第50話
まず思ったのは、騒がしいということだった。なぜだか異常に疲れている。もう少し寝かせてもらえないか。
口を開こうとして、体がうまく動かないことに気づいた。唇が割れているようだ。血の味がする。
薄く目を開けた。
(知らない天井……)
よく考えてみたら、ベッドが固い。城の、自分のベッドではなさそうだ。
王子が目を開けたことに気づいたらしく、側に控えていた者が騒ぎ立てた。「殿下、殿下が!」とだけ。王子は小さく首だけ動かしてその者を見たが、見覚えがない。
(おかしいな。城に仕えている者なら、一通り顔と名前くらいは把握しているのに。誰だかわからないということは、新人だろうか)
そこまで考えて、王子の意識はまた、すぅっと闇の中に落ちた。
再び目を覚ました時には、意識はもっとしっかりしていた。
むくりと起き上がると、自らの体を見下ろして、その酷い有様に苦笑した。あちこち傷やあざだらけで、とても王族には見えない。
(いや、命があっただけ儲け物だな)
自分が飲み込まれた激流を思えば、死んでいてもおかしくはないのだから。
どうやらここはどこかの病院らしかった。真っ白い部屋には消毒液の独特な匂いが溢れている。入院患者用の個室のようで、それほど広くはなかったが窮屈さは感じない。
「お目覚めですか」
王子に声をかけたのはダグラスだった。
王子のベッドの脇に、ダグラスとロビンが座っていた。ダグラスはいつも通り無表情に、ロビンは安堵したような表情で王子を見ていた。
二人の様子を見て、王子はちょっと首をかしげた。ロビンの怪我が妙に多い。深い傷ならばトーマスとの戦いで負ったのだろうと想像もつくが、明らかにそれとは違う小さな切り傷やすり傷、それに打ち身のような痕もある。一体どうしたんだろう。
しかし王子の疑問は、ダグラスの無言のプレッシャーによって途切れさせられた。
「その……ダグラス」
「言い訳は後で聞きます。それより先に、なにが起こっていたのか、お話しください」
「わかった。
……あれ、ねずみは!?」
「そこにいますよ」
ロビンが病室の窓際を指差した。そこには小さな籠があり、ねずみが二匹、すやすやと眠っている。
腰を浮かせかけた王子は安堵して、再度ベッドに腰掛け直した。
「横になっていても構いませんが」
「いや、大丈夫だ」
王子は順を追って説明した。もとより話すべき内容は多くない。すぐに全てを話し終え、こう締めくくった。
「勝手な真似をして、本当にすまなかった」
深々と頭をさげる王子に、ロビンは「恐縮です」と小さく呟いたが、ダグラスはそう簡単にはいかなかった。無表情のまま、ずいと王子に詰め寄ると、反論を許さないほどの強い口調で言った。
「ご自分の行いが、どれほど周りに迷惑をかけたのか、ご存知ですか」
王子はダグラスから目を逸らさずに、迷わず頷いた。
「わかっている」
「わかっていてなお、身勝手にトーマスを追ったのですか」
「反省はしている」
しかしダグラスの反応はあくまで冷たい。
「どうでしょうね」
「反省はしているが……。あの行動が間違っていたとは思っていない」
「殿下!!」
ダグラスの叫びに、王子も大声を返した。
「この国を守ることが、僕の仕事だ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、お二人とも」
熱を帯び始めた議論に待ったをかけたのはロビンだった。
「まだ話すべきことは終わってませんよ!」
「なに?」
眉をひそめる王子に、ダグラスが文句を言い足りないと言わんばかりにため息をつくと、ようやく説明した。
「まず一つ目ですが、トーマスの出身国、つまり密偵を送り込んだ国に、目星がつきました」
「それは本当か!」
ダグラスが頷くと、ロビンがその後を続けた。
「トーマスと戦った時、彼はククリナイフを使用しました。あれは狩猟にはしばしば使われますが、戦闘に使う地域は、実は限られているのです。ロロワ帝国の北に住む少数民族がその代表例です」
ロロワ帝国とは、王子の国より東の大陸に位置する帝国で、主に鉄鉱石の取引をしている貿易相手だ。海を挟んで隣り合っているが、海路が不安定であるために隣国という意識は薄く、国家間の仲もあくまで他人行儀だ。
そのロロワ帝国が関与しているというロビンの言葉に、しかし王子は素直に頷くことはできなかった。
「待て。それはハッタリではないのか? そんなにわかりやすい武器なら、それをわざわざ使うとは思えないのだが」
「はい。ですが、トーマスは最初、普通の剣を使っていました。しかし私に敵わないと知ると、剣を捨ててナイフを取り出したのです。負けて靴を奪われるよりはマシだと考えたのでしょう」
無論、それでも罠である可能性はある。だが十分にロロワ帝国が絡んでいる可能性はあるとロビンは続けた。
「あくまで可能性の段階ですが、国家間の現状からしても、ありえない相手ではないと判断できるかと思います」
「なるほどな。
手柄だったな、ロビン」
「もったいないお言葉」
「一つ目、といったな。次はなんだ」
今度はロビンに代わり、ダグラスが答える。
「……ガラスの靴についてです」
「だからそれは、トーマスが」
「いいえ」
ダグラスの目配せで、ロビンが動く。なにやら上等な布に包まれた塊を持ってくる。王子の声が期せずして震えた。
「まさか」
ロビンが答える。
「ええ、ガラスの靴です」
「ほ、本物か?」
「それはなんとも。エラ嬢に履いていただかないと、本当のところはわかりません」
しかしとにかく、今のところこの靴を履けた者はいないという。本物である可能性が限りなく高い。
見た目は、いつか見たあの靴と同じだ。王子は恐る恐る、ガラスの靴を手に取った。
「これをどこで」
王子の震える声に、ロビンがむしろ訝しげな声を出した。
「王子が持っていらしたのですよ?」
「僕が?」
ロビンが頷く。
「谷を流れていた王子を見つけた時、ずっと抱え込んでいらしたのです。なにやらちぎれた布切れで、ねずみと靴を包んで」
あの時は、ピクリとも動かない王子が、もしや死んでいるんじゃないかと、生きた心地がしなかったとロビンが続けた。
「あんな思いは、もう二度とごめんです。勘弁してください」
ロビンからも嗜めるように言われてしまった。ダグラスに責められるよりも、優しくされた方がむしろ堪える。
「……すまない」
王子の返答にロビンがにっこりと笑った。
ダグラスが事務的な口調で話題を戻す。
「それにしても、殿下が手に入れたのではないとなると、ガラスの靴はいったいどこで……」
「あ、それなんだが」
王子がダグラスの言葉を遮った。
「僕が抱えていた布の中にあったんだろう。なら、心当たりがある」
部下二人が王子に注目する。王子は笑って、窓の方を見た。
「彼らのおかげさ」
「……彼ら?」
ダグラスとロビンが、二人揃って王子の視線を追う。
王子の視線の先には、すやすやと眠りこけるねずみが二匹いた。抱き枕のように、穴の開いたチーズを抱え込んでいる。
「ねずみたちが、トーマスの服をかじってたんだ。あの時は何をしているのかわからなかったけど、きっとエラの靴を取り戻そうとしていたんだな」
内ポケットにでもしまいこんでいたのだろう。ねずみたちは、人間では気付かない何かしらの目印に気づいたのだ。もしかしたら魔力にでも反応したのかもしれない。
トーマスはそれに気づかずに、ガラスの靴ごとねずみたちを王子の元、つまり谷底へと放り投げた。
「お手柄だな、二匹とも。あとで勲章でもやりたいくらいだ」
とりあえず城に戻ったら、質の良いチーズでも山盛りに用意しよう。王子は嬉しそうにそう続けた。
「なんと、ねずみが役に立ったのですか」
「役に立ったなんてレベルの話じゃないさ!」
「そうですね、エラ嬢もお喜びになることでしょう。ところで」
ダグラスが急に、声から表情を落とした。これは事務的な対応をする時の彼の癖だ。
「トーマスは現在捜索中です。どうなさいますか。捜索に参加されますか。
それとも、ガラスの靴を城に持ち帰りますか」
王子は少し考えて、やがて答えた。
「城へ。エラのところに、一度戻ろう」
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