実験企画『公開ブラッシュアップにトライ!』用テンプレート
穂乃華 総持
初稿
北海道の夜は早くやっくる。
わたしは暗くなった歩道を走り、第二門限の六時ぎりぎりに、高校から少しだけ離れた寄宿舎の玄関に飛び込んだ。靴を脱ぐのももどかしく、室内履きに履き替え、階段を駆け上る。
こんな泣き顔なんて、誰にも見られたくない。
わたしはノックも無しに部屋へ飛び込むと、バタリッと音を立て扉を閉め、カバンをその場に落とし、背を扉に預けて涙を拭った。
「おかえり~」
低い間延びした声は、同室の千里ちゃんだ。
千里ちゃんは高校二年生にして、すでに進路を決めている。そもそもが釧路の自宅を離れ、この札幌の高校の寄宿舎に入ったのも、道大の医学部に入るためと言い切るような人だ。きょうも第一門限の四時には帰り、机に向かっていたのだろう。
いくら仲良しの千里ちゃんでも、いまは一人になりたい。でも個室を貰えるのは三年生だけ。あと半年は、相部屋で我慢するしかない。
わたしは黙ったまま、涙を拭いつづけた。
それを不審に思ったのか、千里ちゃんが顔だけ振り向き、ズレた眼鏡を人差し指で押し上げる。
「半田と喧嘩でもしたのかい?」
何も応えずにいると、千里ちゃんがフッと笑った。
「よかったじゃないかっ」
わたしは千里ちゃんの笑い顔に、なかば自棄になって言葉を投げつける。
「よくないよっ!」
そのまま足音も荒く自分のベッドに歩み寄り、バスンッと座る。
千里ちゃんは椅子の背凭れに肘を乗せ、半身をわたしのほうに向けた。
「喧嘩できるほど、仲が深まったってことじゃないか」そして、下から覗き込むように、上目使いでわたしを見る。「そんな姿、半田には見せたことないだろ?」
それでも黙っていると、千里ちゃんは大きく息を吐いた。
「だいたい詩織はね、あのヘタレに気を使い過ぎるんだよ。いつもいつもいい顔して、ああしたら怒るんじゃないか、こうしたら嫌われるんじゃないかって。詩織はもっと我がまま言って、あのヘタレを振り回したらいいんだ」
普段から、タッくんのことが好きじゃない千里ちゃんは、大いに息巻いた。
「考えてごらんよ。去年のクリスマスだって、今年のバレンタインにホワイトデーだって、あのヘタレがちょっと男気出して告ってれば、あんたはもっと早く幸せになれたんだよ!
それを夏休み前まで待たして、あんたに言わせるなんて情けない……」
千里ちゃんの声に、わたしの目から涙が溢れた。
「そ、それでも…好きなんだもん……」
震える声で言うと、千里ちゃんは大きな大きなため息。
「そんで、何で喧嘩したんだい?」
わたしが泣いて答えられずにいると、千里ちゃんは机の前の半分ほど開いていたカーテンを大きく開けて、机のうえのスマホを取った。
千里ちゃんが勉強中にスマホを使うのは珍しい。いつも机のうえに置かれているのは、時計代わりだ。
きっとタッくんとラインして、聞きだしているのだろう。しばらくピポピポと指を動かし、やがて呆れたように言う。
「あんたも響子先輩の影響かいっ」
そうじゃない。そうじゃないけど……。
あれは一週間ほど前のこと。この寄宿舎では第二門限の六時から、夕食の七時までは勉強時間になっている。だから、誰もが部屋に入り、机に向かって勉強している。
静まりかえっていた、寄宿舎。
突然、机に面した窓の外から、大きな声で叫ぶ声が響いた。
「響子、すきだぁぁぁっ!」
驚いてカーテンを開けてみれば、寄宿舎に向かって立つ、男の子の姿だ。
その子は寄宿舎の一つの窓に向かい、笑って手を振ると走って姿を消した。
後になって話を聞くと、まだ携帯電話もない時代からつづく、この寄宿舎の伝統行事みたいなものだと。その頃は、寄宿舎に一度帰ってしまえば、電話もできない、声も聞けない。だから、道路から愛を伝えるのだ。
男の子にとっては「おれの女だ」と宣言する度胸試し、女の子にとっては「愛されてるんだな」って思う自己満足よ、と教えてくれた先輩はフフッと笑い、だけどね――とつづけた。
「これで、あやつらは公認のカップル。卒業するか、自分たちで別れるまでは、誰も手出しできないよ」って。
「そうじゃないもん……」
わたしの声は尻すぼみに消えた。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、いいなぁって思っただけ……。
わたしとタッくんでは、告白したのはわたし――。
一学期の終業式の日、千里ちゃんに背中を押されて。
夏休みには映画も行ったし、プールにも行った。二人で手を繋いで見た、花火はほんとうに綺麗だった。
それでも、まだ一度も言ってもらったことがない。
―――好きだって―――
だから、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ……。
「あのヘタレには、ハードルが高くないかい?」
千里ちゃんは特に興味を持ったふうもなく、スマホを叩きつづける。
「だいたいさぁ、あんたたちはもうバレバレの見え見えで、回りから見てる方がもどかしくって、もどかしくって……目の毒だったんだから――!」
そう言いながらも、スマホを叩く。叩いて、叩いて、叩きつづけて。
わたしの不安な気持ちがどんどん膨らむ。
タッくん、もしかして怒ったのじゃないか。
こんな面倒な女、もういやだって。
きらいだって。
もし、もう別れるって言われたら、わたし……。
もうやめてって言いかけたとき、千里ちゃんは唇をすぼめて口笛を吹いた。
「あのヘタレ、やるってさっ」そして、おいで、おいでとわたしを呼ぶ。「ほらほら早くっ!」
窓の前に立たされた、わたし。
そこから見えたのは、道路から見上げるタッくんの姿。
そして―――
「詩織っっっ、大好きだぁぁぁぁぁっ!」
上下、左右から、ガタガタと窓を開ける音。そして、ヒューヒューと吹かれる口笛に、割れんばかりの冷やかす声に拍手。
だけど、わたしは涙で何も見えなくなった。
「あいつなら詩織が帰ってきたときから、ずっと道路にいたよ。捨てられた子犬みたいに、しょぼんって窓を見上げてるのだもん、勉強に集中できないさ」
千里ちゃんはそう言って、わたしの頭を抱いた。
「これで、気がすんだろ?」
わたしは声も出せず、何度も、何度もうなずく。
千里ちゃんの手が、わたしの髪を何度も往復する。
タッくんと出会えて、付き合えて、ほんとうによかった。
込み上げる幸せを噛み締めていると、千里ちゃんの撫でる手が突然、ピタッと止まった。
「ゲェッ、嘘だろ……どんくさっ!」
何だろうと窓から覗いてみれば、タッくんが舎官長の大岩先生に取り押さえられている姿。
息を飲んで言葉を失くす、わたしの耳元で、千里ちゃんがため息混じりにささやいた。
「まぁ、これで職員室にも公認の仲ってことで、諦めるんだね……」
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