修学旅行の最中にバスで事故に遭ったと思ったらクラス全員で異世界に転移してたけど、特に勇者として召喚されたとかではなかったでござるの巻~勇者でもなんでもない偶発的転移者の彼が、異世界で貴族になるまで~

ボルヴェルク

Prologue

 ぴちゃり――小ぶりのシースナイフの刃の輪郭を伝って鋒からしたたり落ちた赤黒い血の滴が、黒っぽい土が剥き出しになった地面にぶつかって砕け散る。

 空は暗い――鶴のマークも鮮やかなエンブラエルE70型機の機体によって木々が薙ぎ倒されて出来た開豁地に、周囲に星々をはべらせた月の光が降り注いでいる。

 いったいなにがあったのか、地面の上に転がった二十を超える数のにんけの座席シートが月明かりに照らし出されて哀れな姿を晒している――そこに座っていた人間はどこに行ったのか最初からいなかったのか、姿が見当たらない。

 否――少し視線を転じれば、すぐに視界に入ってくる。そしてその姿を目にすれば、シートに座っていた者たちの末期など自明の理であったろう。

 主翼の前あたりからまっぷたつに折れたエンブラエル機の機首側、電源が落ちているために闇のとばりに包まれた機体のその内部に、五十をゆうに超える数の人間の死体が運び込まれている。首が折れた者、胸を押し潰された者、頭蓋が砕けた者、あるいは内臓が破裂したのか口から大量の血を吐き散らした跡のある者――即死していた者たちは、まだ幸せであったと言えるかもしれない。

 そうでなければ――もし意識を保ったままであったのなら、まさしく生き地獄であったに違い無い。悲惨な死に方をした者たちの亡骸が乱雑に積み重ねられた、まるでこの世の地獄の様な光景。

 航空燃料ケロシンの臭いを押し潰す様にして立ち込めた胸の悪くなる様な濃密な血の臭いが、風の無い森の中で周囲の空気を汚染している――苔に覆われた表面が機体によって削り取られた結果剥き出しになった黒い地面に転がった無数の獣の屍の只中、大破擱座した航空機の機体と根元からへし折られ、あるいは根っこごと地面からえぐり出される様にして薙ぎ倒された無数の巨木を背に、彼は獣たちの返り血で全身をあけに染めた凄惨な姿で開豁地の中央にたたずんでいた。

 体にフィットしたcw-xのスポーツトップの上からアンダーアーマーのTシャツを重ね着し、ジーンズにワークブーツを身に着けた黒髪の少年だ――ルーズフィットのシャツがアーチェリーのストリングに巻き込まれるのを防ぐための防具チェストガードを身に着け、左腕の肘から先にTシャツを一枚巻きつけて細い紐で締めつけ固定している。どんな意図があるのか右腕の下膊にナイロンの黒い紐をぐるぐる巻きに巻きつけ、六角レンチやトルクスへクスローブ、ドライバーといった細かな工具の集合体の様なオーバーサイズ気味のブレスレットを嵌めている。

 年齢は十代なかばほどか、年齢に不釣り合いな冷静さを感じさせる精悍な顔つきの若者だ。背中まで伸びた黒髪はうなじのあたりで革紐で束ねられており、右目の目元にふたつ並んだ小さな泣き黒子がある。額の左端、左の眉尻の上あたりに額と髪の生えている範囲にまたがった小さな傷があり、髪の生え際が抉れた様に一部欠けていた。

 右腰の後ろにアーチェリーの競技などで使う数本の矢を納めておく平型の矢筒クィーバーをつけ、ジーンズの右側のポケットの上あたりでベルトに通したベルトループから伸びたナイロン製の紐の先で手にしたナイフのものだろう、小さな樹脂カイデックス製のシースがぷらぷらと揺れている。

 手傷こそ負っていないものの極度の緊張によるストレスで精神的な消耗が激しいのだろう、彼は細かく震える手を忌々しげに見下ろして小さく舌打ちした。荒い呼吸と心臓の拍動を落ち着けようとするかの様に大きく息を吸ってから吐き出し、髪や服にくっついた土をはたき落とす。

 ごぼごぼという嗽の様な音を立てて、少年の足元に倒れ込んだ獣が身じろぎする――黒いごわごわした獣毛に全身を覆われたが、口蓋から血を吐き散らしながらなんとか生き延びようともがいているのだ。

 だが、もはやどうしようもない――腹を縦に引き裂かれた狼がそこからこぼれ出した内臓をどうすることも出来ないまま、身動きも取れずに哀れっぽい声をあげている。彼はチェストガードの上から服の胸元を掴んでふたたび深呼吸すると、右手で保持した小さなナイフのグリップを握り直した。

 一枚の鋼板から刃の峰側から見て右側だけを刃の形に削り出された、鋼材削り出しストックリムーバルで作られた片刃のナイフだ――手元リカッソに近い位置に『菊』という漢字一字と、V金10号V G - 1 0という材質を示す刻印がなされている。刃渡りは親指の長さほど、グリップは薬指まででしか握り込めないほど短く、厚みも幅も無いために力を入れての作業にはさほど向かなさそうに見えた。

 少年がその場でかがみこみ、狼の頭を左手で押さえつける――手にしたナイフの刃渡りでは心臓まで届かないと判断したのか、彼はナイフの刃を喉笛にあてがって気道と頸動脈を水平に引き裂いた。

 すでに相当量の出血があるために血圧が下がっているからだろう、噴き出す血はそれほど多くなく勢いも弱々しい――動脈血と静脈血が混じってまだら色になった血がびしゃりと音を立てて地面に飛び散ったのを最後に、脳への酸素供給が止まった狼が瞬時に絶息する。同時に頭を押さえつける手を撥ね退けようと無駄な抵抗を繰り返していた狼の体から力が抜け、全身がぐったりと弛緩して、血圧降下によるショック症状からくる細かな痙攣を繰り返すだけになった。

 それを確認して、少年が立ち上がる――彼は小さく息を吐くとがね色の光で地上を照らし出しているを見上げてから、きびすを返して擱座した機首のほうへと歩き出した。


 そして、五年後――


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