第30話 無間の牢獄7
その光景は――里見夏穂がなにもかも失った原因であり、そして絶対に忘れることができない記憶。
そこに映っているのは正真正銘この世の地獄だ。
荒れ狂う黒い濁流が音も立てずに近づいて飲み込み、飲み込んだものをすべて溶かして殺して、平凡でまったく罪もないはずの家庭のすべてを壊し尽くしていく。そこに一切の慈悲はなく、なにもかも平等に壊して溶かして殺して殺して殺し尽くす。そいつには、人を呪い殺すこと以外なにも意味を持たない。その無慈悲さはあまりにも鮮やかだ。
あれは、すべての無駄を排して『人間を殺す』以外なにもしない。その代わりに徹底的だ。どうしてあれは、あそこまで徹底的に人を殺しているのだろう。あの黒い濁流は、人が生まれながらに持つとされる原罪かなにかなのだろうか?
『選別現象』――それは、ただ人を呪い殺すだけ邪悪の極地。
里見夏穂というごく普通だった女児をいまの人でなしに変えてしまったモノ。
この光景を見るたびに夏穂は思う。どうして自分はあのとき、家族と一緒に死ななかったのかと。あそこで家族と同じく苦しんで死んでいたのなら、こんなにも無様に生きる必要なんてなかったのに。
突如現れた黒い濁流は人間を飲み込んでは溶かして死をまき散らしていく。音も立てずに広がりながら。ただひたすらに死と呪いをまき散らして人間を殺していく。飲み込まれた人間は生物としての形すら保っていない。赤黒いゲル状の物体と化して、自らを飲み込んだものと似た『なにか』へと変質している。
こんなのは人間の死にかたではない。人類によって行われたどんな虐殺もこれに勝るものはないと確信を持って言える。こいつの殺しかたはそれくらい人が持っているなにもかもを否定している。
これは――これだけは人の技術がどれだけ発達しても、この域まで到達することは永遠にない。『選別現象』が引き起こす死と否定はそれくらい超越している。
あれに巻き込まれて、生きていた夏穂は幸運であるとどこかの誰かが言った。それをどこで聞いたのかはいまとなっては思い出せない。
多くの人間が無意味に死んだ場所でただ一人生き残った――それは確かに幸運なのだろう――ただし、巻き込まれる前とあとで自分自身の同一性を保っていたのなら。『選別現象』が引き起こす地獄でなかったのなら。幸運だったと、いえるかもしれない。
しかし――
人の理解を超えた邪悪を見せつけられて浴びて生き残って、それは本当に幸運と言えるのか?
すべてを否定する死の奔流をその身に浴びて、その汚辱にまみれ、絶対に消えることのない忌まわしい記憶を植えつけられても、生きているのは素晴らしい――なんて気の抜けたことが言えるのか?
違う。
夏穂は強く否定した。
あれを浴びて、浸されて生きているのは、どんな残虐な拷問よりも非道である――それは確信を持って夏穂は言える。
あれがなにか知っても死ぬことができずに生きてしまう不幸に勝るものはないと――
あれを浴びた里見夏穂は確信を持って言える。
よく言われるじゃないか。見なければよかったものがあると。知らなければよかったことがあると。
幼かった里見夏穂が見て、その身に浴びてしまったあれはその究極にあるモノだ。あんなものを浴びて、生きていてよかったなんて夏穂にはまったく思えない。思ったこともない。どうしてあそこで死んでくれなかったのかと、自らの運命を呪い続けている。
あそこで死んでいれば、人らしく死ねなくても、人のままでいられたのに――
あれを見ていないから、あれが生み出す死と否定の呪いを浴びていないから、生きているのは幸運だったなんていう戯言が言えるのだ。
なんて無責任――
あんなものを見て浴びてしまったら、生きていたいなんて思えなくなってしまうのに。
父親がリビングに押し寄せてきた黒い濁流に飲み込まれた。父親は悲鳴すらも上げられずに溶けていった。
それを目の当たりにした母親は吐息のような小さい悲鳴を上げたのちに黒い濁流に飲み込まれて溶けていく。最期の瞬間に上げた小さな悲鳴がいつまでも部屋の中に残響していた。その音はあまりにも忌まわしい。
夏穂より二歳年上だった兄はなにが起こったのか理解する間もなく黒い濁流に飲み込まれた。兄は不運にも一気に飲み込まれなかったため、黒い濁流が与えてくる想像を絶する苦痛に悲鳴を上げていた。
だが、兄もすぐにすべて溶かされてしまった。すべて溶かされる瞬間まで上げていた子供のものとは思えない悲鳴が部屋の中に残響を続けている。家族四人がいた夕方のリビングは瞬く間に地獄と化した。
人は溶けて、最後に発した悲鳴だけが延々と残響を続ける地獄へと。
赤黒い『なにか』で満たされたそこには、溶かされることなく一人だけ誰かが転がっている。あと何日かすれば小学生になるはずだった十年前の夏穂だ。彼女だけは、簡単に人を溶かしてしまうはずの黒い濁流に浸されても形を保っている。
しかし、それは――もうすでに人の形をしているに過ぎない。死と否定の呪いに浸されて、ただその形を保っているだけだ。
そこにはもう、人として大切なものはほとんど残っていない。光を失ったその目には、いまの自分の同じくすでになにもかも映っていないのは明らかだった。殺されてもなお死なせてもらえず、延々と殺され続け、生きながらにその身に地獄のごとき苦痛を味合わせられる哀れな子供――それがあそこで転がっている娘の正体だ。
夏穂の身体は部屋を満たす黒い濁流をスポンジみたいに吸い込んではその色に染まり、もとの肌色に戻るというのをひたすら繰り返していた。なにがどう間違ってそうなっているのかは見当もつかない。家族と同じように溶けることはなく、人の形を保っているのは確かである。中がどうなったのかは別として。
燻ぶり続けていた黒い濁流は次第に蒸発していって、数分と経たずにそのすべてが消失した。溶けてしまった人だったものと、溶かしきれなかった夏穂だけを綺麗に残して、そんなものなんて存在しなかったかのように消えている。
人間が溶けてでき上がった赤黒い残骸は部屋に中に広がっていく。それはすぐに部屋中に広がって、先ほどまでとは違った地獄を創り出していた。人間が溶けてできた赤黒いスープに浸されてもなお夏穂は微動だにしない。
この部屋は想像を絶する酸鼻な腐臭をまき散らしているにもかかわらず、幼い自分はそれを気に留めることはない。
きっと、気に留める余裕もなくなっているのだろう。もうすでに、あそこに転がっているのは、そんなことを気にしている余裕がまったくなくなった里見夏穂の残骸でしかないのだから。
「復讐せよ」
どこかからそんな声が聞こえてくる。その声は間違いなく、父の声であった。先ほど溶けて、赤黒いスープ状になってしまったはずの。
部屋に満たされた赤黒いスープが夏穂の身体に吸収されていく。先ほどと似ているが、今度は夏穂の身体は変色することはない。百数十キロはあるはずのそれを、夏穂の小さな身体は際限なく吸収する。
「復讐せよ」
同じ言葉が聞こえてくる。今度は母の声であった。その声には強い憎しみが感じられる。いままで、母はそんな声なんて一度も聞いたことがない。
夏穂の身体は腐臭をまき散らす赤黒いスープを吸収し続けている。その量は幼い夏穂の体重の数倍はある。それなのに、夏穂の身体には一切変化は生じていない。失った中身をあれで満たそうとしているのかもしれない、と思った。
「復讐せよ」
今度そう言ったのは兄の声だ。まだ声変わりが来ていない幼い声。その声には、子供のものとは思えない憎しみが込められている。そんな兄の声もまた一度も聞いたことなかった。
あの黒い濁流は、幼い子供ですら、そこまでゆがませてしまうものだったのか。そう思わざるを得ない。
気がつくと、部屋を満たしていた赤黒いスープはそのほとんどが消えていた。部屋に酸鼻な腐臭をわずかに残して、これを創り出した元凶と同じように消えてなくなっている。
それでも――
それでもなお、三人の「復讐せよ」という声だけは響き続ける。
まだかろうじてそこにある夏穂を呪うように――あるいは願いを託すかのように、彼らは重苦しい呪詛の声を発し続けていた。
「復讐せよ」
彼らは夏穂に託すようにその言葉だけを発している。
ああ、そうか。
そこで夏穂は理解してしまった。
理解せざるを得なかった。
なにもかも失ったはずの自分が――どうして『悪意』に対する『怒り』だけがわずかに残っているのかを。きっとそういうことなのだ。
死と否定の呪いをまき散らす悪意そのものに殺され、復讐を望む家族の残骸をその身に浸されて、空洞になった中身を埋めるためにあんなものを食らってしまったから。
だから、里見夏穂の中にいる正体不明は『悪意』と『怪異』を許さない捕食者になったのだ。
もしかしたら――
中身がなくなってしまったから――それを満たすために、あんなものでも食らわなければ、自分を保てなかったからなのかもしれない。
そうなった理由は不明だけど。
自分が、どうしてここまで『悪意』を許せないのかは――わかった気がする。
どうして、こんなものを見ているのか?
そもそも自分は、こうなる前なにをしていたのだっけ?
よく思い出せない。
いまの自分でも嫌だと思うものを――不快だと感じるものを見てしまったせいだろうか?
死んでしまえば、楽だったのに。
死なせてくれれば、すべて丸く収まっていたはずなのに。
人らしく死ねなくとも――人として、終われたはずなのに。
どうして自分は生き残ってしまったのだろう?
生きる理由なんて――なかったはずだ。
黒い濁流に飲まれて溶けた家族は、そこまであれを憎んでいたのか。
中身を失って、どこも壊れた夏穂を無理矢理動かす程度には。
正直言って――
家族だからといって、そんな重荷を乗せるのはやめてほしい。
中身がなくなったからといって、その空洞を憎しみで埋めるのはやめてほしい。
どうして、こんなことになっているのだろう?
本当に――理不尽だ。
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