白い大地


 暗闇の世界の中で、水面に浮かび揺れ動かされるような浮遊感がラズの全身を包んでいる。それ以外の感覚の全ては遮断されているかのように、光も音も匂いも感じられない。身体には気だるさがまとわりついており四肢には力が入らない。思考だけが唯一鮮明に働いていた。


 ここは何処なのか。何故ここに居るのか。何がどうなったのか。

 海に沈んだ輝晶竜からの脱出を試みたが、あと一歩のところで恐ろしい大蛇に襲われて、その後は――意識を失う寸前の出来事はもやがかかっていて上手く思い出せない。水中で気絶したという事は、溺れて死んでしまったのだろうか。とすれば、この暗闇の世界は死後の世界か。あと少しのところだったのに。結局のところ何もできなかった。

 エレミアは、無事だろうか? あのまま海に沈んでしまっていたら――。


 暗闇の空間で悔恨に苛まれていたラズだったが、共に輝晶竜にのってカガリを出た空色の少女の姿がふと思い浮かぶ。溺れるその最後までラズの首にしがみつくように抱き着いていた少女の安否はラズには解らなかった。


 でも、無事だとしてもそうでなくても、死んでしまった後ではもうどうしようもない。何もかも手遅れだった。


 そうラズが諦念ていねんしていると、浮遊感だけだった世界に突然音が生まれた。


『ね……あ…た……てほし…の』


 優しい女の声が頭上から包み込む様に降りかかる。その言葉は途切れ途切れで何を伝えたいのかはラズには理解できなかった。


『え?……が?そ…な……急に言わ……も…うか…ないわよ』

『良い……ない……レメに決めて……いの』


 それは二人の女の会話の様だった。僅かに動揺が混じっているが芯のある声に、優しく柔らかい声。二人の声はラズにとって聞き覚えがあるような、懐かしさを感じる声だった。


『あなたなら……きっとこの子と仲良くなれるはずだから』


 今度は鮮明に言葉が紡がれる。慈しみの心がこめられた、全てを許す様な声だった。全身に降りかかるその声に、自身に向けられたものでは無いとわかっていてもラズは縋りたい気持ちが沸き上がる。この声に、言葉に込められた温もりをまだ感じていたいと、心が切望していた。


『そう……がそう言うなら』


 芯のある声は考えるように沈黙する。そして暫くしてから『それじゃあ』と口にする。


『それじゃあ、アナタの名前は――』

「――ズ、ラズ!」


 声を被せるように呼ばれた名前に、暗闇の世界に光が差し込んだ。


「ラズ!」


 再び名前を呼ばれた瞬間、ラズのぼやける視界いっぱいに美しい青が広がった。


「あ、あれ……」


 掠れた声がラズの喉から出る。その視界に広がる青の正体は空色の――エレミアの瞳で、ラズの顔を覗き込む様にして見つめていた。


「ラズ、気が付いた?」


 エレミアは手を伸ばし、仰向けで横たわるラズの顔にかかる紺色の髪を退かして顔色を観察する様に見る。ラズの身体は水浸しの所為で体温が奪われており、顔も青白く唇も血色を失っている。

 ラズは呆けた様子でエレミアの瞳をしばらく見つめていたが、左腕から感じる痛みと鼻や口内に残る潮の匂いがつんと刺激し朧げな意識がだんだんと鮮明になる。


「僕、生きてる……?」


 ラズは寝転がったままに視線を彷徨わせた。自身が横たわる地面は柔らかい白の砂で、足元の方は海が広がっており、爪先にまで波が寄せられてくる。

 空から海へ落ち、水中から脱する寸前で溺れたところで記憶が途切れていた為、どういった経緯でこの砂浜に打ち上げられたのかはラズには見当もつかないが、二人とも無事に生き延びている事に胸を撫でおろした。


「僕たち……助かったんだ。でも、どうやって?」

「実はワタシも身体を保つのに精一杯で状況が取り込めなかったの。誰かがここまで運んでくれた気がするのだけれど……ヒトの気配が全くないわね」


 傍らに座るエレミアへ再び視線を上げると、少女は紺色のワンピースについた砂を払いながら立ち上がった。輝力が無くなりかけて身体が半壊していたエレミアの身体はすっかり修復されている。ラズもゆっくりと半身を起こした。


「ここは何処なのかしらね」


 エレミアは海に背を向け、ラズの背後へと視線をやった。ラズも習って振り向くと、そこに広がるのは砂浜と同じ白い砂丘だ。カガリとはうって変わって草木一つ生えていない乾燥した地帯の様だった。暖かい空気が漂う大地には砂丘が一面に広がっており、建築物一つ見当たらない。エレミアの独り言のような問いかけにラズは困ったように首を傾げた。


「僕たちが目指してたのは——ガングレア大陸、だっけ。そこだったら良いんだけど……」

「そうね、その方角に向かっていたのだから近隣である事には間違いないと思うわ」


 ラズはよれた着物の帯を結びなおそうと緩めると、ふとそこに差し込んでいたナイフが革のカバーごと無くなっている事に気付き、「あっ!」と声を上げた。周囲を観察していたエレミアがその声に振り向く。


「どうかしたの?」

「島を出る前に貰ったナイフ、落としちゃったみたいで。もしかしたら海の中に……」


 身体をいくら探ってもあの革のカバーに包まれたナイフは無く、周囲の砂浜を探しても見当たらない。ラズは顔を上げて海の方へと視線をやると、同時に沖の方で大きな水音が鳴り魚が跳ねた様な飛沫が上がった。


「ラズ、海に入るのは危険よ。ナイフの事は諦めましょう」

「……うん、そうだね」


 波は凪いでいるが、命を落としかけたあの海に再び潜ってナイフを探すなどと無謀むぼうな事を考えるほどラズも愚かでは無い。ラズはエレミアに同意し、緩んだ帯をしっかりと結びなおすと白い砂を踏みしめ立ち上がった。


「エレミアの身体は……大丈夫?」

「えぇ、動く分には心配ないわ。ラズこそもう動いて平気なの?その腕の怪我は止血まではできたけれど……それ、ただの怪我じゃないわよね?」


 ラズは自身の身体を確かめるように見る。左腕はエレミアの言葉通り大蛇に噛まれた箇所は、赤い点の噛み跡が微かに残っているが流血はすっかり止まっていた。僅かに動かせばちくりと刺す様な微かな痛みが主張するものの、取るに足らないものだった。


「実は、輝晶竜から脱出した時に海の中で大きな蛇みたいな生き物に噛まれちゃったんだけど……その後の事が思い出せないんだ」

「蛇? フォールンかしら」

「それはわからないけど……結局僕たち、どうやってここまで来れたんだろう?エレミア、誰かが運んでくれた気がするって言ってたけど、その人が助けくれたのかな?」

「ただ何となく不思議な輝力を感じただけで確信はないわ。確かめる術が無いのなら考えてもしょうがないわね。――ここに留まるのは危険だわ。日が暮れてしまう前に休める場所を探しましょう」


 エレミアが砂丘へ向かって歩き出したのに続いてラズも一歩踏み出す。すると、何かが跳ねるような大きな水音が再び海から鳴った。


「?」


 背後からの水音が耳に届いたラズは咄嗟に振り向き海を見た。しかしいくら目を凝らしてもそこにあるのは波打つ大きな水面だけだった。


「ラズ?」

「あ、うん。いま行くよ」


 不自然な水音の正体はわからず、エレミアに急かされたラズは慌てて海から視線を外し先を進む少女の後を追った。


 砂丘の斜面は高く急勾配になっており、一歩進むたびに細かく柔らかい砂に足が絡め取られ歩くだけでも体力は消耗する。海で溺れたばかりの起きがけに動き出したラズの体調は決して万全では無く、更には全身が濡れて体温が下がっているために体力の消耗は著しい。僅かに砂丘を登っただけでもラズの息はすっかり上がっていた。

 ラズの数歩先を足早に進むエレミアは一番に砂丘を登りきった。そこから一望できる景色は、白い砂だけが広がる大地だった。エレミアの青い双眼がある一点に視線を留めた。地平線に広がるのは草木の緑と巨大な水たまり、そして人々が住んでいるであろう白く角ばった建造物の巨大な群れ――街だった。


「あれって……街?」


 漸く砂丘を登り切ったラズはエレミアの視線の先にある砂と同化する白い街を凝視した。二人がいる位置から見える街は自身の掌よりも小さく、遥か遠くにあることがわかる。真っ直ぐ一直線に進んでも緩やかな砂丘を幾つも越えなくてはならず、二人の歩幅では日が暮れる前に着くかどうかの距離だった。


「大きな街ね。あそこなら情報収集も容易にできそうだわ。ラズ、長い道のりになるけれど、行けるかしら?」

「うん。行こう」


 深呼吸をして息を整えたラズは、横目で自身の様子を伺う少女よりも先に前へと一歩踏み出した。しかし何か思いとどまったように足を止めると俯き、自身の胸に手を当てた。エレミアはラズの不可解な挙動に首を傾げた。


「……エレミア」

「なぁに? やっぱり少し休んでからにする?」

「ううん、違くて。こんな状況で言うのは変なのはわかっているんだけど、僕、少しわくわくしているんだ……」


 震える声から発せられる口の端は微かに上がっており、混乱や不安だけでなく高揚が混ざった表情を向けた少年に、エレミアは目を見張った。


「きっと記憶を失う前は当たり前に見ていたはずのこの砂も、海も、空も、草木も全部……何もかもがキラキラして見えて。時々吹き付ける風とか、大地を踏みしめる感触とか、今僕の全身で受け止める全部の出来事が新鮮で楽しくなってきてるんだ。何回も死にかけたり、いろいろな事が起こりすぎて吹っ切れちゃったのかな……これって、やっぱり変だよね?」

「……そうね、この地に辿り着くまでにも命の危機が連続した上に、フォールンに襲われたら無事では済まない今この時にその感情が出てくるのは……現実逃避の兆候かもしれないわ」

「だ、だよね。やっぱりそうだよね」


 突き放す様に即答したエレミアにラズが肩を落としながら苦笑いをすると、少女は「冗談よ」とおどけた。


「未知なる体験に抱く感情が前向きな気持ちであることは……怖がって全てを諦めてしまうよりはずっと良い事だと思うわよ」


 まるで幼子を見守るような柔らかな視線をラズに向け、微笑みながらエレミアは続けて言った。


「ただ、楽しむ事は否定しないけれど、この先も生死の境を行き来する危険な道のりである事は確実よ。——それでも"わくわくする"なんて言えるのかしらね? ラズ」

「うぅ、わかったから意地悪言わないでよ……」


 最後に加えられた言葉は浮かれた様子のラズにしっかりと釘をさした。ラズは叱られた子供のように肩を縮こませる。


「さあ、長居は無用よ。早いところ街に行きましょう」

「うん」


 遥か先の街へ向かって、登り切った砂丘を下るためにエレミアが一歩足を踏み出した。最後に独り言のように呟いたエレミアの不可解な言葉に首を傾げながらも、ラズは少女に並んで歩き出した。


 その瞬間、二人が立つ大地が地鳴りを上げながら震動する。微かな揺れに立ちくらみかとラズは勘違いしたが、次第に揺れが強まり自身が立つ地面そのものが揺れている事に気付く。


「……え、なに?」


 細かな砂の大地全体が大きく揺れだし、周囲の砂丘が雪崩のように崩れ落ちていく。

 二人が立っている砂丘もまたその地震によって崩れ始め液体の様に波打っていくと、白い砂が泥沼の様に二人の脚を飲み込み始めた。


「足が……!」


 ラズは慌てて飲み込まれる脚を上げようとするが、身体を捩った途端、がくりと砂の中に引っ張られるように沈み、一瞬で膝まで飲み込まれてしまう。


「だめよラズ! 下手に動くともっと飲み込まれてしまうわ!」

「あ、うわ!」


 地面を揺さぶる震動は次第に大きくなり、足を取られたことで身体のバランスを取れなくなったラズは背中から砂に倒れ込んでしまう。


「ラズ!」


 咄嗟に地面についたラズの右腕が瞬く間に砂の沼に沈みこんでいく。下半身が完全に飲み込まれてしまったラズは、残る半身だけは沈むまいと砂から逃げるように身体を捻らせるが、努力もむなしく沈む一方だった。

 唯一砂から逃れた左腕に向かってエレミアが手を伸ばすが、少女の腕の長さではラズの手に掠りもしない。


 ラズはこれ以上沈むまいと腹に力を込めて踏ん張り砂の圧力に抵抗していたが、とどめと言わんばかりに地面が大きく揺れたことで力が抜け、身体は肩まで沈んでしまう。藁にも縋りたい気持ちだがその藁すら無い絶望的な状況にラズの頭が真っ白になった――瞬間。


「掴め!」


 背後から男の声がした途端、大きな影がラズを覆いかぶさった。その声――影の正体は白色の長いたてがみが特徴的な大きな馬、そしてそれに乗るテンガロンハットを深く被った褐色肌の青年だった。

 男は茶色のポンチョの下から筋肉質の腕を伸ばし、馬の上からラズの残された左腕を力強く掴むとそのままの勢いでラズの身体を砂の沼から引き抜いた。男は軽い荷物を扱う様にラズを自身の乗る馬に乗せると、エレミアにも手を伸ばした。


「「!」」


 エレミアと男の視線が合う。男の赤茶色と白が共存する瞳と、エレミアの空色の瞳――二人は互いの瞳の輝きに目を見張った。それも束の間、エレミアは伸ばされた手を両手で抱きつくように掴むと、男の太く逞しい腕が少女の身体を掬うように持ち上げ、そのまま脇に抱えた。


 白い馬が流砂を軽やかにかけ、地を強く蹴ると高く跳躍ちょうやくした。

 うつ伏せで乗せられたラズの眼下には砂の海が広がる。すると、崩れる砂丘はまるで生命を持っているかのように身じろぎをする。

 地鳴りが鼓膜を破きそうなほどに響きわたった途端、ラズは自身の目を疑った。


「え……⁉︎」


 身じろぐ大きな砂の山がのそりと白砂を撒き散らしながら、"立ち上がった"のだ。

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