第六話 交わる色彩

「見事だ青年。素晴らしい終幕だったよ。」

いつか聞いたような台詞をジョヴァンニは放つ。

姿形はほとんど変わってしまったが、声や瞳、発言はそのままの男に、やはり老人と異国人が同一人物であると痛感した。

思い込みが人間の五感に与える罠に敢志は見事に嵌ってしまっていたのだ。

「だが少々冷や冷やさせてくれたね。途中から気絶した振りを止めようかと思ってしまった。」

「ふり?」

「厳密にいえば目覚める機会を伺っていた、が正しいかな?」

もう声色で老人でないとばれる心配がなくなり流暢に話しているジョヴァンニが手拭いを松世に返す。

「朝露を纏った水のお陰で目覚めることが出来た。感謝いたします。」

異国人特有のこ洒落た言い回しに敢志の頬は痙攣してしまった。

しかし女性陣はうっとりとしている。

「直ぐにお礼をしたかったのですが、残念ながら不穏な空気を感じてしまい今になりました。」

「不穏?」

「今起きると異国人というだけで警察に突き出される気がしましてね。」

本心では笑っていない微笑みが敢志に向けられる。

「お嬢さんが老人でないと気がついてくれたのに全く相手にされないものだから少し焦りましたよ。しかし、これが役に立ってよかった。」

松世の手を握りしめ、優しくカイゼル髭を取り返す。

「残念ながらシルクハットと黒のかつら、上着は奪われてしまった。だが、気絶する前に機転が働いて髭を握りしめたのは正解だったようだ。」

お道化る様にカイゼル髭をもとの位置に持っていく。

「相手も逃げる為には変装が必要だ。カイゼル髭をみて、変装で入れ替わったとのだと気が付いてくれると信じていました。お見事です。」

褒められて文が飛び跳ねた。

しかし、ジョヴァンニは神妙な面持ちになる。

「私の疑いは晴れた。しかし申し訳ありません、大切な牛鍋をまんまと盗まれてしまった。」

ジョヴァンニが見つめる視線の先、きっとそこにあったのだろう。

謎の異国人が今回の犯人でないと分かり、警察官も本来何故呼ばれたのか思い出したように忙しなく倉庫を調べ始める。

松世は開店準備があるからと強く訴え、署での取り調べは行われず、まだ閉店している店で今回の事件の調書は取られた。

「そもそもどうして店の奥にいたんだ? この店の給仕じゃないんだろ?」

まだ異国人に警戒している警察官は細かい指摘をしてくる。だが、どこ吹く風でジョヴァンニは答えていく。

「髭が取れそうになって糊で接着する為に厠にお邪魔しようとしたのだ。するとあの事件に出くわした。」

不思議な行動の辻褄がどんどん繋がっていくと感心しながら敢志は隣の個室からジョヴァンニを盗み見た。

 どこからどう見ても異国人のその風貌に、仁義で助けたとはいえ冷徹な視線を向けてしまう。それに気が付いているのか、時折ジョヴァンニは首を傾けた。

視線が合う前に目を逸らすと、先に取り調べを終えた松世が湯呑を持ってきた。

「ごめんなあ。変な事に巻き込んでもうて。」

「いえ。それより牛鍋が早く見つかるといいですね。呪いの牛鍋だけど。」

見つかって欲しいとは言い難い代物だが、代々受け継がれてきた牛鍋とあって、松世は必死に警察官に早期発見を懇願していた。

「せやな。」

悲しそうな表情で盆を抱きしめる松世。

昔の看板娘の目を伏した表情は艶めいていた。

「ほんまにどうして……。」

「価値のある牛鍋だったんですから。大丈夫、きっと戻ってきますよ。」

ゆっくりと松世は首を横に振った。

「鍋とちゃう。敢志はんの事や。」

「俺ですか?」

深く頷く松世が恐る恐る尋ねる。

「ほんまに何があったん? 異国の方に対してえらいご立腹みたいやけど。」

ご立腹と優しく言ったが、実際に松世はあの倉庫で憎しみに似た物を感じ取っていた。

「昔は異国の物にえらい興味津々やったのに。」

松世は昔の敢志を知っているが故にここ数年の彼の変わりようが理解できなかった。

「興味なんてない。」

「嘘おっしゃいな。異国の品物のお勉強もしてはったし、何より『弁柄堂』も昔食べたチョコレートの色が由来やって此処で話とったやない!」

「そ、そんなの知りません!」

「やのに急に異国の方を毛嫌いするようになって。もう何があったか話してくれてもええんとちゃいます?」

松世を避ける様に顔を背け、態度でこの話に触れてほしくない事を示す敢志。

いつまでも何も話さない敢志にとうとう松世は一つだけ秘めた心当たりを漏らした。

「もしかして清志きよじはんの事と何か関係がありますの?」

敢志が湯呑を強く握りしめ、水面に自身の顔を映せば、深く眉間に皺が寄っていた。

「……。」

「あの日から……。清志はんが亡くなりはってから敢志はんはおかしくなってしもうた。」

「それはそうでしょう。彼は……。伊東 清志は、俺の父親なんですから。父親が亡くなったのに普通でいる事の方が無理だ。」

手が震えて水面が揺れる。

その水面に吸い込まれそうな錯覚を覚え目を閉じた敢志。

そして、今日こそは清志の死の真相を確かめたい松世に観念し、ゆっくりと口を開いた。




 父親が亡くなったあの日、敢志は船の甲板から落下した血まみれの清志を助けようと海に飛び込んだ。しかし敢志の手は届かなかった。

深く深く底の闇に吸い込まれていく清志は、自分から落ちて行くかのように闇へ沈んだ。

そしてあの日から、敢志の心も闇に沈んでしまったのだ。

もう届かぬ父親の元へ近づこうと伸ばし続けた髪は腰ほどまで伸びた。

報われぬ気持ちはいつしか清志を殺した英吉利イギリス人に対する憎悪へ変わっていく。

しかし彼らは裁かれなかった—————いや、裁くことが出来ないのだ。




領事裁判権りょうじさいばんけんさえなければ……。」

異国人を大日本国帝国では裁くことが出来ない不平等な権利に、松世は全ての真相を悟った。

「……。」

「もうここまで話せば分かるでしょう。それに別に異国の人間が嫌いなんじゃない。英吉利人が嫌いなんです。」

湯呑から顔を上げた敢志の表情は昔のあの事件を思い返し、さらに歪んでいた。

松世もさすがにまずいところまで踏み込んでしまったと後ずさる。

しかし、そこへ能天気な声が降ってきた。

「では伊太利亜イタリア人の私は問題ないわけだ。」

敢志が「はあ?」と嫌そうな顔を上に向けると個室と個室を隔てる衝立ついたての上からジョヴァンニが見下ろしていた。

「また盗み聞きか?」

刺々しく言い放つが、相変わらず爽やかな表情を崩さぬジョヴァンニ。

しばらく睨み付けていたが先ほどの彼の言葉に何やら不穏な物を敢志は感じた。

「ところで何が問題ないんだ?」

「まあまあ、そんな怖い顔をしないでくれたまえ。そんな事ではこれから一緒に暮らせないぞ。」

「はああ?!」

衝撃で声を上げ、持っていた湯呑を激しくちゃぶ台に置きお茶が水滴を散らす。

顔を引っ込めたジョヴァンニを問い詰める為、衝立押し除ける。

「ちょっと、敢志はん!」

松世の牽制を無視して、敢志はジョヴァンニに詰め寄った。

敢志より頭半分も出た長身に怯むことなく、発言の真意を確かめる。

「一緒?! 何故?!」

詰め寄られたジョヴァンニが警察官に視線を送ると、警察官が淡々と説明を始めた。

「まだこの事件は解決していない。犯人逮捕までこの異国人とは連絡を取る必要がある。」

「連絡なんて警察でしてください!」

「この男には家がない。家族もいない。」

意図も簡単にジョヴァンニの身の上を話した警察官に敢志は口を噤んでしまう。

「のらりくらりと大日本帝国中を歩き回られてはかなわん。あんたの家で引き取ってもらいたい。」

期待を込めて敢志は松世を見たが、彼女は首を横に振った。

「うちでは無理やで。」

「女将さーん。」

すがる気持ちでお願いするが、逆にキッと睨まれる。

「これを機に異国嫌いも治しんさい!」

「うっ。」

松世は、異国に想いを馳せ必死に目を輝かせて勉強していた昔の敢志に戻って欲しかった。

だからこそ警察官の提案には賛同だった。

こればかりは一朝一夕では治らない。荒療治にはなるが松世は何としても敢志に昔の楽しそうな姿を取り戻してほしかった。

あと一押しとばかりに彼の弱点になる単語を利用する—————天に祈りながら。

「清志はんも、息子がこんな事になっとるって知ったら成仏できひん。私もあの世で恩人に合わす顔がないからここは心を鬼にさせてもらいます。」

「恩人って、別に父は何も。」

「いいえ。貿易商の清志はんのお陰でこの牛若丸も今まで生き残ってきたさかい。おらんくなってもあの人は私の恩人なんよ。」

食肉用の牛の確保に一躍買った貿易商の清志。

その絆を永遠に大切にしてくれている牛若丸は伊東親子にとって第二の家族の様なものだった。松世も清志だけでなく、その息子敢志のことも大切に思ってくれている。

「せやから、私には敢志はんを昔の様に戻す義務があるんや。困ったことがあったらいつでも頼ってくれてええから。今は、前に進まんと。」

「ね?」と手を握り優しく微笑む松世。

逞しくもその母性溢れる表情にここ牛若丸の居心地の良さを再確認してしまう。

その松世の柔らかな気迫に押され、敢志はジョヴァンニと向き合った。

梔子色の短髪に怒りが沸き、清志を殺した英吉利イギリス人とどうしても重なってしまう。

だがそれと同時に懐かしい声が頭の中で反響する。


————— 一寸先は闇。だが歩みを止めてはいけない。出口は必ず存在するんだぞ、敢志。


天から降り注ぐような声で今自分自身がすべき事を探る。

そしてその結果見えてくる答えは一つしかない。


「滞在期間は、事件が解決するまでだからな。」

「ああ勿論だ。それで構わないよ。」


先の見ない伊太利亜イタリア人との生活。その一歩を踏み出した。

真っ黒な色彩と水色の色彩が交差する。シルクハットが消え、はっきりと照らされているジョヴァンニの水色の瞳は相変わらずガラスの様で、そして透き通っていた。

それが敢志の英吉利イギリス人に対する濁った気持ちと相反していて、これからの生活の前途多難を予感させる。

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