第五章、オトヒメの供物(サクリファイス)。
第五章、プロローグ&本文(その一)
──だまされた。
この俺としたことが、何ということであろうか。
『
そしてこのゲーム自体が仕組まれたものであり、初めから参加者の誰であろうとも、勝利の栄冠を得ることなぞできなかったのである。
そう。あの女は『人魚姫』なんかじゃなかったのだ。まんまと自分の許におびき寄せた男たちの寿命や精気を吸い取っていく、『竜宮城の乙姫』であり、その狡猾かつ残虐な手口で人魚姫や王子様を不幸のどん底に陥れた、『海底の魔女』であったのだ。
もう逃げられやしない。すでに俺たちは、『禁断の木の実』を食べてしまっていた。今もあの『症状』が刻々と、俺の身と心のすべてを蝕んでいるのだ。
──『
いや、あきらめてはならない。機会を待つのだ。必ずやあの魔女だって、隙を見せるときがくるはずだ。
そしてそのときこそが、最後のチャンスなのである。
人間社会へと、帰還するための。
俺が俺自身として、これから先も生き延びていくための。
唯一の心残りは、もはやこの手記の続きを書く時間も、膨大な冊数のすべてをここから持ち出すすべも、今の俺には残されていないことであった。
俺という人間が生きた証しであるこの手記が、いつの日にか誰かの目に留まらんことを祈りつつ、断腸の思いで今ここに筆をおく。
○月×日記。
五、
「……だまされたって」
何となく重要な文章だということだけはわかるので、幾度となく読み返してはみたものの、さっぱり意味がわからないんだよねえ、これって。
他の草稿と読み比べてみると、どうやらこれが最後の記述のようである。
つまり、これ以降どういう事態に発展して、叔父さんが失踪することになったかとか、ゲームの行方がどうなったかとかは、まったくわからないということなのだ。
第一いかにも黒幕っぽそうな『彼女』というのが、具体的にはどのような人物なのか、まったく書き記されてはいないし、ここに記述されてある文章だけでは、これまでの謎が解明されるどころか、ますます混迷を深めていくばかりなのである。
まあ、すでに叔父の失踪の理由に関しては、僕自身ある一つの仮説を立てていることだし、それにあのミステリィおたくどもが勝手にやっている『
しかし、『人魚姫』とか『竜宮城の乙姫』とか『海底の魔女』とか『禁断の木の実』とか、おとぎ話や神話のフレーズばかりぽんぽん出てきたりして。叔父さんてば鬼畜野郎のくせに、案外ファンタジー趣味があったりなんかしたのかなあ。……何か気味ワリイ。
そんな僕の俯瞰的視野に立った、これまでの展開の総括的考察作業(読書三昧の引きこもり生活とも言う)なぞにはかかわらず、この座敷牢の外の世界──つまりは母屋では、ここにきてようやく『生き残りゲーム』が白熱してきているようなのであった。
あまり興味がないので具体的な動向はいまだ詳しくは知らないが、以前のまだ初期の段階においては、無駄に他者との交戦を重ねて消耗するよりは、他の奴らが共倒れして人数が減るのを待ちながら、力を温存しておこうとする考えが大勢を占め、ほとんど全員様子見の状態となっていたのであろうが、何せその日数を稼ぐために一番必要となる、食糧そのものの供給が完全にストップしているのであり、自動的に全員が『ジリ貧』状態となり、いつまでも余裕ぶっているわけにもいかず、早期決戦へと戦略の大転換をはかることを、互いに確認をとることもなく以心伝心に行われたのだと思われる。さすがはミステリィおたく同士、すっかり気心が知れ渡っているというわけだ。
さしあたって僕にとって気になるのは、当然自業自得のおっさんたちのことなんかではなく、館に常駐しているであろう女中さんたちの安否のほうであった。
たしかに
だがしかし許斐氏が言っていた、人魚の肉を食べることによって、人間とはちがう生命体になってしまっているということや、その結果一族の中で共食いをしたり普通の人間との間で喰い殺し合うことに、習性上忌避感を持っていないというお説には、素直に納得しがたいものがあったのだ。
そんな奇想天外で偏向の激しすぎる先入観を安易に受け容れてしまったら、まさしく叔父が鞠緒の虐待の言い逃れに利用していたみたいに、「館の女たちは人間じゃないんだから何をしてもいい」という、危険きわまる考え方がはびこる土壌を生むだけなのである。
連中の飢餓状態の進行速度いかんでは、長期的な課題である不老不死のためなんかよりも、現在の生命維持を優先するという切実なる理由のために、同士打ちそっちのけで直接女中さんたちに対し、『人類における第一の欲望』を主目的にした実力行使に及ぶ可能性が、非常に高まることが危惧されるわけである。
まあ、彼女たちのほうも、一見か弱そうに見えるものの、何だか一筋縄にはいきそうもない雰囲気がびしばし漂っていたし、今ごろは馬鹿なミステリィおたくの親父どもなぞ、あっさりと手のひらの上で転がしているのかもしれないけどね。
「……とどのつまり、無力な傍観者は何の根拠もないとわかっていても、あくまでも楽観論だけで自分をなぐさめる以外に方策はないってことだよな」
それにこういう極限状態の中においては、何をおいても最優先すべきは自分自身の身の安全のはずなのである。それをこのように何だかぐだぐだと他人の心配や批判ばかりしているから、『主人公』やら『王子様』などというわけのわからん称号を贈与される原因となるわけであり、こんな一人だけ浮世離れした第三者的立場に立ったまま時が満ち、いよいよ『謎の解明』とやらが行われんとする最終舞台にもつれこんでしまえば、今度は『名探偵』などという面倒きわまる役職を押しつけられて、延々と長い枚数にわたってわけのわからない文章を垂れ流さなければならない、憂き目に遭わされてしまいかねなかった。
(──あれ? もしかしなくても今だって、大して変わりはなかったりして)
まあ、実のところは記憶喪失などという、やっかいきわまる疾病を患ったために、特に精神面や感情面において、自分というものに自信が持てず、どうしても何かにつけ客観的な言動をしがちになってしまい、そこら辺がクールというか達観しているというかやる気がないというか毒舌コメント野郎というか、数々の忌憚のない評価をいただいている理由なのではないかと、思われる次第であった。
それに今のところはこの座敷牢における食糧事情は、贅沢を敵にし一億総火の玉になりつつも竹槍訓練などという無駄なことで体力を使ったりしなければ、戦後みっともなく鬼で憎いあんちくしょうなアメリカ〜ナの皆様と、男同士で聖ヴァレンティーヌスのプレゼントの交換をしないで済むほどには、まずまず十分な在庫状況にあると言えた。
そこで僕にとって目下のところ、第一に『さしあたる』べきなのは、やはりというか相も変わらずというか、あの銀色の髪と
御存知の通りいろいろ悶着があり、我々二人の関係は二転三転していったわけでありますが、前回急展開を見せ二人の仲が急速に距離を縮め、今日という晴れの門出に──
「何をさっきから、一人でぶつぶつ言っておるのじゃ。それよりもこうも蔵の中にこもりっきりでは、退屈でかなわんわ。おぬしもいつまでもそんな小難しそうな書物など読んでおらず、なんぞ我に気の利いた小話でもしてくりゃれ」
おい。いったいいつから僕は、おまえの座付き落語家か漫才師になったんだ?
「……あのなあ、たしかに僕はおまえに、以前通りここに顔を出しても構わないって言ったけど、別に読書や調べ物の邪魔をさせるために来てもらっているわけじゃないんだからな。それを勝手に、ここの保存用の乾物類や菓子類にまで手を出しやがって。最近遠慮というものを忘れているんじゃないのか? せめて前みたいに、手土産でも持参してきたらどうなんだ」
そうなのである。数日前、鞠緒が乙女心な行き過ぎのダイエットに倒れてしまったことで、僕の感情面のわだかまりに一定の解消がはかられ、以前みたいに気の置けない関係というわけにはいかないものの、表層的には一見良好そうな関係の再構築に成功していたのだ。
だがそれはあくまでも、互いに見たくないものは見ず、言及したくないものは言及しないという、積極的なんだか消極的なんだか判断が難しい現実逃避的行為によってもたらされた、危ういバランスの上に成り立っている、『幻のなかよし同盟』状態にすぎなかった。
……しかし、こういう場合においては、鈍感ていうか自分の感情に素直というか、とにかく天然素材のやつは得だよな。こっちのほうが、あいつが『人喰いの巫女姫』であることを忘れよう忘れようとしているのに、僕が自分のことを受け容れようと努力しているのを確信したとたん、妙に強気になって、あえて自分の正体を晒すことすらいとわずに、こちらの泣き所につけ込んでくるようになったのである。
たとえば、先ほどの僕のセリフの言葉尻をとらえるようにして、小憎らしくもいたずらっぽくにんまりと笑いながら、このように言ったりなんかするのであった。
「あれえ、いいのかなあ? 我が持ってくるものなど何の肉を使っているかわからぬから、怖くて食べられないんじゃなかったっけ〜」
「うぐっ」
たしかに僕は鞠緒がこの座敷牢に入りびたることを許可するときに、少なくとも僕の目の前では人肉を食べたりはしないことを約束させた。
しかしそれはあくまでも、実際の既成事実に対し見て見ぬふりをするという、『臭いものには蓋をしろ』的な処置であり、それをこのようにデリカシー無くあからさまに口頭で論じ合っていたんじゃ、何の意味も無かった。
こうしていかにも普通の日常生活を無理やり演出して、何事もなく暮らしていくふりをする中で、時たま顔を出すこの少年の『食人鬼』の本性をまざまざと見せつけられるにつけ、僕のかすかなる疑念はどんどんと膨らんでいき、今では立派な『確信』へと変わりつつあったのだ。
──そう。叔父
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