第37話 春と恋と金と炎5

 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 どこからか、そんな声が聞こえてくる。それはよく知っている声だった。絶対に忘れられるはずもない懐かしいものだけど――憎しみによってゆがめられたその声を聞いていると心が痛くなってくる。そして、その声が向けられているのは自分だ。彼女は、あんな声を誰かに対して出す娘じゃなかったのに。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 でも、あんなことになったのなら――あんな悪意に飲まれてしまったら――憎んでも仕方ないと思う。自分たちは彼女にそれだけのことをやったのは事実なのだ。自分たちの欲望のために――自分たちの保身のために彼女を追い詰めて見殺しにした。なんて残酷なんだろう。憎しみをぶつけられるのなんて当然じゃないか。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 禍々しい憎悪の炎は、はなの身体に巻きついて、その言葉の通りゆっくりとまとわりつくように燃え広がっていく。身体が燃えているのに、熱さも痛みも感じない。これは、彼女なりの慈悲なのだろうか?


 ――違う。

 はなはそう思った。


 憎しみに駆られる彼女は、はなたちを徹底的に追い詰めて苦しめて殺したい――そう思っているはずだ。彼女は――いまここで苦痛を与えるより、もっと苦しませることができる。だから、彼女はここで苦しみを与えてこない。ここでは――苦しみも痛みも無意味だから。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 ゆっくりと広がる青い炎は腕を完全に飲み込んで、胴体へと移っている。自分の身体が燃えて、失われていく感覚は確かにあるのに、相変わらず痛みも熱さも苦しみも感じない。一切の感覚なく自分の身体が失われていくのはとても恐ろしかった。


 だけど、逃げようとは思わない。


 この青い炎からは絶対に逃げられないことをはなは知っている。なにをしてもこの青い炎は消えてくれない。どこまでも追いかけてきて、最終的に自分の身体をすべて炭へと変えてしまう。きっと、今日も自分が物言わぬ炭になるまでこの青い炎は消えないはずだ。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 燃えろ――という声に混じってよく見知った笑い声が聞こえてくる。その声には嗜虐に満ちていた。はながなにも抵抗できずに無様に燃えている姿を見るのがとても楽しいのがわかる声色だ。その声を聞いていると、本当にはなは悲しくなった。彼女は――こんな怖い声を出して喜ぶ娘じゃなかったのに。


 でも――


 彼女をそういうものに変質させてしまったのは疑いようもなく自分たちだ。はなたちが彼女をゆがめてしまった。その事実は、はなたちが一生をかけて背負い、そして償っていかなければならないものだと思う。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 嗜虐に満ちた呪詛ははなの身体を蝕み続ける。青い炎はつま先からも発火し、ゆっくりと広がっていった。青い炎は痛みも熱さもなく、優しく残虐に自分の身体を包み込んで、そこに身体があるという感覚を失わせていく。気がつくと、はなの四肢はすべて燃え落ちていた。残されているのは首と胴体だけ。四肢を失ったのにもかかわらず、はなの意識は明瞭だ。


 今日もすべて燃やされてしまうだろう。

 最後の細胞がすべて燃え尽きるまで、意識を残したまま――


 燃えて燃えて燃えて、意味のないモノになってしまうその直前まで意識が残っている恐怖を言い表すことはできない。


 自分の意識が消えるその瞬間まで知覚できてしまう――その恐怖は何度味わっても慣れることはないだろう。絶対に慣れることなんてないから、彼女はこんなことをしてるに違いない。そう思える。


 燃えろ。

 燃えろ。

 燃えろ。


 胴体はすべて燃え、残っているのは頭だけだ。それでも青い炎の歩みは止まらない。首の先から徐々に感覚が失せていく。今日もまた青い炎にすべてを燃やされて終わるのだ。


 気がつくと、目も燃えてしまって、なにも見えなくなっていた。

 なにも見えないのに、意識だけは残っている。


 だが――それもそろそろ終わりだ。あと二十秒も経たずに、自分の身体は燃え尽きてしまうだろう。そうなれば、この恐怖から解放される。その代わりに始まるのは自身の中にある罪悪感に苛まれる日々だ。


 ――ごめんなさい。

 彼女に対し、そう謝罪したのはこれで何回目だろう。


 ここで謝ったところで――なにも変わらないのに。

 するべきなのは――謝ることじゃないのに。


 それができないから、わたしは今日も燃やされているのだろう。

 でも――それも仕方ない。

 悪いことをしたのは――自分たちのほうなんだから――


 目を覚ますと、そこは教室だった。教室には自分以外誰の姿もなかった。まだ夢から醒めていないのかと思って動揺する。しかし、すぐ時計に目が入って、六限目の授業が終わってから一時間も経過していることに気がついた。それだけ経っていれば教室に誰もいないのは当たり前だ。寝不足だからといって、教室でここまで眠りこけていた自分をはなは嘲った。


 それから考えることはいつも同じだ。

 これから自分はなにをするべきなのか――自分の身体を燃やされる夢を見たあとに考えるのはいつもそのことだ。


 いや――

 なにをやるべきかなんて決まっている。

 なにをやるべきかではなく、それをやる覚悟が自分にあるかどうかだ。


 間違っているのは自分たちだ。

 道を踏み外したのは自分たちだ。

 正されるべきは自分たちだ。


 そんなこと――充分すぎるほど理解させられたはず、なのに。

 どうして、できないのだろう。


 どうせなら――現実世界のわたしのことを燃やしてくれればいいのにと思う。

 そうすれば――もうこんな嫌な思いはしなくて済むはずだから――


「あら、はなちゃん。まだ教室にいたんですか。連絡がつかないのでいったいどうしたのかと思っていたんですけど」


 背後から聞こえてきた声にはなは振り向いた。そこには姫乃の姿があった。もう一人誰かいるみたいだけど、ここからでは影になってよくわからない。


「ちょっと居眠りしてて。ごめんなさい。なにか用?」


 はなはそう言って立ち上がって姫乃のもとに近づいていく。姫乃の隣にいる『誰か』の姿が見えたとき、はなの全身に怖気が走った。


 そこにいたのは――

 一つうえの学年の『魔女』だった。


 名前は知らない。

 だけど、この学園の生徒にとって彼女は有名だ。


 彼女にかかわるとろくなことにならない。不幸になる。破滅する。死ぬ。そんなことをよく耳にする。はじめて間近で目にした『魔女』を見て、はなは確信を持ってしまった。


 いま目の前にいるあれは、かかわってはいけないモノであることを。

 人に見えるだけの――人ではない『なにか』であることを。

 それは――夢の中で自分を焼く炎よりも恐ろしい存在であることを。

 理解せざるを得なかった。


 どうして姫乃があの『魔女』と一緒にいるのだろう? 目の前に広がる現実に理解が追いつかず、はなをさらに困惑させる。


 前に話していた好きな先輩というのが、あの『魔女』なのか?

 なにも――わからない。


「確かあなたは初等部からここにいるのよね。だから私のことは色々と聞いているでしょうけれど――いまのところあなたになにかするつもりはないわ。安心できないと思うけれど。信用してもらえないかしら」


 一切人らしさを感じさせない口調で『魔女』は、その身から漏れだす異質さとはかけ離れた透明な声で澱みなく言った。


「…………」


 言葉が出ない。

 いま自分の目の前に立っている『魔女』はそれくらい外れている。


 なんだ、これは。

 これを『魔女』なんて言ったのはどこのどいつだ。

 これは『魔女』なんてものじゃない。


 ただの――化物じゃないか。


「そう睨まないでほしいわね。さっきも言ったけど、別にあなたをとって食おうなんて思っちゃいないわよ。食人趣味はないし。ただ話を聞きにきたのだけど――」

「なん……ですか」


 はなは窒息しそうになりながらも言葉を紡いだ。呼吸がちゃんとできない。たった一言を絞り出すのがここまで大変なんて思いもしなかった。どうしてこんな思いをしなければいけないのかと自分を呪う。


「なんだかつらそうだから率直に言うわ。あなたのお友達の――自殺した加賀ゆいさんのことを聞かせてほしいの。確か、初等部からずっと仲よくしてきたのでしょう?」


化物のごとき『魔女』の言葉を聞いて、はなはもう自分はなにがあっても逃げられないと確信した。

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