Side storys:Ⅵ

Conflict ~欲望の闘争(前編)

 時は欧州にとって激動の時代、15世紀。


 オスマン=トルコ帝国。その支配者スルタンメフメト2世は、ビザンツ帝国との激しい戦いの末に占領、遷都したコンスタンティノープル改めイスタンブールの王宮で、大宰相ザガノスからの報告を聞きながら不機嫌さを隠そうともせずにザガノスを睨み付ける。


 メフメト2世はこの時まだ30歳と若いスルタンであり、体力気力ともに充実し覇気横溢した威厳を醸し出していた。


 絶対者たる主君の機嫌が下降する様子に、謁見の間にいた他の廷臣達は戦々恐々として、自分が標的にならぬように深く平伏する。


 しかし視線を向けられている当のザガノスは恐れる様子もなく主君の怒りを受け止める。


「我が腹心ザガノスよ。今の報告をもう一度言ってくれぬか? 恐らく余の聞き間違いだったとは思うのだが……?」


「……いえ、聞き間違いではございませぬ。ワラキアの公王となったヴラド3世は我が国への貢納金の支払いを拒否しただけでなく、陛下の使者を無残に殺害して串刺しに晒したとの事です」


「…………」


 ――バキッ!!


 何かが砕けるような音が響いた。見るとメフメト2世が手慰みに弄っていた玉座の装飾が粉々に砕け散っていた。装飾は表面は加工された木材だが中には金属の芯が入っていたはずだ。その芯ごと片手で握りつぶしたのである。


 それを認めた廷臣達は増々恐れおののいて冷や汗をかく。このメフメト2世は幼少時に一度退位してから青年期に再び復位したのだが、その時には既に今のような異常な身体能力を持っていた。普段は表に出す事はないが、先程のように感情が昂ぶったときなどに無意識に発現する事がある。


「ヴラド……ヴラド・ツェペシュか。たかだか小国の公王に成り上がった程度で何を勘違いしたか……。どうやら余の恐ろしさを直に体験させてやらねばならんらしい。体験した時にはもう手遅れだがな」




 ワラキアへの攻撃を決めたメフメト2世はザガノス以外の臣下を下がらせ、2人でスルタンの執務室に入った。執務机には立派な装飾の真鍮製のランプが置かれていた。


「マリードよ。お前の言った通りヴラドは余への貢納を拒みおった。余はワラキアへの侵攻を決めたぞ。いつも通りお前の力で戦の趨勢を予見してはくれぬか?」


 メフメトがどこへともなく声を掛けると、部屋の天井付近に紫色の煙のような物が集まり、やがてそれは一塊となって人の形を取った。数瞬の後、そこには紫色の肌に無数の傷のような物が刻まれた魁偉な魔人の姿があった。


 声を掛けたメフメトは勿論、ザガノスの方もこの怪現象と謎の存在に対して慄いている様子は全くない。魔人が口を開く。


『ワラキア軍は徹底したゲリラ戦術を仕掛けてくるだろう。イェニチェリ達でも勝利は容易ではない』


「ふむ。つまりは余自らが親征せねばならぬという事か?」


『ああ。それが最も確実な方法だ。お前の力があれば小賢しい戦術など全て無意味だからな』


「ふむ……」


 メフメトはしばし黙考する。つい先だってやはり親征によってペロポネソス半島を制圧したばかりだ。この短期間での再度の親征は、正直に言えば面倒ではある。だがこのマリードの予見は外れた事がなく、あの忌々しいベオグラードの敗戦すら言い当てていた。


 またあのような敗戦を喫すれば帝国内にも厭戦気分が蔓延しかねない。そうなれば今後の征服事業にも支障を来たす。


『何も迷う事はない。吾を共に連れて行け。それでお前は十全に力を発揮できる。そうなればお前に敵う者などいない。あの『串刺し公』もお前の力の前に恐怖し膝を屈するだろう』


「…………」


 確かにベオグラードでもこのマリードを連れて行ってさえいれば、あのような敗戦を喫する事もなかったはずだ。万が一にも同じ轍を踏む訳には行かない。


「……よし、いいだろう。まずはイェニチェリ共の先遣隊を派遣するが、その間に余も親征の準備に入る。ザガノス。諸々の手配は任せるぞ」


 主君の命にザガノスが無言で一礼する。だが彼等は知らなかった。人外の力を得ていたのが自分達だけではなかった事を。自分達が引き起こした外圧が恐ろしい魔物を誕生させてしまっていた事を……



****



 その後ワラキア公ヴラド3世の奇襲によって、テレオルマンに駐屯していたオスマン帝国の守備隊が壊滅したとの報が入った。


 使者を殺しただけでなく先制攻撃まで仕掛けてきたヴラドに対して怒り心頭に発したメフメトは、直ちに先遣隊を派遣。ワラキアを制圧するよう命じるが、先遣隊はヴラドのゲリラ戦術の前に苦戦を強いられ進軍が滞ってしまう。マリードが予見した通りの状況となった。


 ここに至ってメフメトは遂に親征を開始。腹心のザガノスも引き連れ、ヴラドを殺しワラキアを制圧するべく進軍した。兵力はワラキアの十倍近くに登り、また自らもマリードのランプを持参しての親征であった。


 圧倒的少数のワラキア軍の奇襲など物ともせずに、メフメトの軍は遂にワラキアの首都トゥルゴヴィシュテの間近まで迫る事に成功していた。


 マリードの予見によって勝利を約束されていたメフメトはそれを何ら疑う事なく、明日一番の総攻撃に備えて軍団と共に夜営していた。


 そして……呪われた惨劇の一夜が幕を開ける。

 


****



「明日にはトゥルゴヴィシュテを落とせそうだな。ヴラドの奴め……あれだけ大見得を切っておいて、この大軍勢の前にはついぞ一度も姿を見せなんだ。『串刺し公』などと言われても所詮はただの人間。臆病風に吹かれたようだ」


 本陣の豪華な天幕の中で、出陣中とは思えないような贅を尽くした料理と酒に舌鼓をうつメフメト。その側には顕現したマリードが浮遊している。


『そうだな。ヴラドが戦いを挑んでくるとしたら今夜が最後のチャンスだ。だが奴には万に一つも勝ち目はない。ワラキアは陥落する事になろう』


 マリードが太鼓判を押す。そしてその視線はワラキアを越えて遥か遠方を見据える。


『もう間もなくだ。ワラキアを落としハンガリーを抜ければ、もう我らを止める者はおらん。遂に……ヴァチカンへと至る事が出来る』


「ヴァチカン法王庁か……。カトリックの総本山。本当にそこにあるバイブルの原典・・・・・・・が必要なのか?」


 メフメトの問いに首肯する。


『然り。あれを手に入れ、メッカにあるクルアーンの原典と合わせる・・・・事によって、吾は本当の意味での不滅の存在へと進化できる。勿論契約者であるお前もその恩恵に預かれるだろう」


「不滅の存在、か……悪くない。そうなればこの世の全ての地にオスマンの……即ち余の威光があまねく行き渡る事となろうな」


 メフメトが含み笑いを漏らす。彼が執拗に西進を続けてきた背景には、不老不死の実現への願望があった。それを邪魔する者はビザンツ帝国だろうがワラキア公国だろうが全て叩き潰すまでだ。



 メフメトが都合の良い邪悪な妄想に浸っていると、風に乗って微かに騒ぎが聞こえてきた。最初は気にも留めなかったが、騒ぎは収まるどころか増々大きくなり、悲鳴や怒号がメフメトの耳にもはっきり届くようになってきた。


「へ、陛下! お休みの所申し訳ございません!」


 天幕の外から息せき切った様子の伝令兵の声が聞こえてきた。


「一体何事だ! ヴラドの奴が遂に夜襲を仕掛けてきたか? だが何を手間取っておる!?  夜襲に備えて軍備は整えてあろうが! さっさと揉み潰してしまえ!」


 入室の許可を出して入ってきた伝令兵に苛立ちをぶつける。マリードは素早く姿を消していた。伝令兵は恐れおののきながらも、青ざめた顔で報告する。


「そ、それが! 軍も親衛隊も、既に壊滅に近い状態で散り散りに逃走しております! 陛下もすぐに退却を! ここはもう危険です!」


「な……馬鹿な。何を言っている? 壊滅だと? ワラキア軍はそれ程の大軍勢で攻めてきたとでも言うのか!?」


 椅子を蹴倒して立ち上がる。あり得ない話だ。欧州の周辺国を全てかき集めても、メフメトの親征軍を上回るような軍勢は集められないはずだ。だが伝令は激しく首を振る。その目はメフメトに対するのとは異なる恐怖・・に染まっていた。



「ぐ、軍勢ではありません! 敵は……敵は、ヴラド3世単身・・です!」



「…………は?」


 一瞬何を言われたのか分からずメフメトは呆気に取られる。だがその間にも伝令の報告は続く。


「あ、あり得ない、人間離れした強さで、我が軍の精鋭たちをまるで紙くずのように……。それだけではありません! 奴が殺した我が軍の兵士達が次々と甦って……死者達が友軍の兵士を襲っているのです! あ、あれは……悪夢です! 奴は……ヴラドは人間ではありませんっ!!」


「な…………」


 ここに来て予想外の事態が起きている事を、メフメトはようやく認識したのであった……



****



 宿営地は大混乱を極めていた。オスマン帝国の精鋭部隊が悲鳴を上げて逃げ惑っている。彼等を背中から襲っているのは……やはりオスマン帝国の兵士であった。


 しかしその目は黒く濁り、口からは長い牙が生え、獣のような唸り声を上げ異常な身体能力を発揮して、嬉々としてかつての仲間達を襲い惨殺しているのだ。


 その阿鼻叫喚の地獄絵図の中心にいるのは、1人の男。


「ククク……そうだ。もっと暴れろ、グール共。かつての仲間同士で殺し合うが良い。薄汚いバルバロイ共には相応しい死に様だ」


 まるで闇が形を得たかのような漆黒の衣服と鎧を纏い、その手には髑髏の装飾を施した肉厚の西洋剣が握られている。剣はオスマン兵達の返り血にまみれていた。



 ワラキア公国の公王、ヴラド3世その人である。またの名を……ヴラド・ドラキュラ。



 メフメト2世と同年代のその年齢には似つかわしくない剛毅な風貌は、血の気というものが一切ないかのように青白い色をしていた。


 彼はたった1人でオスマン帝国の宿営地に現れると、唖然としている兵士達を容赦なく殺戮し始めた。我に返った兵士達が包囲攻撃を開始するが、ヴラドは圧倒的というのも愚かしい人間離れした強さで、まるで雑草を刈り取るような勢いで刃向かう者達を虐殺していった。


 そのあり得ない程の強さに動揺するオスマン兵だが、さらなる悪夢が彼等を襲う。ヴラドが虐殺した仲間の兵士達が次々と起き上がったかと思うと、野獣のような咆哮を上げて友軍に文字通り牙を剥いたのだ。


 パニックに陥った戦線は瞬く間に崩壊。完全なる虐殺の様相を呈した。その地獄の中、ヴラドは悠然と歩を進める。狙うはメフメト2世の首ただ一つ。



 だがその前に立ち塞がる者があった。



「貴様……あり得ん! その力は一体……!?」


 従軍していた大宰相ザガノス・パシャであった。だがヴラドは露ほども歯牙に掛けない。


「どけ、下郎。私が用があるのはお前達の主君だけだ」


「……あまり調子に乗るなよ、小国の領主如きが。もはや兵どもは粗方逃げ散った。だがそれならこちらもむしろやりやすい・・・・・という物だ!」


「……!」

 ヴラドが初めて興味深そうな目をザガノスに向けた。ザガノスの身体から……魔力・・が立ち昇っている事に気付いたのだ。


 同時にザガノスの肉体が変異・・した。人間としての形が崩れて膨れ上がっていき、数瞬の後にはそこに異形の怪物が出現していた。


 下半身は人間など簡単に絞め殺せそうな長く太い蛇の身体・・・・。そして上半身は人間としてのシルエットは留めながらも同じような蛇の鱗に覆われ、手には鋭い鉤爪が生えていた。そしてその顔は……人間大の巨大な蛇そのものの頭になっていた。


 それはまさに蛇人間・・・としか形容しようのない怪物であった。その両手にはいつの間にか長い槍のような武器が握られていた。


「…………」


『くくく、驚きの余り声も出んか? あのお方より頂いた霊魔シャイターンの力の前に貴様など無力よ』


 無言となったヴラドの姿に、ザガノス――蛇の怪物は嘲笑する。だが……


「なんだ……何事かと期待させておいて、この程度・・・・か。つまらん」


『……何だと?』


 強がりではない。ヴラドは心底つまらなそうに呟いたのだ。それは自らの力に自信を持つ蛇の怪物を激昂させるのに充分すぎた。


『貴様ぁぁっ!』


 蛇の怪物が持っていた槍を突き出す。人間ならどんな鍛えられた兵士でも見切れないような瞬速の突き。だがヴラドは僅かに身を逸らすだけでそれを躱した。


『な……!?』


「どうした? まさか今のが本気か?」


『……っ! ぬかせ!』


 蛇の怪物は目にも留まらぬ速度で次々と連続突きを繰り出すが、その全ては空を突いた。


「ふん!」

『……!』


 ヴラドが剣を薙ぎ払うと蛇の怪物の槍はあっさりと両断された。蛇の怪物は動揺して、その蛇の尾で後ずさる。



「やはり貴様では話にならんな。だがこの様子だと主のメフメト2世も尋常な人間ではなさそうだな? そっちは少しは楽しませてくれるかな?」


『……ッ! 貴様ぁ……我が力はこんな物ではないぞ!』


 蛇の怪物は鎌首をもたげると、その蛇の口から紫色の煙のようなものを吐き出してきた。煙はすぐに霧状となってヴラドの全身を包み込む。


『ファハハ、油断したな! 私の毒霧は、巨象ですら物の数秒で全身から血を噴き出して死ぬほどの威力だ! 地獄の苦しみを味わいながら死……ね……?』


 蛇の怪物の言葉が尻すぼみに消える。彼の視界の先では毒霧に纏われながら平然とこちらに歩いてくるヴラドの姿があった。


「やれやれ……よりによって吸血鬼の真祖たる私に、血液に作用する毒など用いるとは……。無知とは幸せな事よな」


『お……おぉ……ば、馬鹿な……』


「さて、出し物はもう終わりか? それでは退屈な見世物の観劇料は……死だ」


『……っ!! お、おのれぇぇっ! 認めん! 認めんぞぉぉぉっ!!』


 恐怖か絶望か……破れかぶれとなった蛇の怪物が、その蛇の口を限界まで開き襲いかかってきた。その口からは毒蛇のような長い2本の牙が伸びていた。噛み付いて直接毒を注入するつもりだ。だが……


『あぃ……?』


 その牙がヴラドの身体に食い込む遥か前に、蛇の怪物の首は胴体と泣き別れになっていた。



「さて、メフメトはもう少し楽しませてくれると良いが。折角手に入れたこの力、存分に奮ってみたいものだ」


 地面に溶け込むように崩れて消えていく蛇の怪物の死体を眺めながら、ヴラドはそう独りごちた……

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