第8話 恋模様とそのあとで
三連休をひかえた金曜の夕方。
翔太は五番通りを、仕事用の大きなカバンを抱えて『カロ屋』に向かって歩いていた。
普段閑散としている五番通りも連休前とあってか、かなり人通りの多い印象を受ける。
(この時間、まだアリサちゃん帰ってないだろうな……)
腕にはめた時計を見れば、まだ4時半。
アリサが店番をしているかどうか、微妙な時間帯だ。
仕事である“お菓子の補充”よりもアリサが気になり、無意識に足早になる。
“OPEN”のプレートが下げられた『カロ屋』のガラスドアの前。
もしかしたらアリサがいるかもしれない。
淡い期待を胸に、翔太はドアを開けた。
上部に取り付けられたドアベルがカラコロと鳴る。
「こんにちは。ごめんください」
さわやかに挨拶をして中に入る。
「お、いらっしゃい」
その淡い期待は、薄暗い店内から返ってきた野太い茂の声で、一瞬にしてかき消された。
(やっぱり、まだ帰ってないか……)
小さなため息をついて数歩店の中に入ると、茂はレジカウンター前の作業台で何やら作業をしていた。
「翔太君、ご苦労様」
茂が振り返って言った。
「お世話になっております。お菓子の補充に来ました」
翔太は軽く頭を下げて店内を見回した。
やはりアリサの姿はない。
茂は老眼鏡を外すと、作業台の前に座ったまま、配置菓子の箱を指して言った。
「せっかくそれ置いてもらってるけど、食ってるのはほとんどアリサでな。だからあまり減ってないんだ。申し訳ない」
そして、気まずそうに笑う。
「いえ。置かせてもらっているだけでもありがたいことです」
翔太はレジカウンターの空いているスペースを見た。
「場所、お借りします」
そう言うと、カバンをレジカウンターに置き、配置菓子の箱の裏から中を開けて、減った分を確認した。
(“クランチョコ”がほとんど無くなってる。ウエハースとチョコサンドは2個ずつか……)
カバンから取り出したタブレット端末を操作し、販売状況を入力していく。
(この分なら“クランチョコ”をもう少し増やしてもよさそうだな)
ガサゴソと作業をしていると、しばらくして茂が翔太に話しかけてきた。
「翔太君、その後どうだい営業の方は?」
翔太は、補充用の菓子を箱に詰めながら答えた。
「えぇ。おかげさまで、今週はもう1件新しく置いてもらえるところが増えまして。五番通りの皆さんには、ホントお世話になっています」
「ほぅ!良かったな。新しいところもこの五番通りかい?」
「はい。五番通りを入ったところに創作和風料理の居酒屋さんがあるんですが、そこに置かせてもらいました」
「創作和風……?――」
茂は、少し考えた様子で顎に手を当てた。
「――五番通りの入口っていうと、もしかして“ヘルシー”さんかな?」
「そうです。“ヘルシー”さんです。補充は金曜の午後2時にしてくれということでしたので、ここへ来る前に行ってきたところです」
翔太は菓子の補充を終え、タブレット端末をカバンにしまった。
「ほぅ。あそこのオーナーの須藤さんは、この五番通り商店街の副組合長をやってるんだ。俺もお世話になっててな。いい人だよな。ガハハ」
茂はそう言って笑うと、中断していた作業を始めた。
「では、補充が終わりましたので、そろそろ失礼します」
翔太はカバンの肩紐を肩にかけなおし、軽くお辞儀をした。
「おう、もう行くのか?お疲れ様。じゃぁ、気を付けてな」
茂は作業台の前に座ったまま、その場から翔太を見送った。
カラコロとドアベルを鳴らし外に出ると、辺りは薄暗くなっていた。
(あぁぁ……、アリサちゃんに会いたかったな)
夕方の冷えた風の中、翔太は五番通りを二番通りの方へと歩き出した。
原野中駅はすでに帰りの通勤ラッシュが始まっていた。
慌ただしく流れる人の波。
その改札口を出た駅構内の通路にあるハンバーガー店の前で、壁を背に同じ制服を着た女子高生が三人、賑やかに話をしている。
「明日から連休だね!」
「うん!あたし連休中アイドルのライブに行く予定なんだ!」
「えー!シズク、いいなぁ!」
三人とも、ブレザーにチェック柄のスカート姿で、同じようなカバンを持っている。
「私なんか、どこも行かないよー」
丸い眼鏡をかけたおさげ髪の、少し太めの女の子が言った。
「まだ遅くないよ。メイも今から予定作ればいいじゃん」
シズクと呼ばれた少女が言う。
三人の中で、ショートヘアのシズクが一番背が高い。
「あたしは親と従兄と買い物かなー」
そう言ったのはアリサだ。
「親と買い物って、めんどくさくない?」
シズクは壁に寄りかかって言った。
「親はともかく、従兄がなー。ちょっと微妙かも」
「アリサちゃんのいとこってどんな感じなの?」
メイが、少し興味を持ったように訊いた。
「従兄っていうより兄貴みたいな感じなんだよね。この前まで無職だったのに、なんかー、最近バイト始めたらしくて」
「え?なに?就職失敗しちゃった系?ってか何歳?」
シズクは面白そうに訊いた。
「もうオッサンだよ。何歳だろ?確か、あたしの13コ上なんだよね」
「うわ!それ、まじオッサンじゃん!」
「えー、いとこって言うから同い年くらいだと思ったのにー」
メイは期待外れといった顔をした。
駅の改札口から流れてくる人の波の中から、不意に男が三人の前に立ち止まった。
「オッサンで悪かったな」
「げ!ルイ兄!」
アリサは顔が引きつった。
「よっ」
類は軽く手をあげた。
アリサが嫌そうな目で類を見る。
シズクとメイの二人は、突然話しかけてきた男に驚いた顔をした。
「こ、こんにちは」
とりあえず、アリサの知り合いのようなその男に挨拶をする。
そして、メイが口元に手を当ててアリサに小声で言った。
「だ、誰?このイケメン」
「いま話した従兄だよ。……全然イケメンじゃないし」
「…………」
シズクは類を見て、ポーっとしている。
「お前ら何やってるんだ?こんなところで。往来の邪魔だろ」
類はそう言うと、周りの様子を見回した。
帰宅の通勤ラッシュはさらに激しさを増し、改札から流れてくる人々が、ひっきりなしに目の前を通り過ぎてゆく。
「る、ルイ兄こそ、なんでこんなところにいるのよ」
アリサが不機嫌に言った。
「俺は、バイトの帰り」
「……今日はお店、来ないよね?」
「うん?これから行くところだけど……」
あからさまに嫌そうな顔のアリサ。
「なんだ?俺が行っちゃまずいことでもあるのか?」
類はジーンズのポケットに手を入れて、少しあきれた顔でアリサを見た。
「帰り道、同じ方向になっちゃうじゃん。一緒に歩きたくないの!お店に行くなら先に行ってて!今すぐ!」
アリサは仏頂面で捲し立てるように言った。
「(ひ、ひどいな)へいへい。わかりましたよー」
類は、そう言うとアリサたちに背を向けて「じゃあな」と片手をあげ、二番通りへ歩いていった。
「もう、最悪。こんなところでルイ兄に会うなんてー」
「アリサ、今のが従兄なんだよね?」
シズクは、類が去っていった方向を見て言った。
「そうだよ」
「全然オッサンじゃないじゃん!めちゃイケメンじゃん!」
シズクがアリサを見た。少し顔が赤い。
「だよね!背が高いし、スタイルいいし、髪型も超オシャレ!」
メイも同調する。
「どこが?髪型なんて、短く切ってたのが手入れしてないから、ただ伸びてるだけじゃん。それにいっつもパーカー着てるんだよ。何着持ってるのか知らないけど。今日だっていつもと同じ格好!」
アリサは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「自分のおしゃれスタイルを確立してるんだよ、きっと」
シズクは苦笑しながら前向きにフォローを入れた。
「んなわけないじゃん。選ぶのが面倒だから、同じ服を色違いで何着も持ってるんだよ」
「あはは……(ちょっと言い過ぎでは?)アリサちゃん、従兄さんのこと嫌いなの?」
メイが少し困った顔で訊いた。
メイのその様子にアリサはハッとして、少し冷静さを取り戻して言った。
「うー……。べ、別に嫌いってわけじゃないけど。好きとか嫌いとかそう言うのとちょっと違うし……。それに、こんなところ先輩に見られたら嫌じゃん……」
その言葉にメイとシズクは顔を見合わせた。
「真木先輩ね」
シズクがニヤッと笑ってアリサを見る。
「……うっ」
「真木先輩もかっこいいよねー」
メイもアリサを見てニコッと笑って言った。
真木はアリサと同じ高校の3年生だ。
背が高く、切れ長の目と低い声が印象に強いイケメンで、どの学年の女子にも人気が高い。
「そろそろ改札通るころじゃない?」
シズクがそう言って、改札口のほうを見た。
「ちょ、ちょっとシズク。べ、別に待ち伏せしてるわけじゃ……」
アリサは照れくさそうに言った。
「あ!来たよ、アリサちゃん」
メイが言う。
「ど、どこ!?」
アリサはシズクの後ろに隠れるように、改札口を見た。
雑多な往来の中でも、制服姿の真木は背の高さもあって、すぐに目に留まった。
真木は、人の波に乗って改札口から出ると、その波から外れて、通路の端に立ち止まった。
その横に、アリサたちと同じ制服を着た可愛らしい女子が立っている。
「あれ?真木先輩と一緒にいるの、誰?先輩?」
シズクが言う。
「えぇぇぇぇ、うそ、誰?……先輩、彼女いたの?」
アリサが震えた声で言った。
「あ……、あの子知ってる。同じ1年だよ。2組の飯垣さんだ」
メイがボソッとつぶやいた。
飯垣と呼ばれた少女は、軽くウエーブのかかった髪に花の髪飾りをし、遠目に見ても華やかな印象だ。
「メイ、あんた何か知ってるの?」
シズクがすかさず訊く。
「えっと、面識はないんだけど、仮入部の時に吹奏楽部にいたような……」
「吹奏楽部かー。真木先輩も吹奏楽部だよね」
メイとシズクが話している後ろで、アリサは唇をかんで言った。
「先輩と待ち合わせをするなんて……、うぅ……」
「アリサちゃん……。まだ飯垣さんが彼女ってはっきりわかったわけじゃないんだし」
「そうだよアリサ。こういうのは告白してみなきゃ、わかんないって」
「こ、告白!?」
アリサは顔が真っ赤になった。
「ムリムリムリムリ……」
そう言って顔を横に振ると、数歩後ろに下がっていった。
「あー!あー…」
突然メイが声をあげた。
続けて、シズクも「あらら」と、あきれた声。
そして、二人はアリサを振り返って苦笑いをした。
三人から少し離れた通路の端を、手をつないだ真木と飯垣が通り過ぎていった。
それは、いかにも恋人同士といった感じだ。
「ガーン……(せ、せんぱい……)」
「あーあ。アリサ……。気をしっかり持つんだぞ」
シズクがアリサの肩に手を当てて“お気の毒様”といった顔をして言った。
「そ、そうだよアリサちゃん。まだ高校に入ったばかりなんだし、出会いはこれからだよ」
メイも困ったように笑って言う。
「にしても――」
シズクは頭の後ろで手を組んで、通り過ぎて言った二人の方向を見て言った。
「――真木先輩、手、早いなー。まだ新学期始まって1カ月も経ってないのに1年女子とデートとはね……」
「そ、そうだよ。アリサちゃんには、あんな軽い人より、もっといい人がいると思うよ」
メイは取り繕うように言った。
「アリサ大丈夫?」
シズクは、のぞき込むようにアリサの顔を見た。
悲しいような、怒ったような、何とも言えない複雑な表情をしている。
「だ、大丈夫!大丈夫だよ……。あはは……。ま、まだ出会いはこれからだよね!」
言葉とは裏腹に、声は今にも泣きだしそうだ。
「アリサちゃん……。慰めになってないかもだけど、アリサちゃんには、さっきのイケメンのいとこさんもいるんだし……」
「……メイ。全然慰めになってないよお。なんでルイ兄が出てくるの」
「だ、だって……。かっこいいじゃない?私は、真木先輩よりいいと思ったんだけどな……」
メイはそう言うと、少し照れて気まずそうにうつむいた。
「あ、あたしもそれ思った。背、高いし。あたしより背が高くてイケメンで、年の差なんて関係ないよ!従兄だっていいじゃん!かっこいいんだし」
シズクも、半泣きのアリサをよそにメイに同調する。
「シズクちゃんも、背、高いよね……。何センチあるの?」
メイはアリサの気を紛らわせようと話題を変え、シズクに話を振った。
「……173……173センチ」
シズクはそう言って急に暗い顔になり、
「この前の健康診断で、また2センチ伸びてたの……」すぐ後ろの壁に手をついて「うぅぅ」と、半泣きを演じた。
「あはは……。私から見たら、背が高いのは羨ましいけどな。……私、148だったよ。中3から全然伸びてなかった……」
そう言ってメイは無表情になった。
「で、アリサは?アリサは身長何センチだった?この前の健康診断」
「え……」
急に身長の話を振られ、アリサは少し戸惑った。
「えっと……。160ちょうどかな」
「この……、理想身長め!」
シズクはアリサの後ろに手を回すと、ニコニコしながらアリサの脇腹をくすぐった。
「こちょこちょこちょー!」
「キャハハ!し、シズク、やめてー!」
アリサは目に涙をためて困った顔で笑った。
「少しは元気出た?」
シズクは笑顔でアリサを見た。
「あ、う、うん。ありがと……」
「アリサちゃん、明日から連休だし、気分転換するときは言ってね。私、連休何も予定ないから」
メイも慰めるように笑顔で言った。
「ありがとう。二人とも、大丈夫だから」
アリサはそう言って笑顔を見せた。
暗さを増す空。
すでに街の明かりは、煌びやかに灯っていた。
駅で二人と別れ、アリサは二番通りを『カロ屋』のある方へ向かって歩いていた。
その足取りは極めて重い。
(別に、本気じゃなかったし……。それに、初恋でもないし……)
ひとり下を向いて、とぼとぼと歩く。
雑多な往来を縫って吹く冷えた風が、アリサのポニーテールに結った長い髪を揺らした。
足元に見える歩道のタイルが、次第に歪んで見える。
数歩歩くうちに、視界を歪めていた溜まった涙がこぼれ落ちた。
(あれ……。なんで?いつの間に……)
アリサは立ち止まり、手で涙を払った。
週末の夕刻、連休前ともあって、いっそう往来の激しい二番通り。
車の通りすぎる音も、通りを行き交う人々の話声も、通りに面した店のドアが開くたびに聞こえる店内のBGMも、アリサには遠くに聞こえた。
その賑やかな二番通りに面した5階建ての大型書店。
そこから、類が紙袋を一つ手に持って出てきた。
そのままカロ屋がある方向へと歩きだす。
すると、数メートルもいかないうちに、見覚えのある後ろ姿の女子高生が、往来の邪魔をするように立ち止まっているのが目に入った。
(あれ?アリサ……?何やってんだ、あいつ)
類は、足早に近づいて声をかけた。
「おい、アリサ?何やってるんだ?こんなところで止まってると邪魔になるぞ」
そう言って肩に手をかけ、振り向かせると、アリサは、口をへの字にして泣きべそをかいていた。
「うぐっ!」
類は驚きと同時に顔が引きつった。
アリサは今にも大泣きしそうだ。
「ど、どうしたアリサ!?と、とりあえずこっちへ」
類は、アリサの肩に手を回し、歩道の端へと移動させた。
「何があったんだ?」
アリサの肩にそっと手をかけて、慎重に言う。
「…………」
アリサは無言で類から目を逸らし、プイッと横を向いた。
「さっきの二人にいじめられたのか?」
アリサは黙ったまま首を横に振った。
「じゃぁ、どうしたんだ?」
「…………(自分でもよくわからない失恋をした、なんて……、言えるわけないじゃん)」
アリサは下を向いて、唇をかんだ。
そして、また黙り込んだ。
「はぁ……(黙ってたらわかんないだろ……)」
類は大きくため息をついて、頭をかいた。
辺りはさらに暗さを増し、黄昏に輪郭が溶ける。
「……まぁ、いいや。帰るぞ」
類は、下を向いて立ち尽くしているアリサの右手を強引に取った。
そして引っ張るように歩き出す。
アリサは無気力に、類の半歩後ろを歩き出した。
二人無言のまま、しばらく賑やかな二番通りを歩く。
類はチラッとアリサの顔を見た。
乾いていない涙の跡が見える。
(……こういうとこ、あまり人に見られたくないだろうな)
類は往来を避けるように、五番通りへと抜ける横道に入った。
街灯も少なく、車通りも人通りも少ないこの道は、先ほどまで歩いていた二番通りとは異なり、とても静かだ。
二番通りの雑多な騒音が、次第に遠のいてゆく。
不意にアリサが類の左手を強く握った。
(ん?)
類はアリサを見た。
下を向いたその表情は暗い。
(はぁ……、何があったのか知らないけど、ガキの頃から変わんねーな。ショックなことがあると黙る癖。こうなると何もしゃべらないんだよな……)
類はアリサの手を強く握り返した。
「痛い!」
アリサが怒ったように言った。
「ちょっと!痛いって」
類は、アリサから視線を外すと、通りの先をまっすぐに見てゆっくり歩き、そして静かに言った。
「お前……、いつまでもそんな顔してると、叔父さん心配するぞ……」
「…………」
アリサは一瞬顔をあげて類を見た。類の視線は通りの先を見ていた。
「わかってる……」
(わかってる……、けど……。なんでこんなにショックなんだろ)
本気の恋ではなかったはずなのに。
アリサは再び下を向いて立ち止まった。
つないだ手が離れる。
「アリサ……?」
類も足を止め、アリサを振り返った。
アリサは手で顔を覆っていた。
(はぁ。しょうがねーな……)
類はアリサの前で背中を向けてしゃがむと、顔だけ振り返って言った。
「ほら、おんぶするか?」
「ちょ!ちょっと何やってるの、ルイ兄……」
アリサは、顔を覆った手の隙間から、類を見て涙声で言った。
「アリサがガキの頃、そうやって泣いてると、いつもよくおんぶしてやったろ?」
「い、いつの話をしてるの、あたしもう子供じゃないもん」
アリサは手で涙をふくと、暗い表情に少し笑みが戻った。
「そうか……?」
類はそう言って立ち上がった。
そのまま心配そうにアリサを見る。
「でも……、ありがと」
アリサはいたずらっぽくニコッと笑うと、類に抱きついた。
「お!?」
類は一瞬驚いた顔をした。
アリサは類の肩に額をくっつけた。
(……あぁ、ルイ兄の匂いだ。……なんだか懐かしいな)
類は、そのままアリサの背中に手を回した。
(……アリサ、また背が伸びたんだな)
その様子を、少し離れた電柱の影から覗き見る一人の男。
(先輩……!何考えてるんだ。相手は従妹だぞ)
翔太だ。
街灯の無い電柱の暗がりで、ショックな顔をし、湧き上がる嫉妬の目で類を睨んでいる。
――15分前
駅に近い二番通りの雑居ビル。
その自動ドアから翔太が出てきた。
「ふぅ(疲れたー。でも、今日の外回りはこれで終わりっと)」
肩にかけたカバンのベルトを反対側にかけなおし、駅へと歩きただした。
「あ、あれっ?」
ふと見れば、通りの反対側に見覚えのある人物が立ち止まっている。
(アリサちゃん!?)
翔太は、歩道の端ギリギリまで寄って、薄暗さに目を凝らした。
(やっぱりアリサちゃんだ。今、帰りなのかな?……でも、何やってるんだろ?)
翔太は辺りを見回した。
(一番近い横断歩道は……)
駅方向、20メートルほど先に、大きな交差点が見える。
(あそこが近いか)
翔太は歩道を行き交う人波を縫って、小走りに交差点に向かった。
歩道の青信号が点滅している。
そして、ちょうど交差点の手前で、歩道の信号が赤に変わった。
(あぁ!タイミング悪いな。こういうときに限って……)
翔太は、アリサのいた方向を見た。
往来の激しい二番通りは、連休前とあって歩道にも大勢の人々が行き交い、交差点からアリサの姿は確認できない。
(カロ屋で会えなかったからなー。せっかく見かけたんだ。このタイミングをものにしないと!)
翔太は、心の中で軽く気合を入れた。
目の前の道を、車が渋滞気味に通り過ぎてゆく。
歩道の信号はまだ赤だ。
(早く……、早く青になれー!)
焦る気持ちとは裏腹に、信号は歩車分離式だった。
(なんなんだ、この信号!待ち時間が長いよ!)
ようやく信号が青になり、急いで横断する。
途中、肩にかけたカバンが往来の人にぶつかりそうになりながら、反対側の歩道に渡り着くと、今度は人の流れに乗ってアリサがいた場所へ向かう。
(アリサちゃん、まだいてくれるといいんだけど……)
その想いをよそに、人出の多さで思うように前に進まない。
ようやくアリサを見かけた場所にたどり着くと、アリサの姿はなかった。
翔太は通りを見回した。
(……いない。どこかのお店にでも入ったのかな?でも、カロ屋に向かってるなら、まだ近くにいるはず……)
翔太は通りの先を、目を凝らして見た。
人ごみに紛れて少し先に、見たことのある後ろ姿の男が、アリサと手をつないで歩いていくのがチラッと見えた。
「ええ!?(先輩!?)」
思わず声に出る。
周りの通行人が驚いて、翔太を変な目で見た。
「あ……、あはは……」
翔太はカバンを肩にかけなおし、足早にその場から歩き出した。
(今の……、どう見ても先輩だったよな)
翔太の心に、なぜ先輩がアリサちゃんと手を?という疑問が浮かぶ。
(先輩、アリサちゃんとどういう関係なんだ。ただの従妹じゃなかったのか?興味無さそうだったのに……)
二番通りの人の波に乗って、アリサと類の後を追うが、往来の多さにその距離は一向に縮まらない。
そうしているうちに、アリサと類が二番通りから脇道に逸れた。
(え!なんでそこから?!カロ屋に行くなら、普通、もう1本先の道でしょ?)
不審に思いつつ、ようやくその道に曲がる角まで来る。
翔太は、通りの先に二人の姿を探した。
街灯も、人通りも少ない暗い道の途中、目を凝らせば、電柱4本分ほど先に、類とアリサが手をつないで歩いていくのが見える。
「っ!(せ、先輩……。こんな暗い道を通るなんて!)」
翔太は、類がいかがわしいことを考えているのではないかと不安になった。
「こうなったら、呼び止めるしかない!」
小走りに3つ目の電柱まで近づいた。
不意に、アリサと類が立ち止まる。
「えぇ!?」
翔太はとっさに電柱の陰に隠れた。
(僕はストーカーか!?まったく……。にしても、いきなり立ち止まるなんて。声、掛けにくいじゃないか……)
電柱の陰からそっと様子をうかがう。
静かな通りとはいえ、小声で話しているのか、話し声までは聞こえない。
(うぅ、アリサちゃん。すぐそこにいるのに……。翔太、何やってるんだ!普通に……、そう普通に、自然に声をかければいいだけじゃないか……)
翔太は自分に言い聞かせるように、深呼吸をして、一歩電柱から前に出た。
突然、アリサが類に抱き着いた。
「なっ!?」
翔太の心に衝撃が走る。
肩にかけていたカバンが、ずり落ちる。
類が、抱き着いてきたアリサの背中に腕を回し、抱きしめたように見えた。
(先輩……!何考えてるんだ。相手は従妹だぞ)
街灯の無い電柱の暗がりで、湧き上がる嫉妬の目で類を睨む。
「ハッ!!(よく考えたら、いとこ同士って結婚できるんじゃないか!)」
怒りにも似た感情と不安が、嫉妬心に混ざり合う。
正常な思考は急激に低下していった。
暗がりの中、アリサと類は、再び手をつないで歩き出した。
(あーっ!おのれ先輩めー!)
翔太の中に、浅はかな考えが浮かぶ。
(そ、そうだ!先輩がさっさと彼女を作ってしまえばいいんだ!そうだ、そうすれば僕がアリサちゃんを彼女に……)
電柱の陰で一人、謀略をめぐらせていると、通りの奥、二人はすでに闇の中に消えていた。
「あ!……あぁ……」
翔太は、大きくため息をついた。
そして急に冷静さを取り戻し、思い出したように腕にはめた時計を見る。
(6時50分!?戻らなきゃ……。うぅ、また紫さんに怒られる……)
翔太は二人を追うのをやめ、再び二番通りに向きを変えると、もと来た道を走り出した。
夕闇が覆う空。
すでに、夜と呼べる時間帯に入っていた。
今週末の五番通りは、連休前とあって、いつもの週末より賑やかさを見せている。
しかし、通りに面した『カロ屋』の店先は、その賑やかさとは無関係に、シャッターがすでに下ろされていた。
「ただいま」
「……おかえり。ずいぶん遅かったな。……なんだ、二人一緒か」
休憩室から、店の中に一緒に入ってきたアリサと類を見て、作業台の前に座った茂が言った。
「あぁ。帰りにアリサとばったり会ったんだ」
そう言うと、類はレジカウンターの内側に置かれたパソコン机の前の椅子に座った。
「……あたし、着替えてくるね」
元気なくアリサはそう言って、休憩室の奥に消えていった。
「あれ?どうしたんだアリサ……。具合でも悪いのか?」
茂は作業台の前から、休憩室の奥を見て独り言のように言った。
「……さぁ」
類は、レジカウンターに頬杖をついた。
(でも、泣いてた理由、か……。ま、俺の知ったこっちゃないけど……)
そして一呼吸おいて言う。
「ところで叔父さん、明日の件なんだけどさ……。その、低空飛行のってやつ、見せてもらえないかな?」
「あ?あぁ。ルルアさんにもらった首飾りか。そうだな、一応確認しておくか」
茂はそう言うと、立ち上がって組子障子側のレジカウンター前に立った。
「類、そこのレジの下の引き出しに首飾りが入ってるから、それ取ってくれ」
「うん」
類は、言われた通りレジ下の引き出しを開けた。
中には、銀貨や銅貨がそれぞれの大きさに分けられて入っていた。その横に、太い革紐のついた扇形の首飾りが2つあった。
類はその2つを取り出した。
「これ、どうやって使うんだ?」
そう言って、1つを茂に渡す。
「首にかけるだけだ」
そう言うと、茂は首飾りを自分の首にかけた。
類も、同じように首から下げ、レジカウンターを出て組子障子の前に移動した。
「なぁ、叔父さん。これ店の中でも反応しないだろ?」
実体化したアバターの実験から、類はそう推測した。
「あぁ、そうだ。こいつが反応するのは異世界側だけだな」
そう言うと、茂は組子障子の戸を開けた。
明かりの欠片も無い真っ暗な森が、組子障子の外に広がっている。
「夜の森は、危ないらしいから、早々に試すぞ」
茂はそう言って、外に出た。
類もそのあとに続いて外に出る。
店の前の小さな森の切れ間に、カロ屋から明かりが漏れる。
空には半月に近い緑色の大きな月が浮いていた。
「類、とりあえずジャンプしてみろ」
「え?あぁ……」
言われるがまま、類は戸から少し離れて軽くジャンプした。
「おわっ!」
下から押されるような圧のある空気とともに、身体が1メートルほどの高さに浮いた。
(へー……。周りの空気に支えられているような感じだ……)
「おぉ、やるな」
茂も同じように「それっ」と言ってジャンプをした。
「叔父さん……」
類は、茂の浮いた高さを見て、苦笑いした。
僅か10センチ、辛うじて浮いているという程度だ。
そして、茂は犬かきのように手足をパタパタさせ移動を試みるが、まったくと言っていいほど進んでいない。
「全然ダメじゃん……」
「しょうがねーだろ、俺には魔力ってモンが無いんだからよ、ガハハ」
茂は、はなから魔力なんてものに期待していないように笑った。
そして、首飾りを外しながら言う。
「でも、その高さに浮くんじゃ――」茂の足が地面に着地する。
「――類は、少しは魔力があるのかもしれないな」
「そうなのか……?」
類は首を傾げつつも、茂と同じように犬かきをしてみた。
しかし、茂ほどではないものの、その移動速度は極めて鈍足だ。
「……こ、これは、マジで全然ダメじゃね?こんなので、どうやって青空市まで行くんだ?それに降り方もわからないんだけど……」
「飾りを外せば降りられるぞ」
茂は類を見上げて言った。
「……いや、それ落ちるっていうんじゃ……。低いとはいえ、この高さから落ちたら結構衝撃あるでしょ……」
類は苦笑いした。
そして、類は何を思ったのか、手の平を上に向け、下から上に勢いよく腕を振り上げた。
身体は僅かに下がったが、降下する感じはない。
「うーん……(これってもしかして、身体の動きは関係がないのか?)……叔父さん、ルルアさんはこれ、どうやって使っていたのか覚えてる?」
「どうやって……?はて?どうやっていたかな?ガハハ」
茂は他人ごとのように笑った。
(叔父さん!)
類は首飾りを左手で握って、扇形の紋様の彫られた面をじっと見た。
(魔力の操作って、イメージトレーニングみたいなものなんだろうか?……それとも呪文か何か……?)
森の木々が風でざわざわと揺れる。
(降りる……、下がるもの……?Tabキー?なわけないな。rightシフト?絶対違うな)
類は、何気なく紋様の表面を紐のついている方から末広がりの方に軽くなぞった。
すると、スッと身体が下降し、地面に何の苦も無く着地した。
「おぉ……」
「ほぉ、どうやったんだ?」
茂が不思議そうな顔をして言った。
「紋様を、上から下に触ったら降りられた……」
「なるほど!そうなのか」
首飾りのなぞりが、上から下が下降なら、その逆なら上昇するのか?
茂は、もう一度首飾りをして飛び跳ねた。
やはり10センチほどの高さまでしか浮き上がっていない。
茂は首飾りの紋様を、試しに下から上に何回かなぞった。
が、身体が僅かに浮いては沈み、浮いては沈みを、なぞった回数分繰り返すだけで、何の変化もなかった。
「やはり、魔力が無いとダメなのか……」
茂は首飾りを外し、諦めたように言った。
「これ本当に使えるのか?」
類は首飾りを疑問に見た。
(浮くだけで、移動も何もできないんじゃ……)
「それなら大丈夫だ。明日はルルアさんが、これに魔力を送ってくれることになってるんだ」
茂は首飾りを指で挟んで、類に見せるように言った。
「どういうこと?移動できるの?」
「俺もよくわからんが、遠隔操作できるらしいぞ。ま、明日はルルアさんに任せておけば大丈夫だ!ガハハ」
腰に手を当てて自信ありげに笑う茂を、類は「ルルアさん頼りかよ」と、冷ややかに見た。
そして、つぶやくように言う。
「遠隔操作ねぇ……(リモートコントロール、的な……?実はSSHだった……なんてね。あるわけないな)魔法だもんな」
類は、もう一度首飾りを見た。
「何やってるの?」
その声に振り向けば、スウェット姿のアリサが組子障子の戸に手をかけて、類と茂を見ていた。
(いつも通りに戻ったみたいだな、よかった)
類はホッと安堵した。
「お、アリサ。ちょうどいいところに。ちょっとこっちに来なさい」
茂が手招きをする。
「なに?」アリサは一歩外にでると「……こっち寒い」と言って羽織っていたカーディガンを押さえ、身体を縮こませた。
「明日、ルルアさんと青空市行くだろ。だからその予行演習だ。ガハハ」
「そんなの明日やればいいじゃん」
「低空飛行の首飾りは2つしかないからよ」
「え?なに?じゃぁ、一人は行けないってこと?」
アリサは顔をしかめた。
「だから、三人で行けるかどうか、それを試すために今やってるんだ。ガハハ!」
「何をどう試すのよ……」
アリサがあきれたように言う。
「ようは、二人乗りだ、二人乗り。首飾り1つで二人飛べればいいんだ」
そう言うと茂は類とアリサを交互に見た。
「じゃ、類、アリサをおぶってジャンプしてみろ」
「えぇ!?ヤダ!」
アリサが即、拒否した。
類はアリサの反応に、少しショックを受けた。
「じゃ、俺がおんぶするか」
「もっとヤダ!!!」
アリサはさらに嫌な顔をして首を横に振った。そして言う。
「お父さんが、ルイ兄を背負ったらいいでしょ!」
その言葉に類と茂は、二人同時に嫌な顔をした。
「体重ってもんがあんだろ!あんなの背負ったら、腰が折れるわ!」
そう言って類を指す。
(ひ、ひどい、叔父さん……)
「と、とにかく、他に方法が無いんだ。明日、ルルアさんに迷惑はかけられんだろ……」
茂は気を取り直して言った。
「う……、うん……」
ルルアの名前を出され、アリサは仕方なくうなずいた。
「類、ほれ、アリサをおぶってみろ」
茂に言われ、類は「ふぅ」とため息をつくと、アリサの前で後ろ向きにしゃがんだ。
(……なんか、さっきも同じことをしたような……)
アリサは、ためらうように類の背中を見た。
そしてチラッと茂を見みれば、茂は「早く」と言わんばかりに、首で合図をする。
「し、しょうがない……」
アリサは類の肩に手をかけた。
そしてもう片方の腕を肩に乗せ、首の前に回す。
類はアリサの足を持つと、立ち上がった。
「ぐはっ!重い!」
そう言ったとたん、アリサに頭を叩かれる。
「次に言ったら、半殺しにするから……」
アリサが低い声で耳元にささやいた。
「あはは……(こえぇぇ……。さっき、おんぶしなくて良かった……)」
類は苦笑いをした。
「じゃ、類、ちょっとジャンプしてみろ」
茂が指示する。
「あ、あぁ」
類は、首飾りを確認すると、少し強めにジャンプした。
と、同時に二人は声をあげた。
「お!」と、類の声。
「うわっ!」と、アリサの声。
その高さは、異世界側の『カロ屋』の屋根の高さを超えて浮き上がった。
視線は、森の木々の枝葉の上部と同じ高さだ。
背負っているはずのアリサの体重が、全く感じられない。
「すごい……。こんなに高く浮くなんて……」
背中で、アリサがつぶやくように言った。
「アリサ一人の時はどうだったんだ?」
類は、少し顔を横に向けて言った。
「あたし一人の時は、2メートルくらいかな。……ルルアさんがいれば、これよりもう少し高く飛べるんだけど」
「……そうなのか」
両手がふさがっている類の代わりに、アリサは類の肩の上から両手を前に回し、類が下げている首飾りを手に取った。
背中に、アリサの胸が密着する。
「!!(うっ……!)」
「これで、操作するんだよね」
アリサの息が右の頬にかかる。
(な、生温かい……)
類は心がむずむずするような、変な気分になった。
「えーっと、これをなぞると……」
アリサは、首飾りの紋様の面を下から上に軽くなぞった。
「うわっ!」
二人同時に声をあげた。
浮上は予想を超え、森の木々の枝葉よりもさらに高く舞い上がった。
尖ったような冷たい空気が肌に刺さり、眼下には一面、真っ暗な森が不気味に広がる。
「…………」
二人は、そろって周囲を見渡した。
「すごい……。見渡す限り森だ……」
類がつぶやく。
遠く、北東に高い山が僅かに見える以外、地平線のかなたまでどこまでも森が広がっている。
ルルアの存在が無ければ、この異世界には森しかないと思えるほどだ。
「ル、ルイ兄!あれっ!」
突然、アリサが恐怖の混じる、驚いたような声で、東の方を指さした。
「うん!?」
類も振り向き、目を凝らす。
見れば、遠く、枝葉の上わずかに高い位置に、何か黒いモノが3つ浮いている。
暗さと遠さで、はっきりとはわからない。
だが、ほのかな月明かりに淡く照らされたそれは、巨大なコウモリのようにも見えた。
「おーい、どうしたー?」
下から、異変を感じた茂が呼ぶ。
「な、なんかヤバそうだな、あれ」
「う、うん」
そうしている間に、その3つの影は次第に近づいて来るような様子を見せた。
「アリサ、早く降りよう……」
そう言われ、アリサは首飾りを上から下に慌ててなぞった。
「うわ!!!」
身体が一気に下降する。類はバランスを崩し、アリサはとっさに類にしがみついた。
アリサの腕で類の首が締まる。
(ぐえぇっ……)
類を下にし、地面10センチほどのあたりで一瞬身体がピタッと止まると、類はうつぶせのまま腹から地面に着地した。
「ぐふっ!」
顎を打つ。そして、上にアリサが馬乗りになっている。
「い、痛いし(重い……。なんの試練だ、これは……)」
「お父さん!なんか、変なのがこっちに来てる!」
アリサはそそくさと類の上から降りると、そう言って組子障子の戸の前に走った。
類もあわてて起き上がる。
「な、なんだと!?」
茂は顔色を変え、空を見上げた。
「魔物ってやつか!?」
「叔父さん!早く中に入ろう!」
類は茂の腕をつかみ、強引に引っ張って組子障子の前に移動した。
そして辺りの様子をうかがう。
「まだ大丈夫そうだ」
類が言う。
「二人とも、早く!」
先に店の中に入ったアリサが叫ぶ。
遠くで、バサバサと、鳥とは違う何かが羽ばたく音がかすかに聞こえてきた。
それは徐々に大きくなってゆく。
類と茂は、互いに「聞こえたか?」というような目で、顔を見合わせた。
そして無言でうなずくと、急いで店の中に入り、戸を閉めることなくすぐに外した。
異世界への入口は掻き消え、戸を外した先は、カロ屋の東側の壁に変わる。
「ふぅ……」
二人はため息をついた。
「まぁ、これで大丈夫だろう」
茂が、外した戸に触れて言った。
「そ、そうだな……(打った顎が痛い……)」
類は腹から着地したときに着いた土ぼこりを払った。
アリサが、レジカウンター前の丸い椅子にぐったりと腰を下ろして言った。
「はぁ……、あれ、何だったんだろう?」
そのままカウンターに突っ伏す。
「わからない……」
類は、そう言ってカウンターの内側に移動した。
首にかけていた飾りを外し、カウンターの上に置く。
そして、休憩室との間の壁に寄りかかった。
(異世界に係わる以上、少しは調べておいたほうがよさそうだな……)
茂が険しい顔になり言う。
「お前たち、何を見たんだ?」
「……、コウモリ?」
アリサがつぶやく。
類もうなずいた。
「でも、大きかったな。距離ははっきりしないけど、かなり離れてたはず。……なのに、あれだけ大きく見えたんだ。近づいたら相当でかいんじゃないか?」
そう言って難しい顔をする。
「ふむ……。前にルルアさんが言ってた、森の魔物ってヤツかもしれんな」
茂は、顎に手を当てて言った。
そして作業台の前にドカッと座る。
「まぁ、いずれにしても、森の魔物は、日中は出ないらしいからな……」
茂のその言葉を最後に、三人は黙り込んだ。
―――本当だろうか?
類も、アリサも、そう言った当の茂でさえも、その疑問はぬぐい切れなかった。
普段はほとんど聞こえない、休憩室の時計の秒針がコチコチと時を刻む音が聞こえる。
それぞれ、何かを考えているのか、沈黙が続く。
どのくらいの時間が経ったのか、類がその沈黙を破った。
「叔父さん……。俺、そろそろ帰るわ」
壁に寄りかかっていた類が、向きを変えて静かに言った。
「そ、そうか?……気を付けてな。明日よろしく頼むぞ」
茂は立ち上がり、頼るような目でまっすぐ類を見た。
「ルイ兄、気を付けて帰ってね……」
レジカウンターに突っ伏したまま、明後日の方向を見てアリサが言った。
「ああ……(アリサ……)」
そう、うなずいて、類は店を後にした。
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