桜の咲く頃、梅は散る

坂水

〈上〉開花

 いっとう寒さが厳しい季節、誰より早く春を告げる花がある。

 寒風にさらされた、凛とした佇まい。

 傍らに立てば、ほのかに薫る清涼な香り。

 氷色の空を突き刺す枝の、小さな小さな白いほころび。

 けれどほとんどの人が待ち焦がれる「春」は、その後に咲き誇る薄紅色の花だ。

 桜が咲く頃、誰より早く咲いた春はすでにない。人知れず咲き、人知れず消える。爛漫の春を謳歌することなく。


 ――あるいは、春を連れてきたのは、その花自身かもしれないのに。





 中二の暮れ、二月から三月にかけてはどこかしら緩む時期だ。

 部活では、夏に引退した先輩の後を引き継いだ一年相手へのいきり・・・にも、そろそろ飽きてくる。

 勉強では、学年末テストを終えたばかりで、真剣に受験を考えるには少し早い。

 私生活では、この寒い中どこか遊びに行こうという気は起きず、暖かな部屋でただ惰眠を貪っていていたい、そんな季節だった。


 理科室の掃除はやってもやらなくても、あまり変わらない。モップ片手にだらだらと実験台の周りを回遊していたその時。

 梅野うめの波留はるは、いきなり引き戸を開けて入室するなり、「付き合って下さい」と言い放った。

 真っ直ぐな黒髪を二つに分けて結び、制服はスカート丈を少しつめただけの普通の着こなし。中肉中背、化粧気のない(中学生なのだから当然だけれど)地味な顔立ちに、生真面目な表情をのせて。

 箒を横抱きにしてエアギターごっこをしていた友人の波多野はたのに向かって。

 僕という第三者がいることなんてまるでお構いなしに。



「梅野ってさあ、どんな奴だ?」

 波多野はバスケットボールを器用に人差し指で回しながら尋ねてきた。

「なんで僕に訊くのさ」

「幼馴染だろう」

「家が近所なだけで、この数年まともに口利いてないよ」

「子どもの頃、お医者さんごっことかしてないのか」

 ヒワイだよ、そう返しながら一応は記憶を探る。

「・・・・・・一緒にままごとしたり、宿題したり、本読んだりはしたかな。あと年末年始とか親戚が集まるとゲームに混ざってた」

 ともかく小学生までの話だと、付け加える。正確には小学五年生まで――これは心の中だけで付け加えた。

 放課後の部活中、僕もバレーボールを抱え波多野と並んで体育館の壁際に寄る。ボールを持つのは、顧問がやって来たとしてもすぐに練習に励むフリができるからだ。まあ、顧問も僕ら学年の実力のほどを知り、すっかりやる気を失っているけれど。そもそも、強制的に部活に入部しなくてはならず、消去法で入った部員に優秀な成績を期待すべきではない。

 一方の波多野が新部長を務めるバスケ部はそこそこ強い。地区予選で三位入賞するぐらいに。つまりはそこそこ女子に人気がある。

 こちらの返事などはなからどうでも良かったのだろう。うーん梅野かあ、悪くはないけど地味っちゃ地味だよなあ、いうなれば梅系かあ、でも案外着やせするっていうか、実はあれだよなあれ、と波多野は一体何の代わりなのか、バスケットボールをぎゅうぎゅう揉みしだきながら悩み耽る。

 波多野の唸りをBGMに、掃除時間中に意中の相手の割り当て区域までやってきて、唐突に告白した幼馴染みの表情を思い浮かべた。

 付き合ってください、と言った彼女には恥じらいとかときめきとか、そういった華やかさが皆無だった。普通、ああいうシチュエーションでは、もじもじしたり、顔を赤めたりするだろうに。まるきり一方的な通告であり、辻斬りであり、波多野は波多野で出会い頭の事故にあったふうで狼狽えた。そして梅野は考えておいてねとだけ言うと理科室を出て行った。告白というよりむしろ、政治家の記者会見打ち切りといった風情で。

 



 行きはよいよい、帰りはしんどい。

 冬の自転車通学はなかなかの苦行だ。朝は追い風で楽だが、帰りは延々と向かい風となる。右、左、右、左と機械的にペダルを漕ぎ、ようやっと自宅へと到着する。駅から離れた郊外の一軒家だ。祖父母と同居しており、わりに広い日本家屋だった。

 もし進学先を今の学力に見合った最高レベルに設定するならば、県庁所在地であるN市にしかなく、電車通学になる。電車通学になれば、駅まで今の一.五倍の距離を走らなくてはならない。それはちょっと御免被りたいなと、若者らしくないことを考えつつ愛機を止めて施錠した。

 と、顔を上げた瞬間、真冬の青い夕闇の中、浮かび上がる白い靄のようなものに気付いた。

 しまった、思わず舌打ちが出る。

 自宅の隣には空き地がある。元々は畑だったのかもしれない。所有者が誰なのか、誰のものでもないか、それすらよくわからない。生まれた時から当然としてあったから。

 そこには大人の背よりも少し高いぐらいの梅の木が一本生えており、小さな白い花がいくつか咲いていた。いや、咲いているというよりも、空に向かう針金にポップコーンがひっついているというおもむきだ。

 梅は花枝がなく、枝に直接花芽が形成される。だから枝の一節に房状の花枝が生えてその一本一本から開花する桜と比べると、圧倒的に花数が少なく、地味なのだ。

 また見逃した。毎年――正確には三年前から――、気を付けているのだが、いつもこの花の咲き初めを察知できない。今年は学年末テストにかまけているうちに咲いてしまったに違いなかった。

 梅の品種にもよるだろうけれど、僕の住む地域では梅の開花は早い。もっと北の地方では、桜も梅も同時期に咲くと聞くが(詳しく言えば、冬の寒さ、積算温度、降雨量などが影響するらしい)。

 玄関を通り越し、空き地へと向かう。まだ咲き始めだからか、北風にさらわれてしまうのか、香りはほとんど感じられなかった。

 梅の花の観察など別に誰に押し付けられた役割でもない。だけれど、やりきれなさが嘆息に化けて出た。花と同じに、それは白く丸くこごる。


 ――三崎みさき君。


 降ってきた声音に顔を上げれば、向かいの家の二階の窓から梅野が上半身をのぞかせていた。

 ぱしゃんと窓ガラスはすぐに閉じられ、続いてととととと軽い音が響き、狭い道路を挟んだ玄関が開く。

「おかえり。遅かったんだね」

 彼女はすでに制服から私服に着替えて、いつものお下げ髪を下ろしていた。たっぷりした赤いセーターにジーンズというラフな姿だったが、色合いのせいか制服よりもずっと華やかに見える。セーターは彼女のまろやかな曲線を忠実に辿っていた。

 さて、はす向かいのご近所ではあるが、わざわざ僕の帰りに彼女が出迎えるなどという事態はここ数年なかった。そのは、決まっている。


「波多野君、何か言ってた?」

「まあ」

「なんて?」

「迷っているみたいだった」

「なんで?」

「そりゃ、お互いよく知らないし、まだ」

 梅系地味女子だから、という真実を述べないほどの礼儀は弁えていた。

 彼女は納得したのかうんと軽く頷き、次に奇妙な問い掛けをしてくる。


「三崎は反対? 」


 〝君〟付けが消えた。さっきの呼びかけはご近所の手前、付けざるをえなかったのだろうけど。

 

「・・・・・・波多野はいいやつだけど」


 なんとはなしに視線を逸らしながら呟く。波多野が見てない赤いセーターを見るべきでない、そう思った。


「僕には、梅野さん・・がすることで反対できることなんて何もないよ」


 そうなんだ、と梅野は頷く。どこか満足げな声音だった。一方の僕は、ひどく息苦しかった。鼓動は早く、呼吸は浅く、くらくらしてくる。

 もう解放してほしい、勘弁してくれ、ごめんなさい、このまま自宅に逃げ込んでしまいたかった。端的に言って、僕は梅野が苦手なのだ。

 願いは天に届けられた。いや、たんに梅野がこちらの異常を察してじゃあねときびすを返しただけなのかもしれないけれど。でも、僕にとってまさしく〝天〟であり、ある意味正しかった。

 

 すっかり闇に沈んだ夜の中、僕は一人再び嘆息を漏らす。吹き付ける風に、マフラーへと首を潜らせる。

 今年も梅が咲いた。こんなに、こんなに、震えるほどに寒いのに、どうして忘れることなく咲くのだろうか。それこそ理不尽に思えた。

 

 音もなく、挨拶もなく、誰にも気付かれず、けれど春はもう確実に来ている。


 

 二月の終わり、梅野と波多野は付き合い始めた。波多野は返事を保留してうにゃうにゃ数日悩んでいたが、畢竟、男子中学生が女子と付き合えるというステータスを手放せるはずないのだ。

 清く正しく美しく、交際は一緒の下校から始まった。しかしクラスが違えば部活も違う(梅野は吹奏楽部だ)二人の接点は少なく、話題にも事欠く。

 だからって、僕にお供を頼むのはいかがなものか。僕と梅野は道路を挟んだお向かいさんで、三人よりも二人で帰る時間のほうがずっと長くなるのに。いや、だからどうしてお前が見捨てられた子犬の顔をするんだよ。僕は拝む友人を半眼で見やる。

 波多野は付き合いを了承したくせに、ヘタレだった。気持ちはわからなくもないが、ステータスを維持するには支払わなければならない代償だ。彼に春が来るのは早過ぎたのかもしれない。

 頼むよ親友~、心の友~、マイバディ~、いらん語彙力を発揮する友人に根負けし、数回、三人での下校に付き合った(もちろん、波多野には家の前まで送り届けるよう厳命して)。

 その数回でひどく消耗した僕は、放課後は教室あるいは部室を誰より早く出て、自転車置き場に直行し全力疾走で家路を急ぐようになった。

 だから、時折、自宅の勉強部屋からこんなシーンを見下ろすはめになった。遠回りして送り届くれた彼氏とその彼女が、別れがたく、玄関前で談笑している姿を。

 寒風吹きすさぶ中、当初こそその時間は短かったが、すこしずつ、すこしずつ、長くなってゆく。気温が高くなり、日照時間が延び、白梅がふっくり開くにつれて。

 体育館での部活中、波多野はもっぱら僕に話しかけていた。主には初彼女についての情報収集であり、相談となり、徐々にのろけに変化した。そして、春休みに入る頃には二人きりでN市にまで遊びに行くまでに進展したそうだ。

 そうだ、というのはそのままで、これは伝聞である。波多野は僕にあまり話し掛けなくなった。顔を合わす機会が減ったという物理的な理由もあろうが、多分、秘密にしたいことができたのだろう。

 その頃にはすっかり春の陽気になり、連日、桜前線と花粉情報がニュースを賑わしていた。

 自転車に乗るとよくわかるが、通り魔のごとく切りつけてきていた風が、ふわりと包み込む柔らかさを纏うように変化した。

 そして空き地の白梅は開花時同様、いつのまにか散ってしまっていた。これはうっかり微笑み合うバカップルを目撃しないために外を見なくなったせいであり、健全なやっかみだった。

 

 奈良時代から平安時代にかけて、桜より梅が好まれた時期があるという。中国の影響を受けた上流階級に限るらしいが(欧米での流行にすぐ乗っかってしまうその国民性は古代より受け継がれているのである)。しかし、実際、満開の桜に囲まれたなら、その華やかさに酔ってしまう。圧倒的な美しさは力だ。

 だから、このまま、梅が散ってしまった事実すら薄紅の嵐が覆い隠してくれたらいい。

 この時の僕の希いはまんざら嘘でなかったと、後になってもしみじみ思う。

 有り体に言って、僕は親友と幼馴染の幸せを祈っていたのだ。


 ところで、梅はバラ科の植物であり、種から育てると幼木にはトゲが出る。幹や枝の基部を外敵から守るために。成木になるとトゲは枝に変わったり、枯れてなくなったりするが。

 僕は以前に、梅野の身を守るためのトゲを駄目にしていた。その代わり、彼女は自らの毒性を強めたのではないかと思う。


 事件はGWが終わった翌週に起きた。

 長い休みが終わり、生徒だけなく教師も気怠く、早くも夏のやる気を発揮する太陽に倦んだ頃。

 梅野が襲われた。








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