一年の交際期間を経て、彼女は彼と結婚した。

 結婚してしばらくすると、共働きの彼らの間に、いくつかの取り決めが自然にできた。

 平日の夕食は比較的帰宅時間が早い彼女が作り、後片付けは彼が、洗濯は彼女が、風呂掃除は彼が、アイロンがけは彼女が、というように。

 休日の食事は朝昼晩とも彼が作ることになっていたけれど、ふたりで外出することが多かったから、彼が休日に食事を作ることはほとんどなかった。

 その日はたまたま外出する用事もなく、遅い朝食兼昼食を家で食べることになった。

 五月の晴れた土曜日だった。

 彼女が洗濯をしている間、彼はプレーンオムレツとサラダを作り、ベーコンを炒め、トーストを焼き、コーヒーを淹れた。


 オムレツの最後のひと口を食べ終えてから、彼女は彼に尋ねた。

「ねえ。プレーンオムレツの存在を、昔から知ってた?」

 彼はちょっと不思議そうな顔をして、コーヒーを飲み干してから答えた。

「知ってたよ」

「いつから?」

「いつからって……。そんなこと、覚えてないよ」

「子供の頃から知ってた?」

「知ってたけど」

「それが普通なのかな」

「だと思うけど。オムレツ、食べたことなかったの?」

「あるわよ。あるけど、私ね、オムレツっていうのは、具が入っているオムレツしか知らなかったのよ」

「ああ、なるほど」

「初めてプレーンオムレツの存在を知ったのは中学二年のときだった」

「それまで見たことなかったの?」

「なかった。その頃、家の近所に同じクラスの女の子が住んでいて、よく遊びに行ったんだけど、ある日、その子の家に行くと、たまたま彼女は出かけていて、彼女のお兄さんしかいなかったの。その人は私より五歳年上で、いつ行っても家にいて、学校に行ってたり、働いている感じじゃなかったのね」

「ふうん。いいね」

「何がいいのよ」

「いや、別に。それで?」

「妹はもうすぐ帰ってくるから、待ってれば? ってお兄さんがいうから、私、待つことにしたの。お昼はとっくに過ぎてたんだけど、お兄さんはこれから昼ご飯を作るから、待ってる間、いっしょに食べようっていうのよ」

「ふむ」

「私はお昼ご飯を食べていたし、断ろうって思ったんだけど、オムレツを作るっていうのね。その頃私、オムレツが大好きで、といっても、プレーンじゃなくて具の入ってるやつね。プレーンの存在は、まだその頃知らなかったのよ」

「そのお兄さんの作ったのが、プレーンオムレツだったわけだ」

「そう」

「おいしかった?」

「私、食べなかった」

「どうして?」

「玉子が嫌いだったから」

「え? オムレツ、好きだったんだろ?」

「つまりね、玉子だけで作った料理が嫌いなのよ。目玉焼きとか、玉子焼きとか。生卵をごはんにかけて食べるなんて、考えただけでも気分が悪くなった」

「俺、あれけっこう好きなんだけどな」

「玉子って、すごく栄養のあるものでしょ。一日にたくさん食べちゃダメっていうし。卵から生き物が生まれてくるんだから、当然よね。でも、私はそういう栄養のカタマリみたいなものを食べるのが、なんだか気持ち悪かった」

「ふうん。コーヒーおかわりは?」

「いらない。でもね、ほかの食材と一緒に使うと食べられたから、母はよく具がたくさん入ったオムレツを作ってくれたの。それで、いつの間にかオムレツは私の好物になってた」

「ただし、具入りの」

「そう。あのときも、私はてっきり具入りのオムレツが出てくるものだと思ったから、じゃあ食べますっていっちゃったの。他人の家のオムレツなんて食べたことがなかったから、興味もあったし。やっぱり、コーヒーちょうだい」

「ああ。ちょっと待って」

「出てきたオムレツは、私が今まで見たこともないくらいきれいな形をしていて、ケチャップもチューリップの模様になってたりしてね。私、すっごく期待して、さあ食べようと思ってスプーンで中を割ったら、具が入ってない。どこを見ても全然。それでいっぺんに食欲がなくなっちゃって、どうしても食べられなかった」

「はい、ちょっと冷めてるけど」

「いい。ありがと。お兄さんは、オムレツを食べながら、オムレツは料理の基本だとか、自分は料理の勉強をしに外国に行くんだとか、テレビに出てる料理研究家の悪口とか、ひとりでしゃべり続けてたわ。私は、今さらいりませんって、いうわけにもいかなくて、どうやってこの場を切り抜けようかと必死だったけど、お兄さんは、私がオムレツを食べないことを全然気にしてないみたいなの。そういうのって、すごく困るでしょ」

「ああ」

「そのうち、友達が帰ってきて助かったんだけど、彼女、私の前に置かれているオムレツを見て怒るのよ」

「誰に」

「お兄さんに」

「どうして」

「たぶん、彼女はお兄さんのそういうところが恥ずかしかったんじゃないかな。もしかしたら彼はいろんな人に、そうやって自分の作った料理を、無理やり食べさせてたのかもしれない。よくわからないけどね」

「それからどうなったの」

「別に。私たちは彼女の部屋に行って、お兄さんはずっと居間でテレビを見てたわ。でも、私が帰るとき、私が座っていたキッチンのテーブルには、お皿がそのままの状態で置いてあって、私のオムレツがなくなってたの。ヘンでしょ」

「捨てちゃったんだろ」

「私はね、お兄さんが食べたんだと思うの」

「そうかな」

「絶対にそうだと思う。私たちがいなくなったあと、彼はひとりで私のオムレツを食べたのよ。私、しばらくの間、冷めてぐちゃぐちゃになってしまったオムレツを、彼がひとりで食べてる姿が頭から離れなかった。ダイニングキッチンのテーブルで。ひとりぼっちで」

「どうしたの」

「ごめん、ティッシュ」

「今年はしつこいね、花粉」

「ああ、うん。そうね。そのお兄さん、ちょっと変わってて——」

「あのさ」

「ん?」

「つまり君は、プレーンオムレツが嫌いなわけだ」

「今は、そうじゃないわよ」

「いいんだよ、別に。無理しなくてもさ。そういうことは正直にいってくれたほうがいいよ」

「だってほら、全部食べたじゃない」

「でも、今の話から明確にわかることは、君はプレーンオムレツが嫌いだったということだけじゃないか」

 彼女は、もう一度さっきの話をはじめから思い返してみた。

 確かに、彼女の話から明確にわかることは、自分がプレーンオムレツが嫌いだったということだけだった。

 彼女は、そういうことをいいたかったわけではないといいかけたけど、では本当は何がいいたかったのか、うまく説明できるとは思えなかったから、ただこういった。

「本当に、今は嫌いじゃないのよ」

「おいしかった?」

「おいしかったわ」

「じゃあ、また作るよ」

「もちろん、いいわよ」

 彼はタブレットで朝刊の記事をチェックし始めた。

 彼女はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、食器を流し台まで運び、水道の蛇口をひねった。

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