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「吉崎ぃー。食べるもの、じゃんじゃん持ってきて。この子、育ち盛りだから」
そういって、編集長は僕の背中をばんばんと叩いた。
編集長行きつけのバー『サザンクロス』のカウンター席に、僕たちはいた。
「あの、僕、こう見えて、もうかなりいい歳なんですけど……」
「なーにいってんのよ。もうかなりいい歳の男がボクなんていわないわよ、普通」
「いや、普通にいいますよ。いいますよね」吉崎さん、といいかけた僕の言葉をさえぎって、編集長がいった。
「吉崎ぃー、同じの。この子にも」
カウンター越しに吉崎さんが、編集長にハイボールを、僕にはコロナビールをそれぞれのコースターの上に置いた。
「何かいいことあったの?」吉崎さんは僕に、チリコンカンとコーンブレッドを出しながらいった。
「まあ、ちょっとね」編集長は僕を横目でちらっと見た。「彼の書いた記事が評判よくて、問い合わせがすごいの。その号はあっという間にはけちゃって、追加発行することになった。ホールディングスからは、今後もっと部数を増やそうかって話も出てるみたい」
レモンを瓶の中に押し込みながら僕はいった。「あのインタビューは、村山さんが編集長と知り合いだったから実現したんであって、僕の力では……」
「篠原ちゃんが人を褒めるの珍しいんだから、素直に受け取っておいたほうがいいんじゃない」と吉崎さんが笑った。
「え。そんなことないわよ」
僕と吉崎さんは顔を見合わせた。
「この仕事して三年になりますけど、編集長に褒められたの初めてです」
僕の言葉に、ほら見たことか、といった感じで吉崎さんは肩をすくめた。
「うそ」ハイボールを飲んでいた編集長の手が止まった。
「だいたい、篠原ちゃんは昔っからそういうところがあるのよ。冷たいっていうかさ。まったくのところ」
「そうかな」
「実家、あんまり帰ってないんでしょ」
「いや。そうだけど」
「恵子がいってたよ。おばさんが嘆いてるって」
「まあ、うちはいいのよ。それより、恵子、二人目できたんだって」
「おかげさまで。ちょっと危なかったみたいだったけど」
「お祝い、してないや。おめでとうっていっといて」
「たまには顔見せたら?」
「うん」編集長は空になったグラスをそっと押した。「ロックで」
吉崎さんが新しいグラスに氷を入れながら尋ねた。「それで、どうなのよ。最近そっちのほうは」
「うーん。そういうの、今はちょっといいわ」
「あんたね、そんなこといってるとあっという間に――」
「小清水くん、食べてる?」編集長がいきなり僕に話を振ってきた。
「え。ええ、はい」
「若いんだからさー。吉崎ぃー、この子になんか作ってやって」
「なんか食べる?」吉崎さんが僕に尋ねる。
「はい。いただきます」
数分後、僕の前に、皿が置かれた。
そこにはオムレツが乗っていた。思わず見とれてしまうくらい、完璧な形をしたオムレツだった。オムレツではなくて、omeletteと表記したくなるようなオムレツだった。黄色い表面には、ケチャップでチューリップが描かれていた。
「おおー。いいね」編集長が皿を覗き込む。
「この人ね、昔、プレーンオムレツの存在を知らなかったのよ」
「ちょっと、吉崎ぃ」
「この人の実家がうちの実家の近所で――」
「吉崎、この子小説書いてるんだから、ネタにされちゃうじゃない」
「でも、そのまま書くわけじゃないんでしょ」
「はい。かなり変えちゃいます」僕はスプーンでそっとオムレツをすくいながらいった。「その人が読んでもわからないくらいに」
「まあ、そのまま書いたらノンフィクションだもんね」
「そのまま書いたとしても、いったん作家のフィルターを通して書かれたものは既にノンフィクションとはいえないんですけど」
「ふん。いっちょまえのこといっちゃって」編集長が僕を横目で見た。
「これ、編集長がいったんですよ」
「そうだっけ」
「僕がやるのは、人から聞いた話の中から、核みたいなのを取り出して、そこに別の形や色を加えるような作業なんです」
「だってさ、篠原ちゃん」
編集長は肩をすくめた。
それから話は再び僕たちの仕事のことになって、次に吉崎さんがアメリカにいたころの話、最近観た映画の話と、とりとめもなく、でも心地よく、途切れることなく続いた。
僕たちが店に入ってから急に混みだした店内も、時間とともに客は少しずつ帰っていき静かになっていった。客が僕たちだけになったのは日付が変わってしばらく経ったころだった。
「私と吉崎の妹は同級生で、よくお互いの家を行き来してたのよ」
「ええっ。じゃあ、吉崎さんのほうが年上なんですか」
編集長が微笑みながら、僕を鋭くにらんだ。
「どういう意味かなー」
僕はごくりと口の中のワイルドターキーを飲み込んだ。
「ま、いいけどね」編集長はふいっと吉崎さんのほうを向いた。「この人、もともと童顔だし。それに、あの頃からこの人、変わっててね。他人に自分の作った料理を無理やり食べさせたりして。ある日、私にプレーンオムレツを作ってくれたのよね」
「でも、その頃、篠原ちゃんは玉子が苦手でねぇ。そんなの知らなかったもんだから。あのときはちょっとへこんだわね。まったくのところ」
「ごめんね。そうは見えなかったけどね」
「ま、いいけど。お互い様だし」
「まったくだわ。突然いなくなったと思ったら、アメリカに行っちゃってさ。しかもほとんど家出同然で」
「若かったのよねぇ」
「帰ってきたと思ったら、カミングアウトするし」
「びっくりするわよねー」ひと事のように吉崎さんはいった。
「そりゃ、びっくりするわよ」編集長がうなずいて、グラスを傾け、つぶやいた。「そして、結局約束は果たされないまま、今に至る」
僕の視線を受けて、吉崎さんが口を開く。
「私がアメリカに行く前に――」
編集長が吉崎さんの言葉を手で遮った。
「なんか恥ずかしいから、その話はまた今度」編集長は腕時計を見た。「終電なくなっちゃったなー」
「タクシー呼んであげる。ふたりとも同じ方角だったよね」
「はい」僕は答える。「ありがとうございます」
「トイレ」編集長がスツールを降りる。
「小清水ちゃんも、あんまり無理しないでね」
「はい」
「大変だと思うけど。篠原ちゃんああいうやつだからさ、よろしく頼むわ」
「大丈夫です」
編集長が戻ってきた。
「じゃあ。ごちそうさま。またね、吉崎」
「送りオオカミに気をつけなさい」
編集長が鼻を鳴らす「ふん。私を誰だと思ってるの」
「あんたじゃなくて、小清水ちゃんにいってるのよ」
編集長は英国式に、二本指を立てた手の甲を吉崎さんのほうに向けた。
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