元老院大議会の招集

 読売りは大衆の耳であり目であり、そして真実を伝える最善の口でなければなりません。

 そして、時代を映す良き鏡でなくてはならないのです。




  ホアン・ウゴ・アルヴァラード 「事件はめぐり印刷機はまわる」より。







 頼 國仁の自殺と、「青い天空の塔」修道院での虐殺事件から一週間あまり。

 皇帝サウルの葬儀に出席するため、ハウヤ帝国南方の雄、ナポレオン・バンデラス公爵がハーマポスタール入りした。

 ハウヤ帝国最南端に位置するモンテネグロ山脈の向こうに続く領地を持ち、ネグリア大陸との交易をほぼ独占状態にしているバンデラス公爵が、帝都ハーマポスタールへ上ってくるのは、実に二十年振りのことであった。


 ハウヤ帝国の中で、大公領である帝都ハーマポスタール以外で大きな町といえば、西の端の帝都ハーマポスタール近郊の街を除けば、東南北の三公爵の領地の大城のある街ということになる。

 だから、帝国東端では、ベアトリア国境に接したクリストラ公爵領のクリスタレラ。

 自治領スキュラと面した北のフランコ公爵領では、ラ・フランカ。

 そして、南のネグリア大陸と、モンテネグロ山脈を隔てて向かい合う、ハウヤ帝国南方。バンデラス公爵領の中心地ではモンテネグロがそれだ。

 帝国の、西から東までの温暖な気候に恵まれた地域には森林が多く、穀倉地帯が多く存在する。東方のクリストラ公爵領ではその上に、大理石の生産がある。

 一方で、帝国北部のフランコ公爵領は豆類や芋類、林檎などの寒冷地でも収穫できる果物、それにわずかな小麦は採れるものの、農業は貧しい。泥炭や石炭の産出はあるが、自治領スキュラの領内にはかなわない。それでも公爵領としての対面を保って来られたのは、スキュラからハウヤ帝国内や他国へ輸出される泥炭や石炭の通過経路であるためである。 

 そして、乾燥した砂漠地帯も広がる南部では果樹園やオリーブ畑、サトウキビ畑や、茶畑、コーヒー農園が広がっている。穀物の収穫には向かない気候だが、こうした産業のおかげで、バンデラス公爵領は潤っていた。その上に、南のネグリア大陸の国々への交易経路でもあるのである。

 モンテネグロ山脈の向こうは、切り立った地形の先が、パナメリゴ大陸とネグリア大陸との間のラ・ウニオン海に続いている。モンテネグロ山脈にはモンテネグロから峠を越える街道が繋がっていた。

 ラ・ウニオン海に面しては小国が連なっている。それらは元は海賊国家とでもいうべきものだったが、五十年ほど前にラ・ウニオン共和国を名乗って連携していた。その共和国とハウヤ帝国の間で上手く立ち回り、利益を得ているのもまた、バンデラス公爵なのだった。

 つまりは。

 ハウヤ帝国南方の利権の全てを、皇帝の支配を受けつけぬまでに握っているのが、バンデラス公爵なのだった。十数年もの間、帝都ハーマポスタールに登って来ずとも、なんの痛痒も感じずにいられた唯一の公爵。それがバンデラス公爵だった。

 専制政治を敷き、国土を北へ東へと拡張した皇帝サウルも、この帝国の南方への手出しは遂にできずに終わったのである。


 ナポレオン・バンデラス公爵。この年、年齢三十八。彼が二十代の時、父親の死による公爵家継承のためにハーマポスタールを訪れて以来、初めてハーマポスタールのバンデラス公爵邸に入った日は六月の初旬。やや汗ばむような気温になった天気のいい日のことだった。





 その、ナポレオン・バンデラス公爵のハーマポスタール入りの数日前。

 その日、カイエンは休日だった。

 それも、体の不調のために珍しく数日連なった休日をとっていた。


 彼女は頼 國仁の自殺の知らせを聞いて、官学校の研究室を訪れたが、ハーマポスタール郊外の「青い天空の塔」修道院の現場へも、翌日には馬車を飛ばして赴いていた。

 大公軍団長のイリヤをはじめ、治安維持部隊長のマリオとヘススの双子、それに帝都防衛部隊長のヴァイロンも、ここ数日は寝る間のないほどであった。アイリス館での捕物から、アルウィン達の追跡、大公宮の朝餐での一幕まで含めれば、寝る間もない緊張した数日だった。

 屈強な男どもが、不眠不休の仕事を続け、血走った目で仕事をしていた。大公のカイエンは必要最低限の睡眠はとれていたが、それでも無理を重ねていたのだろう。

 去年の年末から、今年の一月の中旬までは療養していたカイエンである。体調は元どおりにはなっていたが、まだ体力の方は完全に元どおりとは行かなかった。大公としての職務に戻ってからも、エルネストとの結婚、サウルの崩御、と気疲れのする事件が、五月まで目白押しだったのだ。

 「青い天空の塔」修道院の陰惨な現場から戻ると、カイエンは久しぶりに咳の発作を起こした。

 子供の頃は喘息と診断されており、アルウィンのいた頃にはたまにアパネカ高原の別荘で過ごすこともあった。それでも、大公を継いだ十五くらいになってからは急激な気温の変化や、よほどの体調不良の時にしか咳の発作は出なくなっていたのだったが。この時は五月の終わりの気温の変化もあったのだろう。

 ヴァイロンはもとより、アキノも乳母のサグラチカも大いに慌てて、カイエンを寝台に押し込んだ。そして、すぐに奥医師が呼ばれた。

「喘鳴はそれほどではございませんが、お咳がひどく、気管支が荒れておられるご様子です。……去年から色々おありでしたし、お話では、お仕事もお忙しかったとのこと。ここ数日で気温が上がりましたしな。ここは、お咳が治るまでは安静に」

 医師にそう言われ、薬を処方されてしまえば、もう寝ているしかなかった。

 幸いに、咳は二日目には軽いものとなり、それほど体力を消耗しないようになっていたが、それでもなんだか喉の奥から胸元まで、気管の中がかさこそと、こそばゆいような感じがして、たまに乾いた咳が出た。

 カイエンは大公宮表の執務室に出ないながらも、奥の書斎で仕事は出来ると主張したのだが、アキノもサグラチカも、それに何よりもヴァイロンが許してはくれなかった。

「殿下は、寝ておられる間にもお咳をなさっておられます。ひゅっと息を引かれた後、お苦しげにしばらく息苦しそうに、お胸を抑えておられる時もございましたね? すぐに呼吸が出来なくてお苦しそうでした。ですから、ここはいま少し、お仕事のことはお忘れになってお休みになるべきです」

 カイエンの寝室に、一緒に生息しているヴァイロンにそう言われれば、言い返せない。夜中に息苦しくてもがいていた時に、介抱してくれたのはヴァイロンなのだ。

「わかったよ。でも、もう皇帝陛下の葬儀まですぐなんだ。そうそう休んでもいられないんだからな」

 カイエンが、心では納得しつつもそう言えば、この頃は言葉遣いこそは丁寧だが、内容としては小言の多い兄のように、つけつけとものを言うようになったヴァイロンも黙ってはいなかった。

「それだからです。……まだ事態のそれほど動いていない、今だからこそ、お休みになっていただかなくてはなりません」

 カイエンがシイナドラドへ行っていた留守の間こそ、カイエンについて行ったガラの住んでいた後宮の部屋で寝起きしていたヴァイロンだったが。昨年十二月にカイエンが帰国すると同時に倒れた後は、元の通り、カイエンの居室に戻っていた。寝室も共にしていたのである。


 寝室を共にすると言っても、昨年末から新年までのカイエンは心身ともにかなりの痛手を被っていた。

 ヴァイロンは当初、夜間の看病を買って出てはみたものの、自分は寝台の横の椅子にでも座って寝ずの番をするつもりでいた。

 帰国と同時に流産という痛手を受けたカイエンに、おのれの欲のままに襲い掛かるような非道は、考えさえしなかった。その点、アキノもサグラチカも、そして心配性の教授ことマテオ・ソーサも、そういう心配はしていなかった。だからこそ、夜間の看病をヴァイロンに任せたのだろう。

 だから。

 あの夜。

(ご、ごめんなさい。……こんな失敗は、もう、これからはしないから。だから、私の側からいなくならないでくれ。お願いだ)

 そう言って泣き崩れたカイエンを、そっと抱きしめた夜から、ヴァイロンはカイエンがシイナドラドへ旅立つ前と同じように、褥を共にしてきたのだった。

 もっとも、カイエンの体の状態から、奥医師が彼ら二人に「そういうこと」を許可したのは、カイエンが大公としての職務に戻った一月の半ばになってからのことだった。だから、それまでヴァイロンは褥の中で、ただただカイエンを優しく腕の中に抱いて寝ていただけだ。

 思えば、ヴァイロンは昨年、八月九日のカイエンのシイナドラドへの出発から、五ヶ月以上も女っ気なしで過ごしてきたわけだった。

 だが、獣人の血を引く彼である。彼にとってカイエンが番の相手である以上、彼女一人が「唯一」であり、彼女の留守中に心迷うことなどあろうはずもなかった。カイエンという人間も、いい加減くそ真面目な人柄だったが、その伴侶もまた生真面目一方の男だったのだ。

 そして。数ヶ月ぶりに彼の腕の中に戻ってきた「唯一」は、傷つき、弱っていた。ヴァイロンはカイエンの方から泣き崩れ、弱いところを見せて来なければ、どうしていいかわからないままだっただろう。 

 だから、彼ら二人が、再び結ばれたのは、皇帝サウルの最後の誕生日が祝われた直前のことだった。

 それは、ヴァイロンにとってはおっかなびっくりなことだった。実のところ、最初にカイエンを抱いた時よりも緊張する出来事だった。エルネストに手酷く傷つけられたカイエンが、男を、そして彼を拒絶することも大いにあり得たからだ。

 だが、カイエンはヴァイロンを拒否せず受け入れてくれた。その夜、体は震えていたが、彼女は「大丈夫だ」と心を決めてくれたのだ。

 それ以降は、それまで通りに、彼らの逢瀬はカイエンの休日に限っていた。それでなくては、カイエンの脆弱な体力が持たなかったからだ。

 そして、カイエンの休日、三日目の夜。

 明日からは職務に戻る、夕食も全部食べたから大丈夫だ、と言うカイエンのやや頰に赤みの差した顔を見て、職務から戻ってきたヴァイロンは久しぶりに彼女を寝台に押し倒した。

 勿論、拒まれれば止めるつもりだったが、もう一昨年から体を合わせてきた彼の感覚では拒まれないと踏んでいた。

 カイエンの姿を目にできなかった間も、彼女が明らかな病人だった間も、ヴァイロンはそういう方向の欲望は抑えられていたが、珍しく顔色のよくなったところを目にすれば、それは別物なのだろう。

 押し倒された方のカイエンも、落ち着いていた。ヴァイロンに、もう大丈夫だ宣言をしたらどうなるかは、予想もできていたのだ。

「なんだ? ああ! そうか。……確かに、ああいうことをしても呼吸が続くようだったら、明日から働けるな。……お前もそうだが、イリヤやマリオ達はろくに休んでいないんだろう? 私ばかり休んではいられないからな。……わかったわかった」

 ヴァイロンがじっと見つめる先で、カイエンは深い灰色の目をいたずらっ子のようにきらきらと光らせた。ヴァイロンには、何が「わかったわかった」なのかは今ひとつ、理解できない。カイエンらしいと言えばその通りなのだが、未だ二十歳の女性が、鷹揚な中年の旦那様のように言う言葉には引っかかるところも無いではない。

 カイエンらしいとは思う。もしかしなくとも照れ隠しもあるのだろう。だが、すでにして三年目に入った関係とは言っても、その女らしい慎みのかけらも無い言い方はどうだろうか、とカイエン一筋のヴァイロンでも思わないでもなかった。だが、結果として許しを得たという事実は彼を逸らせた。

「あ。そうだ。明日、腰が立たないほどにはするなよ。それじゃ、本末転倒だからな」

 そして、逸る彼に落とされる、これまた慎みの感じられない、憎らしい命令。慣れきった関係でももう少し、色めいた感覚は保って欲しいものだ、とヴァイロンの中のお年頃の男子が思う。

 なんて、ふてぶてしくも憎らしい女なのだろう。

 ヴァイロンはこうした場面でのいつもと同じように、そう思ったが、カイエンのこの性格はしょうがないとして、体の方は本当に弱々しいことは知り尽くしていたから、健気だと思う気持ちもあった。

 それでも、ヴァイロンは満足だった。今、この国が対面している問題については、ヴァイロンも重々、理解している。だが、その合間にでも彼は欲していた。女大公カイエンの心と体を。それを、彼女は許してくれたのだ。

 彼の欲求に、いつもカイエンはちゃんと答えてくれる。

 多分、ヴァイロンはいつも感じていたかったのだ。

 俺はハーマポスタール大公カイエンの男だと。

 それも、唯一の男だと。

 だから、俺は働く。

 この人の行く道の先へ。

 共に進んで行く。

 それだけは、変わることはない。変えられるはずもない。

 そう。

 そう、それは彼女が彼の前からいなくなるまで。

 それまでは、必ず守られると信じたかったのだ。



「ちょっと話してもいいか?」

 カイエンはそう言うと、褥の中で身動みじろいだ。

 一時の快楽の時間が終わり、やや汗でべとついた体を、もう、そうすることに慣れた男の、逞しすぎる厚い胸板にすり寄せる。

 ちょっと未だに恥ずかしいが、事後にこうするとヴァイロンが優しく抱いてくれるのを体がもう、覚えてしまっていた。

 予想していたより激しい行為になったが、咳も出なかったし、気管がかさこそと蠢いて、彼女を苦しめることもなかった。

 なんだろう。この男がそばにいると、体の中の色々な不調が解消されるのが早い。ヴァイロンと一緒になるまで、一人で寝ていた時はこんなに早く、咳の発作が治ることなどなかったのに。不思議なものだ。

「はい」

 返答が聞こえるとすぐに、ぎゅっと、ヴァイロンの太い腕がカイエンの背中と腰に回される。逞しすぎる胸もとに引き寄せられて、近づいた額と頬っぺたに口づけが落とされた。いつも、本当に愛しそうに彼はカイエンに口づけするのだ。

 カイエンには飼い猫のミモや、リリがそばに来て初めて知った感情だが、おそらくはヴァイロンがカイエンに優しく口づけする時の感情は、あれと似たものなのだろう。

 どろどろに蕩けている体には、いつも冷静になると困惑するばかりだが、今はそうも言ってはいられない。ここ、ハーマポスタールの大公であるカイエンには、自分の考えをまとめる時間も必要だった。そして、それはこんな一瞬にあったりする。

 いや。

 実は、先ほどまでの一途な行為の中、快楽に真っ白になった頭の中にふいに放り出されて見えたものがあったのだ。

 恐ろしいことだが、ああいう行為の中でも頭は違う方面で動いていると言うのだろうか。そうであるなら、大公である自分は、なんとも惨めな存在だと言えるのだろう、とカイエンは思った。

「あのな。……近いうちに元老院大議会が召集されるんじゃないかと、気がついたんだ」

 カイエンがそう言うと、思っていた通り、ヴァイロンの逞しい体が緊張した。

「……オドザヤ皇太女殿下の御即位に関することでですか。ですが、元老院には皇帝陛下のご命令に反対する権限はないはずです」

 ヴァイロンの方も瞬時に頭を切り替えてくれたらしい。そして、回答も百点満点だった。女大公の男としては得難い資質では、ある。

「うん」

 カイエンはうなずきつつも、まだ今までの雰囲気にすがりたい気持ちもあった。自分でも気ままで我が儘勝手だとは思うが、これからのおしゃべりの間も、ヴァイロンに抱いていてはもらいたいのだ。その方が考えがちゃんとまとまるような気がしていた。

「元老院については、どのくらい知っている?」

 カイエンが聞くと、ヴァイロンはカイエンの腕を自分の方へ引っ張って、こつん、と額を合わせてきた。薄暗い寝室の中で、翡翠色の瞳の輝きだけが、カイエンの目に一瞬だけ写った。

「……原則的には子爵以上の当主様が終身議員でいらっしゃいます。皇帝陛下の諮問機関として設立されたものですが、歴代の皇帝陛下の統治への関心の具合で、政治機関として働いたこともあったと聞いております」

 カイエンはこの回答を聞いて、ヴァイロンの鼻先に唇を落としてやった。この頃覚えたやり方だ。どんどん自分がすれっからしになっていく気がするが、年齢的にもうしょうがないことなのだろう。いつまでも初心な女の子を演じていられるわけでもない。何よりもそんなことは、馬鹿らしいことだ。

「そうだな。議員は子爵までだ。それより下の男爵と原則一代限りの准男爵だが……は、元老院議員の資格がない。これは男爵以下の称号を得たのが、国に多くの献金をした商人や、戦争で功績を挙げた平民上がりの軍人たちだったからだろう。そういう理由で数も多いしな。元老院長は世襲で、フランコ公爵がそれに当たっている。皇帝の皇子から臣下に下り、初代元老院長になったのがフランコ公爵家の始祖だ。まあ、それでも専制政治を敷いていた伯父上……サウル皇帝陛下の時代には全く発言権も、権限も持たない存在だった。……あっ」

 名残惜しそうに胸元を這ってきた手を、カイエンはそっと掴んで離した。ああ。こうして褥の中で話すことの、加減が難しいことと言ったら。

 ヴァイロンの方は落ち着き払っている。未だ、こういう場面ではカイエンよりも彼の方が余裕がある。

「ですが、レアンドロ皇帝の時代には、政治機関として機能していたと教わりました」

 レアンドロ皇帝はカイエンの祖父にあたる。彼はサウルと違って、まったく政治に興味を示さない皇帝だったと言われている。そういう皇帝の時代には、宰相か元老院が政治機関としてこのハウヤ帝国を動かしてきたのだ。

「それは、士官学校で教わったのか」

 カイエンが聞けば、ヴァイロンはカイエンの額に唇を押し付けながら答える。

「ええ、そうです。元老院は歴代の皇帝陛下のご性格に応じて、その形を変えてきたと聞いております。……しかし、皇位継承に関しては、名目上と言えども元老院の承認が必要なんだそうですね」

 カイエンは額から動いてきた唇に首筋を強く吸われて、びくっとしながらもおのれを失わないように気を引きしめた。

「その通りだ。それは、今回のサウル皇帝からオドザヤ摂政皇太女への継承にも当てはまる。オドザヤ皇女は、形式上ではあっても、元老院の承認なしには女帝として即位できないのだ」

 カイエンは話しているうちに喉が乾いてきた。さっきまで、散々喘がされていたせいだろう。

 それで、ヴァイロンの腕からそっと逃れ出て、寝台の横に置かれたテーブルの上の水差しへ、体の向きを変えて手を伸ばした。時刻はまだ真夜中なのだろう。寝室の中庭に面したガラス窓の外は真っ暗だ。

 カイエンには、枕元に灯ったランプがなかったら、何も見えなかっただろう。すべてを、真昼の太陽のもとと同じに見ていたのは、ヴァイロンの翡翠色の目だけだった。

「元老院長は、フランコ公爵様です。あの方はこちらの陣営にいらっしゃいます。ですから最終的には、元老院はすべてを認めるしかないのでは?」

 そう言うと、ヴァイロンの長くて太い腕が伸びて、カイエンの伸ばした腕をそっと掴んだ。そのまま、彼は名残惜しそうにカイエンのそばから離れ、寝台を降りてカイエンのために水差しからロマノグラスへ水を注いで差し出した。

「……ありがとう」

 ヴァイロンの腕がそっとカイエンの背中に伸び、カイエンはいくつも重なった枕の上へ身を起こした。そっと掛けていた布団の下のリネンを引っ張って胸元だけは隠した。こういう関係になって三年目にもなっても、未だに自信を持って見せられる体ではない。

「それはそうだろう。だが、油断は出来ない。サウル皇帝は確かに、このハウヤ帝国を富ませた。だが、その恩恵に預かったのは貴族たちではない。彼らには不満が燻っているだろう。……こっちの味方に引き入れた、シイナドラドのガルダメス伯爵に聞いたところでは、まず最大の障害はフランコ公爵の腹違いの兄である、モリーナ侯爵と親衛隊長のモンドラゴン子爵の一党だそうだが……」

 ごきゅっとカイエンが水を飲み下すと、すかさずヴァイロンの手が背中に当てられた。その手はカイエンの呼吸を確かめるように上下する。先ほど、あれほどに激しい行為をカイエンに強いた自覚があるのかないのか、こればっかりはカイエンには理解の外だ。

「それに加えて、螺旋帝国とベアトリアの外交大使が暗躍しているそうでしたね」

 カイエンは、飲み干したグラスをヴァイロンに渡すと、再び柔らかい羽根枕の上に身を倒した。

「まあ、元老院の大議会が召集されるのは間違い無いだろう。モリーナ侯爵とモンドラゴン子爵の一党は絶対に大議会を開くように求めて来るはずだ。フランコ公爵も、議員有志が一定数の署名を集めて求めてくる、議会の召集要請を止める権限はお持ちでは無い。皇位継承に関しては、オドザヤ皇太女派と、フロレンティーノ皇子派に別れるのは分かりきっている。それでも、オドザヤ皇女殿下がサウル皇帝の意志で、摂政皇太女に任じられたことは動かしようがない。まず一度目の議論の結果は分かり切っているのだ」

 ヴァイロンはグラスを寝台の横のテーブルに戻すと、枕の上にへばったカイエンを上から心配そうに見てきた。

「では?」

 カイエンは眠そうな顔を、枕の上に乗せて目をつぶった。

「……それでも奴らが多数派工作なりなんなりをして納得しなかった場合の問題は、皇帝陛下の遺言にもあった、あの南方の覇者の意向だ。わざわざ、十余年ぶりにこの帝都ハーマポスタールまで上がってくると言うのだ。何か一言なり、一騒ぎなり、起こさずには帰るまい」

 南方の覇者。

 ヴァイロンも、もうその名前はすでに聞かされていた。

「ナポレオン・バンデラス公爵、ですか。ハウヤ帝国の政治には関与なさってこられなかったですが、今度の皇位継承でそれを変えて来ると?」

 カイエンは、部屋のカーテンの外の空の色を透かし見るように、目を細めた。

「そうだ。その可能性もある。何よりも、会ったことが無いから、どんな方か全然、わからない。……平民皇后アイーシャの腹から出てきた皇女オドザヤが、女帝として、表面上だけでも権力を握るのを厭わない方だといいんだがな」

 そう言うと、カイエンは再び眠りの中に身を投げることにした。

 明日からはまた、日常が始まる。バンデラス公爵の到着も近いだろう。どんな事態が起こっても対応できるよう、心身を固めておく必要があった。

「……おやすみ、ヴァイロン」

 カイエンがそう言って、目をつぶろうとした時、寝台の足元の方で、遠慮がちな鳴き声が聞こえてきた。

「み……みゃーん」

 猫も人との生活が長くなると、空気を読むようになるのだろうか。

「あれ、ミモか」

 カイエンが言うと、それまでは大人しくカイエンとヴァイロンの足元で寝ていたらしいミモが、布団をのしのしと踏みながら、枕元までやってきた。

 ミモはエルネストがこの大公宮の後宮に引っ越してきてから、後宮に入り込むことが多い。猫のことだから、カイエンがそっちへは行くなと言っても聞かないが、業腹なことだと思ってはいた。

「ミモは最近、悪い猫になったなあ。あんな変態皇子の部屋に入り浸って……どこがいいんだ、あいつなら猫でも襲いかねないぞ〜」

 カイエンがそう言いながら、ミモの、白地に茶色の斑のある頭や頬っぺた、顎の下を撫でると、ミモはずりずりと頭をカイエンの手に擦り付けてきた。

 ヴァイロンの方はカイエンの言葉を聞くと、びくりと肩を震わせたが、黙っていた。

 この頃、リリの方に構いきりの彼だが、ミモが可愛くないわけではないのだ。ミモを可愛がるカイエンに水を差すようなことはしたくなかった。

 それでも、エルネストのことをカイエンが口にすると、心がざわつく。しかし、カイエンの方も気を遣い、ヴァイロンの前では特に、エルネストの名前は言わないように気を遣っていることもわかっていた。 

「う、うぐるぅやーん」

 ヴァイロンの心の中の葛藤を、獣同士の部分で感じたのか、おれは悪くないよ、そう言ってでもいるように、ミモの鳴き声が複雑になった。

「そうかそうか。今日はミモも一緒に寝るんだな」

 だが、すでに幸せな睡魔に襲われていたカイエンは、勝手にそう決めると、ミモを撫でながら心地よい眠りの中へ落ちていった。






 子爵家以上の当主すべてが召集される、元老院「大議会」が召集されたのは、バンデラス公爵の到着からすぐのことであった。

 モリーナ侯爵を中心とした、こうした場合に必要な、一定数以上の子爵以上当主の署名を集めた「皇位継承に関する大議会召集請願書」が、元老院院長、テオドロ・フランコ公爵に提出されたのである。

 サウルの葬儀には、後、五日を残すところまでとなっていた、微妙な時期であった。

 モリーナ侯爵たち、女帝の即位を良しとしない勢力も、数を揃えるのには苦労したということだろう。それでも葬儀の前に出してきたのには、葬儀の後、すぐに宰相府から正式に公布される、オドザヤの女帝即位に水をさそうという意図が見える。

 オドザヤはサウルの存命中に、摂政皇太女として立っているから、父帝の後を継ぐことを多くの国民は疑っていない。モリーナ侯爵一派もオドザヤの即位をこの段階にひっくり返せるとは思ってはいるまい。

 それでも、「女帝即位に異議を唱える貴族がこれだけいる」ということを、この時期にはっきり世間に見せておきたいのだ。

 モリーナ侯爵たち、保守派の貴族たちには忌々しいことなのだろうが、オドザヤは国民に受けがいい。それは、母である皇后のアイーシャが平民出身だということを皆が知っているからだ。

 皇帝サウルはいくつもの政治的な改革を行ってきたが、それは国を富ませる方向に向いており、貴族階級よりも、その他大勢の国民の方に歓迎する空気があった。

 サウルの皇后が平民出のアイーシャであることも、一般国民には歓迎され、皇帝に対する親しみ深い印象を作ることになっていた。サウルはそれを隠そうとしなかったし、うまく利用していた、という面もある。

 一方、フロレンティーノ皇子が生まれたとはいえ、一歳にもならぬ皇子の母親は外国ベアトリアの王女である。

 また、この時代、子供が成人できるかどうかはそれほど確約されたことではない。ましては赤子である。風邪をひいただけでもこじらせれば死に至ることも少なくなかったのだ。


 大議会は帝都ハーマポスタールにその時々に通常の議会とは違い、子爵家以上の当主すべてに召集がかかる。非常に大掛かりなものになるから、今回の皇位継承など、国の大事にしか召集されることはない。

 そもそも、そろそろ夏の社交シーズンとはいえ、帝都の邸宅に当主がいるとは限らない。貴族階級のほとんどは領地を持ち、そこに居館や居城を持っている。一年のほとんどを領地で過ごす者も少なくないのだ。

 だから、大議会召集の請願を、皇帝サウルの葬儀のため、ほとんどの有力貴族の当主と夫人がハーマポスタールに集まる時期に合わせて来たのは、もちろん、偶然などではないだろう。

 帝都ハーマポスタールの読売りには、翌日には揃って一面に「元老院大議会召集!」の文字が踊った。

 皇宮のある小高い丘の、海神宮のやや下層にある「元老院議事堂」での「大議会」開会は、実に葬儀の二日前に決められた。葬儀出席のために帝都入りしている多くの当主たちも、葬儀のための準備はしていただろうが、まさか異例の「大議会」に出ることになるとは予想してなかっただろう。

 もっとも、モリーナ侯爵たち一派に名を連ねた貴族たちはまた別である。

「おっぱじまりましたねえ、先生」

 そう言って、大公軍団最高顧問の、「教授」ことマテオ・ソーサの元へ、「黎明新聞」のホアン・ウゴ・アルヴァラードが駆けつけて来たのもその日だった。

 ウゴはマテオ・ソーサが下町で開いていた私塾の学生である。もっとも、今、教授は大公軍団の方で忙しくなってしまったから、私塾は閉めている。

「そうだね」

 教授は大人しくうなずいただけだったが、その顔つきは引き締まっていた。

 彼の執務机の上には、その日の各新聞がずらりと並んでいた。ウゴはそれらを見ると、精悍な顔に不敵な笑みを浮かべる。

「ははあ。先生も力が入ってますねえ」

 そして、その後に彼が言った言葉は、後の世に残る言葉となる。


「先生。読売りってのは、大衆の耳であり目であり、そして真実を伝える最善の口でなければならないんです。……だから、俺は今から始まる時代に試されることになるでしょう。黎明新聞のホアン・ウゴ・アルヴァラードはどこまでやれるのかってね」 

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