第34話 春と恋と金と炎2
「これからあたしは三年間、全寮制女子校のお嬢様とにゃんにゃんできるわけですな」
これから三年生活する――桜が満開になった月華学園の敷地内をのんびりと歩きながら、清瀬姫乃はここでの生活に思いを馳せていた。
全寮制学園――どんなものかと不安は色々あったけれど、思っているほど悪くなさそうである。
富裕層のお嬢様が多いせいか、容姿のレベルも軒並み高い。これだけでもここに進学した価値はあると言える。綺麗可愛いは正義だ。いままでノーマルだったが、ここで三年過ごしていたら百合に目覚めてしまいそうである。
「しかし、あたしみたいな低層の住人が――お金持ちがいっぱいいる私立のオシャンティーな全寮制学園に進学することになるとは……人生ってのはなにが起こるのかわかりませんよねえ。なかなか面白うございます」
姫乃は誰かに話しかけるような口調で感慨深げに言った。当然一人である。
入学式とクラス分けが終了して解放されたあと、気の向くまま学園内を散策していたのだ。この学園は、ちょっと前まで通っていた公立中学とは比べものにならないくらい広い。とてもではないが一日ではまわりきれないだろう。隣には中等部もあるらしいので、そちらも合わせると大学並みの敷地があるのではないか。
姫乃は、ひらひらと可愛らしく満開になった桜が舞い散る学園内を進みながら考える。
私立の――しかも全寮制の学園に通うことになるなんて一年前には考えられなかった。
姫乃の家は母子家庭であった。やんちゃだった母が高校卒業とほぼ同時期に姫乃を産み、それから、高校生だった母を妊娠させた男に三行半を突きつけてからは、ずっと女手一つで姫乃を育ててきた。
運のいいことに母はやんちゃしていたもののかなりできる人だったので、それほど生活に困ったことはない。
とはいっても、親娘二人で暮らしていくのにはなんとか困らない程度で、裕福だったかと言われるとそれはNOである。自分たちの暮らしは、平均的な家庭よりずっと下だったことは間違いない。一年前、進路を考えていたとき――第一志望は自宅から自転車でニ十分程度の場所にある都立の進学校であった。
しかし――
中学最後の夏休みに母が突如再婚した。
しかも、その相手は母よりもひと回り年上の、以前はニューヨークの証券会社に勤め、いまはフリーとして日本に在住し、ビジネス誌にコラムを書いたり、都内近郊のいくつかの大学で講義したり、日々の運用で月にウン億も稼いでいる投資家のロマンスグレーで碧眼のおじさまであった。
そんな人と母がどういう経緯で知り合ったのか不明だが――中学三年の娘がいるとはいえ、若くして姫乃を産んだ母はまだ三十代前半の女性である。晩婚化が進んだいまではばりばり仕事をしていてもおかしくない年齢だ。再婚について姫乃はまったく反対しなかった。
そんなの当たり前だ。母は高校を卒業してすぐ自分を産んで、普通なら全力で楽しむはずの二十代を子育てと仕事に奔走して、ろくに遊べなかったのだから。そんな母の再婚を祝福するのなんて、彼女に育てられた子供として当然のことである。
しかし――
正直に言えば、母の突然の再婚に戸惑わなかったのかといえば嘘になる。
母はいままでずっと再婚のさの字も見せてこなかった。もうてっきり結婚するつもりはないと思っていたからだ。そんな母が突然再婚した――しかも相手は外国人のおじさま――不快感はなくとも困惑はするし、なかなかの衝撃である。
それに伴って生活環境も大きく変化した。
長らく暮らしていた、いまにも崩れそうな築五十年の貸家を離れて、その近くに新築されたタワーマンションに引っ越し、部屋が何倍も広くなって、日々の生活をどうしていくのかに悩むこともなくなった。いままでの生活では考えられなかった余裕が生まれたのだ。
姫乃は父親のことはまったく覚えていない。物心ついたときからずっと母と二人で暮らしであった。そこで、大人の男性――しかもロマンスグレーで碧眼の外国人――と同居するのは複雑だったのは確かである。母の再婚相手とうまくやっていけるだろうかなんて、自分らしくもない不安を感じることも多かった。
だが――
再婚相手のおじさまは教養のある人格者で、自分らしくもない不安はすぐに吹き飛んだ。まあ、自分を産んでからずっと一人で育ててきた母が選んだ再婚相手なのだから、それは当たり前なのかもしれないが。
ともかく。
中学最後の夏休みに姫乃の生活は劇的に変化した。お金持ちと再婚したからといって、貧乏生活が染みついている母も姫乃も無駄遣いには走らなかったが――自分自身を根底からひっくり返すほどの変化があったのは間違いない。
劇的に変化した生活環境の中で、いままでと変わらず受験勉強を続けていた姫乃は残暑も収まり、寒くなり始めた秋の日にあることに気がついた。
自分が二人の新婚生活に水を差しているのではないのかと。
恐らく、父も母もそんなこと気にする必要はないと言っただろう。それは建前でもなく社交辞令でもないのは確かだ。
だけど――
自分のために遊び盛りの二十代でろくに遊べなかった母のことを思うと、いまからでも母の生活だって尊重するべきではないかと思えてならなかった。
自分はもう来年高校生になる。なにもできない子供ではない。法律的には子供であっても、母の新しい生活のためになにかできることはないかと考えた。
それで思いついたのが、親もとを離れることであった。姫乃が離れれば、二人の新しい生活に水を差されることもないだろう――そう考えたのだ。
それを父と母に告げると――
――そこまで考えることはないと思うんだけどねえ。
――とは言っても、姫乃ちゃんがそうしたいのであれば、その意思は尊重したいなあ。
――とはいっても、高校生に独り暮らしは――誰かに任せられる人もいないし。
――ああ、そうだ。私の知り合いに全寮制学園の理事長がいる。そこに進学するのは?
という父の勧めもあって、姫乃は第一志望を近くの都立高校から月華学園へと変更した。
受験も終盤に入り始めた秋で決めた突然の変更だったが、特に問題なかった。もともと成績は優秀だったし、月華学園のレベルは滑り止めで受けるつもりだった私立と同じくらいだったので、担任教師も太鼓判を押してくれた。
そして――
姫乃は問題なく月華学園に合格し、いまに至る。
「私立の全寮制学園といっても――意外と普通ですねえ。もっとマンガみたいな場所かと思っていたんですけど」
ふわふわと可憐に桜が舞い散る敷地内を歩きながら、姫乃はそんなことを呟いた。
月華学園は全寮制ではあるものの、それほど校則は厳しくない。学園内で必要なものを揃えられるようになっているため、長期休み期間以外の外出だけは相応の理由が必要になってくるが――それ以外は普通の学校と同じである。フィクションであるような、私物をすべて取り上げられることもない。
一般的な学生が持っていてもいいものは、大抵許可されていると聞いている。生徒のほとんどはスマートフォンを所有して、トークアプリで連絡を取り合って、暇な時間はゲームやSNSなんかで潰す。
月華学園は教科書のペーパーレス化を進めていて、今年から生徒一人一人にタブレット端末も支給されるようになった。さすが金を持っている私立は違うな、と長らく貧乏暮らしだった姫乃は思うばかりだ。
「そういえば、お姉さまとか言われて女子にモテるかたっているんでしょうかねえ。あたしとしては都市伝説ではないかと思っているんですけど――」
小中ずっと公立だった姫乃にはあまり考えられない話である。
まあ、魅力的な人間に性別もなにもないというのはわかっているのだが――
「あ――」
そこで目に入ったのは女子生徒。自分が履いているおろしたての上履きとは色が違うから、上級生――三年か二年かはわからないが――であることはわかった。
彼女を見たときに――姫乃の中にとてつもない衝撃が貫いた。つま先から頭頂まですべての細胞を細い針で刺されたかのようだ。その衝撃で、身体中がびりびりと痺れている、ような気がする。
太陽の光を反射してきらきらと舞い散る桜の木の真下にいる彼女は、いままで十五年の短い人生で見たきたどんなものよりも美しいと思えるものだった。
いまにも消えてしまいそうほど色が薄い。その薄さは、なにか病気を患っているのではと思ってしまうほどだ。
だけどその薄さは儚いものでありながら、どこか力強いものが感じられる。そのコントラストの不一致が姫乃の絶妙に心を揺さぶってきた。
なんと表現すればいいのだろう。あまりいい言いかたではないと思うが、あそこで座っている上級生は自分と同じ人間とは思えない。それくらい彼女から人間離れした美しさが感じられた。
彼女のことを見ていると、身体のどこかがおかしくなってしまったのではないかと思うほど、自分の鼓動が早くなっている。
なんて、綺麗な人なんだろう。
それ以外、言葉が出てこない。
姫乃の視線に気づいたのか、上級生はこちらに目を向けてきた。
彼女と目があったとき、自分の心臓は止まってしまったのではないかと思った。
その目はあまりにも綺麗で――
なにも映っていないことが、わかってしまったから。
――あの目には、自分に向けられたあの目にはなにも映っていない。姫乃のことなんてまったく見ていないのだ。どこまでも空虚である。あんな目をしている人なんていままで見たことがなかった。その目は、どうしようもないほどに姫乃の心をかき乱してくる。
そういえば――と、そこで姫乃はある話を思い出した。
この学園にはよく不思議なものを見たり、不思議な体験をする人が多くいるらしい。噂ではこの学園に通っていれば一度はそういう体験をするとかなんとか……。もしかして、いま目の前にいる上級生は妖精だったりするのだろうか? まわりから隔離されているのだし、敷地の外れのほうには林があるから、妖精がいてもおかしくない気がするけれど――
姫乃は、目の前にいる上級生が本当に存在するのか気になって、彼女に近づいていった。
「……なに?」
近づいてきた姫乃に向かって上級生は問いかけてきた。その言葉は目と同じくあまりに空虚で、それが自分に投げかけられたものとは思えなかったほどである。
「あ、あの、ここの生徒でよろしいのでしょうか?」
裏返った声で姫乃はそんな質問をしていた。
口から心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほど、緊張したのは生まれてはじめての経験である。
「そうだけど――どうかしたの? もしかして新入生? 迷った?」
「いえ、そうでななく! あの、その……」
上級生は相変わらずの無関心のまま姫乃の視線を向けている。彼女の視線を浴びていると、核分裂反応を起こしたかのように気持ちが昂ってくる。こんなに心が昂ったのは、はじめてのことだ。
「お名前もまだ存じ上げませんが――あなたさまにひと目ぼれをいたしました! 結婚を前提にお付き合いしてください!」
気がついたときには、馬鹿正直に自分の思いを彼女にぶつけていた。
「……は?」
姫乃の突然の告白に上級生は少しだけ顔をしかめていた。
自分でもなにを言っているんだろうと思う。
だけど、そう言わずにはいられなかったのだ。
目の前にいた上級生があまりにも美しかったから。
できることなら、彼女を自分のものにしたいと思ってしまったから。
「いきなり告白とか意味わかんないんだけど」
上級生は一切の関心を姫乃には向けずに冷たくそう言い放って――
結局、姫乃のはじめての告白は見事に玉砕した。
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