酒場と泪とジジイとババア

ユミタ

第1話 君の名は…

大久保辺りの安い店で安いお酒を

呑んでいると、

ついと隣に眼鏡の女性が腰をかけた。

本当に、滅多に、やたらに、

隣席の方に声をかけるなんてしないのだが、

この時はひや酒三杯目で

調子良くなっていた。

「何を読んでらっしゃるのですか?」

彼女がチューハイ片手、

文庫本片手だったので、

本を指さしながら聞いてみた。

はっ、とした感じでこちらの顔を見た

彼女は、すぐに文庫本の方に目を落し、

「いえ、あの、たいした本では…。」

ごにゃごにゃっと口にした。

「私は最近とみに目がダメで

呑みながら

本読めなくなっちゃいましたよ。

悲しいですよ。」

精一杯、善人の声色を出したつもり。

「はあ…。」

「最近の本ですか?」

声をかけた自分を、

心の中で少しだけ罵りながら聞いてみた。

「いえ、あの…。」

ここらで

(読書のお邪魔をしてすみません。)

と切り上げようと思った時、

「…赤川次郎…です。」

「あかがわじろう。

あっ、赤川次郎、ですかっ。

あの、セーラー服と機関銃とか

猫とか探偵とか?」

「はい。そうです。

その『セーラー服と機関銃』です。」

「え~、ああ~、そうですか。

赤川次郎ですか…。」

ちょっと動揺感が出たのかもしれない。

彼女、恥ずかしそうになってしまい、

慌ててしまった。

「いえいえ、あの、赤川次郎って名前を、

あのこう口にするのが20年振りぐらいで、何かこう、何て言うんですかね…、

20年以上会っていなかった同級生の名前を口にしたみたいな気持ちになっちゃって。」

おっ、笑ってくれた。

「赤川次郎ですか、

今も活躍されてるんでしょうかね?」

「ええ、たぶん。

良く知らないのですが…。」

いいねぇ。


最近はここですぐに

「ちょっと待って。」とか言って、

例の小賢しい平たい奴を

取り出して、ちょちょいと調べて

「あっ、最近も新刊出してるよ。」

とかなっちゃうけど、そんなの興ざめだよ。

そういうの次回でいいの。

偶然、再会した次回でいいのよ。

無くてもいいのよ。

「大ベストセラー作家ですよね。

しかし~、ハタと考えると

一冊も読んだことないです。

恥ずかしながら。」

「あっ、私もです。

まあそれで読んでみようかな、

なんです。」

「そうですか、そうですね。

ああ、ありますね、そういう事。

有名だけど知らない。

ベストセラーで内容も

おぼろ気に知っているけれど、

本当は読んだことない。

たくさんありますね~。」

「たくさん、ありますよね。」


そして、完全に文庫本を閉じた彼女と

しばし著名だけれど読んでない作品を

お互いにあげ、

『青春の門』、あ~それは読んだな、

『太陽の季節』、読んでない読んでない、『野性の証明』、あったあった、

などと大いに盛り上がった。

ほどなく彼女が、

「私、ここらへんでお先に。」と

大将に手を上げお会計をしにレジに立った。

「ああ、そうですね。」

名残惜しくもあったが、

無粋なまねはしたくない。

精一杯爽やかな笑顔を作ったつもり。


お会計後に手洗いにも行ったようだ。

ぽつりと取り残されたような感を

拭うように

ふと彼女がカウンターに

閉じて置いた単行本の表紙をめくってみた。

単行本にはカバーがかかっていたから。

『カズオ・イシグロ』

「えっ!?」

カズオ・イシグロ…。


チューハイを四杯飲んだ彼女は、

いい感じに頬を染め、

笑顔で「お先に。また。」と帰っていった。

もう一杯だけ、

と自分に言い聞かせお代わりを頼み、

赤川次郎とカズオ・イシグロについて

考察してみた。

なぜ彼女は、赤川次郎と言ったのか?

しかしこれを嘘とは呼びたくない。

これは巧妙なトリックだな。

聡明な彼女は私がカズオ・イシグロを知らなかったら恥をかくと思ったから…、

無いな。

カズオ・イシグロでは

会話の糸口が見つかりずらいから、

いやノーベル賞受賞者の名前上げで

盛り上がれるだろ。

カズオ・イシグロが嫌いだから、

そしたら読まないだろう。

彼女が村上春樹だから…、バカか私は。

カズオ・イシグロが…

まっ、答えは、ないわな。

「大将! お代わりください。」

コップを掲げた。



翌日、仕事帰りにブックオフへ行った。

もちろん『セーラー服と機関銃』を買いに。

まだ読んでいなかったから。










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