闇に咲く「徳川葵」

バモっさん

第1話 闇に咲く「徳川葵」~序章~

江戸時代。


我が国における「江戸時代」の学説的な期間定義は諸説ある。


始まりの年については「太閤・秀吉が薨去(こうきょ)した年」や「関ヶ原の戦いの年」であったり、あるいは「大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した年」という学者もいる。


しかし、今主流の説としては、慶長(けいちょう)8年(1603年)に徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた年を始めとする説が主流では無いだろうか。


また同じように江戸時代の終わりの年についても諸説ある。


「ペリー来航の年」や「桜田門外(さくらだもんがい)の変」があった年、「王政復古(おうせいふっこ)の大号令により明治政府樹立(めいじせいふじゅりつ)の年」など様々な説があるが、私は「江戸幕府・第15代将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を明治天皇に上奏した年」こそ江戸幕府が実質上、終焉(しゅうえん)し江戸の時代が終わった年では無いかと思っている。


江戸幕府は稀代の英雄・徳川家康(とくがわいえやす)によって開かれた。


徳川家康は天文(てんぶん)11年(1543年)、三河国(みかわのくに)にて三河統一を成しつつあった松平宗家第8代・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生し、幼名(ようみょう)(元服前の幼い頃に名乗る名前)を竹千代(たけちよ)と言った。


永禄(えいろく)9年(1566年)当時、まだ松平氏を名乗っていた家康が完全に三河統一を成した際、朝廷に松平氏(まつだいらうじ)から清和源氏(せいわげんじ)の流れを組む新田氏(にったうじ)の支流である得川氏(とくがわうじ)への復姓を申請したところ、朝廷から家康が官位も得ている朝臣(あそん)として認められ、家康個人の「得川氏」への復姓が許され、また従五位下三河守(じゅごいげみかわのかみ)の官位を叙任された時に初めて家康は「得川」を「徳川」と改め、戦国大名・徳川家康が誕生したのである。


竹千代(家康)が産まれた当時、三河国は隣国である尾張国の戦国武将である織田信秀(おだのぶひで)と鎬(しのぎ)を削り合っていた。


織田信秀は尾張の守護でも守護代ですらない、守護代の下に位置する三奉行の内の一家である弾正忠家の当主で、守護代に仕えるただの武将にしか過ぎなかった。


しかし信秀の父・織田信定(おだのぶさだ)が尾張でも有数の寺社門前町(じしゃもんぜんまち)で、また港町でもある「津島」や「熱田」を支配地とし、そこに課税をする事により弾正忠家は尾張の中でも一頭抜きんでた財力を保有しており、弾正忠家のみで当時の尾張守護や守護代を凌ぐ勢いであった。


そんな経済力を背景に持つ信秀は当時の三河を金銭の力で弱体化させて行く。


家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)。


清康は戦となれば勇猛果敢、領民たちには仁徳の政を行い、身分の差も関係なく慈悲深く接する英雄の器を持つ武将であった。


そんな清康は苦労の末に三河統一を果たし、その勢いに乗り尾張へと進軍する為、下剋上で当時の美濃(みの)の守護大名であった土岐(とき)氏を追放し、美濃の大名となった斉藤道三(さいとうどうさん)と協力し、尾張を挟撃しようと守山城へ攻め込んだ時に松平家の悲劇が起こる。


清康は守山城付近に設置した本陣の中にて家臣の阿部正豊(あべまさとよ)によって殺害されるのだ。


それも清康殺害の動機は正豊の勘違いである。


元々、信秀は阿部定吉(あべさだよし)が織田方に寝返るという噂を三河と松平家臣団に流していた。


清康はその様な噂は歯牙にもかけてはいなかったが、清康の家臣団は定吉を大いに疑い怪しんだ。


定吉は清康に対して二心無い証として誓紙を書き、息子である正豊を呼び申し付ける。


「もし、おらがお家に対する謀反の濡れ衣を着せられ、殺害されるような事があればこの誓紙を殿に見せ、身の潔白を証明してほしいずら」


そう正豊に頼むのであった。


正豊は父から預かった誓紙を懐深くに仕舞い込んで守山城攻めに加わる。


実は定吉には信秀との繋がりどころか内応の誘いすらなかったのである。


当然、息子である正豊もその事実を知っていたゆえに公明正大な清康に限って、無実の父親を問答無用で手討ちにされることは無いと信じていた。


しかし松平家の中には信秀の金銭で買われた家臣も少なからず居たのだ。


その元締めは清康の叔父である松平信定(まつだいらのぶさだ)という男である。


彼は清康と全くそりが合わずあわよくば清康を失脚させ、岡崎を手中にしようと常々企んでおり、此度は信秀と手を組んだのだ。


守山を清康の死地とする事で信秀と信定の謀略は進んだ。


守山陣中にて信定の息のかかった兵が騒ぎを起こす。


清康本陣の馬を何頭か放して暴れさせたのだ。


本陣の異変はすぐに正豊の耳にも届いた。


「いってぇ何があったずら!?」


動揺する正豊に本陣から走ってきた一人の男が叫ぶ。


「正豊!てぇへんだぁ!殿が急に定吉殿を斬りつけたんだ!俺は定吉殿の最期の言葉を聞いていたから、急ぎでおめぇに伝える為に走ってきたんだ!」


正豊はその男の必死の様相を見て、男の言葉を疑いもせず鵜呑みにしてしまい、父が生きているかどうかを確かめる事もせずに男の話に聞き入ってしまう。


「いいか、よく聞け?殿は定吉殿の息子であるおめぇも今回の謀反に加担してるからっつって、本陣さ連れて来いと言っていたずら。しかし定吉殿は正豊に生きのびていつの日か汚名を雪(そそ)いでくれと言っていたんだ」


正豊は周囲を確認するが周りは松平勢でひしめき合っていた。


いつ捕まってもおかしくない状況の中、尾張に逃げたとしても元々無実の父や自分に尾張へのツテも無い。


「おらには逃げる場所も行くあてもねぇんだ。」


正豊は悲しい顔をした。


それを見た男は少し笑った気がした。


「もし仇を討つなら俺が少しばっかり力を貸してやる。」


正豊は戦で見かける程度でしか会った事の無いこの男の気持ちに感謝で胸が熱くなった。


「刀はこれを使え、本当は今回の戦で使おうと思って大枚はたいて買ったんだけどもよ、定吉殿には何度も世話になったからな、御恩返しくらいにゃなるだろ。」


そう言って切れ味のよさそうな刀を手渡す。


「こんなたっけぇ物は受け取れねぇずら!」


正豊はこれから確実に斬られる仇討をするのに、これ以上世話になったら返せるものが無いと考えてしまう。


「良いんだ、何度も言うようだがおらは定吉殿にはえらい世話になったんだ。この刀もおめぇが使うんなら喜んで使われるさぁ」


こうして男は正豊を捕らえた振りをして本陣へと向かう。


これは初歩的な詐欺の技術の一つである。


現代風に言えば就活支援業者(しゅうかつしえんぎょうしゃ)を装い、就職活動中の学生なんかを連れ、一社の紹介料いくらといった具合で大企業に行き、人事担当者に会い「この人は中々出来る人なんですよ、この人が居れば助かります」などと紹介し、「ではまた今度」と言い、様々な大企業を回るんだが、見て回った大企業から内定の話が全くないという話だ。


そもそも業者は「いい人で、英語が出来て・・・」などと業者は紹介するのだが、大企業の人事担当者からすればまさか自分の会社に紹介されているとは思っていないのだ。


では誰に対して何のために就職活動者を褒めているのか?


それは大企業人事担当者からすれば紹介業者は人間が「自分の会社の新人社員を紹介している」と思い込み、就職活動生から見れば「自分を一生懸命売り込んでくれている」と思い込ませる。


大企業に就職なんて話は全くしないただ人と人を紹介するだけの詐欺業者と手法が同じなのだ。


何も知らない正豊に「いい人を装った男」は、本陣まで連れていくと正豊には見せているが、周囲の人間からすれば「本陣であった騒ぎを見に行く」程度の話であった。


当時の戦場は職業武士というのが殆ど居なかった為、その辺の規律にも厳しくは無かった。


兵農分離が徹底されたのは豊臣秀吉が天下を統一し惣無事令(そうぶじれい)を出した後に専業武士が生まれたくらいである。


それまでは半農半兵であり、自分の村や領地を守るので精一杯であり、忠誠心なんて言葉は少なかった。


「いいか?正豊、本陣さ入ったら、気付かれん様に後ろに回って殿さ斬って本懐遂げんだぞ?」


正豊も覚悟をする。


「わかったずら!」


本陣の入り口まで来た正豊は、静かにしかし確実に少しずつ少しずつ回り込んで清康に近づいて行く


「父の敵!松平清康!覚悟!」


と叫びながら松平清康を背中から何度も深く斬りつけた。


清康は絶命し、正豊はその場で「刀を渡してくれた男」により有無を言わさず斬り殺された。


刀を渡してくれた男の名は「植村氏明(うえむらうじあき)」という表向きは徳川家臣であったが裏で織田信秀に金で囲われた刺客であった。


後に家康の父・広忠(ひろただ)が岩松八弥(いわまつはちや)に刺殺された時にも氏明はこれを斬り捨てている。


こうして三河統一を成し遂げた松平清康は志半ばで亡くなり、総大将を失った松平軍は守山城から撤退を余儀なくされた。


後世はこの事件を「守山崩れ」などと呼んだ。


この隙を織田信秀と松平信定が見逃すはずもなく、松平信定を裏から支援し、信秀は当初に書いた筋書通りに表向きは松平信定に三河を治めさせ、裏から三河の実行支配をするはずであったのだが、ここにきて信定の人望の無さが露呈された。


三河の裏支配どころか信定は清康の嫡男には逃げられ、三河支配も計画通りにとは上手くはいかなかった。


清康の嫡男である竹千代(たけちよ)(後の松平広忠)は家臣の手により伊勢まで逃亡、信定の追手が伊勢まで攻めてきたら、今度は三河に帰るのだが、寄る辺がない広忠は三河長篠(みかわながしの)領民に頼み込み、長篠で暫く雌伏の日々を過ごす事になる。


守山崩れの翌年、隣国の遠江(とおとうみ)と駿河(するが)を治める大大名である今川家ではお家二分する騒動が起こっていた。


お家騒動の原因は今川家第10代当主・今川氏輝(いまがわうじてる)の早過ぎる死が招いたものであった。


氏輝には子が無く、今川家は次の当主に氏輝の弟である玄広恵探(げんこうえたん)派と栴岳承芳(せんがくしょうほう)派の二派に分かれ花倉城を舞台に戦を行った。


後世に謳われた「花倉(はなぐら)の乱」である。


兄である玄広恵探と弟である栴岳承芳。


この二人の争いは初手から栴岳承芳に有利であった。


第9代今川家当主である今川氏親(いまがわうじちか)の正室であり今川家の「尼御台(あまみだい)」とまで呼ばれた寿桂尼(じゅけいに)が実子である栴岳承芳側に付いた。


一方兄ではあるが側室の子であった玄広恵探には母方の実家である福島(くしま)氏が付いて花倉城を本拠に兄弟相争ったのだが、栴岳承芳側には寿桂尼と何より栴岳承芳の軍師にして師匠でもある太原雪斎(たいげんせっさい)という人物がついていた為、花倉の乱は1か月ほどで栴岳承芳の勝利で幕を閉じる。


そうした経緯もあり、守山崩れ当時、今川家は三河に構っている暇はなかったのだ。


栴岳承芳は正式に今川家の第11代当主となり、当時の征夷大将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から諱(いみな)を賜り、生まれ変わった心持で「今川義元(いまがわよしもと)」を名乗った。


広忠は花倉の乱を見事収めた義元の協力を取り付け、松平信定より岡崎城を取り返し、今川家の力を背景に三河の支配を拡大させていく。


しかし織田信秀は三河侵攻を諦めなかった。


戦でも経済力でも一枚上手の織田信秀に対抗するために広忠は今川義元に援助を要請する。


義元はその条件として広忠の嫡男である竹千代(たけちよ)(後の家康)を人質として駿府で預けよと申し出るのだ。


背に腹は代えられない広忠は三河と松平家を守るために竹千代を駿河へと送る決意をする。


竹千代この時、数えでわずか6歳であった。


三河を何としても手に入れたい織田信秀は竹千代を人質として広忠に言う事を聞かせようと画策する。


信秀は竹千代を駿河まで送り届ける護衛役である戸田康光(とだやすみつ)を永楽銭一千貫で買収した。


買収された康光は岡崎城を発ち、竹千代を渥美半島にある老津の浜から、船で遠州灘(えんしゅうなだ)を越え駿河湾へと送り届ける筈であったが、竹千代を乗せた船は遠州灘ではなく伊勢湾に入り尾張へ送り届けた。


竹千代を一千貫で売り払うと言った行為に大いに立腹した義元と太原雪斎は蟻の這い出する気も無いほどの大軍をもって戸田家を攻め滅ぼした。


一方駿河ではなく、尾張へと送られた竹千代はそこで初めて自分と歳近い英気を持った子に出会う。


それは織田信秀の長男にして「うつけ(馬鹿)」と悪評高い吉法師(きちほうし)であった。


吉法師は珍しい物や新しい物、そして何より金銭の価値を正しく見定める金銭感覚を持っており、竹千代が真実に永楽銭一千貫の価値のある男かどうかを見物に来たのだ。


「うぬが三河から来た小僧か?」


吉法師が竹千代に問う。


「小僧ではござりませぬ、私には竹千代という名がございます。」


竹千代は人質のみであるからして卑屈になっていた。


竹千代とて三河の覇者・松平家の嫡子である。


「人に名を尋ねるならばそちらが先に名乗れ」と言ってもおかしくはない身分であったが、なぜかこの男にはそう言う気にはなれなかった。


「であるか、してうぬはその様な所で何をしている?」


吉法師は竹千代の卑屈さを即座に見抜いた、その上で竹千代という人物に興味を持った。


「私は三河で待つ家臣の為にも少しでも多くを学びたいのです。」


吉法師は礼法や仏教の本を読んでいる竹千代に対し飽きれた顔をして


「うぬはその紙束(かみたば)が三河でうぬを待つ臣の為になると、真実思っているのか?」


と竹千代に問いかけた。


竹千代は一切迷わず「はい」と答える。


吉法師はそんな軟禁生活を強いられた卑屈な隠者を気取る竹千代が気に食わず、軟禁先である熱田の加藤順盛(かとうよりもり)の屋敷から竹千代を連れ出した。


当然、屋敷の主たる順盛は吉法師のあまりにも突飛な行動に対して焦り、諫め止めようとするが、かえってその行為がまた吉法師の癇に障り、蹴りつけられ、竹千代を連れ脱走する。


吉法師は竹千代を馬に乗せ、ある日は仲間と狩に連れて行き、ある日は仲間と相撲を取らせ、またある日は仲間たちと川で泳がせ、そうしていく内に竹千代は自然と吉法師の子分の一人となっていたのである。


最初、竹千代は吉法師がどういった身分の人間なのかさっぱりわからなかった。


服装は着の身着のまま、刀の柄には荒縄を撒き、偉そうに色々聞いてきたと思えば、「本では学べぬ事を学べ」と言い自分を連れ出す。


吉法師が織田弾正忠家の跡取りだと知ったのも街中で「うつけ殿」と声をかけられている所を聞いた時であった。


「この方は決してうつけではない。」


竹千代は幼心に吉法師に心惹かれていた。


徳川家康は晩年、己の子供に対し「学問には目学問、耳学問、体学問と云うものがあり、一番大切なのは「体学問」である」と教えている。


この幼き頃の吉法師を筆頭とした尾張の仲間たちとの経験が「学問とは本から学ぶだけのものでは無い」と家康の価値観をがらりと変えたのだろう。


こうした日々は約2年間続いた。


吉法師は事あるごとに竹千代を尾張内の様々な場所へ連れて行った。


「吉法師様はこのような裏道も知っているのですか?」


ある時竹千代は吉法師に問うた。


「うむ、もしこのあたりで戦になればこの裏道を使えるかもしれんだろう?」


吉法師は当たり前のように答えた。


織田信長は軍師という人材を必要としなかった。


一人で戦場を下見し、戦のギリギリまで一人で情報収集をしその上で策を練り、家臣にはただそれぞれの役割を与えるという天才肌であったのだ。


「吉法師殿の戦の仕方は私には到底真似出来るものでは無いな。」


竹千代が心の中で思う。


徳川家康は信長とは真逆の戦方法を行っている。


何事も独断で指示を出さず、常に評定を開き、家臣に意見を出させて意見が出揃った後に自分の考えを纏めるという戦の仕方をしていた人間であった。


この幼き頃の2年は竹千代にとってかけがえのない時間であった。


しかしこの2年間、駿河の今川は何もただ手をこまねいていた訳では無かった。


天文15年(1546年)より尾張の織田信秀への対抗策とし大軍を率いて三河入りしていた太原雪斎が信秀を相手取り戦にて破竹の勢いで勝利を重ねていく。


約一年毎の田植えが終わる時期に行われる戦で信秀は徐々に太原雪斎に追い詰められていった。


余談ではあるが、先にも話したが当時の兵は農民兵が多かったので、春先の田植え、秋の稲刈りの時期の合戦は控えるのが暗黙の了解であった。


他にも長期間の戦になるならば冬の様な凍死者が出る時期の合戦はしないのが戦国のエチケットの様なものであった。


話は戻って天文18年(1549年)、今川家執権の太原雪斎が三河奪還の総仕上げとして三河・安祥(あんじょう)城を攻め落とし、吉法師の庶兄(しょけい)である織田信広(おだのぶひろ)捕縛に成功する。


同年、合戦の中で竹千代の父・松平広忠が家臣・岩松弥八により刺殺されている。


この時広忠を刺した刀が千子村正(せんごむらまさ)であり、下手人の岩松弥八を惨殺したのが、また植村氏明であったのだ。


余談ではあるが千子村正は阿部正豊が松平清康を斬殺した時にも使用された。


植村氏明は織田信秀の思惑通り松平家を弱体化させていった。


都合の良いタイミングで主殺しを持ち掛け、千子村正を渡し主殺しを実行させ、証拠が残らないように下手人を有無も言わさず斬り殺す。


こうして氏明は松平家で信用を得て行った。


また刀に関しては別段千子村正にこだわりがあった訳では無かった。


ただ村正一派の作刀である千子村正は様々な所で打たれていたが、氏明が主に信秀に受け取っていたのが当時、美濃の刀鍛冶がよく打っていた千子村正であったというだけである。


信秀は美濃で打たれた刀を使用する事により、あわよくば疑いの目を美濃に向けさせようという計算もあったのだ。


信広と竹千代の人質交換の談合は念入りに行われた。


吉法師はもうすぐ人質交換で尾張から駿河へ旅立つ竹千代を目の前にすると


「信広兄よりも竹千代の方が使えるのだから信広兄など捨て置けばよいものを」


などと安祥を奪われた兄の不手際をなじるのだが、竹千代はそんな吉法師をたしなめたりもしていた。


「いつか私が三河に戻れたあかつきにはまた私を子分にしていただけるでしょうか?」


竹千代が尋ねる。


「その時にまた腑抜けてなければな。」


吉法師が悪態をつくように答えたが、竹千代にとっては何よりもうれしい答えであった。


「今川家に行っても吉法師様から受けたご恩は終生忘れませぬ。」


竹千代が吉法師に伝える。


「であるか。」


吉法師が答えた。


竹千代と織田信広の人質交換は三河の西野笠寺(にしのかさでら)で滞りなく行われた。


無事に今川家に身柄を移された竹千代は、義元の方針により善得寺(ぜんとくじ)に入り、太原雪斎の手により英才教育を施される。


義元はいよいよ駿河・遠江・三河を手中に収めた事により西上への野望が心の中で渦巻いていった。


そんな三国の太守である今川義元にも、当時は西に織田信秀がいる様に東側に大きな敵が二人居た。


武田晴信(たけだはるのぶ)と北条氏康(ほうじょううじやす)の二人である。


北条氏康は当時、上位優先としては関東制覇を目論んでいたのだが、関東制覇に兵力のすべて注ぐと、背後から今川家や武田家が攻めかかってくる恐れがあった。


また武田信玄は北の国境線を越後と接しており、越後の戦国大名・長尾景虎(ながおかげとら)と川中島(かわなかじま)を舞台に何度も鎬を削り合っていた。


信玄もまた全兵力を北上させれば南から今川家や北条家が攻めてくる恐れがあったので全兵力を越後へ向けることが出来ない状態であったのだ。


そんな互いの利点を説いて甲斐と相模と駿河の三国をまとめたのが安祥で信広を捕らえた太原雪斎であった。


雪斎が甲斐と相模と駿河を婚姻関係による同盟を結ばせ、氏康の娘が義元の息子に、義元の娘が信玄の息子に、信玄の娘が氏康の息子にそれぞれ嫁ぐことにより、三国は同盟を結ぶ。


義元は武田、北条という後顧の脅威が無くなった事により、計画をしていた西上作戦の準備に入る事になる。


弘治(こうじ)元年(1555年)太原雪斎が死没した。


彼の死は今川家にとって予想もつかない痛恨事であった。


今川家は軍事・政治・外交と全てを執権たる太原雪斎が取り仕切っていた為、義元自身も非常に難しい高度な決断は雪斎に相談していた程に雪斎の存在は今川家にとって強大であった。


武田信玄の軍師として名高い山本勘助(やまもとかんすけ)が今川家について次の様に語っていた事があった。


「今川家は、全てにおいて太原崇孚(たいげんそうふ)(雪斎の事)が居なければ成り立たぬ家である。」


義元にとって頼れる存在であったのが太原雪斎と母である寿桂尼の二人であった。


永禄(えいろく)元年(1558年)、雪斎が死去してより3年後、竹千代は元服し松平次郎三郎元信(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)と名乗り今川家の一部将として扱われていた。


因みに松平元信の「元」の字は今川義元の元を諱(いみな)として賜ったものである。


その前年、義元の親類の築山(つきやま)殿と元康は婚姻し、今川家と婚姻関係にあった。


その後、松平清康の「康」の字を引き継いで「元康」と名乗るのである。


永禄3年(1560年)に西上の最初の足掛かりとして今川義元は尾張一国を刈り取る為に三河、遠江、駿河に大号令をかけ、総勢約4万という軍勢で尾張を目指す。


義元は元康を三河に送り、三河勢を先行させ尾張との戦を開始した。


元康は今川家臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)と共に丸根(まるね)砦と鷲津(わしづ)砦を攻めていた。


吉法師改め信長はその兵力差で今川に勝つにはもはや大将を討ち取るのが一番効率的であると判断し、尾張と三河の国境の農民達に義元の本陣を探らせていた。


尾張の農民達は信長に対し、とても好意的であった。


織田家は熱田や津島に対する課税で台所事情はかなり潤っていた為、農民に無駄に重税を課すような真似はしていなかった。


これが支配者が今川家に変われば自分たちがどういう扱いを受けるかわからない農民達は信長への協力を惜しまなかった。


今川軍の先陣が丸根と鷲津に喰い付いた頃、信長の元にも義元の本陣発見の報が舞い込む。


信長は即座にいくさ支度を済ませると自身が好んだ舞った幸若舞(こうわかまい)「敦盛(あつもり)」を舞う。


幸若舞「敦盛」。


敦盛の舞台は源平合戦の一ノ谷の戦いである。


内容は元服したばかりの平氏の若武者・平敦盛(たいらのあつもり)が戦場から退却する際、己が得意とし大事にしていた「漢竹の横笛」を戦場に置き忘れた事に気付き、取りに戻った時に起きた悲劇の物語であった。


源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)は敦盛を遠目に見つけ、その鎧兜からさぞかし名のある武者であろうと一騎打ちを挑む。


笛を取りに来ただけの敦盛は一騎打ちに応じる気など更々無かったのだが、直実は一騎打ちに応じなければ、兵に弓を一斉に射かけると言い、敦盛も一斉に弓を浴びるくらいなら一矢報いようと仕方なく一騎打ちに応じる。


悲しいかな、歴戦の将たる直実と初陣の敦盛では実力の差が明々白々であり敦盛は赤子の手を捻るが如く直実に捕らえられてしまう。


直実は敦盛を間近で見て後悔した。


直実自身この一ノ谷の戦いで16になったばかりの息子を亡くしたばかりであった為、この若き敦盛が討ち死にした自らの息子と重なって見えてきてしまい、頸を討つ気迫を削がれてしまっていたのだ。


そんな直実の様子を味方である源氏の諸将は大いに怪しみ、直実が平氏と繋がっているのではないか?などと噂を立て始める。


直実は致し方無く敦盛の頸を討つ。


直実はその後、敦盛の頸を討った事が呪いの様に頭から離れず、一ノ谷の戦いの論功行賞も芳しくなかった事や、同僚との出世争い、終わりの見えない合戦に嫌気がさし、直実は出家して世を儚むようになる。


簡単にさらりと解説したがこの様な物語である。


信長が特に好んで舞った場面は直実が出家し世を儚む場面の一節にある。


「思(おも)へばこの世(よ)は常(つね)の住(す)み家(か)にあらず。草葉(くさば)に置(お)く白露(しらつゆ)、水(みず)に宿(やど)る月(つき)よりなほあやし。金谷(きんこく)に花(はな)を詠(えい)じ、榮花(えいが)は先立(さきだ)つて無常(むじょう)の風(かぜ)に誘(さそ)はるる。南楼(なんろう)の月(つき)を弄(もてあ)ぶ輩(ともがら)も、月(つき)に先立(さきだ)つて有為(うい)の雲(くも)にかくれり。人間五十年(にんげんごじゅうねん)、下天(げてん)のうちを比(くら)ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり。一度生(ひとたびしょう)を享(う)け、滅(めっ)せぬもののあるべきか。これを菩提(ぼだい)の種(たね)と思(おも)ひ定(さだ)めざらんは、口惜(くちお)しかりき次第(しだい)ぞ。」


という一説を好んで演じた。


人間界の五十年というのはそのまま人生の時間の流れという意味である。


下天(げてん)というのは仏教用語で六欲界の最下層の世界であり、下天の一日は人間界に換算すると五十年になるのだ。


下天の住人の寿命は推定五百歳とされ以上の事から「人の世の五十年は下天の住人からすれば僅か一日にしか当たらない、それこそ夢幻の様なものである」といった意味合いになる。


この一節は天界の最下層である「下天」時間の流れと、人間界の時間の流れのあまりの違いに、人の世の時の流れの儚さを歌った一節であるのだ。


信長はこの敦盛の一節を舞い、立ったまま小姓に具足を付けさせ、具足をつけている間に湯漬けを食い、食い終わると貝を吹かせ僅かな供回りを連れ出陣した。


信長という男はまことにせっかちな性格であった。


「時は金なり」という言葉があるが、彼はそれを地で行っていた。


機をみて敏、即決断、それらの信長の行動は全て「情報」が左右するものであった。


信長は戦国の世における情報の価値とその重要性を正しく評価していた。


信長は僅か数十名の供回りを引き連れ出陣し、後続の部隊を待つように熱田神宮へと戦勝祈願に訪れる。


信長が熱田神宮に訪れた時、織田兵は二千人程度になっていた。


信長はその二千人を引き連れ、今川義元本陣へと奇襲をかける。


今川義元本陣には約五千の兵が警護に当たっていた。


義元の兵は大勢とはいえ、丸根・鷲津砦を攻める松平元康・朝比奈泰朝部隊。


鳴海(なるみ)城を攻める岡部元信(おかべもとのぶ)部隊。


大高(おおたか)城を攻める鵜殿長照(うどのながてる)部隊。


沓掛(くつかけ)砦を攻める浅井正敏(あざいまさとし)・近藤景春(こんどうかげはる)部隊。


そして清洲(きよす)方面に展開する葛山氏元(かつらやまうじもと)部隊、と広く大きく展開していた。


信長はこれらの部隊を尾張の裏道などを使い迂回し、義元の本陣五千を織田家二千の精鋭で攻めたのである。


これが歴史にも残る「桶狭間(おけはざま)の戦い」であった。


この戦で今川義元が織田信長に討たれた事により、元康の人生は大きく変わっていく。


今川家の大軍も義元という総大将を失った事により大混乱している中、元康は父祖伝来の地であるの三河・岡崎城へ凱旋する。


時勢は元康の味方をしていた。


元康が独立した際、一番怒り狂ったのは父を討たれた今川家第12代当主・今川氏真(いまがわうじざね)である。


氏真は父である義元の急死により、今川家臣よりその器を試されていた。


松平元康の反乱に対し、武田、北条に力を借りようと使者を送った氏真であったが、時期が悪かった。


越後の長尾景虎(ながおかげとら)が関東管領(かんとうかんれい)・上杉憲政(うえすぎのりまさ)を奉じて関東に出兵し、その軍勢は小田原城まで食い込んできたのだ。


武田信玄、北条氏康共にこの景虎の関東出兵の対策に追われ今川の内乱に割く事の出来る人材が居なかったのである。


相次ぐ今川家臣の謀反に対し、有効的な手段が取れない氏真は元康に西三河を掌握される。


先手を打って東三河の諸侯に「今川家への忠誠の証として人質を差し出すように」と命令するが、これがかえって東三河の豪族の反感を買い東三河は脆くも崩れ去り元康の傘下に収まっていくのだ。


元康はそんな中、今川義元より賜った「元」の字を返上し「家康」と名乗るようになる。


こうして三河一国を平定した松平家康に対し今川氏康は室町将軍・足利義輝と北条氏康に仲立ちを求め今川家との和睦を計画する。


しかし、家康は幼き頃の約束通り織田家と終生破られる事の無い同盟を結ぶことになるのだ。


その後、三河一向一揆で多くの家臣とも戦ったりするのだが、先にも上げた通り永禄9年に人質の身から押しも押されぬ三河の戦国大名と朝廷から認められ、「徳川」への復姓を許され「徳川家康」と名乗るのだ。


徳川家康は西に織田信長という同盟者を持った事により、東側への侵略を開始する。


すなわち今川家の領土への侵攻である。


今川家に見切りをつけた武田信玄と遠江を分割して治めるという話をつけ、遠江に侵攻。


遠江の曳馬(ひくま)に新たな城を築き「浜松(はままつ)」と改名、浜松城を本拠地とする。


こうして家康は武田や今川と鎬を削っていく内に自然と謀略や戦上手になって行き、今川義元の「街道一の弓取り」という称号を自ら受け継いでいくこととなる。


徳川家康は73歳で死没したと伝えられている。


家康は「大坂夏の陣」の時には既に73歳であったのだが、家康を題材にして小説を書いた先生が家康をこう評した。


晩年まで数多くの戦に参加し、戦場で指揮を執っていたにもかかわらず、戦死をしなかった事は歴史上、古今東西見渡しても滅多に類をみない。


と。


こうして徳川家康は豊臣秀吉の様な2代限りの天下人ではなく、しっかりした基盤や土台を作り江戸に幕府を開き徳川300年とも言われた太平の世を築いたのだが、果たして家康という人物は本当に類稀なる人物だったのであろうか?


家康には様々な謎がある。


私はこれからその徳川家の闇に隠された謎を少しずつ紐解いていくつもりである。


良ければ皆々様には一緒に謎を考察していって欲しい。


闇に咲く「徳川葵」の物語はここから始まるのだ。

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