星明かりの昼と黎明の夜


 リリは目覚めたものの、新開港記念劇場の裏で気を失ってしまったカイエンと、腹を刺された怪我人のイリヤは目を覚まさないまま、ハウヤ帝国第十九代皇帝オドザヤ二年の、一月一日は終わってしまった。

 翌、一月二日の朝が明けると、それまで、大公襲撃および、大公軍団軍団長刺殺未遂事件の捜査に当たっていた、治安維持部隊から、双子の隊長マリオとヘススのうち、弟のヘススの方が、大公宮へ上がってきた。兄のマリオの方は引き続き、現場周辺の捜査の統括と、犯人の尋問に当たっているのだという。

「……軍団長の容体は、先ほど、もううかがいました。どうやら命は拾ったものの、まだ、意識が戻らないとのことでしたね」

 大公宮へ入るとすぐ、さすがにヘススもイリヤの容態を聞いた。

 現場に残っていた隊員達からは、「現場でもう死んでいた」、「大変な出血量で、もう意識がなかった」という絶望的な状況説明しか得られなかったので、ヘススは最悪の状況も頭に入れて、大公宮へ上がってきたのだろう。

 大公宮からも、事件の詳細がわからない今、イリヤの生死についてはあえて現場に伝えていなかったからだ。

「犯人は治安維持部隊の、あの場所の所轄の署の署員だったと聞いておりました。軍団長のご指示で、身柄は襲撃直後に確保。その際、本来は同僚であるべき所轄署の署員と面通しをさせたところ、驚愕の事実が判明いたしました」

 ヘススが大公宮へ上がって来る段階では、現場では、イリヤの生死は不明であったのだが、それでもヘススは一応、手順を踏むために大公宮へ顔を見せたのである。

 だが、この時ばかりはその場に居合わせた皆は、当惑の色を隠せなかった。

 何しろ、ヘススが報告すべき相手の大公軍団軍団長も、その上の大公も、二人揃って意識のない状態だったからである。

 この状況では、すべての判断は治安維持部隊長である、マリオとヘススが下すしかない。

 それでも、ヘススはイリヤの意識が戻った場合に備え、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサと、帝都防衛部隊長のヴェイロン、それに、この大公宮を管理している執事のアキノ相手に、今までの捜査の報告をしたのである。

 まだ冬の陽がやっと昇ったという時刻であったが、マテオ・ソーサもヴァイロンも、そしてもちろん、アキノも一睡もせずに、カイエンとイリヤが寝ている部屋のそばに控えていた。

 プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身の外科医と、カイエンとリリの主治医である奥医師はまだ、眠り続ける二人の部屋に残っている。交代で仮眠を取っていたようだが、彼らも、少なくともカイエンの意識が戻らぬことには、気を緩めることも出来ないだろう。

 さすがに、その、今や絶対安静の怪我人の病室となった、リリの子供部屋の横の部屋で、捜査の話を聞くわけにはいかず、彼ら三人は近くの小部屋で小卓を鼎になって囲んでいた。執事のアキノは壁際に控えている。

「驚愕の事実、と言ったね、と言うことはその殿下を襲撃した、所轄の署員というのは、署員、つまりは治安維持部隊の隊員ではなかった、ということかね?」

 ヘススの最初の報告から、すでに先へと思考を進めて言っていたらしい、教授が聞くと、ヘススは静かに答えた。

「はい。ご存知のように、我々の制服、特に街中を警備している隊員の者には、個人個人に割り振られた、認識番号が襟章と肩章につけられています。調査の結果、取り押さえられた暴漢の着用していた制服は、正規のものでした。まあ、ですから、軍団長も怪しむことなくそばに立たせて報告を聞いていたのでしょう」

「では、犯人は盗んだ制服を着用の上、そこに紛れ込んでいた。それだけではなく、軍団長に……ええと、元々の事件は、新開港記念劇場のこけら落しであった昨日、劇場に再び火をつける、とかいう落とし文があった、というのだったね。……その事件の報告をイリヤ君にしていた、というのかい?」

 ヘススは、通常はいつでもどこでも無表情な顔の、浅黒い額に縦じわを寄せた。

「それなのです。隊員ではなかったのですから、軍団長が話を聞いていて、偽物と気が付かなかったのは、実際にはちょっと……おかしいのです。それにその前に、周りの所轄の署員たちが、仲間にいない顔を不審に思わなければなりません」

 ヴァイロンは黙っていたが、教授はすぐに切り込んだ。

「さっき、君は『所轄の所長に面通しをさせたら、驚愕の事実が判明した』と言ったね。まずはそっちから話してもらおうか。その方が、話が早そうだ」

 ヘススはちょっとだけ、目を見張ったが、すぐに先ほどの続きを話し始める。

「署長いわく、その犯人は、自分の部下のミゲル某というのとそっくりだ、と言うのです。ですが……」

「実は、ミゲル某ではなかった? 驚愕の事実というからには、そうだったのだろうね?」

 教授は、なんだか嬉しそうだ。

「はい。その頃になって、やっと周りの隊員も気が付き始めたのです。犯人の顔が、『作られた顔』であることに。ずいぶん、逮捕から時間がかかっていましたからね。何しろ、襲撃現場でひと暴れしている上、それ以降もまあ、丁寧な扱いを受けたわけではないですから。……なんと、犯人のやつ、巧妙な化粧や、つけ髭やなんかで、ミゲル某に化けていたんです。それが時間の経過とともに崩れてきたといいうわけです。こちらは現在、すべて剥ぎ取って調査中です」

 今度こそ、教授はそのまま、ぬう、と椅子から立ち上がって踊り出しかねない顔つきになった。

 その横では、ヴァイロンが静かに、「ああ」と思い当たったような顔をした。

「……つまり、巧妙な変装をしていた、と言うんだね。ところで、そいつの着ていた制服は本物だったんだろう? じゃあ、本物のミゲル某は……」

 教授がそこまで言うと、ヘススは苦い顔になった。

「はい。軍団長が刺された事件は、今回、犯人、もしくは犯人達のやった二番目以降の凶悪事件、ということになりました」

 ヘススの言い方は、やや遠回しではあったが、その言いたいことは教授にもヴァイロンにも理解できた。

「ミゲル某くんは、犯人または犯人グループによって、殺されていた、ということだね?」

 教授が確認すれば、ヴァイロンも聞いた。

「制服を奪うためだけに? 場所はどこだ」

 いつもは表情を全く変えないヘススなのに、この日はややいつもとは違って見えた。

「ミゲルの自宅です。そもそも、彼が狙われたのは、現場付近の所轄の署員で顔付きにあまり特徴がない……まあ、こちらの影使いのナシオやシモンほどじゃないですが……からと、独り者で、ですが大公軍団の宿舎には住んでおらず、街中で部屋を借りていたからだと思われます。同僚の署員に現場を見させたところ、いつも持っていた革の表紙の手帳も見当たらない、あれは黄色い表紙で目立ったし、いつも持ち歩いていたはずだ、と言うのです。その黄色い手帳は、ミゲルに化けた犯人が、軍団長の前で報告をしていた時に持っていたもので、その手帳が目立ったから、所轄の同僚たちも不審に思わなかったのだそうです」

 ここで、ヘススは一回、口を閉じた。

「それに、どうやらミゲルはずいぶん抵抗したようでしてね。それで、犯人はおそらく顔を見られたのでしょう。見られるとまずい、本当の顔を」

 ああ、と教授はうなずいた。

「なるほど。だが、なんだか妙な犯人像だね。巧妙な変装に本物の制服。目立つ手帳をうまく利用している。なのに、制服を盗むだけのために、ひと一人、殺しているなんて」

 教授の疑問を聞くと、ヘススはもう一つある、と言った。

「それは私も、マリオも同意見です。ですが、そちらは今は検討から外しましょう。もう一つ、犯人が巧妙に現場に入った計略トリックがあったのです」

「へえ、それは?」

「これは、意識が戻ったら軍団長にも確認したいのですが、黄色い手帳を出す前の犯人は、非常にうまく動いていたようなのです。つまり、軍団長には所轄の署員に見せていたわけですが、所轄の署員たちには、軍団長が連れて来た大公宮司令部の隊員のように見せていたようなのです」

 これを聞くと、教授……彼の専門は「戦術学」である……は前よりもっと面白そうな顔つきになった。

「ヘスス君、よくこの短時間でそこまで聞き取って来たねえ。さすがだ。……そこまで上手く動いていたのかい、犯人は。これは、一人の犯行じゃないね。一人だったら、大公殿下かイリヤ君かへの怨恨が考えられるが、もうここまでの話の流れから、その可能性はかなり薄くなっている。これは、裏には剣呑な団体が控えていそうだ」

 この時、教授やヴァイロンの頭に浮かんだのは、「桔梗星団派」や、それに関係する外国勢力のことだっただろう。ヘススもその存在については知らされている。もちろん、前の大公であるアルウィンや、死んだはずのグスマンが生きていることもだ。

 だから、ヘススも教授の言葉から思い描いたものは、同じであったようだ。

「カスティージョ伯爵や、モリーナ侯爵、モンドラゴン子爵関係、それに螺旋帝国やベアトリア、ザイオンが絡んでいる可能性はどうでしょう?」

 ヴァイロンの方は可能性を潰していると、明らかに分かる声音で教授に聞いた。教授はすぐに自分の意見を言った。

「そうだねえ。まあ、この事件の大元からして、目標が大公殿下だったのか、軍団長だったのか、まだわからないのだからね。確実な判断にはもっと時間がかかるだろう。でも、まず、カスティージョ伯爵や、モンドラゴン子爵じゃなさそうだ。彼らは今、動きたくても動けないだろうからね。下手に動けば今度こそ、地位も称号も失いかねない。……ヘスス君、犯人はこのことについて何か、吐いたかい?」

 ヘススは首を振った。

「拷問にかけておりますが、黙秘を続けております」

「そうだろうね。大公殿下を狙って、それを庇ったイリヤ君が刺されたのか。だが、大公殿下があの場に行かれたのは予定外のことだ。まさか、大公殿下とリリ様が見た夢まで、連中の細工じゃないだろう。そうなると、犯人の狙っていたのは軍団長ということになるね。命でも狙っていない限り、人を殺してまで制服を奪ったりはしないだろうから、殺す気だったことも間違いないだろう。……ナイフだってどこかに隠し持っていたんだろう?」

 これには、ヴァイロンもヘススもうなずいた。

「目撃した署員の話では、袖の中に隠し持っていたそうです。そこから滑りだすようにナイフが出て、それを掴むなり、体を倒して突っ込むように、大公殿下の方へ向かっていった、と言っていました。大公殿下との間には軍団長を挟んでいるきりで、その軍団長が、大公殿下の来た方向へ目を向けたすきに襲いかかったのだそうです。ですから、さすがの軍団長をもってしても、ナイフを止めることは出来ず、自分の体で受けるしかなかったのでしょう」

 言いながら、ヘススはやや顔をしかめた。彼なりに、話した事実に何か思うところがありそうだった。こんな様子の双子は珍しい。

「ふむ。そうなると、最大のヒントはその、犯人のしてたっていう巧妙な変装の技術ということになるね。そっちの分析が早く出るといいんだが……」


「それなんだけどよぅ」


 そこで、急に部屋の扉が開いたので、ヴァイロンはともかく、教授とヘススは、驚いた顔で部屋の入り口を凝視して固まってしまった。

「……皇子殿下……」

 一人、ヴァイロンだけはさすがの聴力で、扉の外の物音まで聞き取っていたらしい。

 いつから聞き耳を立てていたのか、扉の影から部屋に入って来たのは、エルネストとヘルマンの主従だった。

「前に、あの奇術団、コンチャイテラを見に行った時、カイエンたちは先に帰っちまったが、そこの先生や俺たちは残っただろ」

 奇術団コンチャイテラ。

 それを、カイエンたちが趣味の悪い「お大尽」に化けて、見に行ったのは、去年の九月のことだった。普通なら、突然入ってきて、何ヶ月も前のことを蒸し返すのか、とエルネストの言葉は不思議に思われただろう。

「ああ!」

 だが、そこまで聞くと、教授にはエルネストの言いたいことがわかったらしい。

「ヴァイロン君、君は殿下と一緒に先に帰ったから、見てないんだな。ああ、あれですか! これは皇子殿下がよく覚えていてくださいましたな」

 ヴァイロンも、ヘススも、そして壁際のアキノも、これはその場にいなかったから分からない。

「あれですな、ええと……なんという名前でしたか」

「……百面相シエン・マスカラス、とか呼んでたな。帽子やカツラ、つけ髭だの付け鼻だのと、簡単な化粧道具と衣装なんかを使って、観客に似せた姿や顔を、すごい短時間で作ってみせる芸だ。あれ、かなりそっくりに見えて、びっくりしたじゃねえか」

 エルネストはヘルマンを従えて、ずかずかと部屋に入ってくる。ヘルマンがさっと、許可を得るようにアキノの方を見てから、部屋の隅にあった椅子を持って来て、教授の隣に置くと、エルネストはしゃべりながらそこへかけた。

「ああ! そうそう、百面相シエン・マスカラスでしたな。あれは遠い舞台の上でのことだったが、確かに、あの手の技術をもっと洗練させれば、ごく近くから見ても、夕方の光の中なら誤魔化せたかもしれません」

 ここまで聞くと、もうヘススは立ち上がっていた。

「コンチャイテラはザイオンから来た奇術団。元スライゴ侯爵夫人ではないかとの疑惑のあった、魔女スネーフリンガのこともあります。まだ、治安維持部隊の見張りは付けてございますから、すぐに調べさせます。……確かに、今までこのような変装技術を効果的に使って、このような犯罪を起こす輩には、あまり覚えがございません。そうなりますと、犯人の変装は、今、お聞きしたような芸人の使うものと、共通点なり、なんなりがあるかもしれません。私は犯人の変装を取り除く作業にも、立ち会いましたから、見比べることも可能でしょう」 

 部屋を出て行くヘススの背中へ、エルネストの声がぶつかって落ちた。

「こうなってくると、あの奇術団の掛小屋も、とんだ魑魅魍魎のすみかだぜ。せいぜい気をつけな」

 ヘススは後ろを振り返らなかったが、百面相シエン・マスカラスと事件との間には、とんでもない関係があったことが、じきに判明することになるのである。







 一方。

 イリヤの夢の中では、カイエンとイリヤの「夢から出るためにはどうしたいいのか」的挑戦が続けられていた。

 夢の中では、当然、時間の感覚が違う。

 普通の人間は、太陽がどの位置にあるか、明るいか暗いか、腹が空いたか空かないかなど、色々な「体で感じる感覚」で時間を計っている。

 また、貴重な時計を普通に使っている貴族階級や富裕層では、時計の示す時間が、「生活の中の時間の把握」に決定的な規範を与えているだろう。

 だが。

 夢の中ではそのどちらもが役に立たないのだった。

 カイエンはハウヤ帝国の臣下の第一である大公だから、いつも精巧で繊細な細工の懐中時計を身に付けている。大公軍団軍団長のイリヤもまた、分刻みの仕事に忙殺される毎日だから、グスマンから軍団長の地位を引き継ぐ前から、すでにそのころの彼には高価すぎる買い物ではあったが、懐中時計を所持していた。

 その二人は、リリが海に飛び込んで消えた後、すぐにお互いの時計を出してみたのだが、その指し示す時刻は、あの事件が起こったと思しき、夕刻の時間で止まってしまっていた。

 リリが消えた後、すぐにイリヤは服を着たまま海に飛び込んでみたのだが、リリのように帰ることは出来なかった。夢の中とはいえ、びしょ濡れになっただけで、少し潜って調べてみたところでも、海の中には夜光虫と発光くらげの群が見えただけだった。

「リリちゃんと同じにやっても、帰れないかあ……。それに、夢は夢でも、いつも見てる夢とは、夢が違うんだよねえ。そもそも、三人が一緒の夢に入っていたなんて、ふつーは、ありえないっしぃ」

 舟の上へ這い上がったイリヤぼやいた。彼は、この舟を押して急に海から現れたリリが、着ていた服の裾を絞っていたのを思い出し、自分も絞ってみた。その後のリリの様子だと、服の水気も、長い髪の水気も、すぐに気にした様子ではなくなったのを思い出したのだ。

「あー。でもやっぱり夢だわぁ。絞るそばから乾いていくもん。すごーい。でも、絞らないと乾かないのかな。そのあたりの加減がわからないんだよねぇ。これはリリちゃんがやってたのと同じにしたら、同じ結果だったのに、帰り方となると違うんだもんなー」

 その後、舟の上にいてもしょうがない、という話になり、カイエンとイリヤは舟を浅瀬に引っ張り上げた。

「自分の夢だと、足はもちろん現実と同じなんだけど、確かに、この夢は私の夢じゃ、ないんだなあ」

 生まれてからずっと、それこそ「夢にも見てきた」普通に動く足で、力強く砂浜を踏みつけて、カイエンはうれしそうだ。

 そして、真っ白な砂浜に上がると、カイエンとイリヤは降ってきそうなほど華麗に瞬く星の河の下で、慌ただしく情報の交換をしたのだった。

 カイエンは、リリと自分が同じ夢を、それもイリヤが刺されて殺される夢を見たこと。そして、リリが、

(かーい、たい、へ、ん。だ……よ。かーいの……が、しん……じゃ、うよ。かーい、かーい、に、し……で……でき、な……のよ)

 そして、

(いりや、しぬよ)

 と、しゃべったこと。それで確信してあの新開港記念劇場の裏手へ向かったことを話した。

 イリヤの方は、この夢の中で気が付いてから、リリが来て、白い桔梗の花で空の傷跡を埋め尽くしたら、今見えるような天の川が、見たこともないほどにはっきりと、まさに天空にかかる星の橋のように、明るく輝いて、赤銅色の空を覆い尽くす星空に変わったことを話した。

「私にしか出来ないこと、ってのと、二番目にしゃべってた内容が掴めなかったんだけど、私の中の蟲が、イリヤの中の蟲を助ける、って話だったんだな。やっと、分かった」

 カイエンは自分が現場に駆けつけ、意識を失ってしまった理由がやっと分かった。こうなると、やはりあのナイフを出した隊員が狙っていたのは、自分ではなくてイリヤだった、という事なのだろうか、と思った。

 どっちにしろ、刺されたイリヤが死ぬのを見て、大声で叫んでからの記憶はない。そもそも、あの時、どうしてあんな大声で叫んだのか。その理由さえ、カイエンは自覚しないままだった。

「へえ、それじゃあ、この星明かりの世界が、イリヤの夢の世界なのか……」

 カイエンは不思議そうに、虹色に渦巻く銀河を見上げてため息をついた。

「きれいで、いい夢世界だなあ。うらやましいや。あれ、でもさっき、気が付いたらここにいて、びっくりした、って言ってなかったか?」

 カイエンがそう聞くと、イリヤはよっこらせ、と砂浜に座り込みながら、ふんふんうなずいた。

「だって、こんなとこ来るの、初めてですもん」

 カイエンは反射的に聞いていた。

「ええ? ここへ来るのは初めてなのか? 自分の夢なのに」

 カイエンはリリと出会った、あの、深緑と青黒い何かと、暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような、ドロドロした水のよどむ沼を思い出していた。

 白い睡蓮が沼の淀みの中から這い出るように咲いていた、静寂が支配する、あの場所。

 あそこがカイエンの夢だったのか、リリの夢だったのか、はたまた生まれることのできない運命だった、あの子どものものだったのかは、さっき、イリヤから聞いたことからも判断はできない。強いて言えば、誰かが誰かの夢に入ることによって、三人が共有していた夢なのだろう。

 カイエンはあの気味の悪い夢の世界には、シイナドラドで初めて入ってから、何度か入り込んでいる。

 リリの説明では、彼は入っていたわけではなく、覗いていただけらしいが、エルネストからも同じ世界を見た、と聞いてもいた。

「私とリリは、何度か同じ、不気味な沼のほとりの夢の世界で会った。でも、イリヤはこのきれいな世界に来るのは初めてなんだな?」

 カイエンは足が自由に動くのが珍しく、イリヤのように座り込む気にはならなかったので、その辺りをさくさくと砂を鳴らしながら走り回った。普通に走れるのも、彼女にとっては生まれて初めてのことなのだ。

「リリちゃんは、ここは間違いなく俺の持ってた夢の世界だって言ってたんですけどねぇ。こんなとこ、来たことないです」

(あたしは嘘なんかつかない。だから、ちゃんと聞いておいて。……イリヤの夢の世界は元から、こういう星が落ちて来そうな、星明かりの夜の世界だったんだよ。夜なのに、変な色の太陽が昇っているけどね)

 イリヤはリリの言葉を頭の中で反芻していた。

 それでも、こんな星降る夜に緑の太陽が登る、輝かしくも奇妙な世界が、自分の元から持っていた夢の世界だ、などと信じられるものではなかった。

 そして、リリが、海へ飛び込んで消える前に言い残した言葉。あれは、なんだか意味ありげな響きだったではないか。

(……イリヤは馬鹿だねえ。ずっとずっと、こんなきれいな星明かりの昼と夜を、心の中だけに隠して来たんだねえ)

「隠して来た、ってどういう意味なんでしょうねぇ。覚えてもいないこんな夢の世界を、なんで隠したかなんて、わかるはずないじゃん」

 イリヤは小さい声で呟いたのだが、それは夢の中なので、カイエンにも聞こえてしまったらしい。

「まあ、それは今考えてもしょうがないだろう。それより、どうして、私たちはリリのようにこの夢から出ていけないのか、そっちを考えないか」

 カイエンの提案は、凄まじくもまともだったので、イリヤはすぐに喰いついた。

「そっすねー。さすが殿下、建設的だわ。……さっき、リリちゃんから聞いた蟲関係の話、あの中に答えがあるんじゃないですかねぇ」

「私の中の蟲が、イリヤの夢世界を支えている間に、リリとイリヤとで裂けていた空の傷を、あの白い桔梗で治した、という話だな」

 カイエンは白い砂の上をまだたくさん覆っている、白い桔梗を一本、根元から折り取った。

「夢の中で行われた奇妙に見える行為が、現実世界でも意味を持つ、ということは確かなんだ」

 カイエンは、夢の中でリリが自分の琥珀色の右目をくり抜き、捨ててしまった途端に、あの「生まれることのできない運命の子」が消え、今のリリの左右の目の色が違う姿のリリになったことを思い出した。

「だから、この世界の空の傷跡が癒えたということは、現実でのイリヤの傷も塞がった、ということなんじゃないかな」

 カイエンがこう言うと、イリヤはちょっとぽかんとした顔をした。リリにも説明されていたのだが、その時は「そんなものか」と聞き流してしまっていたらしい。

「えー。それ便利。じゃー現実での俺は見事に生き返った、と言うわけですねぇ? なにそれ、じゃあ、目覚めたらまた過労死寸前の軍団長様の毎日に逆戻りじゃん! いやぁ〜」

 カイエンはイリヤの言葉の後半部分は、無視することにした。変に構うとしつこそうだと思ったのもある。

「確信は無いが、私はリリと予知夢を見ているからな。あの夢はまさに寸分たがわず現実になったわけだし、それなら、この夢世界でのことも現実になると言うことだろう」

 カイエンがそう答えた。

「じゃー、俺の傷は治ったと言うことで。で、リリちゃんはここから消えた。これは、リリちゃんだけが目覚めた、ってことでしょか?」

 カイエンは白い桔梗の花を持っている腕を、星が落ちて来そうな空へ向けてぐいっと、伸ばしてみた。イリヤの話を信じれば、これで「空に手が届く」はずだ。だが、カイエンの腕はただ空に向かって突き出されただけで、空に触れることはできない。

 これは、今、カイエンがしたことには「現実世界に影響するような意味がない」からなのだろうか。

「そもそも、リリが私にくっついて来た理由は? それは聞いたか」

 しばらく考えてから、カイエンがそう聞くと、イリヤはちょっと考えてから首を振った。

「いーえ。多分、それは聞いておりません。ただ、リリちゃんが来なければ、俺はこの夢世界のことも分からなかったし、空の傷、つまりは俺の腹の傷を治す方法も分かりませんでした! 殿下は寝てたし、リリちゃんだけが、ここでの理ことわり? 理屈? を知っていたんですから」

「なるほど。リリはどうしてだか、生まれる前から夢の世界の使い方、というか存在の理由というか、を知っているみたいなんだよな。現実じゃまだ赤ん坊だから、話すこともできないから、聞いてみたこともないが。……じゃあ、今回のことでは、リリはそれを知らない私たちの道案内に来たということか」

 カイエンは、ふんふんと顎を振ると、半分、分かったような気になった。この世界ではそのくらいで丁度いいだろう。

「じゃあ、一人で先に夢から出て行ったリリは、私たちを案内するだけで蟲の力は使っていないということだな」

 カイエンがそう言うと、イリヤはえっというように顔を上げた。

「あ! そう言われてみれば、俺の中の、今まで存在に気付くこともなかった蟲さんは、今回、すごいお働きをしたわけ……になりますか?」

 完全に致命傷だった傷を治したのだとすれば、それはとんでもないエネルヒアがかかったことだろう。

「この夢の世界……つまりはイリヤの命が終わらないよう、現実世界でイリヤの蟲が大活躍する間の、時間稼ぎをしていた、という私の中の蟲も、リリの言う通り『全部の力を出して支えていた』んだとすると、すごい力を出したんだろうな」

 カイエンがそこまで言ったときには、二人とも、どうしてリリは目覚められて、自分たち二人はまだここに残されているのかが、おぼろげに分かって来た。

「あー。現実の俺たちの体と、夢とを繋いでいる蟲さんが二匹とも、ちょーお疲れになっているってことですかぁ」

「どうも、そう考えるしかないようだ。蟲が死んでいたら、もう帰れないだろうから、蟲は生きてはいるんだろう」

 はー。

 カイエンとイリヤは二人一緒にため息をついた。

 それでは、蟲がまた力を取り戻して、宿主を現実へ引き戻す力を得るまでは、帰れない、と言うことだ。

 そこまで気付いたところで、それまで自由に動く足にうきうきしていた、カイエンの気持ちも萎えた。

「時計は止まっているし……ああ、この時計がまた動き出すまでは、ここにいなければならない、と言うことなのかな」

 カイエンはイリヤの隣に、普段は出来ない座り方で、どすんと座り込みながら、これからどうやって時間を潰そうか、と埒もないことを考えていた。



 しばらくはここにいるしかない、と気が付いた途端、カイエンもイリヤも、急速に気まずい気分になった。

 それはそうだ。知り合ってもう六年になるが、二人きりで話したことなどありはしない。その「お話」も仕事の絡んでいないものと言ったら皆無と言っていいだろう。

「あー、えーと。今、こうしてお話していることなんですけどぉ、これ、起きても覚えてるんでしょーかね?」

 やがて、口火を切ったのは、自分の方が九つか十も年上なんだし、部下でもあるし、と非常にまともな思考の流れを通過した、イリヤの方だった。ここでいつものように意地の悪い態度をとっても、今回ばかりは誰も助けてはくれない。気まずさが増大するだけだ。

「そうだな。それは結構、大切なことだな」

 カイエンも、イリヤの努力は感じたので、すかさず話に乗った。

「どうだろうな、今までの夢世界でのことを考えると、覚えている可能性の方が高そうだ」

 カイエンはシイナドラドで、リリたちと会った夢を今でも覚えている。ここが、あれと同じ性格の夢だとすれば、目覚めても夢でのことは大概、覚えていることだろう。

「そうなんだー。そうですよねぇ、あの皇子様だって、覗いただけの夢を覚えてて、殿下に話したってんですもんね。いやー、それじゃ、変な話はできないですねぇ。どうします? 殿下の足、ここではふつーなんだから、ここの探検でもしてみます?」

 カイエンは、「えっ」と、微妙に距離をとって横に座っているイリヤの顔を覗き込んでしまった。夢の中でも、うっとおしいまでの甘ったるい美貌は、現実と同じだ。だが……。

(いつもはあんなに傍若無人で、受け答えも適当なのに! なんだか、今日は気を遣っている……のか?)

 あまりの意外性に、じっと凝視してしまうと、顔を上げたイリヤとガッチリと目が合った。

「ヒィ」

 カイエンは一瞬、息が止まった。

 今更ながらと言うべきか、それとも星降る星明かりの夢世界のキラキラしさのせいか、見慣れたイリヤの顔が破壊力を上げているようだった。

「ヒィって……。それ、さっき俺があそこの空の傷跡に、最初に手ぇ突っ込んじゃった時に言ったのと同じじゃん。ひどーい。俺の顔はあんなぐちゃぐちゃとは違うでしょ? 大公軍団の連中はもう、慣れっこだから誰もありがたがってくれないけどぉー、俺の似顔絵、似顔絵屋で俳優や女優、きれいどころの粋なお姐さんなんかと並んで売られてるんですよぉ〜」

 カイエンは街中の本屋で、通俗小説を大人買いしているが、さすがに似顔絵屋へは入ったことはなかった。だが、そういう店があり、ハーマポスタールのきれいどころや、美男子の姿絵を売っている、ということは知っていた。女中たちが、廊下の隅でなにやらきゃっきゃと言いながら、見せ合っているところを見たこともあった。

 あれか。イリヤのあれも、街中で売られているというのか。

 確かに、そこらの俳優なんかよりずっと売れそうな顔では、ある。顔だけだが。まあ、そう言うなら俳優も女優も、踊り子の似顔絵も、売りはその外見の美しさ、華やかさ、でしかないだろう。

 そこまで考えて、カイエンは待てよ、と思った。

「おい。それ大丈夫なのか? それじゃあ、お前のその顔、帝都の市内で結構、知れ渡っているんじゃないのか」

 カイエンがイリヤの自慢に疑問を呈すると、今度はイリヤの方が、「あっ」と口を押さえた。

「危ないだろう! 人に恨まれることもある仕事なんだ。今度の事件だって、顔が犯人にわれてたんだとしたら……」

 まあ、軍団長のイリヤともなれば、大公軍団の制服を見ただけでも、その身分職務は分かってしまうだろう。それでも、だめ押しがあるのとないのとでは違ってくる。

「今まで、自分で全部、防いできましたもん。今度だって、殿下が乗り込んでこなきゃ、あんな、へなちょこなナイフ、叩き落として全然、平気だったんだもん。殿下こそ、皇帝陛下のご即位の時に、読売りに精密な肖像画が出ちゃってます。そっちの方がよっぽど危ないですっ! あの宰相さん、あの頃ちょっとやり過ぎてましたよねぇ。調子に乗っちゃってさぁ」

 この反論には、カイエンもすぐには言い返す言葉がなかった。特に、宰相サヴォナローラがオドザヤの即位前後に仕掛けていたあれこれは、確かに「やり過ぎ」の部分があったのだ。

 読売りの肖像画もそうだが、あのバルコニーへ出た、オドザヤとカイエンへの、市民の歓呼の叫び。あれなども完全に仕込み過ぎ、と言うべきだった。

「そうだな。今度の事件は、夢が先か現実が先か、いや、夢があって私が駆けつけたのが、良かったのか悪かったのか、微妙なところがあったことは、認める。実際、ナイフを向けられた時は、『夢は罠で、本当に狙われたのは私だったのか』と、一瞬、思った」

 カイエンが素直にそう言うと、今度はイリヤの方が、大人気ない自分が恥ずかしくなったらしい。

「そうですか。そっちの話はまあ、戻ってからにしましょ。なんでこんな話になったんでしたっけ? あ、俺の顔か」

 イリヤは片手で、自分の顔をぺろり、と撫でた。実のところ、この出来過ぎの顔ではあまりいい思い出がない。

「とにかく、ヒィでもヒャーでも、この俺の顔は取り替えられませんから! 普段は別に驚かないで見てるじゃないですか! そうそう、六年前に初めてご挨拶に行った時もぉ、殿下は平気な顔だったじゃん。自慢だけど、あの頃が俺の一番、おキレイな時期だったですよ。……殿下が仕事できるようになっちゃってからは、目の下のクマが消えたことないもんね」

 カイエンは六年前のことを思い出すと、自分でもおかしくなり、ぷっと笑いが口から漏れ出てしまった。

「ああ、あの時か。お前があんまり意地の悪いことばかり、聞いたこともないような意地の悪い言い方で言うものだから、頭に来て立ち上がって出て行こうとしたら……見事に転んじゃって。ふふふ、ふっ、お前はそれまでの意地悪が嘘みたいな顔で慌ててるし、シーヴはすごい顔で睨んでたし、あはははは。あの時は気がつかなかったけど、後になって思い出したら、色々気が付いて、おかしくて……くくく」

 カイエンは砂浜に座ったまま、体を揺らせて笑い始めた。しばらく笑っていたが、自分が言った言葉の中の人名ではっとなった。

「……そう言えば、イリヤが刺された後に、シーヴが来てたな。心配しているだろうなあ。イリヤは死ぬし、私は倒れるし、あの後、どうしただろう」

 カイエンが現実での自分たちがどうなったのか、と想いを馳せると、イリヤも急に心配になったらしい。

「あっ。それじゃあ今頃、俺の体、ヴァイロンの大将やら、変態皇子殿下やらに締め上げられているかも……。殿下が俺を助けようとして、気を失っちゃったってバレちゃってたら……。いや、死にかかった怪我人だから、我慢しててくれて欲しいなぁ。いやー、起きるの怖い!」

 イリヤもカイエンも、現実世界で、アキノや訳知りのプエブロ・デ・ロス・フィエロス出身の外科の医師が皆に謎解きをしたことは知らなかった。まあ、知っていてもイリヤは同じ心配をしただろう。

 カイエンが「イリヤのため」にあの現場へ駆けつけ、そして彼を助けるために意識を失うことになった。それを知ったら、あのカイエンへの執着を隠そうともしていない、ヴァイロンやエルネストはどう思うのか。イリヤには分かっていたが、カイエンにはなにも分かってはいなかった。

 だから、この時のイリヤの心配の理由は、カイエンにはまったく理解できていなかった。

「まさか。本当なら死んでいるような怪我人だぞ。いくらなんでもそんなこと……。あいつらだって、大人の対応が出来るだろう」

 その時のイリヤの気持ちなど理解出来ないカイエンは、手をひらひらと降って、苦笑まじりに否定したが、イリヤはもちろん、納得しなかった。

「あのさぁ」

 急にイリヤの声の調子が変わったので、カイエンはちょっとだけ、びくりとした。

「殿下ってさあ、男の本音ってか、男の側の好きの裏側てぇの、本当に分かってるの?」

 そして、話の方向がいきなり変わったのにも、びっくりした。

「ええ? なんだ、いきなり」

 なんであの話の流れで、いきなりこんな真面目そうな、しかし、非常に微妙な方向へ話が飛んだのか、カイエンはついて行きかねた。

「もういいや。起きたらもう、こんな話、殿下とすることないし。覚えてても、殿下も忘れてね。でも、これから俺が話すこと、意地悪で言うんじゃないから」

 イリヤの方は、カイエンが当惑している間に、なにごとか心の中で決めてしまったらしい。

「お、おお」

 カイエンはイリヤの迫力に押されて、実際に砂の上で座っている尻の位置を遠ざけたほどだった。 

「今度のあの踊り子王子の事だってさ。殿下は、なんだってあんな危ないのを、いきなりお忍びの皇帝陛下に会わせちゃったのか……。殿下以外のみんな、呆れてたでしょ。その理由、本当に分かってる? 皇帝陛下はどうしてあんなのに惚れちゃったか、本当に理解出来てるの。出来てないでしょ?」

 前半はともかく、後半については、すでにオドザヤから直接、聞いていたので、カイエンはやや自信を持ち直した。

(陛下が惹かれたのは、その瞬間なのでしょう。トリスタン王子が『百合の谷の妖精王』から、本来の彼に戻ろうとしていた、その瞬間の笑顔。それに引き込まれておしまいになったのですよ)

 あの時、自分がオドザヤに言った言葉も、ちゃんと覚えていた。

「皇帝陛下から、その、踊り子王子に惹かれた理由については、お聞きした」

 そして、オドザヤとした会話のやり取りを、かいつまんで話したのだが、聞いているイリヤの表情も雰囲気も、話が進めば進むほどに、なにやら怒りを内包したものに変わっていくようだった。

「陛下は、『あの方のことを、もっと知りたい。あの王子が一筋縄ではいかない人物であることは理解している。それでも、あのような踊りを、踊りで見る者の見ている世界を変えてしまうような、あんなことができる、その人となりを、もっと知りたい。今は、ただそれだけだ』だと言っておられた。周囲の者に、何か行き過ぎたことがあったら、止めて欲しいとも言ってある、と」

(だから、大丈夫だと思いたい)

 カイエンは、そう続けようとした。

 だが、続けることはできなかった。

「あーあーあー。そうじゃないんだよね! そんな、キレイゴトでしか考えられないんじゃ、大事な妹ちゃんオドザヤは守れないんだよ!」

 イリヤが輝く海の方を見つめたまま、大きな声を出したからだ。

 カイエンもいつものイリヤの、半分おふざけの雄叫びならば、聴き慣れていたから驚くこともなかっただろう。だが、この時のイリヤの声の感じは、いつもの大声とは完全に違った空気を纏っていた。

「殿下も、ここんとこでずいぶん、大人になったな、って思ってたよ。今度の妹ちゃんのことでも、後からちゃんと気が付いてたみたいに見えてたから、大丈夫かな、と思っちゃってたんだけど」

 そして、カイエンはすごい勢いで腕を掴まれて、引き摺り寄せられた。カイエンは掴まれた手を反射的に振りほどこうとしたが、夢の中であっても強い男の腕は振りほどけなどしなかった。 

「殿下の分かってる、は頭で分かってるだけなんだねぇ。そんなんじゃ、妹ちゃんだけでなく、ヴァイロンも皇子様エルネストも、ほんとにお気の毒、って言うしかないねぇ!」

 この言葉に、カイエンは、声も出なかった。

 ただ、目に映っていたのは、海の向こうにずっと水平線と接したまま動かない、鉄色の太陽と同じ色のイリヤの目に、輝く星空と、自分の顔が映っている、その情景だけだった。

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