第五章、その十

「──動かないでくださいね」


 嫌味なまでにおっとりとした紳士口調とともに、背後から僕の喉元へと突きつけられる、氷の切っ先。


「……このみ、さん?」

「助かりましたよ、そちらから『最終ステージ』であるこの聖なる泉まで出向いていただけて。おかげで面倒な手間が全部省けました」

 目線だけを斜め後方へと送れば、若干スリム化しているものの瞳だけは相変わらず無駄に輝いている、今や見飽きた感もある顔が、鮮血のメイクを伴って立っていた。

 ……たぶんこれ、ほとんど返り血なんだろうなあ。押し当てられている果物ナイフも、何だかまだ生暖かくぬめっているし。

「あっ、うしお!」

「おっと、それ以上近づけば、あなたの大切な『王子様』の首筋に、真っ赤な蝶ネクタイを結びつけてしまうことになりますよ」

 うわっ、やめろよ想像したじゃないか。評論家のくせに、無駄に文章表現に凝るんじゃない!

 騒ぎに気づいた鞠緒まりおがこちらに駆けつけようとしたが、すかさず僕を羽交い締めにして機先を制す、悪のミステリィ評論家、許斐このみ漱恋すすごい(以降敬称略)。

 ……ちょっと待ってよ、『悪のミステリィ評論家』って。それじゃまるで僕が囚われのヒロインで、鞠緒が正義のヒーローみたいじゃないか。逆でしょ、この場合。

 語り手だからあえて自分の外見描写は控えていたんだけど、ボクって本当は女の子だったりして。そういえば二章あたりでそういうネタをやっていた覚えもあるけど、だからといって今さら幼なじみの先輩役を探す暇なんかはないのだが。

「許斐さん。いきなり何ですか、これって。お腹が空いているのなら僕なんかを食べるよりも、一緒にナキウサギでも探しませんか?」

 しかし引っ張るよな、ナキウサギのネタ。最初は珍しがっていただけなのに、ここに来てエサ扱いにまで落ちぶれてしまっているし。

 ……ていうか僕、このオジサンに、別の意味で食べられてしまったらどうしよう。

「いえいえとんでもない。私のほうこそあなた方にプレゼントがあるので、お伺いしたのですから。特に鞠緒さんのためのね」

 プレゼント? しかも鞠緒に?

「さあ、そちらの草むらの中です。お受け取りください」

 何だろ、とりたて新鮮なナキウサギかな(くどい)。

 しかし、鞠緒が何の躊躇もなくズルズルと引きずり出してきたのは、全身くまなく赤いラッピングを施された「──休職中の刑事さん⁉」→改め、殉職中の刑事さん?

 いや、やめておこう。あまりにも黒すぎる。よってこれからも『休職中の刑事』と呼びます。

「これって、いったい……」

「ふふふふふ。この方こそが私を除くミステリィ業界『人魚愛好会』メンバーにおける、最後の生き残りだったのです。どこかの誰かさんみたいに臆病風に吹かれてずっと逃げ回っていたんですが、布団部屋の押し入れの中に隠れていたのを引きずり出して殺したんですよ」

 どこかの誰かさんとしては驚くか憤慨するかしたいところだけど、喉元に犯行に使われたばかりの証拠物件を突きつけられている身ではそうもいかない。

 しかし一応は刑事のくせに、評論家なんぞにあっけなくやられるとは何事か。これも警察社会のことなぞ何も知らないミステリィ小説家たちがちょっと受けたからって、ふぬけた女性受けする『心優しい子供好きの休職中の刑事』ばかりを量産したことが原因であろう。

「いやでも、こんなものをプレゼントされても困るんですけど。レ○ター博士ごっこがしたいのならよそでお願いします。同じクラリス役ならドロボーさんのほうが好きですので」

「そうですかあ? 鞠緒さんのほうは、お気に召されたみたいですけど」

 ──え?

 思わず鞠緒と殉(失礼)休職中の刑事のほうへと振り向くと、何だか能面みたいな無表情でじぃ〜と、できたてほやほやの屍肉のほうを見つめている、食人巫女姫さんのお姿が。

「ま、鞠緒くん?」

 だめ! ペスったら、おあずけ!

「大丈夫じゃ……我は約束したのじゃ……もう人肉は食わんと……潮の肉を食うまではな」

 いや、どうでもいいんですけど、最後のは余計じゃないかと。

「それは困りましたねえ。今宵こそが待ちに待った、約束の満月の夜なのです。この機会を逃すわけにはけしていかないのですよ。ここは一つみつる君の指を一本ずつ切り落とさせていただいて、こちらの本気度をお見せしなければなりませんかねえ」

「な、ちょっと!」

 だからクラリスならワークスのほうが好きなんだってば。

「何でそこまでして、鞠緒に人肉を食わせようとするんだ。こいつ最近太り気味だから、ダイエットでもさせようと思ってたとこなんだぞ。こんなことをして何かあんたにとって、得になるようなことでもあるのかよ?」

「それが、大ありなんですよ」

「へ?」

「満君には今さらおわびのしようもないのですが、以前私たちの目的が『不老不死の人魚の肉』を手に入れることだと言っていたのは、実は真っ赤な嘘なんですよ」

 何だよそれ。本格ミステリィ的にはこの期に及んでどうなのよ。反則じゃないの?

「肉じゃなかったら、何だって言うんですか」

 ではなくて、だったりして。おっさんたちが本気で『人魚の国』なんて探し求めていたら、それはそれでいやだけどな。

「血ですよ、血」

「ち、って?」

 まさか人魚の生き血を飲んで、体の一部だけビンビンでギンギンに若返りたいとか?

「……それはスッポンでしょう」

「あ、いや」

 あれ? 今僕、声に出していたっけ?

「この前もお話したように、予知能力である『遠見とおみ』の力を持った『満月つきの巫女』の血筋に連なる者は、支配体制がいかに変わろうとも未来永劫、この国の権力者たちから特別なる加護を受け続けていくものと思われています。すなわち我々のような平凡なる一般庶民であっても、巫女姫と交わることさえできれば、自分の血を国家の裏の歴史をつかさどる、巫術シャーマン的特権階級の一族の中に残すことともなり得るのですよ。しかもそうなった場合は自分自身も次世代の巫女姫の『御尊父』ということになり、国家中枢に対して多大なる権力と発言力を行使することすら可能になるものと期待できるのです」


「何だよ、それ。巫女姫と交わるって、まさか──」


「まあ、つまり今回の場合で言えば、鞠緒さんと交わらせていただこうかと思っている次第なんですよ」

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