第二章、その十三

 ふと気がつけば僕は、煌々と輝く満月の夜空のもとで、あたかも妖精のような少女と愛を交わし続けていた。


 ──ああ、またあの夢を見ているのか。


 彼女のまるで月の光のようなしろがね色の長い髪の毛が、僕のむきだしの上半身にからみついてくる。


 ──またしても、あの幻の一夜が巡ってきたのだ。


 陶器のように白くすべらかな肌は、あえぐほどに上気していき、彫りが深く端整な顔立ちの中の縦虹彩の玉桂の瞳ルナティック・アイズは、更に妖しい黄金きん色の輝きを増していくのであった。


 ──月に一度の、夢の中だけの逢瀬。


 小柄で華奢な肢体からだ。いまだあどけなさの残る面持ち。まだまだ十代半ばの年ごろであろうか。


 ──失われた過去の記憶から抜け出してきたような、けして物言わぬ月の化身のごとき乙女。


 しかし彼女は眩い月明かりを背に、まるで挑むように燃える業火のごとき瞳で僕を刺し貫き、けしてその愛の営みから逃れることも拒むことも許してはくれなかった。


 ──そうだ、これは夢だ。ただの幻なんだ。だったら遠慮なく楽しもうじゃないか。


 僕はもはやすべての道徳観も倫理観も忘れ、その快楽と背徳の海へと溺れていった。


 ──そのとき、少女が僕に笑いかけた。その月長石ムーンストーンのごとき青の瞳で──て、青だと⁉


 そう。すべての行為が終わった果てに世にも恐ろしい『贖罪』の瞬間ときが、僕を待ちかまえていることを知りながら。 


 ──まさか、まさか、おまえは、まり「うしお、うれしいぞ。我に『ご褒美』をくれて♡」


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!」


          ◇     ◆     ◇


「……はあはあはあはあはあはあはあ」

 なんて悪夢なんだ、まったく。せっかくの一ヶ月ぶりの逢瀬が台なしだ。


 ──あの美少女が最後の最後にきて、鞠緒まりおなんかに変わるなんて。


 何となく生あたたかい違和感を覚え、寝巻の中に手を入れて確かめてみると、

「うっ、最低……」

 いくら夢の中とはいえ、男で××してしまうなんて。

「……ひとっ風呂浴びてから、憂さ晴らしに散歩にでも行くか」

 今宵は徘徊にうってつけの、夜の女王様が最も光り輝く夜だからな。

 そのときふと思い出したのは、初めてあの少年と会った日に案内してもらった、月の名前を持つ聖地であった。


「……うわあ」


 そこには煌々と輝く満月の光を一面に浴びた、鏡のような泉が広がっていた。

「さすがは『満月つきの泉』──ってところかな」

 泉のほとりの草地へと腰をおろせば、さざ波を揺らして通り過ぎていく真夏の夜風が、風呂上がりのほてった体に心地よかった。

 天空には光の月。目の前には水の月。合わせ鏡の二つの玉桂たまかつらが、あたり一面を昼間のように輝かせている。

「……『鏡花水月』か」

 まさにそれは、あの双子のような少女と少年を表すにふさわしい言葉であった。

 夢の中の少女も、現実にいる少女みたいな少年も、心底愛し合いこの腕の中に抱きしめることができないという意味では同様に、鏡の中の花や水の中の月のごとき儚い幻にすぎないのだ。

 ……そうなのだろうか。僕は本当は鞠緒を手に入れたいと思っているのだろうか。愛し合いたいと思っているのだろうか。さっき見た夢のように。──叔父、綿津見わたつみうしおみたいに。

「ちがう! 僕は叔父さんじゃない! 僕はあんなケダモノのようなことはしない!」


 ──その刹那。何かが水をはじく音がした。


 思わず振り向いた僕は、まさしく『地上の月』を見たのである。


「鞠緒? ──いや、ちがう。……まさか……まさか」

 一糸まとわず露になった陶器のごとき白くすべらかなる肌。いまだ性的に未分化な華奢で中性的な肢体。あどけなさの残る人形みたいな端整な顔。嵐の海の波濤そのままにうねりながら足元まで流れ落ちているしろがね色の髪。そしてあたかも天空の月を写し取ったような妖しく黄金きん色に煌めく縦虹彩の玉桂の瞳ルナティック・アイズ


 まさしく、あの夢の中の少女が、そこにいた。


 この真夜中の泉で水浴びでもしていたのか、月の光をはじく水しぶきが振りまかれたその体は、見間違えようもなくたしかに少女のものであった。

 特にあの髪の長さと瞳の色とが、自分のよく知る少年との相違を、まざまざと見せつけてくる。

「……君は、何者なのだ。なぜいつも満月の夜に、僕の夢の中に現れるのだ」

 それとも今見ているこの光景こそが、夢の中の出来事にすぎないのであろうか。

 僕は呆然と立ちつくす彼女のすぐ面前まで歩み寄り、知らず知らずのうちに言葉をかけていた。このまま彼女のことをのがしてしまったら、二度とは会えないような気がしたのだ。

 ずいぶんと長い間──いやもしかしたらほんの数分間かもしれない──僕らはひたすら無言で見つめあっていた。

 そう。彼女のあたかも桃花のような唇は、けしてほころぶことはなく、ただ満月を映したような瞳を、戸惑いと憂いとに揺らすだけなのであった。


 まるで海底の魔女に言葉そのものを奪われてしまった、おとぎ話の『人魚姫』そのままに。


「──御母堂さまー。どちらにおいでなのですかー」

 突然母屋から聞こえてきた声に、とっさに振り向いたそのとき、

「あっ、待って!」

 少女が突然駆け出していった。

 みるみるうちに夜の帳の向こうに消えていく、小さき背中。僕は後先考える余裕も無く、しゃにむにそのあとを追いかけていった。

 けれども、母屋の裏手の初めて見る大きな建物の辺りで、その『真夏の夜の妖精』の姿をとうとう見失ってしまったのである。

「これは、蔵か?」

 いかにも頑丈そうな造りをしている金属製の扉は、夜中とはいえ不用心にも開けっ放しになっていた。──あたかも誰かがこの中へと、逃げ込んでしまっているかのように。

「……誰か、いますかー」

 小声で確認しながら、中へと忍び込んでいく。

 そこは僕の予想を大きく裏切り、古い骨董品が所狭しと並んだ宝の山の陳列場ではなく、むしろ誰かの居室のような有り様であった。

 天井近くの小さな明かり取り用の窓から射し込む月明かりに照らし出される、二十畳ほどの広い畳部屋。竃や井戸すらも備えた簡素な調理場。さらには三方の壁に設置された物置棚に所狭しと並べられた、きょう人形、フランス人形、文楽ぶんらく人形、ビスクドール、市松いちまつ人形、博多はかた人形、その他あまたの古今東西の少女人形たち。


 そして、僕がたたずんでいる入口のすぐ手前には、太く頑丈なる木製の格子が立ちはだかっていた。


「座敷牢──か」

 いくら月明かりに目を凝らしてみても、ここにはあの少女はいないようであった。

 もはや探すあてもなくなりしかたなく僕は、鍵の開いていた格子の中へと入っていく。


「──っ。これって、まさか!」


 実際に畳部屋に上がってからその存在に気づいたのは、床一面に足の踏み場もないほど乱雑に積み重ねられている、記名入りの無数の大学ノートの山であった。

「『綿津見わたつみうしお作』……って。これ全部叔父さんの、小説作成用の草稿か何かか?」

 無造作にそのうちの一冊を手に取り表紙を開いてみると、そこにはこう書かれていた。


 ──この隠れ里での体験記にして、次回作草案。


 題名、『人魚にんぎょこえこえない』。


 そこにしるされていたのは、世にも数奇な運命をたどった、ある一人の男の物語であった。

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