帰還

 嗚呼 

 少女たちの抜け殻が落ちている

 もう

 戻ってはこられない春に

 少女たちの抜け殻が残される


 少女たちは奔り去る

 運命の青い春から、暑い、熱い、燃え上がる朱夏の夏へと

 もう戻らない道をまっすぐに


 不意に涙がこみ上げてきた時を

 不意に開けた世界を持て余して足掻いていたことを

 懐かしいと

 振り返る夏へ


 「嗚呼、あつい」

 そして

 嘆きながら

 朱夏の女たちがやってくる

 おのれの中で血を流し

 理不尽な世界を背景に

 それでも倒れない女たちが

 いつか世界を塗りかえようと

 やってくる……




      アル・アアシャー 「真夏の時代へ」


  




 大公カイエンがシイナドラドから帰国の途についたとの知らせが、ハウヤ帝国首都ハーマポスタールへ届いたのは、暦がもう十一月に入ってからのことであった。

 もちろん、宰相サヴォナローラが街道沿いに敷いた連絡網が、いくら緻密かつ迅速なものであったとしても、シイナドラドからの連絡には最速でも一週間かかる。であるから、カイエンたちが出発したのは早くても十月の下旬にかかってからのことだと思われた。

 現在、もうカイエンたちはネファールからベアトリアへと進んでいるはずだった。

 その知らせを受けた時、宰相サヴォナローラは皇帝サウルの前で、おのれの考えを含めて事の次第を報告していた。

「ザラ大将軍閣下のお用意良きを幸いに、フィエロアルマはシイナドラド側の国境の城門を打ち崩し、大公殿下のお引渡しは平等の条件で約定書を交わしてのちに終えたのと事でございましたが……」

 皇帝の脇には、呼びつけられて飛んできた、ザラ大将軍と皇太女のオドザヤが難しい顔で立っていた。

「十月の終わりに到着しました、先の使いがシイナドラドとの約定が定まった日時として知らせてきたのは十月の九日でした。しかし、シイナドラド国内で拉致され、お一人だけ首都のホヤ・デ・セレンへ連れ去られてのち、戻ってこられた大公殿下は、かなりご衰弱なさっていたとか。それで、それから一週間ほどの間、シイナドラド、ネファール国境近くのシャルダという町でお休みになり、お体のご回復を待って、出発したようでございます」

 この報告にはさすがの皇帝サウルも眉をひそめた。

「カイエン一人だけが、ホヤ・デ・セレンまで連れて行かれたのか」

「はい。そのようでございます。他の報告では、シイナドラド国内は不穏な空気に包まれており、フィエロアルマを国内へ入れられぬ訳があったようでございます」

 これには皇帝だけでなく、傍に控えたオドザヤやザラ大将軍もさっと固い顔になった。

「それはどういうことか」

 皇帝が聞く。

「ザラ大将軍のお付けになられた影使い達の報告では、国内の街道沿いに、内乱でも起こっているかのような砦トーチカが配置されており、国民の自由な移動も制限されているとのことです。それを見られたくなかったのでしょう」

「こうなると、カイエンを星教皇にさせるために連れ去ったという話にも、真実味が出てくるな」

 皇帝サウルの言葉を聞くと、そばでオドザヤは真っ青な顔になって身震いした。だが、賢い彼女は口を挟んだりはしない。

「はい。星教皇の即位式ともなれば、シイナドラド皇王家の秘密にも触れることとなりましょう。それをカイエン様お一人にしたかったのではありますまいか」

「しかし、十日近くも……シャルダだったか? その町で休まねばならんほど、カイエンはひどい状態だったのか?」

「国境での例の約定書への署名までは、気が張っておられたのかしっかりと見届けられたそうですが、その後、撤退が決まるとともに倒れられたそうです」

「そんな……」

 おとなしく聞いていたオドザヤも、思わず声が出てしまった。

 皇女である彼女とても、女官も侍女とも引き離され、たった一人で放り出されたらと思うと体が震える思いだった。そんなことになったらどうしたらいいかわからなくなるだろう。不安で何もできず、相手の言うがままにするしかないのではないだろうか。

「……まあ、カイエンとてもまだ十九だ。体も、もとより丈夫ではない。それに、気の知れた従者もおらずに一人で知らん者だけの場所へ放り込まれたことなどもありはすまい。星教皇とやらに祭り上げられるにあたっては、脅迫めいたものもあったのかもしれぬな」

 今度ばかりは、皇帝もカイエンを心配しているように見えた。

「こうなりますと、大公殿下は皇后陛下やマグダレーナ様のご出産に間に合われぬ可能性がありますね」

 サヴォナローラが日にちを数えながら、そう言うと、皇帝はゆっくりと首を振った。去年、いろいろとあったものの、カイエンの伯父である彼には何か通じるものがあったのだろう。

「あれは、意地でも間に合わせようとするはずだ」

 これにはオドザヤも口を挟まずにはいられなかった。

「お姉様は、お母様達のご出産には必ず間に合うように帰るとおっしゃいましたわ!」

(産み月は十一月と聞いております。間に合うでしょう。何があっても間に合わせますよ)

 あの日。

 カイエンにあなたは私の実の姉かと、大公宮まで訪ねに行ったオドザヤへ、カイエンはそう言って、旅立って行ったのだ。

 きっと、美しい顔を振り上げたオドザヤをちらりと見て、サヴォナローラはうなずいた。

「そうなりますと、もうすでにネファールのエンゴンガ伯爵には連絡済みでございますが、クリストラ公爵様にも国境まで出ていただき、馬車や馬を換えて急いでいただいた方がよろしいかと」

「そうですな。宰相殿の事だから抜かりはないでしょうが、そうしていただいた方がよろしいでしょうな」

 ザラ大将軍はそう言うと、もう立ち上がっていた。

「大公宮へは、これから私が参って伝えましょう。……あそこの奴らには暴走しそうな危ないのがおりますからな」

「頼みます」

「お頼みいたしますわ」

 二つの声に見送られて、ザラ大将軍は大公宮へと向かって行った。  





 一方。 

 時は遡る。

 それは十月の九日のことであった。


「ああああああああああああああああ!」

 ガラの爪が夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの背中に突き刺さり、ざっくりと肉を裂いた。

「うるさい男だ」

 ガラはそう言い捨てると、もう仕事は済んだとばかりに身を翻した。

 フィエロアルマとシイナドラド側の間に置かれた、長大なテーブルを後ろ足で蹴って、ひらりと飛び越える。

 その姿が、アキノに支えられたカイエンやジェネロの前に降り立つと、すぐにどこからともなく、ザラ大将軍の影使い、ノルテことナシオが現れた。

「世話をかけたな」

 そう言って、ガラがナシオとともに、フィエロアルマの軍勢の中へ下がろうとした時だった。 

「おい、バケモノ!」

 左腕を切り裂かれ、右肩を噛まれた上に脱臼させられたエルネストが、さすがに顔をしかめつつも身を起こした。

 ガラが恐ろしいのか、気絶したのか、襲われたまま起き上がることもできない夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの様子に恐れをなしたのか、シイナドラドの兵士達はエルネストを助け起こしにも来なかった。

「名前を教えろ」

 いろいろと性格には問題があっても、彼は彼なりに一国の皇子の矜持というものは持っていたらしい。

 泥の上に座った姿勢で問うエルネストへ、ガラは簡潔に答えた。四つ足の獣にしか見えない彼は、振り返りさえしなかった。

「ガラ」

 エルネストは、ぎりぎりと歯を鳴らした。

「……覚えてろよ。ケダモノめ」

 だが、もう足を止めようともしないガラは動じなかった。

「そんなことはどうでもいい。俺に復讐したければ、今はさっさと手当でもさせることだな。……勇気がまだあるなら、ハーマポスタールまで追って来るがいい」


 ガラとナシオがフィエロアルマの軍勢の中に消えると、長大なテーブルのこっちと向こうにいる人間は、たった八人になった。

 カイエンのそばにはアキノ。

 そして、怒りを隠そうともしない仁王立ちのジェネロ、それにザラ子爵、やや後ろにジェネロの副官の一人のイヴァン。

 テーブルの向こうには、やっと上体を起こしたエルネストに、倒れたきり起き上がれない夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ。それに、傷ついた彼らを助けようともせずに無表情で見守る、鼠のような顔の男。サパタ伯爵。

 やがて。

 カイエンたちの見守る中で、ゆっくりとサパタ伯爵が動いた。それは、仕方がなくて動いているのだ、と全身で主張しているような気だるい動きだった。

「……指示されないと、動けもしないのですか。シイナドラド国軍の兵士の名が廃りますよ。お前達、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオを後ろへ下げて手当なさい。エルネスト皇子殿下の手当はとりあえず、ここでしなさい。これから行う約定の責任は私が取りますが、皇子殿下にはしっかりと見守っていていただかねばなりませんからね」

 そう言う、サパタ伯爵の声は落ち着き払っていた。

 その声の厳しさにはっとしたのか、シイナドラド兵達がばらばらと出てきて、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオを後ろの陣営へと引きずって行く。

 残りはエルネストに取り付いた。その中にはエルネストの侍従のヘルマンの姿もあった。傷口を確かめると、何人かが手当の用具を取りに走っていく。

 サパタ伯爵は、カイエンにもザラ子爵にもジェネロにも、シイナドラドまでの旅の間、ずっと親しもうともしなかった男だった。

 それが、初めて、カイエン達の方をまっすぐに見た。 

「恐れ入ります」

 深々と礼をして、彼は言った。

「もう、そう長くはお時間は取らせませぬ。まずは、そこの皇子殿下のお手当が終わるまでお待ちくださいませ」

 そう言うと、もうサパタはエルネストを見ることもなく、その辺りを散策でもするように歩き始めた。

 時折、見上げるのは快晴の空。

 それに国境に続く長城ムラジャ・グランデ。そして、未だ夏の名残を残して緑の残る森の姿だろうか。

 一触即発の状態で睨み合う両陣営の前で、悠々と散策してでもいるようなその姿は、サパタがその命を持って今回の事態の責任を取らされることをもう知っているカイエンのみならず、ジェネロやザラ子爵にも異様に映った。

 やがて、エルネストの手当の準備を整えてシイナドラド兵達が戻った。

 地面に戸板が置かれ、その上に清潔な布が敷かれて、その上にエルネストが横たえられる。

 かなりひどい傷にもかかわらず、エルネストは意識を保っていた。

 だから、手当が始まった途端に、憎まれ口が止まらない。

「忠実な犬っころがたくさんくっついてるじゃねえか、カイエン」

 傷の痛みか、すでに発熱が始まっているのか、脂汗を額に浮かべながら憎々しげに言ってきた言葉がこれだ。

 カイエンはもうこの三週間ほどの間で慣れていたので、そちらを見ようともせず無視したが、アキノやジェネロ、ザラ子爵はぎろりと目をむいた。

「なんだてめえ」

 売りことばを真正面から買って見せたジェネロへ、カイエンは手を振った。

 そして、腹に力を入れるようにして、あえて突き放すような言い方を選び、やっとの事で考えていた言葉をそのまま言うことができた。そばにジェネロたちがいる今でなくては言えない言葉だ。

「あれが、シイナドラドの第二皇子殿下だ。口が減らない、わがまま皇子様で、困ったよ」

 ジェネロも、第二皇子がハウヤ帝国へ婿入りするかもしれないという話は聞いている。

 その皇子が、ラ・ウニオンからカイエン一人を連れ去ったことも、アキノ達からもう、聞いていた。そして、さっき、カイエンを連れてここまできたのが彼だということも。

「へー。それじゃあ、あんたが大公殿下をこんなに痩せさせちまった元凶ってことだな!」

 ジェネロは吠えたが、エルネストはジェネロなど見てもいなかった。さすがに怪我の痛みが冷静さを失わせていたのだろう。

 エルネストはカイエンしか見ていなかった。もう、カイエンの方は目を合わそうともしないとしても。

「……覚えてろよ。それでもあんたは俺のものだ。これはもう、決められたことなんだからな!」

 カイエンはこれを言ったら、今や完全にフィエロアルマを背景にして、「虎の威を借る狐」であることは重々、承知していたが、叫ばずにはいられなかった。 

「ふざけんな! おととい来やがれ、クソ野郎!」

 ああ、これが言ってやりたかったんだ。

 捕まっている間は、気持ちも萎縮していたのだろう。それにあれ以上、不愉快な事態を引き寄せるようなは避けたかった。だから、何度もそう叫びたい衝動を抑えるしかなかったのだ。

 だが、そこではっと気がついた。

「そんなこと、誰が決めたっていうんだ? 気持ち悪いことを言うな!」

 慌てて付け足すカイエンへ、エルネストも負けすに言ってきた。

「あんたには、まだまだわからねえだろうな。あの人のことは、そうそう簡単に理解することはできないさ」

「あの人?」

 カイエンはこの言葉をエルネストが口にするのを、ここまでに何度か聞いていた。そして、その度にはぐらかされていた。

「おい。あの人ってのは誰だ? ……まさか」

 その時、カイエンの頭をよぎったのは、あの時のことだった。

 カイエンが星教皇に即位させられた瞬間に、地下聖堂の二階の回廊から聞こえてきた、嬉しげな拍手。

 あの、紺色か黒の服を着た男。その真っ白な横顔がちらりとだけ見えたこと。

「あの人、あの人って。お前には自分自身の意志というものがないのか!」

 だが、カイエンはそれを頭の隅へ押しやって、エルネストを挑発する方を選んだ。

 ここではそうした方がいいような気が、なんとなくしたのだ。

 エルネストは反射的になにか言いかけたが、自分を抑えた。そして、しばらくの間、地面に寝たまま、真っ青な秋の空を見上げて黙っていた。

 そして、カイエンの方に目を戻した時、その顔からは憎々しげな表情も、いつもの驕慢な雰囲気も消え去っていた。

 まっすぐな目。

 そこにはいつものエルネストらしくない、真剣な色が見えたのだが、カイエンはその目をもうまっすぐに見ることはできなくなっていた。

「……カイエンよぅ。あんたも俺も、話し方が汚いだろ? どっちも大公様、皇子様らしくねえや。これってあの人の喋り方が移っちまったんだよなあ」

 聞いた途端、カイエンはビクッとした。

 乱暴な喋り方。まるで、下町の阿仁さんのような。

 まさか。

「……俺もさ。あそこに居たんだよ。……あの、紺色の部屋に。あの、桔梗館に集められた、子供達の中に。ほんの短い間だけだけれどもな」

 あ。

 カイエンの頭の中で、去年夢で見て思い出した、父のアルウィンの秘密の場所だった桔梗館の紺色の部屋の情景が蘇った。

 カイエンがあの時、あそこに居た人間の中で、思い出せた顔は、あのアルトゥール一人だった。

 だが、あの後、宰相のサヴォナローラから彼と弟のガラもあそこにいたことを教えられた。

 マテオ・ソーサもまた、あの集まりに招待され、断っていたことも。

 まさか。


 ……あの部屋は壁紙も床に敷かれた絨毯も、天井の壁画も、すべてが紺色だった。

 壁紙の柄は桔梗。暖炉を囲む石までが紺瑠璃色。

 その、一面紺色の上に、鈍い光沢の金色の家具が置かれていた。家具の方はすべてが金。暗い金色から青金、黄金を越えて赤金へのグラデーション。


 あそこに、このエルネストも居たというのか。

 では。

 では。あの地下聖堂で拍手していた男は?

「カイエン様!」

 動けなくなってしまったカイエンを、後ろから支えていたアキノが耳元でいうのが聞こえた。

「惑わされてはなりませぬ! お気を確かに!」

 その様子を見て、エルネストが笑う。

「あははははははは。……爺さん、もう誤魔化せねえよ。あの人の意志はまだ、俺たちの中に、あの桔梗館にいた奴らの中に生き続けているんだからな。あの人が死んでも、俺たちは忘れないんだ。あの人のしたかった、あの大きな仕事のことをな!」

 大きな仕事。

「そんな顔したってだめだぜカイエン。俺から目をそらしても何にも変わらない。……あの人の支配からは逃げられねえ。あんたに関わる全ては、あの人の思い描いた世界を創るために用意されたんだからな」

「やめないか!」

 ザラ子爵が叫ぶのが聞こえた。

 それで、カイエンはザラ子爵もまた、このことについて、何らかの事実を知っていることを悟った。

「ああ。もうやめるよ。これ以上はもう俺の命に関わるからなあ」

 そう言うと、もうエルネストは黙ってしまい、手当てする兵士たちに身を任せて目をつぶってしまった。



 そして。

 エルネストの手当てが済むとともに。

 ザラ子爵はサパタ伯爵が広げた約定書をなんども読み直し、それから黙ってカイエンに署名を促したので、カイエンはうなずいて署名した。

 それからエルネストも署名し、今度の事態の責任は全て、サパタ伯爵にある、という例の約定書へのカイエンとエルネストの署名が済んだ。

 エルネストは右肩が動かなくなっていたので、その署名はいつもの彼の署名とはやや違う字体になってしまい、そのためにサパタ伯爵が、血判とともに、認めの署名を傍にすることとなった。

 それがすべて済むと。

 カイエンたちの目の前で、サパタ伯爵はゆっくりと懐から、柄も鞘も精緻な彫刻のされた銀作りの懐刀を取り出した。

 誰も口をきけない中、鞘から剣が抜かれ、鞘の方は地面へと落ちていく。

「やめないか!」

 カイエンたちは叫んだ。

 カイエンはもちろんエルネストから、彼が今度のことの始まりの時から、捨て駒としてハーマポスタールまでやってきたことを聞いていた。

 それでも彼に死なれては今度のことが時初めからカイエンを星教皇にするために企まれていたことを証明できなくなってしまうのだ。

 だが、サパタ伯爵は聞きたくないとでも言うように、両勢力の間に置かれたテーブルへ殺到するカイエンたちを手で押しとどめた。

 そして、まっすぐに真っ青な快晴の天を仰ぎ、それから、はっきりとした明朗な声で彼の国の第二皇子の名前を呼んだ。

「エルネスト様」

 サパタ伯爵は、兵士たちに支えられてやっと地面に敷かれた布の上で座っているエルネストの方を見もせず、背中で言った。

「御機嫌よう。……あの方に、私からも、どうぞよろしうお伝えくださいませ」

 あの方。

 では、このシイナドラド皇王家の末端につながる伯爵もまた、あの桔梗館にいたものたちにつながっているのか。

 カイエンはそう思ったが、もうサパタに確認する手立てはなかった。

「では、お見苦しい死に方で失礼いたしますが、おさらばでございます」

 そう、言った時には、もうサパタはその鼠のような無表情のまま、おのれの首を深々と掻き切っていた。





 自害して果てたサパタ伯爵の首を石灰で覆って首桶に入れ、そしてカイエンたちは帰国の途につくはずであった。

 だが。

 カイエンたち一行は、しばらくネファール側の国境の町、シャルダにとどまることになってしまった。

 それは、約定書への署名が済み、シイナドラド国内から撤退すると同時に、カイエン自身の体と、そして恐らくは心の一部が、彼女を裏切ったからである。

 カイエンは、倒れた。

 高熱を発し、彼女はしばらく意識もおぼつかない状態になった。

 その高熱の中で。

 カイエンは悪夢のような空間と時間の中で、去年からの出来事を反芻していた。

「アキノ。父が、父が生きているのかもしれない。そして、シイナドラドに居たのかも……」

 今、カイエンはそう、アキノを問いたださなければならなかった。

 だが、カイエンは高熱にうなされていて、それはできない相談だった。

 あの、去年の嵐のような事件。

 桔梗館に人を集め、カイエンをハウヤ帝国の女帝にしようとしていたという父、アルウィンの意を汲んだ者たちの起こした事件。

 あの事件がすべて終わった後。

 カイエンは、十五の時に病死を遂げたはずの父、アルウィンが生きていることをほぼ確信していた。

 それは、アルウィンの腹心だったという、前の大公軍団団長アルベルト・グスマンの残した手紙を読んだからだ。

 あの、一葉の恋文のようなものを。

 そこに書かれていたのは、ただ、帆船の名前と、その出航する期日だけだったが、それだけでカイエンには十分だった。

 そして、そこに書かれた船に乗り、父は遠く南方のネグリア大陸南端を越え、可能ならば西側の未知の海へ乗り出そう、という冒険船団の一隻に乗り込んで、ハーマポスタールを去っていったであろうことも信じきっていた。

 だが、その父がシイナドラドと関わりを持ち、あの桔梗館にシイナドラドの第二皇子であるエルネストまでも呼び寄せていたとなれば。

 去年の事件の見え方が違ってくる。

 アルウィンがしたかったことは、カイエンをハウヤ帝国の女帝にすることではなく、シイナドラドの星教皇にすることだったのか。

 そう考えれば、すべてが説明できるのか。

 いや、それでも、去年からの出来事のすべての説明にはならない。

 なぜ、アルウィンを後ろ盾にして、将軍にまで上り詰めていたヴァイロンが将軍位を追われ、カイエンの男妾に落とされたのか。

 皇帝サウルはなぜ、大公軍団に帝都防衛部隊を新設させ、カイエンの権限を大きくさせたのか。

 なぜ、グスマンやアルトゥールたちはあんな陰謀にもならない中途半端な事件を引き起こしたのか。

 螺旋帝国で起きた革命。

 そして、亡命してきた皇子と皇女たち。

 ハーパポルタールの下町で起きた、連続殺人事件。

 後宮でアイーシャに襲い掛かった、星辰セイシン。

 説明はまだできない。

 だが、これら全ては「繋がっている」のではないか。


 渦だ、とカイエンは思った。

 そもそも、アルウィンが生きていると言うことさえもが、この渦の中ではまっすぐに信じられることではない。実際にすべての裏にいるのは、アルウィンさえも操っていた何者かなのかもしれなかった。

 エルネストも最後まではっきりは言わなかった。


(あの人が死んでも、俺たちは忘れないんだ。あの人のしたかった、あの大きな仕事のことをな!)


 いつしか、カイエンはあのシイナドラドのエルネストの部屋で見た夢の沼のほとりに立っていた。

 どろどろした沼。

 深緑と青黒い何かと、そして暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような、あの沼。

 だが、沼にはもう、白い睡蓮は咲いていなかった。

 あるのは暗闇と、静寂ばかり。

「誰もいないのか」

 だが、カイエンが呟くと、沼の向こう岸から声が帰ってきた。

「いるよ。まだ、いるよ」

 あの、二人の幼児のうちの、カイエンに「大丈夫だ」と言った方の子供の声だった。

「お前は誰なんだ?」

 カイエンが聞くと、声が戻ってきた。

「もうすぐ、会えるから。だから、早く帰ってきて、カイエン」

 前に見た夢の中では力強かった声が弱々しく聞こえた。

「えっ」

「早く、一刻も早く帰ってきて。そして、あたしを見つけて」

 カイエンは心底、驚いた。

「お前を見つける……?」

「そうだよ、カイエン。見つけて。あたしを見つけて。そして、ずっとずっとそばにいて」




 カイエンは目覚めた。

 もう、迷いにも夢にも拘わってはいなかった。

 彼女は、立ち上がった。

 自分の足で。


 まだ、微熱が残っていたが、それに構っている時間はなかった。

 アイーシャたちの出産は十一月の下旬とされていたのだから!


 ……走れ!

 走れ走れ走れ、走れ。


 カイエンたちの一行は、その日から全速力で故郷を目指すこととなった。

 走れるだけを走り、夜は野営し、行きとは違ってネファールでもベアトリアでも首都で止まることもしなかった。

 間に合ってみせる。

 アイーシャとマグダレーナの出産に。

 これもまた、繋がった運命の一つにもう間違いはなかったからだ。

 カイエンは、馬車の中でひたすらに念じるしかなかった。

 自分にその時、何ができるのかもわからない。

 だが、自分はそこにいなければならない。

 生まれてくる子供達を、あの真の姿をうかがわせない、しかし、災厄のような存在から守らなければならないのだ。

 そして。

 それを真実、なし得るのはもしかしたら自分しかいないのかもしれない。

 カイエンは、泣きそうな心に自ら鞭を打った。

 なぜなのかもわからない。でも。

 カイエンはその、歴史の生まれる場所にいて、助けられるものならばその存在を助けなければならない。

 それだけが、彼女にもう、わかっていることだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る