いをしにきた勇者だ。精神力のすべてを振り払い、その〈ことば〉に対抗する。全身から冷たい汗が流れ、足が震える。歯の根が合わずガチガチという音が聞こえてくる。

 その戦いは今まで勇者が行ってきた数多くの戦いの中でもっとも過酷なものだった。しかし、今までのすべての戦いと同じように、勇者は勝利した。膝を伸ばし、背筋を伸ばし、視線を竜王の方へと向ける。瞳に力がこもり、震えも汗も引いていった。


 ――よいと言っておる。

 その言葉に周囲の竜達の殺気が引いていくのを感じた。〈竜王〉の権威はこの場にいる竜すべてを一言で黙らせるだけの力があるのだ。


 ――すまぬな。部下が無礼をした。この通りだ。許せ。楽にして良いぞ、人間の勇者よ。


 その言葉を額面通りに取るほど世間知らずではない。彼は膝をつき、腰に掛けていた剣を床に置いて頭を垂れた。


「お目にかかれて光栄です、竜王陛下。私は人間の世界で〈勇者〉の号を賜っている者です」


 ――うむ、して勇者よ。このわしに話があると言ったな。話せ。


「はい。本日は、竜王陛下、そして竜族の皆様に招待状を持って参りました」

 ――招待状?


「竜族、そして人類の友好のために、陛下と、竜族の皆様方を我らの都、世界一美しい芸術と文化の都、〈パリ〉へとご招待差し上げたく、ここまで参上つかまつりました!」




 多くの竜族がその本性を〈竜石〉という石に封印して人の姿となり、山を下り、海から上がり、人里に下りてくるまでにそう時間はかからなかった。


 それ以降、このヨーロッパだけでなくユーラシア大陸全土で竜族――のちの竜人族と人類の共存が始まったのである。

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