第4話

フランスは共和制から、帝政期そして王政復古とめまぐるしく政治が変わった。イギリスに始まった工業化はヨーロッパ全土、そしてここフランスにも押し寄せた。貴族中心だった社会が市民階級へと移行する。


フランス革命後に定義された「自由・平等・友愛」のスローガンそのままの人権意識を持つここは、知識階層の多く住む街、いわゆる理性によって成り立つ街なのだ.

私がセレーヌに抱いたいっときの情動はこんな理由からあっけなく排斥されるに至る。


私を含め留学生たちにとっては、どうにも気の休まらない隙のない生活で、衣食住や人間関係に次第に疲れてドロップアウトする学生が増えるのもこの時期からなのだ。私の場合は「存在と時間」のオーナー、ガドにかなり助けられていた。彼の酷薄で下品な言葉。目の前にいたら殴りたくなるような皮肉や当てこすり。彼の表と裏がない性格のおかげで留学生特有のメランコリーな気分は一蹴させられていた。


大学の授業が終わると一目散に自転車を走らせ、セーヌ河にかかる橋を渡りバイト先に向かう。すでにその頃は頬にあたる風は冷たく、足早で家路に帰る人たちが地下鉄の駅に急ぐ。街角のカフェはそんな人たちを招くように、次々とあかりを灯し出す。それとは反対方向にペダルを漕いでゆくと、「存在と時間」はある。しかし、なぜか店の様子がおかしい。見慣れない警察車両が数台止まっている。私は店の壁に自転車を立てかけ、野次馬の間を抜けて恐る恐る店に入った。白い布が掛けられ横たわっている人らしき姿は、マネキンの人形かと思えるくらい細く華奢だった。数人の警察官がガドの二番目の愛人のシモーヌを取り囲んで事情を聞いている。 


「亡くなっていたのはセレーヌ・ダル。君の知人の女性なんだね?」耳を疑った。第一発見者のシモーヌは、椅子に腰掛け両手で顔を覆い、時折、首を横に振ったり、縦に振ったりしていた。セレーヌが口から血を流し横たわっている状況が脳裏でフラッシュバックするのだろう、時々悲鳴に似た声を上げる。婦人警察官はシモーヌの背中を優しくなでてやり、そのつど水を飲ませた。室内はほとんど、というよりまったく荒らされた形跡はなく、遺留品と呼ばれるものも残っていないため、警察官は難しい顔をした。


私は店の台所にあったウイスキーをストレートで飲んで、気持ちを落ち着けた。今だ現実感が感じられないのに、目の前の事実が現実以上のリアリティーで迫ってきた。


シモーヌは、毎日ティータイムが終わった午後3時半すぎに隣町にあるカフェを抜け出して、店の掃除をしに来る。フロアーに横たわる彼女を発見したのは、店の鍵を開けて、暗闇に目が慣れた直後だった。警察官はガドの行方を、私やシモーヌたちが知っているのではないのかと疑い、威圧的な口調で彼が今どこにいるのかを教えるように言った。ガドの口癖は『俺のプライバシーは探るな』だったから、皆、彼がどこに住んでいるのかすら分からないと答えるのがやっとだった。

彼の携帯電話の電源は切られていた。その時の私の頭の中では、意味がある、ないに関わらず、幾つかの点があちこちに散らばっており、外界の状況とこの点を繋げていく作業は大変なことと思われた。事実、「存在と時間」には盗聴器が仕掛けられていたのだ。


ガドには、愛人ラマンが三人もいた。女性をモノのように扱い、愛欲だけの対象としか女性を見ることの出来ないであろう彼を、不人情で節操のない男だと一時期、強く軽蔑していた。しかしある時彼が、「当代きっての劇作家にして我がイギリスにおける良心、こんなシェークスピアの言葉を知っているか?」と言い出したことがあった。善と悪についてだった。


”用法そのとうを得ざれば、善が悪となり、悪も時と場合に応じて善となりうる”


要するに、道理すじが通っていたら悪に見えても善である。むしろ筋の通らない善は性質たちが悪く、偽善と言って、俺が一番忌み嫌うものだ。俺を慕ってくる女は絶対に不幸にはしない。と彼は言った。ロジックとしては私の理解を越えていたが、彼の言明は分からないでもなかった。愛人たちは、親の愛、友愛、そして恋人の愛などの、いわゆる、生きるために必要な人情愛を知らない。だからこそ彼女たちは、全てをありのままに愛してくれるガドを慕った。ガドが女たちに与えているのは、肉欲エロスではない、霊的アガペな愛。イエス・キリストが説いた隣人愛そのものだった。


彼が殺人を犯していないと立証する手がかりは今のところない。しかし殺人を犯したという証拠もない。だとすれば、ガドの言葉をとりあえず信じるしかない。私は事件が起きて10年の間、自分にそう言い聞かせてきた。 

殲滅したい記憶は、時効という法の免罪により、あと数時間ほどで消える。セレーヌが誰かの手によって殺され、殺した相手がガドかも知れないという、堅く重たいくびきから、私はようやく解放されるのだ。


パリのセーヌ河一帯はその文化的、歴史的価値の高さが認められ、今では世界遺産にも指定されている。河の脇一列には、ブキニストと呼ばれる古本などを扱うスタンド小屋が立ち並ぶ。ここの営業が始まったのは、グーテンベルクの活版印刷が普及し始めた400年前の16世紀頃であり、長い歴史がある。

私が大学生の時に、高名な哲学者の希覯本きこうぼんが売られているとの噂を耳にして、足しげく通ったことがある。(結局、本は手に入らず、その噂は嘘か本当か分からずじまいだった)大晦日の今日は、その扉は固く閉じられたままだった。一瞬あたりがざわめいた。


「ねえ、あそこにいるのは、バレエ・ダンサーの健人ケント・ブリオンじゃない?」


女性たちはブキニストとは反対にカメラを向けた。その方向には空港で出会った、あのバレエ・ダンサーの少年がいた。彼は一人でベンチにもたれ、モミの木の上で駆け回る栗鼠リスたちの様子を飽かずに眺めている。男の子が氷柱つららに触ろうとするが触れずにいるのを見て、男の子を抱き上げる。


ギリシャ神話のエンデュミオンのような彫像的な美しさと躍動感。その一挙手一投足は、月の女神がエンデュミオンをひと目見て好きになったように、女性たちの目を釘付けにした。しかしその甘美な舞台の見物はここまでだった。自分にレンズを向けられているのを知った少年は無意識下での抵抗を行った。女性の持つカメラを掴むと同時に、セーヌ河の流れにそれを投げ去ったのだ。


「何をするの!」女性は叫んだ。

私は急遽、想像もしなかった少年のふるまいに驚きながらも、彼に加勢することになった。


「ご存知ですか?『何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する』という肖像権のことを。あなたは彼にまず写真を撮っても良いかの許可を得なければならなかったのです。それをしないで無断で写真を撮り、それが彼の名誉を傷つける場合、損害賠償金を払うことになります。彼は有名タレントのようですから、一般的に100万円以上の罰金は難くない。むしろカメラ一台で済んで良かったと思ったほうがいいですよ?」

私はやり手弁護士のようないい方でいった。女性は適当に提示した償金金額を聞くとあっさり諦め、その場を立ち去った。私はやれやれというふうに少年を見たが、彼は、またあなたですか?と吐き捨てるようにいう。


「そんないい方はないんじゃないか?」


「助けてくれと頼んだ覚えはありません」

少年はいった。


「別に君を助けようとしたわけじゃない」

私は母親の腕の中で泣いている男の子を見て、


「君はあの子のよき遊び相手だった。こんなつまらないことで、あの子の気持ちを傷つけてはいけないと思ったからさ。優しいお兄さんが自分の目の前で警察に捕まるところなんて見たくないはずだからね」

私はいった。

 

「ずいぶんな気の回しようですね」

少年は皮肉を込めていった。


「自分でも、かなりお節介だとは思うよ」

私は笑っていった。 


「お節介を通り越して、鬱陶しいですね」


「鬱陶しい…か」


「よほど侮辱には慣れていると見えますね」

軽蔑が現れていた。 


「慣れっこさ。設計の仕事をしていると、能無し呼ばわりは茶飯事だからね。一年以上、時間をかけたアイディアが一瞬のうちにボツにされることもしばしばだ。責任はすべて自分に返ってくる。嘲笑と侮蔑つきでね」


「呆れてものもいえない」

彼は蛇蝎だかつを見るような目でいった。


「さあ、私の話はここまでにしよう。君はなぜそれほどまでして私を嫌う?理系らしいから喩えていうが、漸近線という、限りなく近づくが、決して交わらない線のことは知っているだろう?」

それが何か?というような顔をしている。私は続けていった。


「君と私をめぐるやり取りは、まさにこの漸近線だと思わないか?こちらから近づいてはゆくが、君は私には、いや、あの男の子以外、他の誰にも心を開こうとはしない」


さきほどまで舞っていた粉雪はいつしか止んで、空は夕日に照り映えている。


「だったらどうだというんです?」

少年は氷のように、ひややかにいった。


「いや、そんなふうに他人に対してかたくなで、寂しくはないのかなって思うよ」


「やめてください。解析学をそんなセンチメンタルな感情に変えてしまうなど、ばかばかしすぎるにもほどがある。では僕たちの関係をもっと的確ないい方でいいましょう。他人の世界に土足で侵入するあなたは、地球を征服に来たエイリアンで、僕にとっては敵だ」


「私はエイリアンで敵か」

頭をかいた。


「もう、いいでしょう?ではこれで」

そういったあと、少年は何かに促されるようにして、大通りの方に足早に歩いていってしまった。

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