アストロナータ神の盾

   そいつは死んでいた

   港近くの建て替え中の劇場の裏で

   その冷たく、固くなった体に

   せいいっぱいの秘密と陰謀の萌芽を入れて

   右手に大公軍団員の安物の剣

   左手にアストロナータ神の精緻な盾

   目も鼻も耳も損なわれた哀れな姿で

   そこでただ、死んでいたよ



        アル・アアシャー 「殺された男」より「第二の血痕」







 カイエンの結婚のことは、帝都の主だった読売りに「大公殿下、海神宮にてご成婚」という、そのままずばりな見出しで出た。

 これには宰相サヴォナローラの巧妙な情報操作があったことは言うまでもない。

 ある新聞では、記事に海神宮での挙式を「想像して」描かれた挿絵が載ったりした。だから、市民たちは多くの貴族たちが招かれた、盛大で厳かな結婚式が挙げられたかのように思い込んだのである。

 これはもっともなことだった。なにせ、外国の皇子の婿入りである。これはそうそうはない珍しい出来事だ。相手が皇女ではなくて大公だとしても。

 三月は、皇太女オドザヤの摂政就任と、第二皇女カリスマがネファールの王太女となって彼の国へ赴いたことが大きな記事となった。

 それから一月余り。

 四月の終わりのこの記事は、市民たちには久しぶりに「雲の上のあれこれ」が報じられた出来事だったのである。

 そんな中。

 大公軍団の顧問マテオ・ソーサの私塾の弟子には「黎明新聞」の記者である、ホアン・ウゴ・アルヴァラードがいる。

 彼はわざわざ大公宮の後宮まで師を訪ねて来るなり、いつもと変わらぬ大公宮の様子を皮肉そうに眺めてこう言った。

「シイナドラドの皇子様はどちらにお住まいなんですか? 先生はこうしてまだ昔の後宮に住んでらっしゃる。皇子様となればお付きの方も多いんでしょう? ちょっとは賑やかに浮ついた感じになりそうなもんじゃないですかね」

 と。

 もちろん、エルネストたちはシイナドラド大使公邸にいたから、教授とガラは前と変わらず大公宮の後宮に住んでいた。

「ウゴ。君くらいになれば雲の上のご事情もちょっとは分かるんじゃないかねえ。いろいろ、あるんだよ。なにせシイナドラドは友邦といっても鎖国中の国だ。そこから皇子様が婿入りだからねえ。……普通と同じにはいかんのだよ」

 教授はそう言って、珍しく困ったような顔をした。痩せた色の悪い顔には困惑と一緒にためらいも見えた。

 大公宮の後宮の、飴色のガラスタイルと象牙色の漆喰で作られた波のような文様で統一された一角。

 その居間のソファで、彼ら二人は向き合って座っている。

 間が持たないと感じたのだろう。教授は複雑な顔色のまま、痩せた手を伸ばして、真っ黒な珈琲の入ったカップを持ち上げた。後宮の部屋部屋には、簡単な飲み物を用意するための設備も付属している。

 だが、ウゴはこんないい加減な返答に満足するような男ではない。そんなではそもそも新聞記者など務まらない。

 彼は櫛の目も通りそうもない、もじゃもじゃとうねった褐色の髪の頭をぐいっともたげ、教授の方へ乗り出して言ったものだ。

「あらまあ。先生でもそんなに歯切れが悪い言い方をなさるんですねえ」

 ウゴは歌うような調子で続ける。

「シイナドラド、シイナドラド。去年、大公殿下の行かれたシイナドラド。鎖国中なのに、このハーマポスタールへ大使を送り込んできたシイナドラド。第二皇子を婿入りさせてきたシイナドラド。それも皇女にではなく、大公殿下に」

「ウゴ……」

 ウゴはこれも褐色の、いつも油断なくすべてを見通そうとしている目を、きっちりとまっすぐに教授に向けた。

 だが、彼はそれ以上彼の師を悩ませることはなかった。

「わかっていますよ。大公殿下の後宮には赤鬼、青鬼に、先生がいる。こっちも読売りに出たことがありますよ。先生に関しちゃあ、こちらの大公殿下に頼まれて、俺自身が適当な記事をでっち上げたんですからね」

 一昨年、ヴァイロンがカイエンの男妾に落とされた事件は大きく報道された。これは皇帝サウルが公に行ったことだから隠すすべがなかった。貴族たちには周知されてしまったからだ。

 だから、市民たちは結婚前のカイエンにすでに色々あったことはなんとなくだが、知っている。その後、教授が大公宮の後宮に住むと決まった時にはさすがに大公宮でも手を打った。それを引き受けたのがこのウゴなのだ。

「先生が俺なんぞには話せないことをたくさん、ご存知なこともね。今は、いいですよ先生。皇子皇女のご誕生と皇帝陛下のご病気。それでお世継ぎ問題がこじれそうなこともわかってます。皇女様の方はこちらの大公殿下がご帰国してすぐに引き取られた。そしてオドザヤ皇太女殿下の摂政就任。その後のシイナドラド皇子の婿入りですからね」

 ここでウゴは一息ついた。

 彼はしばらく黙っていた。そして、教授も黙って待っている。

 しばらくして口を開いた時、ウゴの顔からはそれまでのやや不遜な表情はなくなっていた。

「上の方では揉め事のタネが渦巻いている。……今は、いいです。でも先生……」

 ここまで聞けば、教授も黙ってはいなかった。

「わかっているよ、ウゴ。……『その時』が来たら、私は必ず、大公殿下に進言する」

 教授は厳しい顔で、ウゴの若い顔を見た。

「大公殿下はこのハーマポスタールを守る方。『その時』が来たら、大公殿下は市民に呼びかけるようにおっしゃるはずだ」

 ウゴは曖昧にうなずく。

 それをまっすぐに見ながら、教授は断言した。

「皇帝陛下は大公殿下に帝都防衛部隊を作らせた。これはこれから起こるであろう事態を想定してのことだ。皇帝陛下が倒れられた今となっては、それ以外の理由など考えられない。陛下の治世でこのハウヤ帝国は領土を増やし、国は潤ったが、それを次代へ繋げることができるかどうか。これはさっき君が言った、後継者問題にある。これだけはあの一見強気なサウル皇帝陛下でも、どうしようも無かったことなのだ」

「先生……」

 教授は白っぽい灰色をした目を伏せた。

「『その時』が来たら、市民は嫌が応にも巻き込まれる。すでに火種は落ち、煙は立ち始めているのだ。ウゴ、君がここへ来た理由である大公殿下のご結婚の話にしても、このままでは終わるまいよ」

 賢明なウゴはすでにそれも予想していたらしい。

「俺が書かなくっても、真実を暴露する噂話でも撒かれますかね?」

 教授は苦々しい顔でうなずいた。

「そうだろうね。……詳しい事情はまだ言えないが、大公殿下のご結婚式はああするより仕方がなかった。だが、はたから見れば、ね」

 教授は参列はしなかったが、あの結婚式については知っている。

 カイエンとエルネストの間の「あの事情」を抜きにしても、あの異様な結婚契約書のことがあるから、貴族たちを招待した盛大な式を挙げるわけにはいかなかった。そもそも、シイナドラド大使のガルダメス伯爵すらしめ出す必要があったのだから。

 だが、結婚後の別居状態は早いうちに解消する必要があるだろう。

 そんな事を考えながらも、教授は別のことを口にした。

「リリエンスール皇女を引き取られた大公殿下は、はっきりと皇太女オドザヤ様の側についたと見られただろう。相手がたは、オドザヤ様やカイエン様の評判を落とすためならなんでもするだろうからね。……君にはこれから、そっち方面でお願いすることが増えるかも知れないね」

 ウゴは曖昧な顔をした。

「先生たちも動かざるを得ないってことですか」

「そうだね。嫌なことだが、やられっぱなしではそれこそ、いざという時にしてやられるだろうからねえ」

 教授は、珈琲のカップを置くと、ウゴの方へ身を乗り出し、聞き取れないような小さい声で告げた。

「……この大公宮にも変な奴らが蠢き始めるだろう。後継者問題以外にも火種はあるのだから。これだけは言っておこうか。大公殿下はこの街の守護神たるお方。いざという時には我々は大公殿下を押し立てて、事をなすしか無いのだから、とね」

 若いウゴには、教授の考えている物事の枝葉の先までは見えなかった。

 それでも彼はしっかりとあごを引いた。彼は彼の師をそれくらいには信頼していたから。

「わかりました。俺は先生を信じます」

 そう、言って大公宮の後宮から出て行くウゴの姿を、一人の目立たない侍従がそっと見ていた。

 そして、いずこかへと去ってくのを、今度は真っ青な、夜でも光る両眼が捉えて追って行く。

 一昨年、始まった大公宮の嵐。

 今、新しい時代への、もっと大きな嵐の年月が始まろうとしていた。 


 その噂が帝都ハーマポスタールへばら撒かれ始めたのは、ウゴが教授を訪ねてきてから間も無くのことだった。

 貴族屋敷の使用人あたりから広がった体を装って広まった噂ではあったが、その伝播の早さには何者かの意図が感じられた。それらは段階的に小出しに帝都の各区で均等にばら撒かれたので、上は豊かな商人の屋敷街から、下は場末の下町まで満遍なく広まっていったのだった。

 それらを時系列で並べれば、こんな順番となる。

「大公殿下のご結婚式には宰相サヴォナローラと元帥ザラ大将軍、それにクリストラ公爵夫妻のみが参列になったそうだよ」

「いくら皇帝陛下のご病気中のこととはいえ、勅命でシイナドラド皇子とご結婚なさったというのに、この質素さはどうしたことかね」

「ご新婚というのに、婿のシイナドラド皇子はシイナドラド大使公邸に住み、大公宮へは入っていないそうな」

「大公殿下は去年、シイナドラド皇太子のご結婚に参列のためにシイナドラドへいらっしゃったが、そこでお見合いなさったそうだよ」

「だが、お相手が気に入らず、ご帰国からしばらくのご静養はそれでふさぎ込んでおられたからだとか言うねえ」

「そうそう。友邦とのご縁談であるから拒否もできず、嫌々のご婚礼だったそうだよ」

「では、質素なご結婚式も、ご結婚後にご別居なさっておられるのもそのせいで?」

「そうだろうね。なにせ披露の宴もなさらなかったというじゃないか。……こりゃ、よっぽどのことだよ」

「それにしても、ねえ」

「お貴族様のご結婚はいずれも政略結婚だ。まあ、大公殿下の兄上の皇帝陛下や姉上のクリストラ公爵夫人のご結婚は例外中の例外だろう?」

「でもまあ、兄上姉上のご結婚を見て来られているからこそのご不満というやつじゃないのかねえ」

「それにしても、友邦シイナドラドとの大切なご縁談だ。こういう非常識なのはよくないんじゃないかねえ」

「大公殿下の後宮の話は……そら、一昨年の男妾騒動から始まって、お盛んだったからね」

「ああ。赤鬼、青鬼、って話だね。覚えてるよ」

「お身体がお弱いと聞いていたが、なかなかに……ご発展してらしたんだそうだよ」

「そこへシイナドラドのお堅い皇子様とのご結婚じゃ、わがままも出るってわけなんだろうかね?」

「それにしてもねえ。世間体ってもんがあるだろうに。シイナドラドの方も皇子をこんなに粗略に扱われちゃあ、黙っていないんじゃないかねえ」

「当代の女大公殿下は先代先先代と違って庶民的で、事件現場なんかにもよくお見えになっていたというが、やっぱり中身はわがままなお姫様ってことかあ」

 ……といった具合である。

 最初はカイエンに同情的であったものが、発展するとともに批判にすり替わっている。

 噂というものは厄介なもので、打ち消そうとする情報が反対側から流れてくると、人々は最初の噂の方を信じるきらいがある。

 口づてに噂を伝えた者にとっては、自分が隣人に伝えた話が嘘だったとは言いにくいのが普通だからだ。反論が弁解に聞こえ、その情報の信憑性の方はあまり顧みられない。

 だから、大公宮の人々、ことにこのことはすでに予想していた教授も、この噂を打ち消す工作をあえて行おうとはしなかった。





 それからすぐのある日。 

 それはもう、五月が目の前になったうららかな春の日だった。

「大公宮にも桔梗館の一党の手の者がいると見るべきです。そして、もちろんこの皇宮にも。もちろん、ここにお集まりのみなさんの周りにも!」

 そう言って、宰相サヴォナローラが口火を切ったのは、皇宮の彼の執務室に付属している、普段あまり使われることのない応接室でのことだった。

「君はそう言うが、ここは大丈夫なのかね」

 そう言って、天井やら壁だのを見回したのは、ザラ大将軍エミリオ。隣には事情を聞かされて来たらしい、兄のザラ子爵の顔もあった。

「まあ、用心に越したことはないが、そう気にしてばかりでは頭の方をやられますよ」

 こう取りなしたのはクリストラ公爵だった。今日は公爵夫人のミルドラの姿はない。目立たぬよう、娘たちと家にいるとのことだった。

「まあ、噂の一部は私の不遜の致すところで、申し訳ない」

 そう言って、頭を下げたカイエンのそばには、教授こと、マテオ・ソーサと執事のアキノ、それにガラの姿があった。

 サヴォナローラの隣にカイエンが座り、その向かいにテーブルを挟んでザラ子爵家の兄弟が座っている。クリストラ公爵とマテオ・ソーサはテーブルの短い横の辺に接した一人がけのソファに座っていた。アキノとガラはカイエンの後ろに立っている。

「いやいや。そんなのは皇帝陛下の始めたことから派生したことです。責任があるとしたら我々全員もかぶるべきことでしょうて」

 ザラ大将軍はゆっくりと首を振った。横で兄の子爵もうなずいている。

「皇太女、いや摂政殿下にはお伝えしているのか?」

 カイエンが聞くと、サヴォナローラはもちろんだと言うように首肯した。

「そちらはご安心ください。ですが、今日のおいでは控えていただきました。今、皇太女宮の警備は親衛隊がしていますが、オドザヤ様にはパコとコンスタンサ女官長についてもらっています。大公殿下から差し向けていただいた、トリニ・コンドルカンキ隊員と、ブランカ・ボリバル隊員には日夜、オドザヤ様のお側を離れず警備するよう、お願いしてございます」

「そうか」

 カイエンはサヴォナローラに頼まれて、治安維持部隊に配属されていた新隊員のトリニとブランカをオドザヤの警備に差し向けていた。

 螺旋帝国の元将軍を父に持つ、トリニの武術は他の追随を許さないものだし、いつも沈着冷静なブランカはよく気がつくし腕も確かだ。皇宮へ上がったこともあるので皇宮の雰囲気も知っている。

「トリニ・コンドルカンキっていう娘は、強いらしいですなあ」

 武人の最高位にあるザラ大将軍へも、トリニの武勇は知れていたらしい。

「……ある意味、俺よりも強い」

 それへ、いつもは寡黙なガラが、そう口を挟んだので、皆がガラの方を見た。兄のサヴォナローラまでも。

「ええっ。そんなにトリニは強かったのかい?」

 ややあってそう聞いた教授へ、ガラはしっかりとうなずいた。

「体の大きさや筋力、動きの早さは俺が勝る。これは当たり前だ。だが、攻撃をすべていなされた上で的確に急所を打たれれば、俺だとて倒れる」

「……舞のように動き、風のようにいなす。そして空気を切り裂いて相手の動きを止める。その倒し方はその時々で色々。……聞いたことがある。下町にすごい螺旋帝国人がいると。それが父親らしいな?」

 カク 赳生キョウセイ

 螺旋帝国から逃れてきた、放浪の元、将軍。トリニはその父の知識と、技の全てを受け継いでいるらしい。

「噂には聞いていた。会いに行こうと思ったこともあったが、結局、行かなかった。私はあの娘の父親とは縁がなかったようです。ですが、娘の方とは縁を持ちたいものですなあ」

「エミリオ!」

 話を元に引き戻すように、兄のザラ子爵ヴィクトルが大きな声を出した。

「ああ、すまんな兄上。私も武術馬鹿でこう言う話には弱いのですよ」

 ザラ将軍が素直に兄に謝ると、サヴォナローラは一回空咳をしてから話を進め始めた。

「クリストラ公爵様のおっしゃる通り、ここにも壁に耳があるでしょう。ですが、確かに気にばかりしていても埒があきません。ここは我々皆の安全を第一に、話が多少、あちこちへ抜けていくのには目を瞑るしかありません」

「影使いは配備しているのだろう?」

 こう聞いたのは、ザラ大将軍。

「はい。大将軍閣下の差し向けてくださった者共は、この皇宮にも配備しております。クリストラ公爵様の周りにも子飼いのものがおられるそうですし、大公宮には……」

 サヴォナローラが促すと、ザラ大将軍がその先を続ける。

「シイナドラドへのお供で、エステ西オエステはいなくなったが、ノルテスールは生き残ったので、そこの弟にくっつけて大公宮へ回しておる」

 シイナドラドでガラが獣化した時に、彼の解毒薬を預かったノルテことナシオと、ルビを入力…のシモンは、帰国後、ガラに付いて大公宮の闇を守っていた。スール「ありがとうございます」

 カイエンが神妙に礼を言うと、ザラ大将軍はニコニコと顔をほころばせた。

「いやいや、問題はないのです。ノルテのナシオはシイナドラドから戻ってから、カイエン様、ガラ様ってうるさくてな。東西がいなくなって、四方神の四人組も崩れちまいましたからな。残った奴らの使い道としてはこれ以上のものはないのですから」

 カイエンが教授やガラの顔を見ながら、曖昧にうなずくと、サヴォナローラが今日何度目かに話を元に引き戻した。  

「ですが、大公殿下のご結婚についての噂には何らかの対処をせねばなりません」

 サヴォナローラがこう言うと、それまで脱線気味だったザラ大将軍も神妙な顔をした。

「あれは困ったのう。……真実を言い当てておるだけに厄介だわなあ」

「途中まではそうです。しかし、ここ数日のぶんはちょっと言い過ぎです」

 サヴォナローラは、ザラ大将軍の述懐を生真面目にぶった切った。

「いや。私がわがままなお姫様だからってのも、世間的には仕方がないことだと思うが……」

 カイエンが口を挟むと、サヴォナローラはぎろりと真っ青な目を非難がましくカイエンの方へ向けてきた。

「大公殿下。あなた様の謙虚さは美徳です。……ですが、それにも限度がございます」

 サヴォナローラの目は据わっていた。

「カイエン様。私も弟も、あの桔梗館に集められた子供達の一人だったと言うことでは、あのエルネスト皇子と同じです。ですが、私も弟もすでにアルウィン様の影響下からは離れております。これだけは……しっかとご納得願います」

 カイエンは、サヴォナローラの真っ青な目の目力をやっとの事で受け止めた。

「わかっている。まあ、最初のうちは半信半疑だったが、こうして国家の大事に際して集う仲間になったからにはそれなりの信用はしている」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラはまだ不満げだったが、それでも話だけは進めてきた。

「カイエン様。これはもうご結婚式の前より申し上げておりましたが、エルネスト皇子の住まう場所を大至急で、大公宮にご用意いただかなくてはなりません」

 カイエンは二月にサヴォナローラに呼びつけられた時に聞いたことをちゃんと覚えていた。   

(……お式の後ですが、シイナドラドの第二皇子はしばらくシイナドラド大使公邸に住まわせます。世間では不思議に思うでしょうが、しばらくは私の目の届かぬ場所には置けません。その間に、大公宮にかの者を収容できる宮をご用意いただきます。大公宮にはガラもおりますから、殿下のお部屋とは離れた、しかし見張りやすい場所がよろしいでしょう)

 それに対する答えも、彼女はすでに用意して来ていた。

 それは、ここにいるマテオ・ソーサやアキノ、そしてガラとも、ヴァイロンとも、サグラチカとも話し合って決めたことだった。

「うん」

 カイエンはゆっくりと周りを見回してから話し始めた。

「それについては、もう考えて来た。……彼の共は侍従一人だそうだ。その侍従は彼の地で世話になったからよく知っている。この二人だけを大公宮へ引き取ることにした」

 サヴォナローラとザラ大将軍エミリオ、それにザラ子爵ヴィクトル、クリストラ公爵ヘクトルも目を見張った。

「……皇子のお供は侍従一人?」

 カイエンはうなずいた。

「ヘルマンという。よく気のつく男だ。先日、大公宮へ代理で挨拶に来たのも彼だ。シイナドラドで囚われの身になってからは身の回りのことはすべて彼が按配してくれた」

 もう、カイエンの話を遮るものはいなかった。

「現在使われている大公宮の後宮の部屋は、ガラのいる青いモザイクで飾られた百合の区画と、教授のいる飴色のガラスタイルと象牙色の漆喰で作られた区画だけだ。まだ後宮には使われていていない区画が幾つかある。その、一番奥の区画を整備することにした」

 皆は黙ってカイエンの言うことを聞いている。

「私はシイナドラドで見て知っているのだが、あの皇子は黒から銀色に繋がる色合いが好きなようだ。偶然だろうが、大公宮の後宮の一番奥の区画は黒から白までの無彩色のガラスタイルで彩られている。それに、後宮のどん詰まりだから、外に出るにはここのガラや教授の部屋の前を通らなければならん」

 そこまで聞くと、サヴォナローラは静かにうなずいた。

「最初は、子供の頃に私が使っていた公女宮を当てがおうかと思っていたのだが、警備のことを考えれば、後宮に入ってもらった方が都合がいいだろう」

「私もガラ君も気が乗らないことですが、この際仕方がないですからねえ」

 最後にマテオ・ソーサが締めくくると、もう、誰にもこの案に否やはなかった。

「……先生、しっかりと見張ってくださいませよ。もう、間違いがないように……」

 念押しするサヴォナローラへ、教授は渋い顔で請け合った。

「気は乗らないが、せいぜい仲良くさせていただくよ。本当にあちらが桔梗館とやらの一党と縁を切ると言うならね」


 




 ウゴが大公宮のマテオ・ソーサの元を訪れた後ろ姿を見送っていた、目立たない姿の侍従。

 ガラが追っていた侍従の死骸が、港の近くの元開港記念劇場の裏手で発見されたのは、それから間も無くのことだった。

 すぐに治安維持部隊の末端の、この近くの署員が駆けつけた。

 一昨年、火災に見舞われた劇場は、すでに取り壊されていた。

 同じ場所に新しく劇場を建築中だったが、表の通りに面した石造りの部分は残して再建されることになっていた。今度は前は木造だった裏の楽屋部分も石造りにする予定で、その外縁部の石組みが半分ほど進んだ状態だった。

 その死骸の様子は、一昨年、同じ場所で殺されていた、あのモラエス男爵の姿と酷似していた。

 頭を潰され、手ひどい拷問を受けたであろう無残な姿。その顔もまた潰され、ほとんど原型を留めてはいなかった。

 これが大公宮の侍従と判断されたのは、ひとえに彼が大公宮のお仕着せを着ていたからに他ならない。

 そして、これだけは違っていたのは、持たされている物体だった。

 彼の右手には大公軍団が末端の隊員に支給している、細身の剣。これは戦争用ではなく、市街地での捕り物用なので細身で長さも長くない。

 だが、左手に持たされていたものは、大公軍団支給のものではなかった。

 それは、一枚の「盾」。

 大公軍団でも、たまにある大捕物などで犯人の反撃を避けるための、防御盾を支給している。それは分厚く堅い木材の四方を鋼鉄で固めた、極めて実用的かつ無骨なものだ。

 だが、殺されていた侍従の持たされていたものは、それではなかった。

 もちろん、大公宮の中で働く侍従の持つようなものではない。

 そもそもその盾は、実用できるものではなかった。

「なんだこれ?」

 そこに集まった隊員みんなが首をかしげたそれは、重厚な木製ではあったが、実用に適しているとは言い難い代物で、表には精緻な彩色が施されていた。

 その精緻な彩色で描かれているのは、アストロナータ教団の紋章だった。

 アストロナータ教団の紋章は、銀河を背景にした銀色の大きな五芒星と、それを取り囲むアストロナータ神の両手で成り立っている。この盾の五芒星の中には五弁の花びらの花の意匠があった。

「ああ!」

 しばらくして隊員の一人が、声をあげた。

「これ、アストロナータ神殿の回廊にある、ご神像の持っていたものでは?」

 彼はかなり真面目なアストロナータ神殿の信者だったのである。急いでハーマポスタールの中央地区にあるアストロナータ神殿へ走った隊員は、回廊の彫像から精緻な盾が失われて慌てる神官たちを見ることとなった。

 この異常な状況は、すぐに大公軍団の上層部へ報告された。

 一昨年のモラエス男爵の死体発見状況との相似が伝えられると、それは治安維持部隊隊長の双子から、軍団長のイリヤへ、それから大公のカイエンのところまで上がってきた。

「なんだと?」

 イリヤの前で報告書から顔を上げたカイエンは、もちろん気がついていた。

 モラエス男爵の死骸。

 それを、カイエンは実際に見に行っている。

 あれが同じ場所で別の意味を持たされて再現された。

 カイエンはすぐにイリヤとともに、馬車に乗って現場へ向かった。

 そこで見たものは。

 一昨年見た、あのモラエス男爵の遺体の奇天烈な判じ物だった。

「これ、拷問されているな」

 カイエンが聞くと、横で珍しく神妙な顔のイリヤが鬱陶しそうにうなずいた。

「ええ。……それも先代大公軍団団長直々の拷問の方法でねえ」

 カイエンはうそ寒い思いでイリヤの美形すぎる甘い顔を見上げた。今日のイリヤの顔は厳しく引き締まっていて、いつもにもまして壮絶に整って見えた。

「犯人は、一昨年の事件のことも、最近の殿下の周りの状況も、どっちにも詳しいやつってことです」

 カイエンは一応、確認した。

「イリヤ、この拷問のやり方ができる者は何人ぐらいいる?」

 先代大公軍団団長アルベルト・グスマン。彼はかなり長い間、軍団長の地位にあったから、彼の方法を見知っている者は結構多いだろう。

「さあね。ただ見たことがあるって言うんなら大勢ですよ。でも、実際にやれる者となるとねえ。まあ、俺や双子や、その下の連中ぐらいまででしょうかね」

 イリヤの答えを聞きながら、カイエンは考えていた。

 犯人は大公軍団の行う拷問の方法を知っている。それはどうしてか。

 どうして犯人は一昨年のモラエス男爵殺しに似せた、異様な死体遺棄の方法をとったのか。

 持たされた大公軍団支給の剣と、アストロナータ教団の彫像の盾の組み合わせの意味は。

 それらのいくつもの謎の絡まったこの死骸が、今、ここに存在する理由は。

 カイエンはしばらくの間、イリヤの隣に杖をついて立ったまま、黙っていた。

 しばらくして。

 カイエンの口をついて出た質問は、長い思考の果てにたどり着いた疑問だった。

「イリヤ。アルベルト・グスマンというのは、どんな男だった? 先代大公に心酔していたと聞いているが、彼との関係はどんなものだったのだ?」

 そう尋ねたカイエンの顔は、まさに亡霊を見たものの顔だった。

 アルベルト・グスマンは死んでいる。

 一昨年。

 桔梗館の一党が一掃されたあの日に、逃亡したが結局地下墓地の納骨堂カタコンベで、カルロス……あのアルウィンの隠し子の墓の前で喉を掻き切って死んでいた。

 そのはずだ。

 だが。

 ここに彼の犯した殺人を模倣してのけた者がいる。

 殺しの現場の状況や、被害者の持たされた持ち物などは、他の者でも模倣できるだろう。モラエスの死に方を見たか、聞いたかした者なら。

 だが、この殺し方は簡単にはできない。

 これは、アルベルト・グスマンをよく知っていた者だけができる方法だ。

「イリヤ!」

 カイエンは低い声でイリヤを促したが、イリヤはただ首を左右に振っただけで、すぐには答えようとはしなかった。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る