第7話

私は日本に一時帰国することになった。エール・フランス機は関西国際空港に着陸した。この空港は翼を広げた流線型の形をした、人工の島に浮かぶ海上空港だ。建築家の父は幼い私を連れ、ここが出来る前の現場に何度も足を運んだ。


ここは海の上にあり、地盤が軟弱なため、大型のジャンボジェット機の離発着に耐えることのできる滑走路を作るための大規模な地盤改良が必要だった。

長い杭を海中深く打ち込んで、地層に含まれる水を抜いていく作業や、以前は潜水士がひとつひとつ手作業で行っていたという、基礎に捨石を並べる護岸工事、ノアの箱舟クラスの大型船が日に何度も土取場に向かい、土を運ぶ埋立工事など、気の遠くなるような地道な作業を数年がかりで行う。そしてターミナル・ビルの建設。

私の少年時代は、この空港建設とともにあったといっても過言ではなく、まっすぐ伸びる滑走路のように、私の進むべき道は自然と決まっていったのだ。


神戸港に停泊中のクイーン・エリザベスⅡ世号の尖塔が見える。七つの海を何度も制覇した優雅な白鳥は、港でゆったりと羽を休めている。街中ではいたるところで音楽や、大道芸人のパフォーマンスを見ることが出来る。賑やかな通りを抜けて、生田神社のすぐそばのなじみの店に入った。店の扉を開ける前から、ステーキを焼くにおいが漂ってきて、私はようやく人心地ついた気分になった。私たち家族のために、すでに肉を焼く準備がなされていた。真っ白いコック帽を被った店主と家族が笑顔で出迎えてくれた。


突然、電話が鳴った。パリにいる画家からだった。私がフランスを飛び立った翌日、市民による大規模なデモがあり、けが人が相当数出ているようだった。

政府の失業政策に不満を持つ若者たちが、雇用の改善を訴えようと一斉ほう起したらしい。興奮状態に陥った彼らは、自らを革命戦士と呼び、警察や治安部隊に威嚇するものも現れた。時間を追うごとにデモ隊は膨らんで、最終的には10万人を越える見通しとなっていた。私は嫌な予感がしていた。そして予感は現実のものとなっていた。


「アン・ド・マルーは、マリー・バルドー伍長とともに、治安維持部隊のメンバーに加わり、警備の任務にあたっていたのだが……」

画家の歯切れが悪い。

治安維持部隊のクロエ通信長から 「バスティーユ広場で暴動が起きている模様」との無線連絡が入る。デモ隊の一部が暴徒化しているようだった。彼らは、石や火炎瓶などを治安部隊に対し使い、威嚇し始めていた。


「男性隊員と女性隊員、それぞれが負傷している。けがをした隊員の名前は分かっていない」

画家はいった。

私は今、瞬時に時間の壁をすり抜けて、バスティーユ広場に駆けつけたかった。


私が落ち着かない様子でいるのを見た母は「パリで何かあったの?」と不安そうに聞いた。ついさっき日本へ帰って来たばかりなのに、気がつくとパリのことばかりを考えている。パリだけではない。アンのことが、気がかりでならないのだ。


「命を助けてくれた、フランス共和国護衛隊隊員のアン・ド・マルーさんが、大ケガをしているかも知れないんだ」


横に座っていた祖母も心配そうな表情で、私の顔を覗き込む。

父は「どうするつもりだ」と私に聞いた。

妹はやりとりをじっと聞いている。

(出来ることなら―――)


しかし、私はアラン・ド・ブリエ将校の言葉を思い出した。


―――彼女は隊員として当たり前のことをしたまでだ


将校の言うように、アンは治安維持部隊隊員としても、常日頃から実践さながらの訓練を行っている。私の個人的センチメンタルな感情など何の役に立つというのだろう。彼女の気持ちを考えたら、弱った自分の姿だけは誰にも見られたくはないはずだ。私は首を横に振った。父は(いいのか、本当に?)と言いたそうな目で見たが、それ以上何も言わなかった。

     

「テツロウ、まだ起きているか?」

父の声だ。


「ああ、起きてるよ」


父は私がフランスで買ってきたワイン、ヴァン・ジョーヌを持って部屋に入って来た。ヴァン・ジョーヌは、その独特な製法で幻のワインと言われている。白ワインより、黄みが濃いのが特徴だ。芳しい香りが部屋中に放たれた。


「来週、パリに帰ることにしたよ」

私はそう父に告げた。父は無言だった。


「なぜ、パリに惹かれるのかよく分からない」


「―――ふむ」


「感受性や魂という、触れてほしくないものに対して、じわじわと侵食してくるんだ」


「―――なるほど」


「でも、無関心ではいられない」


「―――?」


「考えないようにと思っても、つい考えてしまう……」


「……お前、まるで誰かに恋をしているみたいないい方だな。顔が赤いぞ」

父は笑った。


ワインで火照っているのか、図星を指されて赤くなったのか。私が真剣になればなるほど、いつも話がややこしくなる。


「実は父さんに前から聞きたかったんだけど、日本人であることを強く意識したことはあった?」


「そりゃあ、数え切れない。気質、言葉、文化が違えばね。だけど、違うからこそ面白いんじゃないか。建築なんか、そのいい例だと思う」


父は持って来た図面を指差しながら、「アルドゥアン邸は、近代建築と、侘び寂びを取り入れたダイナミズム建築だ。設計の段階から本当に建つのか、皆、半信半疑だった。気候風土や材料、現場の人間の力量すべてが日本とは違っていたんだからな。西洋のモダニズム建築に、日本産の檜を使うなんて馬鹿げている、とまでいわれたんだ」といった。

こうして苦労して建てた家が、世界的な賞を受賞することになるなど父は夢にも思わなかったに違いない。


「だからこそ、真実からは、決して目は逸らすなよ」


「――真実?」


「――まず彼らフランス人は何かことが起こった時に、わたしたちに『真実とは何か』という判断を迫る。ただ、何となく、という弁明は許されない。そこに至る思考の過程を彼らは見ている」

父は言った。


「――思考の過程を?」


「例えば、今回のデモ隊との衝突事件を考えたとき、自分の身を守るために、武器を持って闘うことは良いことなのか、悪いことなのか。お前ならどう考える?」


「武器を使って自分の身を守ることは絶対に必要だと思う」


「父さんも、時と場合によっては、武器を使うことは必要だと考える。しかし、アンさんは、むやみやたらに武器を持つことはしないだろう」


「――どういうこと?」


「彼女は貴族の出だからだ。騎士道というものを重んじている」


「――騎士道?」


「武器――騎士道では『剣』のことだが、やみくもに剣は使ってはならない。正義と善を守るためのみに使うことが許される。それは相手の行為によって、神の似姿である人間の尊厳が傷つけられる場合にのみ、だ」


騎士道、神の似姿……

聞き慣れない言葉に戸惑う私に、父はなおも続けた。


「勇気、正直、高潔さ、忠誠心、寛大さ、信念、礼儀正しさ、親切心、崇高な行い、統率力……これは、騎士道の十戒だ」


本来守られるべき女性の立場なのに、神の似姿をした人間の正義と善を守るために

アンは闘っている。

アラン・ド・ブリエ将校が言った、

―――彼女は隊員として、当たり前のことをしたまでだ、という言葉の意味が、ようやく分かったような気がした。


「日本にも『武士道』というものがあるが、これは似て非なるもので、もともとの本質が違う」

父はいった。


「本質?」


「騎士が忠義忠誠を誓うのは、神の御前においてだ。彼らは、『神』が良しとしたものはどんなことがあっても守る。いっぽう武士は、主君に忠誠を誓う。彼らは、『主君』が良しとしたものはどんなことがあっても守る――神に忠誠を誓うか、人に忠誠を誓うか。の違いだろうな」


「神のために……」


「まあ、日本人にはなかなか理解できないことだろうな」


父は最後のヴァン・ジョーヌを僕に注いでくれ、あまり考え込むなよ、と言い部屋を出て行った。


この事件から三年後、アン・ド・マルーはマリー・ド・バルドーとともに銃撃事件の被害者を救護中に被弾を受けて、25年の短い生涯を終えることになる。


夕日が沈む間際だった。私はパリの聖なる心臓と呼ばれるサクレ・クール寺院のあるモンマルトルを目指した。なだらかな石畳の小路は、右に左にゆっくりとカーブを描く。小路の脇の街路樹には、丘のてっぺんまでマロニエが植えられている。それが、キリスト受難の糸杉ではないところがいかにもパリらしい。最後の階段を登りきったと同時に、夕刻を告げる鐘が鳴らされた。唯一ここがパリ市内が一望できる場所だ。 


丘の上から見えるパリの景色は、視界の大半が夕映えの空だった。現在でもその美しい景観を守ることを考え、すべての建築物には厳しい建築規制が設けられている。パリ市内のおもな建物は、地面に平伏するようにして低い。これはいわゆる百年以上前に行われた都市開発がいま現在でも続いているという証跡だ。人々の絆や地域性を失ったといわれるパリ改造だったが、いっぽうで、生活環境や都市衛生を改善させ、治安の回復に貢献した。当時の県知事ジョルジュ・オスマンには心から敬意を表したいと思う。

西の空には夕星ゆうづつがきらめく。


(例の少年のことを考えているのね)

明瞭な声がどこからか聞こえてきた。アン・ド・マルーの声だ。


「君か。なぜそうだと分かる?」


(だって、あなたがここに来るときは、何かに迷ったり、腑に落ちないことがあるときだもの)

彼女の声は私の耳ではなく、心の奥深くに届けられ、私の切実な想いは、感覚を通して彼女の心へと運ばれてゆく。


「私が少年に対して、ある種特別な思いを持っているといったら、君はどう思う?」


(別に。また始まった、と思うだけよ。あなたは『はじめに行いありき』の人だから、私が何をいっても無駄じゃない?)


「なるほど……ありがとう。君のその言葉のおかげでようやく決心がついたよ」

冬の夕暮れがパリの街を包む。

私はモンマルトルの丘に眠るアン・ド・マルーに別れを告げ、その地をあとにした。


安宿に戻り、私は疲れからすぐにベッドに横になった。隣の部屋からは、2017年万歳!と新しい年を祝う賑やかなグループの声が聞こえてくる。パソコンのメーラーには、さまざまなグリーティング・カードが届いていた。私はそのカードひとつひとつに目を通した。そして自然と目はインターネット・ニュースの画面に飛ぶ。


―――健人・ブリオンがバレエの殿堂、ドンセナ・ホールのニューイヤー公演に特別出演!あのラヴェル作曲の『ボレロ』を踊る!


それを見た私は何かに取りつかれたように、チケットの転売サイトにアクセスし、一千ユーロという高額な指定席券を手に入れた。


ボレロという踊りは、構成がシンプルなぶん人生の経験値、深みが即、舞台上で現される踊りだ。


ドンセナ・ホールのこけら落とし公演の舞台でみせたダンサー、アンドレ・コルトーの踊りに思いをはせる。

コルトーは、人間の悲しみや苦しみ、憎しみ、苛立ちといった感情はもとより、不安、困惑、失望などの普段は表面化しきれない心の動きをみごとに体現した。

古典バレエにはない要素で構成された踊りを目の前で観た私たちは、バレエの新しい時代が到来したことを確信したのだった。

先に行く者が偉大であればあるほど、後に続く者は相当な努力、そしてたぐいまれな才能が要求される。


少年はこのニューイヤー公演で、鑑賞眼の高い客からの、嘲笑や侮蔑の洗礼を嫌というほど浴びることはあらかた予想がつく。その屈辱から立ち直れずにバレエ界を去ってゆく者が数多いことも事実なのだ。

彼のバレエ人生は今日を限りに終るかも知れない。だとしたら舞台とはひどく残酷なものだ。

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