9.愛情表現
しばらくなにも言わずに星空を眺めていると、グリードが静かな声で話し出した。
「俺が育った人狼の森では、新月の夜、小高い丘にのぼって、こうして星空を見るんだ」
グリードが人狼の森を話題にするのは、初めてだった。
故郷を思い出しているのだろうか。その声は少し掠れている。
ターシャは「うん」と短い相槌をうつ。
せっかくのグリードの話を、途切れさせてしまうのは嫌だった。
「人狼は、月の影響を受けやすいと言っただろ? だから、月のない新月は、こうして夜を、自然を、星を楽しむんだ。俺たち人狼族にとっては、特別な夜だ。これを、人間のターシャにも知ってもらいたかった」
「……うん」
グリードは、自分たちにとっての特別な新月の夜が、ターシャに嫌われているなんて、なんだかとても嫌だったのだ。そう話すグリードに、ターシャの心が再びざわつく。
またしばらく言葉が途切れ、少し風が吹いた時、ザァァ……と葉の擦れる音がした。
ターシャがくしゅん、と小さなクシャミをすると、繋いでいた手が離され、抱き寄せられる。
グリードの体温を感じ、その温かさにホッとした。
「俺は、小さい頃両親を亡くして、祖父母に育てられた。とは言っても、じっさまは忙しい人で、俺はばーさまや近所や親戚のおばさん達に育てられたようなもんだ。じっさまは、厳しい人で……時々、俺を見ているのか、俺を通して父さんを見ているのか、わからなくなる時があった」
「……うん」
「俺は、自分がなんなのか、なにをするべきなのか、なにがしたいのか、なんのために生きているのか、わからなくなったんだ。単純だけど、森から出たらなにかが見えるのかもしれないって、思った」
「……うん」
「でもさ、現実は厳しかったなー」
グリードは森を飛び出してみて分かったのだ。
自分がいかに森に、仲間に守られていたのか、そしていかに無知だったかを。
グリードが人狼だと知った人々は、彼に向けていた笑顔を凍らせた。
早く出て行けと、この厄介者と、心無い言葉を投げかける者もいた。
森の外では、まだ人狼を受け入れられない者も多かったのだ。
森では、そんなことを教えてくれる者はいなかった。森を訪れる人間も少なからずいたが、彼らは一様にグリードたちに対して友好的だったのだ。
投げかけられる暴言に戸惑い、その場を離れるしかなかった。
心に傷を作りながらも向かった次の町では、人狼であることを隠して、仕事を見つけようとした。だが、グリードにできる仕事などなにもなかった。
「そりゃそうだよな。ばーさまやおばさん達に教えられたのは、料理や掃除やなにかの家事全般。じっさまや叔父さんに教えられたのは、人狼としての心得だった。人間の世界で通用するようなモンじゃなかった」
それでも一度、馬小屋の掃除という仕事にありつけたことがあった。
勿論、人狼族だということを隠して得た仕事だ。だが、人間は騙せても、馬は騙せなかった。
グリードが馬小屋に入ると、馬たちは皆一様に怯えた様子を見せ、恐怖のあまり暴れる馬もいた。
「それで馬小屋の一部が壊れてさ。持っていた少ない金は修理代に消えた。仕事も見つからない。金もない。でも、森に帰るわけにはいかなかった。森の仲間たちは受け入れてくれると分かっていた。でもさ、変なプライドだけど、出てった以上すごすご戻れないだろ。きっとどこかに、俺の居場所があるはずだと思って、気持ちの向くまま、身体の動くまま、歩いた」
途中から狼の姿になったのは、その方が移動距離が稼げたからだった。そうして故郷を出てどれくらい時間が経ったかもわからなくなったある日、グリードはターシャの家の前にたどり着いたのだ。
幼い頃から、いつかまたひとりになるんじゃないかと、眠るのが怖かった。起きたら両親がいなくなっていたあの日のように、起きたらじっさまが、ばーさまが、叔父さんが……皆が、いなくなっているのではないか。その不安からか、眠ると決まって悪夢を見る。
そんなグリードが、全てを忘れてぐっすりと眠ったのが、ターシャの家に来てからだった。
腕に感じる体温が暖かくて、柔らかさが愛おしくて、とても心地良かった。
眠りの浅いグリードが、夢を見ることなく爆睡したのだ。蹴り落とされるまで気づかない程に。
「今となっては、良かったと思う。道中辛いことばかりだったけど……でも、ここに来れて、ターシャに会えた」
「……うん」
目を覚まして驚いた。
グリードを介抱してくれたその小屋の家主は、自分よりも若い女の子だったのだ。
しかも、その女の子はなんと、占い師として独り立ちしているという。
眩しかった。でも、同時にとても危なっかしく思えた。
彼女もまた、唯一の心の拠り所である、
占い師として自立することを最優先した結果、他に使う時間も気力もなく、生活は荒れていた。グリードの目には、そんなターシャはとても歪に映った。
必要最低限の物を食べて命を繋ぐ。
稼いだ金の使い道もない。
家を手入れすることもできず、室内は物が散乱している。
守りたいと、思った。
自分の不安を埋めてくれた少女の手助けをしたいと思った。
そんなことを自発的に思うなんて、これまでなかったことだった。
人間世界で挫折したグリードだったが、彼のできることで、ターシャの欠けた部分を補えると思えた。
「人狼として受け入れられたことも、俺が唯一まともにできる家事で喜んでくれるのも、俺が何者かも聞かずにそばにいてくれるのも、ターシャで良かった」
どう応えていいか分からず、ターシャは相槌も打てずにいた。すると、熱っぽい声で名前を呼ばれた。
「ターシャ」
「な、なに?」
「この前、アジルが俺をバケモノだと言った時……。あの時、俺はもうこの村にはいられないって思った」
親しくしていた人たちの表情が固まる様を、優しい声に棘が混ざるのを、これまでも経験してきた。
でも、長く滞在し、笑顔を取り戻したこの村で味わうそれは、今までの比ではなかった。
全身の血が凍りつくような、絶望を感じた。
受け入れてもらえない悲しさと、種族が違うというだけで拒否される理不尽さと、そしてなにより、ターシャとの別れを意識した絶望だった。
それを、ターシャがたったひとりで打ち砕いたのだ。
あの時の気持ちは、どう言葉にしていいのかわからない。
まだ、ここにいていいんだと、このままでいいんだと、心底ホッとした。じわりじわりと、身体の中から熱がこみ上げてくる。そして胸の奥でくすぶっていた想いが、しっかりとした形となった。
グリードは自分の腕にすっぽりと収まっているターシャを見た。
この暗闇の中、グリードが自分を見ているなど微塵も思っていないターシャは、満点の星空に目を輝かせ、微笑んでいる。
グリードの心に、愛しさがこみ上げた。
ターシャは、絶望の沼に堕ちかけていたグリードを、彼より一周りも小さな手を差し伸べて、一瞬で救いあげてくれた。
グリードの世界は、ターシャによっていとも簡単に変わってしまった。
人狼の森では、祖父の望む男らしい姿でなければならなかった。
人間界では、辛い偏見から、人狼であることを隠さなければならないと思っていた。
グリードにとっては、どちらもとても苦しくて居心地の悪いものだった。結局、こんな自分ではいけないのだと自らを責めてきた。
それが、ターシャの手によって簡単に壊されてしまった。
こんなにも解放的で、こんなにも愛おしく、こんなにも心から笑える日々が信じられなかった。
ターシャのために美味しい料理を作ってあげたい。ターシャが過ごしやすくなるよう、家を直してあげたい。ターシャのためなら、なんでもしてあげたい。
そして、ターシャが、欲しい。
「ターシャ。こっちを、向いてくれるか」
ターシャが、ドキドキと飛び跳ねる心臓をなんとか堪えて、ぎこちない動きで横を向いた。
真っ暗闇の中、グリードの表情は、ターシャには見えない。でも、ターシャの顔はグリードに見えているのだろう。「そんな固まらないでくれ」と困ったような声が聞こえたと思ったら、頬に手が添えられた。
(固まらないでくれとか、そんなの無理なんだけど!)
心の中で悲鳴を上げつつ、近づく吐息に自然と目を閉じる。心臓の音がうるさくて、胸の前でぎゅっと手を合わせた。
すると、なんということか。なにかが鼻先をかすったな、と思った次の瞬間には、あむっと鼻をくわえられていたのだ。
(え!? な、なに? なにこれ? なんか、鼻ぱくってされたんですけど!)
もしかして、唇と間違えたのだろうか。いや、グリードにはターシャの姿がよく見えていたはずだ。しかも、鼻をくわえた後、満足げに頬を撫でたのだ。ということは、別に間違えたというわけでもないのだろう。
ターシャの頭の中は、戸惑いと疑問でいっぱいになった。
「あの、グリード……。今の、鼻……だよね」
「ん? ああ。そうだけど……。そんなの、言葉にするなよ。なんか照れるじゃないか」
(え? どこが?)
どこかに照れる要素があっただろうか。
確かに、雰囲気としてはほのかに甘い雰囲気だったと思う。
距離も近かったし、そういう意味では照れると言えば照れる。だが、あのタイミングで鼻ぱくは、ムードもなにもあったものではない。
「な、なんで鼻?」
「えっ。だから……ええ~? そういうの、わざわざ聞くか?」
「え、だって……わからないもの」
「わからないって、おまえ……。ああ、もう! 愛情表現に決まってるだろう! 言わせるなよ、恥ずかしい!」
(愛情表現? あれが?)
ターシャは思わずぽかんと口を開けた。
よほど間抜けが表情だったのだろう。グリードがようやく、なにか様子がおかしいと気づいた。
「お、狼の愛情表現は、鼻をくわえるんだけど……」
「知らないよ! 私、人間だよ?」
「そ、そうだよな。ええっと、人間はどうするんだ?」
「唇でしょ! キスっていうのは、唇と唇でしょ!」
勢いで言葉にしてしまったが、我に返ったターシャは羞恥で顔を覆った。
なにを言わせるのだ。これではまるで、期待しているみたいではないか。
(いや、期待しなかったわけじゃないけど……でも!)
ターシャはもう、恥ずかしくて仕方がない。
「唇と唇か……。よし、仕切り直しだ」
「いや、そういうムードじゃなくなったから! もうなんか雰囲気違うから! 今日はもう帰る!」
離せと言わんばかりに、グリードの腕をペチペチ叩く。寝ている時はこれ位ではビクともしなかったのだが、今は思いのほかすんなりと力を抜いてくれた。グリードの腕を持ち上げてそこから這い出る。すると、なんとも寂しげな声が聞こえた。
「ターシャ。嫌だったのか?」
「い、嫌じゃないけど……。ああ、もう。何言ってるの、私」
「嫌じゃない?」
「嫌っていうか……! は、恥ずかしいんだってば!」
「ターシャ……」
グリードの声は、まだ不安そうに揺れている。
(恥ずかしいと言っているのに、わからんのかこの男は!)
嫌なのではない。むしろ、嬉しかった。
愛情の表現方法に種族の違いが出たため、ターシャとしてはピンと張りつめた糸がプツリと切れてしまったような感覚なのだ。恋愛初心者のターシャにとって、そのままあの甘い空気を維持するのは、ハードルが高すぎた。もうどうしていいかわからず、とりあえず、いつもの気楽な関係に戻りたかったのだ。とはいえ、グリードにしてみれば、突然ターシャがそっぽ向いたような感じなのだろうか。
(もう~~~~~!)
ターシャは「よしっ」と気合を入れると、手さぐりでグリードの服を掴み、顔を確認すると、素早く頬に口づけした。
「きょ、今日はここまで! もう、分かれ!」
「ターシャ!」
「か、帰るよ! 帰るってば!」
そう息巻いたものの、勿論この暗闇では、ターシャひとりでは帰れない。
「ほら! 帰るったら!」
「わ、わかったよ」
グリードは渋々ターシャを背負い、丘を降りる。
ターシャは、恥ずかしさのあまり、グリードの肩に置いた手もよそよそしい。
会話もなく、ただ満点の星空を見ていた。
グリードがいつも見ていた満点の星。
ターシャの知らない景色だった。
今日、初めてグリードの過去を知った。
打ち明けてくれたことが嬉しいのに、同時に少し苦しい。
この星空のように、ターシャの知らないグリードがまだまだいるのだと、思い知らされた。
彼にとって、ターシャと暮らすこの村は、特別だろうか?
それとも、いずれ故郷に戻るのだろうか……。
グリードが、自分は人間世界で通じるモノは持っていないと言った言葉が、頭から離れない。
気持ちが通じたはずなのに、同じようなざわつく想いを胸に抱えていたと知ったばかりなのに、なぜか不安の方が大きい。
(グリードが言った愛情っていうのは……どういう意味なのかな)
そんなの、今更聞けなかった。
話を終わらせたのはターシャ自身なのだから、仕方がない。
仕方がないのだけれども、恥ずかしがらずに、ちゃんと問いつめたら良かったと、今更ながら後悔が頭をよぎる。
ターシャ同様、何も話さず黙々と歩くグリードの背中の上で、ターシャは家に着くまでずっと満点の星空を見ていた。
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